今なんて(☆)
「ゆるり秋宵」内の「恋なんて」及び「ハルショカ」内の「アイなんて」の二人の話です。
※二〇二〇~二〇二一年の、COVID-19が蔓延している状況下での描写が間接的にありますので、苦手な方は回避ください。
一〇年ぶりに来日したアーティストのリハーサルがそろそろ始まろうとするタイミングで仕事の手をいったん止め、一階席の扉をそっと開いた。私と同様、美声を聴こうとするちゃっかりしたスタッフは他にもたくさんいて、一階の扉の内側はなかなか盛況だ。扉前で遠慮がちに立っているのはまだましな方で、うちの社長を含めたチーム偉い人たちは堂々と最前列の席に陣取っちゃってる。
さわさわと、小声で囁きあう声がそこここから聞こえてくる。この『始まる前』の、期待に潤んだ空気って、どうしてこんなにわくわくするんだろう。なんて思っているうちに、開演五分前を告げる一ベル、影アナ(注意事項は年々長くなってきている気がする……)、直前の二ベルが本番同様に流され、開けたてのシャンパンのような華やいだ気持ちになる。
ここのキャパは五〇〇〇。それに対して一階席にいるのは数十人、といったところだろうけど、その全員が送る拍手をおともにアーティストが上手から現れる。そして。
――今まで、本番やCD、ライブ映像で聞き覚えのあるものよりも荒削りで生き生きとした声が、ホールに響く。音楽というよりは音。圧倒されて、この人の年齢もキャリアも忘れてしまう。
脳みそに直接音を注がれたように酔いしれていたから、隣に並ばれても話しかけられるまで気づけなかった。
曲と曲の間で短く「よう、タマ」と声を掛けられ、こちらからも「お疲れ様です」と短く返す。てか。
「――今日、現場ここじゃないですよね、八雲さん」
「そうカタいこと云うなよ。今日現場じゃない筈のお前んとこの社長もうちの社長も最前列でしれっと聴いてんぞ」
「はあ、まあ、そうですけど」
「御大、本番は割とコントロールして歌うからな、本気マックスを聴きたきゃやっぱリハだろ?」
悪びれずに云うこの人は、今や私の夫でもある。
かつてはトレードマークだったあの長めの髪は、娘(五才)の「みじかいかみにして!」という一言であっさりと切られた――上の方だけを結ぶスタイルがお気に入りだった私は、そのあっさり具合を少し残念に思ったものだけど、短髪も慣れてみるとこれはこれでイイなあ、なんて思ってる。
客電を落とし、舞台上のライトだけがつく中、形のいい横顔の輪郭をなぞるように盗み見る。髪で覆われていないそのラインは、年を重ねた今も美しい。
「いまさら見とれんなよ」
聴き入っていると思っていた彼は、舞台上を見つめながらちいさく云う。ふてぶてしく笑っているけれど、実はけっこう照れているのだ。
付き合う前、片思いをしていた時は、八雲さんがこんなに照れてしまう人だとは思わなかった。モテモテだったし、高飛車な性格でもおかしくないのに、中身はあんがい純情で不器用だ。
「かわいい」
ふふっと含み笑いしながら呟くと、とたんに顰め面になる。そして「いいからちゃんと聴けよ」と、八雲さんの方に向けていた頭をぽんぽんされた。
これも照れ隠しの一環かな、と思いきや、「――これが聴き納めになるかもしれないんだから」と真面目に云われ、それもそうだと正面に向き直る。
かつてはそうそうたるバンドメンバーと何度も来日し、日本各地を熱狂の渦に巻き込んだ、カリスマという言葉がまさにふさわしい歌い手。けれど、仲間は一人ふたりこの世を去り、今はもうこの人だけだ。
歌声は年齢を感じさせず、相変わらずつやっつやで声量も豊か。これはほぼ素人の私のとんちんかんな見解じゃなく、音響のプロの八雲さんもそう驚いていたから間違いない。
楽屋からステージに立つ直前まで、五〇才も年の離れた恋人(!!!)と身体のどこかしらを常に触れ合い、愛の言葉を交わし合うのも変わらないルーティーン。そうしながら、女性スタッフを見ればもれなく『キレイデスネ~!』と褒めるのも。本番直前はピリピリするアーティストも多い中、彼は私が知る限りずーっとジェントルな人だ。
でも、深く刻まれた皺と身の内に抱えている心臓の病から、『今回が最後の来日になるかも』とまことしやかに囁かれているのも事実だったりする。
――長く生きた人が亡くなるのは、それが自然のルールだから当たり前。でも、まだこの先も何度も聴きたい。聴かせてほしい。浅ましくも、そう願ってしまう。
そんな風にもやもやしていたら、それを全部追い払うように、八雲さんが私の頭をくしゃくしゃに撫でた。
御大は、のびのびと、切々と、激しく、優しく歌った。歌いきった。
ホールの響きや自らの声のコンディションを試すように。それは縦横無尽に空間を舞い飛ぶ猛禽類のようで、普段の優美さがありつつも、どこか野性味を帯びた迫力さえ感じられた。
そこに居た全員が、出来うる限りの拍手を送り、アーティストは超年下のパートナーの手を取りながら「アリガトネ~」と舞台袖へと消え去る。本番では、観客の期待通りの歌声を披露するだろう。そちらも楽しみだ。
「さてと」
客電がつくと、八雲さんは大きく伸びをした。
「俺、今日このあとは打ち合わせだけだから、保育園のお迎えと夕飯やっとくわ」
「うん、よろしく」
「来月から丸一ヶ月会えねーからな……」
夫はブロードウェイミュージカルのツアーに音響の仕事で帯同して全国各地を回ることが決まっていて、今は短い休息期間&東京での小仕事の日々の中で、娘との時間をめいっぱい大切にしているのだ。その成果の表れか、少し前までは『らいおんぐみのれんくんがすきなの』と云っていたのが『パパとけっこんするの』に変わっていて、八雲さんはそれはもう分かりやすくデレついている。――『だってパパ、パフェたべさせてくれるから』と続いていたことは、武士の情けで黙っていてあげるとしよう。
「八雲さん、オフの日に顔見にとんぼ返りしてきそう」
「いいなそれ」
まんざらでもなさそうに即座にそう返ってきたので、「お小遣いの中でやりくりしてね」と一応釘を刺しておいた。すると、途端に情けない顔になる。
「タマー」
「甘えても無駄」
「あずー」
「駄目ったら駄目」
私が『交通費の半分は家から出してあげてもいいかな』なんてぐらつきながら要求を突っぱねていたら、御大の美声を間近で浴びたうちの社長から、「ちょっと八雲夫妻、現場でいちゃつくのやめてくれる?」と云われてしまった。
「最前列でちゃっかり聴いてたあんたらが俺らを注意出来るんですか?!」
「いいじゃないの、それくらい大目に見なさいよ! 僕たちがこの公演を実現させるのにどれだけ苦労したと思ってんのよ!」
まだ背後でぎゃーぎゃーやりあっているおネエさまな社長と八雲さんに、私と八雲さんとこの社長の清瀬さんはやれやれって顔を見合わせて苦笑した。
皆でそんな風に話しているうちに、御大の歌声が染みこんだ身体は、じょじょに日常の空気を取り戻していく。
見上げれば、満天の星空のような客電。
高級な特急のシートみたいにおすまし顔の客席。
あと、数時間でここは満席になる。いらした方全員に、楽しんでいただけますように。
あの日々が、今は夢だったみたいに眠りについているホール。
猛威を振るうウイルスの影響はすさまじく、エンタメ業界をもろに直撃したので、私の仕事はほぼ壊滅状態だ。配信という形での発信がメインの今、実際の会場にはお客様がいないということで、技術的な部分に関わらないスタッフが活躍する場面はない。
音楽や演劇を含む多くのイベントは、夏頃に一瞬あったものの、冬場にはふたたび激減した。なので、私の勤めるイベント会社は最小限の維持を保ち、また時が満ちるのを待つ、という方針をとることになった。会社が休眠状態なので暇な私は、社長の副業であるアクセサリー作りの補佐(発送作業、パーツの発注や買い出しなど)のアルバイトをさせてもらっている。巣ごもり需要と社長作のアクセのクオリティの高さからネットでの売り上げは好調らしく、おかげでしょっちゅう呼びだしがかかる。『玉木あそこのカフェで豆乳ラテデカフェグランデで買ってきて』とか、『レンタルのポストにブルーレイ返却してきて』とかまあ、ゆる~く使われています、はい。
一方、八雲さんはアーティストの配信ライブでのお仕事に声を掛けていただけることが多く、ありがたいことに八雲家はなんとか細々とやっていけている。
今まで物理的にすれ違いの多い夫婦だったけど、ここにきて今までになく一緒の時間が増えたことだけは嬉しいかな。
こんなとこでめげていられないよね、と、よく二人で話す。
きっとエンタメ業界はすぐに元通り、とはならないだろうけど、私たちは二人とも、その場にもう一度戻ると決めている。他業種に転職するのは、この仕事をやり尽くしたと云えるようになった、その後の話だ。
歌やトークやお芝居、DVDやデータには残らない、そこにいた人だけが受け取れる何か。記憶の中に、ずっと生き続けるもの。
私たちは、シャボン玉のように儚いその『なにか』を手渡しする、光栄な仕事をしていた。
シャボン玉はきらきらと光ってきれいだけど、すぐに割れてしまう。だから毎日ストローを吹いて作ってはせっせと飛ばしていた。
形に残らないことにむなしさを感じたこともあるし、正直今は先行きが見えなさすぎて不安も多い。けれど。
またいつか、この混乱がおさまってエンターテインメントを思いっきり楽しめる、そんな時が来たら。
どこかのホールで、きっとお会いしましょう。




