ほくろ(あるいは金星と木星について)
大学生×大学生→社会人×社会人
金星と木星が最接近、という天体ニュースを聞いて、そうかあれから八年も経ってしまったかと気付かされる。
きみのほくろ、今日の金星と木星みたいだね。
右ほほにやや斜めな縦並びのほくろを見てそう言ったのは、当時付き合っていた二つ上の恋人だった。
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彼女は面白がりの天才で、かつ、人のことを――僕のことを褒める天才でもあった。
目が真夜中みたいに黒くてつやつやしてるね。
首が長いからタートルネックが似合うなあ。
まつげがバサバサで羨ましい。少し分けてよ!
言葉遣いが丁寧で、そゆとこも好きだよ。
会うたびに、そんな風にパーツやら言動やらを褒められて、なのに僕は「……そう」としか返せなかった。本当はひとつ褒められるたびむずがゆくて、何でもない没個性の自分が、彼女にとってはとくべつなのだと教えてもらえている気がして、飛び上がりたいほど嬉しかったくせに。
でもそれをあらわにしてしまうのはいかにも子供っぽいように思えて――同い年ならもっと素直に喜べただろうか――、僕は『そう言われても動揺なんてしていませんよ』というくだらない虚勢を張るので精一杯だった。
バカだな。今ならわかるよ。
ふたつの年の差なんて二十代にもなればなんてことはないし、嬉しかったら嬉しいと、自分もあなたのこういうところが好きだと、思っているだけじゃなくそう言えばよかったんだ。
なにも伝えず、なにも返さないやつ相手に、彼女はよく奮闘してくれていた。けれどそれは、沙漠にじょうろで水を与えるくらいにむなしい作業だったことだろう。
このごろ褒め言葉が少なくなったな、とぼんやり思っていた時には、もう彼女の中ではとっくに決断が下されていた。
きみのほくろ、今日の金星と木星みたいだね。
そう言ってくれたのが、たぶん最後の褒め言葉だ。
「……金星と木星?」
「そ」
「ちなみに、どっちが金星でどっちが木星?」
「しらなーい。でもいいの。お空の星は動いて変わっちゃうけど、私のかわいい金星ちゃんと木星ちゃんはずっとここにいるんだ」
「……あなたの言うことはよくわからない」
ほくろとほくろの間をつつっと撫でる指を邪険に払ってつっけんどんにそう返すと、「難しく考えすぎなんだよきみは」と困ったように笑う。
「次は二〇二三年の冬だって」
「なにが」
「だから、金星と木星の接近!」
「ふうん」
「八年後なんて、想像も付かないや」
「……僕も」
それで、ろうそくをふっと吹き消したみたいに会話が途切れた。
二〇二三年も一緒にいたいって言えればよかった。でも言ったら笑われてしまうかもと思って、怖かった。絵空事でも果たされない約束だったとしても、伝えていたらなにか変わっていたかもしれないのに。
恋が終わったあと、何度もその輪郭を撫でては『あの時もっとこうしていたら』と思う。
金星と木星の最接近からしばらく経って、久しぶりに会った彼女はどこか知らない人のような顔をしていた。なぜそう思うのだろうと自問しつつ、向かい側でミルクティーを飲む恋人を観察する。――いつもの見慣れたにこにこ顔じゃない。
表情ひとつでこんなにも印象が変わるのかと思っていた僕にもたらされたのは、「終わりにしたいんだ」という思いもかけない言葉だった。
なにを、と問わずとも、彼女が終わらせたいなにかについてはすぐにわかった。
「……いやだ」
ふるえる小さい声で初めて自分の気持ちを表明すると、「こんな時ばっかり素直とか、ずるい男だねえ」と茶化しながら、潤んだ目で笑う。
「きみのこと好きだよ」
「だったら、」
「いくら好きでもね、ずーっと恋が壁打ちだったのは堪えた。私にはこれ以上は無理だな」
「でも、」
「無理なんだよ」
しずかに、でもきっぱりと告げる彼女の強さが好きだ、と改めて思う。
「私は、ちゃんとおなじ分だけ返してくれる人と恋をしたいんだって、わかった。だからもうきみとはおしまい」
そう言うと、割り勘が二人のルールだったのに、伝票を持って一人で立ち上がってしまう。――このままでは終わってしまう。
なにを伝えるのか自分でもわからないまま、「待ってる」と口走る。その言葉は、すとんと僕の胸の中に落ちてきた。
「待ってるから」
「……待たないで」
「『嫌い』でも『恋人が出来た』でもなんでもいい。あなたからの連絡を待ってる」
「それでもやっぱり、『好きだから待ってる』とは言ってくれないんだよね。……ずるいなあ」
あふれた涙をさっと拭いて、今度こそ彼女は店を出て行った。
しばらくは、携帯が通知を受け取るたびすぐに手に取って確認していた。通知が来ない時でさえ、メールとソーシャルメディアとメッセージアプリをひとつずつ定期的に、かついつもよりうんと短いスパンでチェックもした。
待っていると言ったのは嘘じゃない。でも、来ないだろうとわかっている連絡をただひたすらに待つというのは、予想以上に消耗する行為だった。
そわそわして、勝手に少しだけ期待して勝手にがっかりして。彼女もこんなだっただろうかと考えては、重ねたこちらの後悔が、彼女にとってのなにか小さないいことにでもなればいいのにと思ったりもした。
その後、まったく女っ気がなかったわけじゃない。合コンに誘われればたまには行ったし、そういう雰囲気に流されそうになったことも何度かはある。でも、最後の時に見た泣き笑いの顔が浮かんだら、目の前の相手とどうこうしようという熱はしずかに冷めた。
「ごめんなさい」
恋の始まりをほのめかされたあげくナシにされてがっかりしている人と、もう会えないだろう彼女に向けて謝る。
ごめんなさい。
ちゃんと向き合えなくてごめんなさい。
まだ引きずっててごめんなさい。
今も変わらず熱烈に好き、と言うよりは、後悔と反省と自己嫌悪のごった煮に、ほんの少しのスパイスのように、彼女への思慕が交ざっている感じ。
でもいつかはこのくすぶり続ける気持ちも消えてなくなる時が来るだろう。それまではどうか、勝手にずるずる引きずっていることを許してほしい。
*********
実体がないせいだろうか。
彼女への気持ち――ごった煮と思慕――は、一年にいちど薄皮が一枚剥がれるくらいのペースでじょじょに小さくなってきているような気はしているものの、思いのほか残った部分が大きくて我ながら呆れる。結局、彼女のあとにロクな恋愛を実地で体験しないまま、二十代も後半になった。
そして迎えた二〇二三年の冬。
あぁ、やっぱり思い出しちゃったな。
寒いときみ、鼻の先が赤くなるのがかわいいんだ。
ダッフルコートがよくお似合いだから、大人になっても着ててよね。お願い!
きみのほくろ、今日の金星と木星みたいだね。
歩く人の流れから少し外れて立ち止まり、夜空を見上げる。キン、と音がしそうに冴え冴えとした金星と、木星。どっちがどっちかはわからない。
ほほのほくろに触れる。かつてここに触れた指を、邪険に払った時の温もりを僕はまだ覚えている。
元気かな。しあわせにしてるといいな。今でも面白がりの天才で、誰かのことを褒める天才かな。
あなたに言ったことに縛られて一歩も動けないなんてことはないよ。でも、一歩踏み出してはそそくさと戻ったり、うろうろちいさな円を描くくらい。情けないだろ。
あなたは、こっちのことなんかさっさと『青春の黒歴史の一ページ』もしくは『元彼リスト』に収めていてね。くれぐれも、痛みを伴って思い出さないように。
さあ、いつまでもこうしていないでいいかげん帰ろうと、見上げっぱなしだった首をそろそろと戻したタイミングで携帯が鳴る。メッセージの受信のおしらせは、回りが暗くてよく見えない。
通知を確認する。そこにあったのは懐かしすぎるアイコン――『金星ちゃんと木星ちゃん』。結局、こちらからなにか送る勇気も、メッセージを削除することも出来なくて、そのままにしていたあなたの。
なにが送られてきているのか怖くて(『結婚しました』の可能性だって大いにある)、おそるおそる目を落とすと、画像が送られてきているという表示が見えた。小さく息を吐く。安堵しつつ、いや結婚写真かもしれないしと思いつつ画面をタップする。
今し方見ていた夜空を掬ってそのまま移したかのように、ディスプレイに映し出された金星と木星。
またひとつ、受信のおしらせ。
『八年経ったね~』
あきれるくらい、そのまんまのあなたの言葉に、視界がにじんでぼやけてしまう。そんな中で、よりいっそう光って見えるふたつぼし。
もし、もしも。
万が一、都合のよいミラクルが起きて、あなたからなにかを受け取ったら。
僕は今度こそ間違えない。
諦めを重ねた地層のいちばん下に隠し持っていた思いを実現すべく、『八年経ったね』『今、どうしてる?』とあの日断ち切った会話の続きを返信した。