紡ぐ唇
会社員×会社員
今は何も伝えず互いに口をつぐんでいるけれど、それは『言えない』のではなく、楽しみを少し先に取っておいているだけ。
春の空のように、薄ぼんやりと色づいているようないないような、そんな淡い気持ちを和久田くんに対して抱いてた。会社の後輩とどうこうなる気はなかったし、この先も気安い冗談を言い合える間柄でいられればそれでよかった。でも、『この先』なんて、あっという間に姿を変えてしまうものだとわかっていたら、そんな悠長には構えていられなかったかもしれない。
「今月末で退職します」と告げられた時、ただの同僚の顔がちゃんとこしらえられていたのならいいんだけど。
衝撃の一報を投げ込まれたあと、徐々に詳細が耳に入ってきた。
どうやら家業を継ぐらしい。それを機に結婚することはなく、恋人も今のところいない。実家は会社の隣の県。
ひやっとして、盛大に安堵して、やや拍子抜けした。
そして、ジェットコースターのように感情が目まぐるしくアップダウンしたことで、自分の中の気持ちの正体に気付かされてしまった。
同僚でなくなるなら、もしかして告白するチャンスなのかなという甘っちょろい考えは、高校球児がホームプレートの土を払う手つきで丁寧に拭い去った。見込み薄なのにわざわざ告げて、つけなくていい傷をこしらえなくったっていい。『玉砕したって構わない』と思えるほど、向こう見ずな性格でもない。ダメージなんてなるべく少ない方がいいに決まってる。
それに、伝えずにただ『好きだなあ』と思っているだけなのも、あんがい心地よかったりするのだ。身勝手な期待も、過剰な意識も持たなくていい。ただシンプルに想っているだけ。
いろんな周期があるけれど、今わたしに巡ってきているのは『まずきちんと生活することが第一、二番目にちゃんと仕事すること』で、何をおいても恋愛を最優先する、というモードでもないし。
ただ、ずっとそこに当たり前にいた人がいなくなってしまう、そのことがひどく寂しかった。
週明けの忙しさがじょじょに薄れて、細かな仕事を挟みつつやりたい仕事に集中して、トラブルに対応して、また週明け忙しくして。そのルーティーンを三度繰り返したら、もう和久田くんの送別会の日だった。会のさなか、漫画やドラマみたいに、二人してお酒の席を抜けたり色のある会話をしたり――は一切なく、というかそもそも交わした会話もほんの一言二言の挨拶程度だった。
ドラマや漫画の主人公じゃないし、ま、こんなもんだ。
仕事に追われていれば寂しさやセンチメンタルに浸ってられる余裕なんてないのが、いいやら悪いやら。慌ただしい日常を飽きもせずこなしているうちにとうとう彼の最後の出社日になってしまった。最終日だからと言って電話がいつもよりは大人しい、なんてことももちろんなく、ばたばたと駆けずり回っている間に終業時間のチャイムが鳴る。
「お世話になりました」
下げた頭に降り注がれる拍手。私も皆といっしょに手をたたきながら、こちらこそお世話になりました、と心の中でつぶやく。
おんなじチームじゃなかったけど、困っているとよく通りすがりの彼に助けてもらった。
『依田さん、どうしましたー?』と笑顔付きで声を掛けられると、それだけでほっとしたな。
タブレットの不具合で私ともう一人が困っていた時も『どうしましたー?』って、いちど通り過ぎてからわざわざ後ろ足で戻ってきてくれた。いっしょにあれこれ試してみたものの奮闘むなしく、結局メーカー修理になったっけ。
私が指導係をしてた新人君がこちらをナメてかかって手を焼いてた時はガチ説教してくれたね。『女の下とかやってらんねーって、ソレうちの社長(←たたき上げの素敵なレディだ)に言ってくれば?』って、この時ばかりは怖い笑顔で。
そうやってさんざん手を差し伸べてくれたくせに、恩着せがましくお礼を強要されたこともなく、むしろ何かねだってくれればと思うくらいあっさりとしていて、そんなところも好きだった。
和久田くんは、こっちの感傷まみれな気持ちとは裏腹に、見ている人がほっとする笑顔を最後も惜しげなく振りまく。
「隣の県なので、何かあれば、そして何かなくてもぜひいらしてください」
ふざけた風に言う人に、くすくす笑いとまた拍手が送られる。
肩から斜めがけしたビジネスバッグのほかに、持ち帰る私物でぱんぱんなトートバッグと、贈られたものが入った大小さまざまな紙袋、それから黄色を基調としたなかなかお似合いな花束を抱えて、ドアの向こうに消えてしまう。
ああ、終わっちゃった。
思いのほかがっかりした自分に、少しだけおどろいた。でもそれだけ。
いつも通り、ふつうに残業して部署を出た。だんだんあったかくなってきたけど、日が落ちてからのこの時間はまだ寒いので、外気にさらされる前にマフラーをぐるぐるに巻いて顔をうずめながらエントランスを歩く。今日はスーパーに寄って帰ろう。牛乳とパン買わなきゃ。
うん、大丈夫。泣くほどせつない気持ちだったわけじゃない。ごはんが食べられないほどつらかった恋でもない。だって始まってすらいなかった。ただの淡い片思い。あとは静かに鎮火を待つだけだ。
心の中をそんな風に点検していたから、自動ドアの手前で「依田さん」と声を掛けられても、ぼんやりとしていた。ゆっくりと振り返った先には、定時に姿を消していたはずの和久田くんが立っていた。
「お疲れ様です」
「――おつかれさま?」
「なんで疑問形ですか」
「だって、もうとっくに帰ったんだと、」
「ちょっと忘れものがありまして」
「あ、まだ何人か残ってるから事務所なら入れるよ」
「ああ、大丈夫ですここで」
「?」
「依田さんに用事があったので」
「わたしに?」
別に、同じ案件を担当していたでもないし、引継ぎとかないはずなんだけどな。それともなんか借りっぱなしのものでもあった? いやそんなに大事なものをやり取りしたことはないしあったら絶対覚えているのに。そう訝しんでいると、「依田さん、僕になんか言うことなかったですっけ」とにこにこ聞いてくる。ほっとする笑顔をぜいたくにも独り占めで浴びつつ、紡ぐ言葉を考えた。
「え……、え――っと、お疲れさまでした、和久田くんのますますのご活躍をお祈りしています」
突然の無茶ぶりになんとかお決まりの言葉をしどろもどろに返すと。
「んーそうきたかー」
なんでそんなに可笑しそうなんだ。
「僕、あんまりこういうの外さない方なんですけどね」
「そうなんだ」
『こういうの』がどういうのかわかっているような、わからないような、わかっちゃいけないような、そんなはずないような、いろんなごたごたのまま先延ばしみたいな返事をする。
「んで、僕も依田さんとおなじ気持ちなんですよね」
そう言いながら、花束をバサッと肩に担いで、こちらに一歩近づく。笑顔。だけど、ちょっと緊張している顔。――さすがに、何を意図しているのか、わかってしまう。ぶわっと、期待が風船みたいに膨らんだ。
立ち止まる。
でも。
「――って、この続きをバシッと言えたらカッコよかったんでしょうけど、しがない自営業を継ぐ奴じゃね……」
うつむきながら困ったように笑うのがすごく似合っていなくて、だから膨らんだ分の期待が『なんで言ってくれないの!』って不満を抱きながらしぼんだけど、納得もしてしまった。
もしかしたらご実家は火の車かもしれないし、巨額の借金があるかもしれない。
サラリーマンとしての働きっぷりは、同じフロアでよく見てたから知ってる。誠実かつしなやかなやり方は、同期や先輩方(もちろんわたしも)に一目置かれ、後輩には尊敬されてた。けど、それが他業種で通用するかはわからない。継いでもうまくいかずにダメになってしまうかも。和久田くんには商売の才覚がなくて、コンサル業者にカモられるかも。
それでも。
ゆるっと外された目線が戻ってきた時、ちゃんと笑っていてやっぱりほっとした。だいじょうぶ。それが家業であれ、なんの勝算もなく継ぐような人じゃない、と思いたい。断言するには材料が足りないから、もっと和久田くんのことを知りたい。
見せてもらえるだろうか。これから。
彼は、「様子見してくれませんか」と言った。
「様子見」
私がオウム返しすると「はい」と頷く。
「いますぐ決めなくていいです。好きも、好きじゃないも。俺、これからしばらくいっぱいいっぱいだと思うんで恋愛方面にリソース割く余裕ないだろうし」
猶予が与えられて、ほっとする気持ちとがっかりする気持ちがおんなじくらいあった。さっそく欲張りな自分。それから、初めて『俺』が聞けて嬉しい自分。
「一息つけるようになったら自分から言いますんで、それまでたまに会って、顔見てやってください」
「……顔見せて、じゃないんだ」
「だって審判を下されるのはこっちだし、そんな偉そうなこと言える立場じゃないですよ」
和久田くんがうまいことふるまえば、ぼーっとした私なんて簡単に上下関係の下のポジションに置けそうなものだけど、そうしないんだな。
「じゃあ、定期的にお顔拝見してさしあげましょう」
私が偉そうにそう言うと、和久田くんは嬉しそうに「社交辞令じゃなく、マジのマジでお願いします」と頭を下げた。
会社のじゃない連絡先を交わしあい、直近の『顔見せ』の予定をすり合わせて別れた。
明日から会社には彼がいないというさみしい気持ちより、少し先の約束にわくわくしてるし、もっと先の約束に心が躍る。だらしなく顔が緩んじゃいないかと、電車の窓でちらちらチェックしつつ最寄り駅まで揺られた。
まだ何も始まっていないのにこの浮かれよう。でもいいんだ。
これまでずっと払ったり拭ったり、なかったことにしていた気持ちや言葉たちが心を満たしている。今にも溢れてしまいそうなそれらを一つひとつ集めて花束みたいにして、いつか和久田くんに手渡そう。ただ告白を受けるだけじゃなく。
冬の間じゅう山に降り積もりかたく締まった雪が、春の訪れで解けて流れるように、唇はそのとき恋を紡ぐだろう。




