もっと(☆)
「クリスマスファイター!」内の「王子と巨匠」及び「火をつけて」の二人の話です。
恵一さんが、ベランダで煙草を吸ってる後姿、好きよ。
恋人は年が一回り違うんだ、と友人に教えると、『話合うの?』とか、『枯れ専なの?』とか、失礼なことばかり云われる。『愛人なの?』という発言が飛び出したのには苦笑するしかなかった。――その上サラリーマンじゃなく、収入が不安定な職種であるカメラマンだなんて、とても云えやしない。
恵一さんは、今までの恋人とは色々と違う。
まず、お仕事もお休みも不定期。ただしこれはお互いさま。
撮影で遠くへ行っていて、ひと月近く会えないこともある。こちらのタイミングが悪ければ、もっと会えなかったりもするのだろう。
年上の人には、ひとりの生活のペースがもうすっかり出来上がっている。例えば、夜は仕事で寝る時間はまちまちで、いくら遅くに帰ってきても朝はきっかり九時起きだったり、朝食は和食と決まっていたり。大雑把に見えて意外に色々とこだわり派だ。
スニーカーも歯ブラシもコップも、好きな物しか使わない。これ、と決めたブランドや銘柄を買い続けているからそれがなくなると困るンだよなァと、やっぱりずっとそればかり吸っていると云うピースを美味しそうに燻らして教えてくれた。
そして、少し長めの髪にカジュアルウェアに無精髭という自由業然としたルックスに加え、だらだら歩くしお酒も煙草も大好きだけど、実は隠れストイックだ。
撮影には遅れない。いいかげんな写真は撮らない。酔ったまま撮影にも行かない。それに多分、……女遊び、してない。私の頼りないカンだけど。
ちょっとだけ、信じきれないままお付き合いを始めた。確かに写真はストイックで素敵だけど、作品=本人の人柄ではないことくらい大人なので分かっている。また、私の知っているカメラマンという職種の人達は、全員とは云わないけれど女性関係が派手な人が多かったから。
なのに、あなたは予想外に誠実だ。それでいて色恋ごとに慣れた大人の男性でもあるから、私は日々ドキドキさせられっぱなしだ。
この少し風変わりな恋人のおうちにはこまこまとした『恵一さんルール』が存在しているけれど、逆に云えばそれさえ守っていれば彼はご機嫌なので、かえって私にはやり易いと感じた。ルール以外のことは、こだわらない人だから。
恋人同士が盛り上がりそうなイベントにもこだわらないどころかそもそも興味ないしね、とため息を吐いた。それでもダメもとで聞いてみる。
「恵一さん、チョコって好き?」
そうしたら以外にもあっさりと肯定の返事が返ってきた。
「あァ、撮影の合間とか、よく食うよ」
――ただしあれこれと挙げられたのは、どれもおいしいけれどバレンタインにあげる感じではない、お手軽価格なものばかり。まさかそれを差し出す訳にもいかないし、日にちも差し迫っていたのでもっとダイレクトに聞くことにしてみた。
「あのね、バレンタインなんだけど、どういうのが欲しい?」
普段カメラを持つ手が、私をするすると撫でた。
「惚れた女の寄越すモンなら、ゴミでも宝だよ」
「……その云い方は、どうかと思う」
頭、耳、首、肩と撫でながら降りていった手は、来た道を逆さに辿って両頬で止まった。
「じゃあ云い方変えるか。なンでもいい」
「もっと駄目だよそれ!」
笑ってる恵一さんの顔が近付いてくる。
「……すぐそうやってごまかす」
嬉しいくせに、憎まれ口を叩いてキスを受けた。優しいキスと無精髭の感触。
本当はいつも怖いの。恵一さんはアイドルも撮るし、モテるの知ってる。本人は隠れストイックだからそんなこと云わないし、『モテる/モテない』に重きを置いていない人だから――それってモテてる人の余裕だよね――どうでもいいみたいだけど、同じフィールドである出版業界にライターとして身を置いている限り、聞きたくなくてもモテ情報は小耳に挟まってくるのだ。
私も二〇台(後半だけど)の女としてそれなりに身だしなみを気を付けてはいるけれど、ファッションも顔も胸のサイズも並でしかない。なのに特上の恋人は仕事で特上の女性と接触する機会が多い。今日はグラビア、と聞くとつい悪いことばかりを想像してしまって精神衛生上よろしくない。
舌が絡む。優しいキスが貪られるそれに変わって、私を抱く手にも力がくっと込められる。
もっともっともっともっと――頭の中はそれだけになって、いつも巣食っている不安も、この時ばかりは鳴りを潜める。
もっとキスして。もっと求めて。もっと気持ちよくして。
欲望のオバケになって、ただ浅ましく恵一さんを欲しがる。だってこうしている時なら恵一さんは私だけのものだから。
アルゼンチンタンゴを踊るみたいに密着したままリードされて、寝室へとなだれこんだ。笑ってるのにどこか怖い目をした恵一さんが、木製のブラインドをシャッと音を立てて下ろして、それから恵一さん自身が身に纏っている物をどんどん床に落としていく。生成りのシャツ、中に着たTシャツ。ボタンフライのジーンズだけを纏った姿は、四〇歳とは思えないくらいに引き締まっている。見惚れていたらそれも笑われた。
「……お昼間なのに」と、云ったところで『じゃあコレはやめて、ボードゲームでもしましょう』なんて爽やかに路線変更される筈もない。
「惚れた女を抱くのに昼も夜もねェな」と、あっさり押し倒された。そして『もう』と文句を云う筈の口はいつの間にやら『もっと』と素直に告げていた。
何をされてもいいからお願い。
もっと私だけを見ていて。
最後は、咽び泣きながら懇願していた。でも言葉として聞き取れるのは『もっと』だけで、きっと恵一さんには行為に夢中になってねだっているように聞こえているだろう。それでかまわない。こんな気持ちはきっと重荷になるだけだから。
ひとつになりたい。ずっとそばにいたい。
それが何を意味してるかなんて、子供じゃないからよく分かってる。
友人にもさんざん忠告された。――恋もいいけど、二〇代後半なんだからそろそろ結婚を考えたら、と。
考えてるよ、でも結婚は一人じゃできないもの。
まだお付き合いを初めて二か月でそんな話なんて出やしないし、そもそも恵一さんは私にそれを望んでいないもの。
でも恵一さん以外の人なんて、今は考えられない。
堂々巡りは結局『恵一さんにいらないと云われるまでは、側にいる』と云ういつもの結論に着地した。
さらさらしたシーツの感触が、はだかの体に心地いい。今時期に普通の綿のシーツは寝る時少しひんやりしているのだけど、『コレがあるから』とベッドの中は湯たんぽ、寝室もオイルヒーターで優しく温められるのでここはいつでも快適だ。
ずっとこのままがいい。そう思っていても、うっすら浮上してきた意識は、恵一さんが身支度をしている音を捉えてしまった。私の方は先日雑誌のインタビュー記事を入稿したばかりで今日はフリーだったけれど、彼はこれから撮影があるのかもしれない。
ああ、もうおしまいか。さみしいな。そう思って、こうなったら恵一さんにキスで起こされるまで寝たふりを決め込もうと、体を丸めた時。
「そろそろ起きろ」と優しく髪を撫でられてしまった。――そんな風にされたら、正直者の口がにっこりしてしまうじゃないの。
「……まだ起きないもん」
言葉は発したけど、目は意地で開けなかった。
「こら、キスしてやンねェぞ」
それが軽い脅しだって分かっていても、別にいいもん、とは云えなくて、仕方なく目を開けた。
そんな私を、しゃがんでベッドに肘を付いて恵一さんが笑う。
脱ぎ散らかした洋服をまた身に付けて、少し恥ずかしい気持ちのまま恵一さんに手を繋がれ、リビングのソファへ連れて行かれた。いつものようにルールに則って、二人で並んで座る。私が左で恵一さんが右。
「腹、減ってねェか」
「大丈夫」
学校の教室の壁に掛けてあるような時計を見やれば、もうおやつの時間だ。今しっかり食べてしまったら夜ごはんが入らなくなってしまう。
「この後の予定は」
「ない」
そう答えると、満足そうに「そうか」とお返事された。そしてしばしの沈黙。テレビのリモコンを手に、チャンネルを気ぜわしく変えてみたり、「煙草吸って来る」と立ち上がったのに「――いや、やっぱ後で」と座ってみたり。
なんだろ。なんだか、恵一さんがそわそわしている。そんなそぶりはちらとも見られなかったけれど、もしかして、私の用無し宣言来る……?
強張ったまま前を向いて座っている。とても恵一さんの方は見られない。
恵一さんが、咳払いをした。
「――あの、な」
「やだ!」
声を掛けられるや否や、私は両耳を塞いで、目もギュッとつぶって、ソファの上で身を小さく縮こめた。
「なンだよ、」
「やだ! 別れたくないもん! 聞かない!」
つぶった筈の目から、涙が溢れてあっという間に顎を伝う。塞いでる手がぶるぶる震えててちっとも役に立たない。
覚悟、していた筈なのに。ちっとも出来てやしなかった。しかも、こんな風になってもみっともなく泣き喚いて。イイ女なら、きっと笑って手を離せる筈なのに。
しょうがないよ。私イイ女じゃないもん。やけくそみたいに思う。
「なンだよ、俺が別れ話するとでも思ってンのかお前」
恵一さんが面白くなさそうに云う。
「悪ィけど、その線は消えたわ、未来永劫」
「え……」
「決めた。もう手放さねェ。お前を俺のモンだって分かるようにするぞ」
――『悪ィけど、俺と別れてくンねェか』って、そう告げられるんだと思ってた耳と頭は、恵一さんの言葉をなかなか信じようとはしない。ただ手は素直に耳から落ちて、腿の上で頼りなくくたんとしていた。恵一さんは力のないままの左手を取って、薬指に環をくぐらせていく。ただしそのサイズはぶかぶかで、差し入れた側の恵一さんも毒気を抜かれたように「……お直しってのが要るな」と呟いた。
銀色の環。クリスマスに恵一さんがくれたネックレスと同じブランドの。
大きめの指環は少し手の角度を変えるとその都度指の回りでくるくると遊ぶ。「どうして」ってようやく聞いた私に、「バレンタインじゃねェか、もうすぐ」とあっさり教えてくれた。
「え、でもバレンタインてこっちからチョコを、え?」
駄目だやっぱりまだ落ち着かないみたいだ。そんな私の様子を見て、恵一さんはさらに言葉を紡いでいく。指と、指環を触る。
「男から女にやっちゃいけねェって決まりはねェからな、利用させてもらった。惚れた女を繋いでおきてェってのはオスとして当たり前だろ?」
あっさりと云われる。後から言葉の理解が追いついて、今更なタイミングで顔が赤くなった。
「ソレ買った時にはそこまでお前に覚悟させるつもりはなくて、ただ安心材料になればって思ったンだけどな」
「安心材料?」
「お前、グラビア撮影が入るって聞くたび、いつも不安そうにしてただろ」
見抜かれていたのか。というか、そんなに分かりやすく態度に出ていたか。恥ずかしい。
「若い頃ならいざ知らず、もう火遊びなんざしねェよって云ったところで信じる風でもなさそうだったからなァ、せめて指環でもすれば落ち着くかと思って用意したンだよ、丁度バレンタインだしよ」
遊んでいた恵一さんの手が、弄られていた私の指をぎゅっと掴む。
「本当は、お前はイイ女だから、いつまでも俺に縛られちゃ勿体無ェって思ってた」
やっぱり、いつかは手放すつもりでいたのか。浮かれていた心がひやりとする。
「年も一回り違うし、いつでもお前が逃げられるようにしておくつもりだったのに、さっき自分でソレ塞いじまったからな?」
手を引かれれば、繋いだままの指が恵一さんの目の前に晒される。
「あンなこと聞かされて、それでも惚れた女を手放せるほど俺ァお行儀よくねェんだよ。お前はその気がないかもしれねェけど、結婚するって決めたからな」
悪い大人の顔した恵一さんが、ニヤリと笑う。
「今更『そんなつもりじゃなかったの』なンて云っても、聞いてやらねェ」
見せつけるように、手の甲にキスをされた。唇が離れたと思ったら、今度は額が押し付けられる。
「……なァ、『はい』って云ってくれよ」
さっきまであんなに強気でゴリゴリ押してきたくせに、どうして私に懇願したりするの。 そんなことする必要なんかこれっぽっちもない。私の気持ちをあんなに分かっているなら、私のお返事なんてお見通しでもよさそうなものなのに。
恵一さんが、ベランダで煙草を吸ってる後姿、好きよ。
それを私、これからずっと見ていいんだ……。
嬉しくてぽーっとしてたら、焦れた恵一さんに「まだ覚悟、つかねェか」って促された。
「はい。あ、覚悟つかないの『はい』じゃなくて、結婚のお返事の方」
慌てて返したら、「寿命縮むような真似すンなバカ」ってぎゅうぎゅうハグされてしまった。お互いの気が済むまで、ずっとくっついたままでいて、それからゆっくりと離れる。
「じゃァ、まずはソレ直しに行こう」と指輪をチョンとされた。
「うん」
出掛けるならメイクをしなくちゃと立ち上がって、お化粧道具一式を置かせてもらっている寝室に向かうと、「なァ」って声を掛けられてドアのところで振り向く。バシャッと音がして、写真を撮られたのが分かった。この不意打ち撮影はよくやられるのに、いつも面白い位引っかかってしまう。
「もう」
私は怒って見せるけれど、それが本当じゃないって分かっている恵一さんは笑ってる。いつまでも怒ったふりをしていられなくて、カメラを手にしたままのその人に笑顔を向けたら「愛してる」と初めて告げられた。
私も、って云いたいのに、今日は嬉しいサプライズばかりですぐに泣いてしまう。やだな、恵一さんに泣き虫じゃないんだからねって云い訳したい。
こんな顔は撮らないで、って思ってたら、レンズはそのままぶかぶかの指環をしている薬指に向けられた。
私が恵一さんの煙草姿が好きなのと同じに、恵一さんも私を撮影するのが好きなのかな。でもスッピンを撮るのはやめて欲しいってお願いしてみよう。
――そのお願いは「聞けねェなァ」の一言であっさりと退けられて、私はこの先何度も「もう」って苦笑する羽目になる。
14/05/22 一部修正しました。