彼氏系乙女(☆)
「ハルショカ」内の「乙女系上司」の二人の話です。
一緒に歩く帰り道、長く使いこまれているシックなビジネスバッグから「あげる」と飴やチョコレートを差し出してくる恋人。パッケージや包みがかわいい、小さくて甘くておいしいものは、いつだって彼の側からこうして渡してもらっている。ちなみに私からはせいぜい、ガムやミントタブレットを持っていればといったところ。逆じゃないのかジェンダー的には。まあいいけど。
ポケットティッシュも清潔なハンカチもいつだってきちんと切らさずに持ち歩いていて、それらを持ち歩く習慣のない私――たまには持ってる、いつもない訳じゃない――が困っていると「ほんとにもう」と文句を云いつつ、いつだって私にそれらを貸してくれる優しい人だ。――うわ、これノロケだよ完全に。
私の上司兼恋人は、見目麗しい外見の下に乙女を生息させている。
若干濃い目の昭和の二枚目(床屋のポスター風)で、これと云って特に鍛えてはいないというものの、暇を見つけてちょこまかとカワイイモノ巡りをしているせいか体型はシュッとしている。おまけに長身。性格は極めて温厚。
その上女子力の高い女子たちの女子トークに難なくするっと交れる――新しく出来たカフェの十穀米ランチがおいしかっただとか、会社の駅前の雑貨屋さんにイケメン店員がいるんだとか――対人スキルの高さも持ち合わせていれば、モテない方がおかしいだろう。今のところ独身だし、社の内外問わずめっちゃ狙われてそう。
私がそう云えば「評価し過ぎ」と笑って流されちゃうけど信じないぞそんなの。
それはともかく、バレンタインという名のチョコレート流通イベントに本腰入れて参加したことのない自分にもいよいよ試練の時が来たようだ。
恋人は甘党、しかも女子並みに情報には敏感ときたら、気の利いたショコラティエの一つや二つ――もしかしたら一〇や二〇――くらい、当然知ってるんだろうなあ。それに比べてこちらの持ち球の少なさよ。いっそ手作りでもしてみる? って、なにも自ら大爆死しなくてもいいか。むしろそれは鮫島乙女の方が得意そうだし。はい、かわいくて自慢の恋人です。
よく云われていた『せっかく吉岡かわいいのにもったいない』は『めぐ(私のことだ)はかわいいから磨き甲斐がある』に姿を変えて、私は付き合う前の予想通り彼の手で定期的にメンテナンスしてもらってる。何と快適かつ楽ちんな。
家ではすっかりテロンテロンになって着心地の良いTシャツ+スウェット姿 (もちろんノーメイク)、にもかかわらず恋人として大事にしてくれるって、すごく希少価値の高い人なんじゃないだろうかアレは。メイクしないと眉ナシの私に、『おま、眉毛くらい書けよ』と文句たれた元彼とは大違いだ。
ということをポロッと口にしたら、『元彼の話なんてしないで』と切なげに云われてしまって、その場で押し倒したのは記憶に新しい。
まんざらでもない風だったくせに、あとからめっちゃ怒られたなぁあん時。
『なんで押し倒すの、意味わかんない!』って、分かれよ。君がかわいいからだろうが。
と云うとさらに怒られそうだったから、その日の夜はベッドの中でもひたすら大人しいキスだけをたくさんして、恋人のご機嫌を取りました。
思い出してニヤニヤしてたら、ユウウツにすら思い始めてたチョコのことも開き直れた。
無理して鮫島乙女プレゼンツに張り合わなくていいじゃん。どうせあの人には敵わないんだし。それより、あの人の好きな、ちょっと遠方にあってなおかつ通販をしてないパティスリーまで遠征してあの人の御贔屓のチョコレートを買おう。きっと喜んでくれる。
それでもせめてバレンタインの夕食は頑張る、なんて乙女病が伝染した自分が心底キモい。
鮫島さんは案の定喜んでくれた。
「わあ、ここのって本当に好き! 遠かったよね、ありがとう!」ってお世辞じゃない笑顔を見られただけで報われるというものよ。
よかったよかった、これでバレンタインミッションクリアと満足していたら、「実は僕も……」って、例のシックなビジネスバッグの中から小箱が取り出されて、こちらへと差し出された。ほっほう。さすが乙女。予想はしていたものの、嬉しいもんだなあ。
「めぐの趣味じゃなかったらごめんね」と恋人は目も合さず妙に恥ずかしがってる。中身はまだ分かんないけどオフホワイトの小箱にシャンパンゴールドのリボンは上品で好きな組み合わせだ。そう伝えたら少しは落ち着いてくれるかと思いきや、ますます俯かれてしまった。
「よかった。そとみはこういうの好きかなって選んだから……。それより中身がね。味が」
その言葉を聞くや否や、綺麗に結ばれたリボンを解く。ブランド名が入っていない小箱の蓋を開けると、オレンジの香り。
「オランジェット、私好きだよ、超好き」
「うん、でも自信ない」
やあっぱり。笑わないようにしてたけど、堪えきれずに上がった口角がでれっと弧を描いてしまう。
「作ってくれたんだ」
「うん……」
「ありがと。ますます嬉しい」
チョコでコーティングされた一つをつまんでぱくりと食べたら、おもわず「うま」と声が漏れてしまった。
「……ほんとに?」
「うん、あーこれ止まんなくてパクパク食べちゃう奴だ、危険」
「別に、食べたかったら食べればいいじゃない」
「いや、それは駄目でしょ」
私が諭しても、乙女はどうして駄目だか分からないらしい。ムズムズする心をしれっと隠して口を開く。
「恋人が私を思って作ってくれたものを、スナック菓子みたいには食べられないよ。大事に味わわなくちゃね」
あなたを味わうみたいにね、と囁くと、真っ赤になってしまう。
「ね、鮫島さんもこれ食べなよ、おいしいよ」
私が一つつまんで差し出すと、おずおずと近付いてくる昔のイケメン顔。仕事場では絶対に見せない恋人としてのかわいい顔を見ていたら、いじわる心が抑えきれなくなった。
口元へ運んでいたオランジェットをすっと引くと、食べる直前だった彼もむうっとした顔になる(そんな顔もかわいいとか四〇代男性として絶対おかしい)。
「……何すんの」
「ん、」
ポッキーゲーム的に片方の端を咥えて、促す。でもどうかな。乙女だからな。
そう思ってたけど、ちゃんと乗ってきた。かーわいい。
「……おいしいね」
きっとさんざん試食しただろうに、はにかみながらそう答える鮫島さんがかわゆすぎて辛い。
あー、今すぐ手ぇ出したい。でもこの間そうして怒られたばっかりだし、バレンタインなんて乙女イベント、ぶちこわしにしたらかわいそうだし。
そう思いつつも、手が首筋を辿るのを止められない。
喉仏に触れる。こんな急所を無防備に晒してくれるのが嬉しい。ボタンをいくつか開けて、鎖骨の真ん中にキスをした。
「……いい?」
シャツの胸にぺったりとつけた手は、早く刻む鼓動を捕まえた。
にんまりしたまま見上げると、真っ赤なのを隠してるつもりなのか、顔の下半分を大きな手で覆って「駄目って云ってもするくせに」と横を向いて早口で云う。――事実上の容認をいただいた、ということで、遠慮なく盛った。
昔の二枚目顔の下は乙女だなんて、オランジェットみたい。ぺろりと舐めればたちまちチョコレートコーティングは剥がれて、砂糖漬けのオレンジが現れる。甘くていい香りで大好き。テキトーになんて食べられないよ。
どうかこれを味わうのが私だけでありますようにと思いながら、好きなように彼を貪った。
と、このようにふたりはロマンチック街道驀進中――の筈なんだけど。
おっかしいんだよね。なぁんか私、隠しごとされてる。
隠すこと自体は別にいいんだよ、恋人とは言え全部素通しって訳にもいかないだろうし、私もそんなの求めてないし。
でもね、隠すならちゃんと隠して欲しい訳。アナタ、仕事の時の有能さをどうして私生活では発揮しないかな。
前に私にくれたバラの練り香水。それと同じものの使いさしが、彼の部屋にある。それは知ってる。理由は簡単。『会えない時にめぐと同じ匂いがあれば我慢出来るから』だって。もーほんとにあの乙女は。
そんなのは隠さないくせに、必死に隠すものは、どうやら彼のライティングデスクの引き出しにあるらしい。
私がお風呂をいただいて上がる頃になると、あわてて引き出しに押し込まれてるものが何かは知らない。聞いてみたこともあるけど、はぐらかされたし。気になるけど見ないのが普通だし。
もやもやしたけど、考えても答えが出る訳もないので、とりあえずそのことは忘れてこの日も鮫島さんちの広いバスタブを堪能した。
「お風呂いただきました―」
ぺたぺたと裸足で部屋に戻る――スリッパ使いなさいと怒られるけどお風呂上りにモコモコのスリッパはあっついし――と。
いつものように、何かをしまおうとする後姿。でも間に合わなくて、慌ててた手はそいつを床に落とした。
――なんだ、ノートか。てっきりエロ本かと思ったのに。
固まっちゃった乙女に変わってそれを拾い上げて「はい」と手渡す。すると。
「……見た?」
「なわけないでしょ」
さすがにムッとした。すると、即座に「ごめん」と云われたので素直に受け入れる。
「家計簿かなんか?」
マメな人だからそういうのでもおかしくはないけど、と思いつつ一応聞いてみた。
「ううん」
「何だろ……。あ、教えたくなかったらいいよ」
隠すほどのもんだからねえ。そう思って云ったのに。
「……これ」と、乙女はそのノートを開いてこちらに向けた。
四月○日 晴れ
M様宅を二人で訪問。気の重い仕事だったけど、一緒に来てもらったから頑張れた。公私混同かも。
ご馳走してもらった木苺のムース、甘酸っぱくっておいしかった!
五月○日 曇り
二人で映画を観に行った。デートかな。だといいな。
仕事の時とは違う服装。かわいくてどきどきした。
六月○日 小雨
始業一〇分前に駆け込んできた。ああ、そのニットにはこの間履いてたスカートの方が似合うのに。
いつかコーディネートとヘアケアを存分にしてみたい。絶対もっとかわいくなるから。
――などなど。
可愛らしいちんまい文字は、知っていることばかり綴ってあった。
文字だけでなく、ケーキの写真やら、チケットの半券やらも添えて。さすがにマメだな。
「私とのことだね」
そう云うと、こくりと頷く。
「嬉しい」
彼ににっこりして欲しくて云ったのに、なんでそんな泣きそう?
「ずっと覚えてたくて」
「うん」
俯いた髪に触れる。
「終わっちゃった後に備えて、書いてた」
終っちゃった後って、何のこと? 目で続きを促すと、鮫島さんは対称的に目を伏せた。
「今がすっごく幸せ過ぎて怖い。めぐは若いから、『次』に行く日が来るのは当たり前なんだけどそんなのやだって思っちゃって」
「……ほお」
別れるとか考えちゃうんだ。それは私のかわいがり方が乙女には足りてなかったってことかね。
「いつかめぐがそう望んだら、綺麗な思い出になるように、縋らないようにしようって決めてて」
「……」
捨てる訳ないっつーの。
「……一人になった時に、ちゃんと思い出せるように、思い出で生きていけるようにって、」
それ以上聞いていられなくて、キスをした。
バカな人だね。無駄に悲壮な覚悟なんか一人で勝手に決めちゃってさ。
「なんでそんな風に思ってんのか、一応聞いてあげる」
キスしたことで抑え込んだつもりの感情はまだ腹ん中でちりちりと燃えていて、それを隠し切れなかった私の言葉を聞いた恋人はますますその大きな身を縮こめてしまった。
「だって……」
「んー?」
ソファに座るその人の横でごろんと転がって、勝手に膝枕してやった。
手を伸ばす。頬に触れる。少しだけざらついた感触。こんなに近づかなければ、つるりとしていて髭なんて生えなさそうに見えるのにね。
「めぐは、僕と付き合ってかわいくなったって評判だし……」
「女性陣の評価は『ゼロだったのがようやくプラスに転じた』程度のもんですよ」
それだって自前じゃなくて面倒見てもらってるからだし。
「かわいいだけじゃなくかっこいいし……」
「それは恋人がかわいいから釣り合うようにそうしてんの」
この人と付き合う前は恋人とおでこを合わせて『love you』なんて囁く自分なんか存在しなかったわ。乙女病怖い。
「僕を当たり前に受け入れてくれてるし……」
「それはお互い様ってもんでしょう」
かいがいしさも乙女らしさも、あちらの専売特許。私は私で、のびのびやらせてもらってる。
「ほかには? この際だから全部云ってくださいよ」
こんな心臓に悪い『隠しごと』、後から後からポロポロ出てこられたら堪らない。そう思って促すも、何やら言いよどんでいる。
よっこいせと起き上がって、俯いたままのお顔を両手で包むように掬い上げ「云って」とふたたび促した。
「何でもいいから。不安に思ってることでも、不満に思ってることでも」
ついいつもの役割分担でカッコつけてそう云っちゃったけど、『靴下はちゃんと表に返して脱いで』とか『新聞は読み終ってもぐしゃってしないでちゃんと畳んで』だの、自覚しててもなかなかちゃんとできてないこと指摘されたら情けないなあ、と思いつつ、にっこりと笑う。それだけで頬を染めてくれるこの人は、本当になんてかわいい。
しばし見惚れていたら、鮫島さんの目からつーっと涙が流れた。
「僕とお別れしないで」
「……しないよ」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「家では眉ナシでだらしない私を鮫島さんがいやでなければね」
そう返すと、涙を流しながら乙女は笑う。そうそう、その顔。お気に入りなんだよ。ずっと見させてよ。今より年を取ったアナタにもそんな風に笑ってて欲しい。
この先一緒に暮らしたとしても、たまには会社で『love you』付箋を付けてくれたら嬉しいな。と云いつつも、一向に学習能力が向上しない私は不意打ちのそれに『げ』って顔してまたヘコましちゃうかも。そしたら乙女手懐け三点セット(小さな花束・彼の好きなケーキ・「ごめんよ。私もちゃんと好きだから」の言葉)を渡すから、いいよって許しておくれ。
感極まって涙の止まらない上司兼恋人に「明日も仕事なんだから泣き止めー」と雑な言葉とティッシュを手渡しつつ、私は二人の未来にしばし思いを馳せる。――うん、色ボケハッピーしか今んとこ見えないね。
乙女語に翻訳するとそれは、『そうして二人は、末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』って云うんだよ。