隣じゃなく前に(☆)
「クリスマスファイター!」内の「後ろじゃなく隣に」の二人の話です。
ナオさんへの横恋慕期間終了のお知らせは、すなわちヨッシー改め芳郎君への片思い期間のはじまりでもあった。いや、片思いは正しくない。いつからかは分からないけどある程度の期間は両片思い、だった筈だ。
芳郎君はずっと私の傍で寄り添ってくれてたくせに、私の心がどう動いたかなんてちっとも分かってなかった。私が告白した時の、あの顔。今思い出してもそのたび笑っちゃう。
いつから好きでいてくれたの、とか、私のどんなところが好き? とか、聞いたことない。聞いてみたいけど何か恥ずかしい。だってナオさんに恋してたとこも、自動的に失恋してやさぐれてたとこもさんざん見られてるし、素の自分を知られているのに今更『芳郎君に夢中なんです』って色ボケ全開の自分を見せるのは、なんだか躊躇する。
芳郎君が、せっかく私に『奪いに行く』って男らしく云ってくれたのに、『奪う必要はないよ』なんて云っちゃったせいなのか、それともやっぱり友人関係からの発展形だとあんまりそそられないのか、どっちなのか両方なのか分からない、けど。彼の方から私に対して熱烈に愛をアッピールしたりだとか、お休みの日に朝から晩まで寝室から出してもらえないとか、ない。お泊りに行っても、そんな雰囲気さえ滲ませないでいるし二人で飲んでいてもあくまで紳士だ。
だからいつも酔って大胆になった私が芳郎君に仕掛けて、始まる。でも、嫌がられてはいない……筈。私を膝の上に乗せたまま、少し照れたような顔をするのを見ると、そのたび心の真ん中がキュンとなってしまう。それが起爆剤になって私から暴れん坊なキスをしていると、そのうちに必ず攻守逆転になる瞬間が訪れる。ぐるりと視界が入れ替わって、それまで私の好きなようにさせてたのが嘘みたいに芳郎君の繰り出すキスがようやく始まる。そうなると、もうこちらはお手上げだ。どこを触られても何をされても気持ちいいだけ。だったら、最初からそうして欲しいのに、と思う。
初めて、彼のお部屋に友達としてじゃなくお泊まりに行った夜も、そう。
あんなに路上で盛り上がったにもかかわらず、電車を待って、電車に揺られて、電車を降りて歩いている間に向こうは冷静になっちゃったのか、せっかく辿り着いたお部屋でひたすら赤ワインをちびちびやって、チーズをちょいちょいつまんで、ちっともラブくない映画のDVDを観てた。こっちは燻った火がとんでもないことになっていたって云うのに。結局、理性の限界を突破した私が芳郎君のこと押し倒して、なんとかそう云った関係に持ち込んだ次第だ。欲求不満の肉食ガールみたいだけど、あの日の自分はかなりいい仕事をしたと思う。
初めて、芳郎君の裸体を見た。
初めて、芳郎君の欲情する顔を見た。
初めて、芳郎君の前で女の顔を見せた。
初めて、芳郎君のベッドで一緒に眠った。
関係が深まったら、私との立ち位置も変わるかなと期待した。でも、芳郎君は芳郎君のままだった。それまでと変わらず、一歩後ろから見守りポジション。手を引くと、ようやく隣に並ぶけど、どうも長年のくせで無意識にそうしちゃうらしい。
キスはあくまでも優しく、ベッドの上でも『辛くない?』『痛くない?』って、心配ばっかりして。
いや、いいんだけどね。芳郎君のそう云うところにとっても助けられたし、惹かれてもいる。けど。
たまには、強引に私のこと連れ去って欲しい。いじけ虫が忍び込む隙もないくらい、圧倒的に愛して欲しい。ベッドの上で聞かれるなら、心配より『気持ちいい?』がいい。
我ながらワガママだなー。笑っちゃう。
好きなひとが自分を好きになってくれるって、すっごい奇跡だって分かっていても、手に入った瞬間にはもう次のステップを望んでいる。
ねえ、そっちから手を伸ばしてくれないのはどうして?
今のところ、勝手に私が芳郎君を召し上がっている状態だ。貪り食ってるとも云う。そりゃ、目の前にご馳走が落ちてたらおいしく戴きますよ。向こうは学生時代からまだ続けてるテニスでキープした、いい感じの細マッチョですもの。
二人でまったり飲んでいる間にいきなり押し倒してお洋服を剥いても、芳郎君ときたら笑って『さむっ』の一言コメントだけ。あくまで無抵抗だ。
咎める言葉や態度があれば、嫌なんだなって撤退する。伸し掛かられてもウェルカムなポーズだったらこういうのも好きなのねってほくそ笑む。そのどっちでもない。目を細めて私を見て、フローリングの床にごろんと投げ出されたその身体は、まるで私に『好きにお食べ』って云ってるみたい。それがイコールで『I LOVE YOU』とちゃんと繋がっているかは、――ちょっと分かんない。
金曜の夜、いつものように仕事帰り、芳郎君のお部屋を訪れた。呼び鈴を押して、鍵を開けてくれるのを待つ。この瞬間は、まだほんのりときめいてしまう。ぎいって軋んでドアが開くと、大好きなひとが笑って迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
ここは私のうちじゃないけどね、と心の中で突っ込みながらも、そのやり取りは毎回嬉しい。
今日も、用意されているのは赤ワインとチーズとやっぱりラブくない映画のDVDだった。
いつもは景気づけにくーっとグラスを傾けてしまうそれを、適度にほろ酔えるようにセーブして飲む。――五パー以上のアルコール飲んだら相変わらず腰抜けちゃうくせに、それでも芳郎君によじ登ったりしないように。一人で、先に火が付いちゃわないように。芳郎君がグラスを傾ける横顔の顎のラインと、チーズをつまむ指がエロいわ、とか思わないように。
せっかく一週間ぶりにいちゃいちゃしに来たのになんで敢えて我慢しているかと云えば、その理由は一つ。
芳郎君の方から、手を出して欲しいから。
いつものような夜は、私があれこれ堪えることでいつもならとっくに戴いている芳郎君の肉体も未だに暴かずにいた。
二人してベッドに背をつけてならんで座ってテレビの方を向いて座ってた。時折、ん? って感じに芳郎君が私の顔を覗き込んでくる。
「おいしくない? ワイン」
「んーん、おいしいよ? 今日はじっくり味わってるんだー」
ほろとは云え酔いは酔いなので、ご機嫌でお返事すれば「そっか」って笑った。
それ見て、うわキスしたいってムラムラきたのを理性で無理やりねじ伏せる。
そんな私の内なる努力を笑うように、芳郎君は私が大好きな横顔の顎のラインも指も見せつける。見るとやっぱりムラッてなるから、なるべくそっちは見ないで映画に集中した。
ラブくない筈のDVDは、荒唐無稽なアクションの中にもほんの少しだけラブがあって、その秘めたる感じがかえってよかった。
「そんなに面白い?」
「うん、意外といいね。多分今日芳郎君に観せてもらわなかったら一生観ることのない映画だったよ。観れてよかった、ありがと」
「褒めすぎ、みゆ」
やった、たまにしか来ない名前呼び、きた。嬉しいけど、顔が緩まないようにほっぺの内側を噛んだ。ワイングラスには手を伸ばさず、お水のグラスに口を付ける。
そうして、今日は冷静と情熱の間をうろうろと行ったり来たりしながらもなんとか冷静に軍配が上がって、芳郎君を襲わないままお行儀よくベッドに並んで眠ることになった。――なって、しまった。うー、テンションだだ下がり。
いや、自業自得なんだけどさ、今日身に付けていたのもお風呂上がりに身に付けたのもなかなか芳郎君好みな下着セットだっただけに、ちょっと残念。
これで、向こうからは手を出してこないことが分かっちゃったのは、かーなーり、残念。
なんでなんだろ。自信失くすわあ。
溜め息を一つ吐いて、芳郎君に背中を向けたとたん。
「みゆ、こっち向いて」
芳郎君にまた名前を囁かれて、肩を掴まれて、ころっと向き直された。
真っ暗で寝るのは怖いから、いつも常夜灯をつけてもらってる。だから今お互いの顔も姿もバッチリ認識出来ている。
二人とも、体の側面をベッドにつけた状態で寝そべっているから真正面から見つめ合う形になった。こんなの激レアだ。だって、芳郎君はいっつも、半歩後ろか、おねだりしてようやく隣の人だから。こんな風に真ん前から見るとか、私が襲う時くらいしか、ない。何だか落ち着かなくて顔だけ天井の方に向けてたら、「こっち、向いて」って今度は両のほっぺに手を添えてきて、動かした分だけきっちり軌道修正された。再び見つめ合う。
「な、に」
声が上ずる。
「別に。いつも積極的な彼女が無反応で、ベッド入っても背を向けられたから、何でって思っただけ」
芳郎君の声は、ちょっと怒ってるみたいだった。てか、私の動向バレバレですか。ですよね。
「俺に、厭きたの?」
「はあ!?」
何その斜め上過ぎる発想。
「みゆ」
名前砲、第三弾。どうして彼に呼ばれるとこんなにステキに聞こえちゃうんだろ。お酒がまだ体のどこかに残ってるみたいに、ドキドキしながら暴露した。
「だって、芳郎君からは私に触ってこないじゃん、いっつも」
こんなこと云うのに目なんか見られやしないから、顎のあたりを見てた。正面から見ても、大好きなライン。夜だからか、少しだけ髭が伸びてる気がする。
「たまにはそっちから触って欲しいと思って今日は我慢しました終わりっ!」
云うだけ云って、今度こそ背中を向けた。
「なんでキレてるの!?」
「だって、それでも触らないって云うのは、そういうことなんでしょう?」
クソ、泣くな私。
「芳郎君の気持ちはよく分かった」
「待って、みゆ」
四たび名前で呼ばれて、泣きたい筈なのに心がポーンと跳ね上がる。
「ごめん」
肩にまた、手を置かれた。でも、今度は強引にひっくり返されはしなかった。
項に息が掛かって、優しくキスが降る。そのままそこで囁くから、こしょこしょされてるみたいだ。
「いっつもみゆがかわい過ぎて、止められなかった」
「―――――は?」
「ほんとだよ、たった一杯のワインで顔赤くしてさ、俺の上よじ登って、してやったり! って顔するの、かわいくていつも見ていたかったから、受け身でいた。今日はいつになったらみられるかなって思ってたけど、とうとう見られなくてすっげー残念だった」
「何それ」
「ごめん。不安にさせたよな」
「なりまくったよ。ばか」
いつの間にか、おなかに回されていた腕をぽかぽかぶつ。手加減するあたり、自分が優しいと云うより、だいぶこの人に負けてる。
「全然好きとか云わないしさ」
「あんまり云われるの好きじゃないかと思って。云ってよかった?」
「そんな得意じゃないけど、でも云ってよ、じゃなきゃ不安になるよ」
「だよな、ごめん。好きだよ」
「――うん」
嬉しくて、何度もその言葉を噛み締めてたら、「かわいい」と芳郎君が後頭部にちゅ、とキスをした。
「かわいくないよ、知ってるくせに」
「俺の知ってるみゆは、誰よりもかわいい」
「!」
「ほんとだよ」
その後も人が変わったみたいに甘い言葉を量産する芳郎君に、とうとうこっちが耐え切れず、「も、じゅうぶん」と告げて終わりにしてもらった。
「で、そろそろ愛しい彼女さんの顔を見たいんだけどいい?」
そんなの、聞かないで。って云う余裕もなく、こく、と頷くと、さっきみたいに元通りに向き直されて、目が合えば満面の笑みを浮かべられてしまった。
「他に駄目なとこあったら、云ってくれると助かる」
「駄目なとこじゃなく、聞きたいことでも、い?」
「いいよ」
この流れなら、聞けるかもようやく。
「えっと、私のことっていつから?」
いつから好き? とはさすがに聞けなくて曖昧に質問してみた。そしたら、芳郎君たら多分顔を赤くしているんだろう、さっきの私とは逆に、枕の上に腕を渡して顔だけうつ伏してしまった。
「こらあ、こっち向くの」
ここぞとばかりに、反撃してやった。芳郎君はのろのろと視線を戻して、「……一目惚れだよ」とちーっちゃい声で、云う。
「え? てことは大学の、サークル入った時ってこと?」
「そう云うこと! ねえもう終わりでいい? 恥ずかしいんだけど」
「ダメー。次の質問。私のどんなところが好き? 全部、教えて」
「全部?」
「全部」
芳郎君はため息一つ吐いて、それでもそのお願いを叶えてくれた。
それを聞いてたら今度はこっちの顔が熱くなって――二人で、笑った。
もう寝ようと、芳郎君に云われて、名残惜しいけど寝る体勢になる。ギュッてされたままだと体がつらいから、寝る時はいつもひとりとひとりで寝る。それでも今日は、手を繋いだ。お外じゃないから恋人繋ぎだ。
「芳郎君はさ……」
「ん?」
寝ようって云ったのにまた話しかけても、芳郎君は眠そうな顔のまま聞く姿勢になってくれた。そんなのがキュンときて、もう我慢しなくていいんだからと繋いでいない方の手が触りたいように芳郎君の前髪をわさわさ弄る。
「どっちが本当? 甘い言葉を云うのと云わないのと」
「云う方。でも、みゆは昔っから人前でいちゃいちゃしたりだとか、人前じゃなくてもべたべたされるの嫌いとか云ってたし、愛の言葉とか苦手っぽくしてたから」
うわー、そうだ。この人には、ナオさんを好きになる以前の私の彼歴史も知られているんだった。
「これからは俺、我慢しなくてもいい?」
「用法用量を守って適度に云ってくれればね」
「外でのスキンシップはどこまで可?」
「普通の手繋ぎ。恋人繋ぎは不可」
「……了解」
うー、その不承不承っぷりが、かわいい。思わず前髪を弄っていた手のスピードを上げてしまって「もう寝るんだろ」って嗜められた。
そして、さっそく次の日から増量された愛情表現を施された。
起き抜けのキス。日の高いうちから夕方まで何度も交わした、夢見てたのとおんなじ情熱的なセックス。夜、私が家に帰る前の、玄関の中でのハグ――外に出たらあと一週間出来ないから今ハグ溜めしとく、とか云われて脳がどうにかなるかと思った――、駅の改札までお見送りしてくれた芳郎君といよいよお別れする時、一本一本離される指と、さみしさを隠さない顔。
今まで、私が嫌がらないように我慢してた、芳郎君のラブな部分。――もしかして、DVDのセレクト変わって来ちゃうかな? あれはあれで、楽しいんだけど。
芳郎君が、半歩後ろでも隣でもなく私の前に立つようになって、ようやく二人の関係も変わった。
前は『敏感な人が見たら付き合ってるって分かるけど、そうじゃない人が見たらただの友人関係な感じ』で、今は『正真正銘、恋人さんな感じ』、だそうだ。ちなみにこのコメントは、ナオさんとこのギャルソンの大矢君のもの。手を繋いだままお店に行った時にそんな風に云われて、私がひとりであわあわと照れて挙動不審になっている横で、芳郎君はしれっと『そうでしょう?』って普通に受け答えしてた。
それをナオさんは、とっても優しい顔で笑って見守っていてくれた。
アラカルトを二人で分けながら何品か食べて、〆のプリンも食べて、芳郎君がトイレに立った瞬間、私はナオさんと大矢君に内緒話をする。
「あの、例の、厨房を貸してくれるって話なんですけどっ」
大矢君が私の横に来て、ナオさんはカウンター越しに身を乗り出して、早口でやりとりした。
「十一日は五時まで貸切のパーティーがあるけど、その後は夜の営業をしないから大丈夫ですよ」
「わあ、ありがとうございます! 織枝さんもその日オッケーなんですよね?」
「うん、みゆさんからトリュフ作りを教えてもらえるの楽しみにしてます」
「あ、いいなーそれ、俺も残って見てていいです?」
「いいですよ、ね、ナオさん」
「大矢君が二人のチョコ作りを邪魔しないならいいですけど」
「信用無いなー俺……」
話を畳む前に芳郎君が戻ってきた。
「盛り上がってますね、何の話?」
「何だと思います?」
ナオさんがいたずらっぽく云って、大矢君が昔のアイドルのバレンタインソングを鼻歌で歌い始めたから慌てて「内緒!」って宣言してしまった。――内緒にならないじゃん、それじゃあ。
案の定、眉が寄ってしまった芳郎君を「帰ろうか」って引き立ててお店を出る時、ナオさんが「追って連絡します」って、多分わざと告げた。もう、意地悪。私の隣でますます誤解してる人がいるじゃないか。
恨みがましく振り返れば、いい笑顔のナオさんと大矢君に手を振られたからあかんべーってしてやった。
歩き出した途端に、沈黙が、降りる。
うー、云わないとダメ……だよね。厳しい顔をしたままの芳郎君の横顔を見た。やっぱり素敵な顎のライン。見惚れているうちに、手を繋がれた。私が外では嫌だと云った恋人繋ぎ。
手を痛いほど絡められて、いつもなら私に合わせてゆっくり歩きなのに、芳郎君は自分の歩幅でぐんぐん先を歩いて行くから、ついて行くのが大変だ。つんのめるように歩いていたら駅の手前の暗い通りで不意に芳郎君が止まったから、その腕にとんと鼻が当たってしまう。
「さっきの、何」
いつになく硬い声の芳郎君が、向こうを向いたまま問う。
「何、って……」
即答するには恥ずかしくて言いよどんでいたら、「いい」と会話を断ち切られた。そして、するりと離される手。
「結局、みゆはまだナオさんのことが、」
「違うよ」
芳郎君の正面に回り込んだ。目を合わせたいのに、逃げる視線。もう一度、同じ言葉を重ねる。
「違う」
自分でもびっくりするくらい、落ち着いて云えた。私の両手で、芳郎君の顔の輪郭を包む。
「あれはね、十一日の祝日、ナオさんのお店の営業時間外に厨房を借りてチョコを作りましょうの女子会のことだよ」
「え」
芳郎君の目が、まん丸。
「ほんとはサプライズにしたかったんだけど……、誤解させてごめんね」
頬を触っていた手をそっと離すと、芳郎君が長い溜め息を吐いた。
「……なっさけないな俺。こっちの方こそごめん、やな思いさせた」
「んーん、来年はもっとうまくやるよ」
「まだ今年の分も済んでないのに、もう来年の話か」
そう云う芳郎君の目は、もういつもの優しい表情でほっとする。
「だって、このまま来年もその次もずーっと一緒でしょ?」
「まあそりゃそうなんだけど、……うん」
咳払いするみたいに、グーにした手を口元にあてて芳郎君が横を向く。怒ってるのかと思いきや、その唇は上向きに弧を描いていた。
「なんか今の、ちょっと感激した」
――そっか。そう云えば、云ってもらった言葉を受け止めるのが精いっぱいで、私から芳郎君にはちっとも伝えてなかったね。
だから、背伸びして抱きついた。
見上げて、目を見て。
「芳郎君のこと、すっごく大事だよ」
「……うん」
「大好き」
「うん」
「芳郎君に夢中なんだから、私」
色ボケ全開の自分を見せるとか無理って思ってた。でももう無理なんかじゃない。云ってもらったら、嬉しい。してもらったら嬉しいことは相手にだってしてあげたいと思う。おかしいな、苦手だった筈なのにこういうの。
今まで云わなかった分、もっともっと云おうと思っていたのに、初めてキスした時みたいに真上からそっと近付いて来た唇に言葉が止まる。外でのスキンシップは普通の手繋ぎまでって自分で云ったくせに、恋人繋ぎも今されているキスも、突っぱねないで受け止めてしまった。やっぱり私、芳郎君には負けてるな。苦笑しながら、目を閉じた。
後日、友チョコとしてあげていた時となんら変わりのない手作りトリュフを、芳郎君は喜んで受け取ってくれた。
「毎年同じで悪いんだけど」と手渡すと、「え? 毎年美味しくて何が悪いのか分かんないんだけど」なんて、嬉しいお返事。と同時に、「でも、男友達に恋人と同等品をばらまくとか、これからは駄目だからね」と釘を刺される。
「そんなの、してないよもう」
気軽にそう出来たのは大学の頃までで、さすがに会社では手作りの品を何とも思っていない異性に渡すなんて出来ない。サークルで仲良くなった他の男子は、それぞれ結婚したり、転勤で遠くに行ったりと、これもまた気軽に渡せるような人達ではなくなってしまった。ずっと渡してたのは、ヨッシー時代の芳郎君だけだ。
「それならいいけど」
「そんなにトリュフ独占したいなら、一生専属契約でもいいよ」
何の気なしに、そう告げたら。
「だからその気もないのにそうやって人をいい気にさせるなって……」と、芳郎君が弱った顔で云う。――違う、照れてるんだ。
その様子がかわいくてニヤニヤしてしまったけど、あれ私さっき何か大胆な発言したかもと気付いた途端、今度は自分の方がとてつもなく恥ずかしくなってしまった。そんな私の様子を眺めるだけで何も云ってこないとかやめて欲しい。なんでもいいから口にして、この微妙な空気をどうにかしてよ。それくらいしてくれるでしょいつも。
八つ当たりみたいにそう思ってたら、芳郎君が口を開く。念が届いたのかと思いきや、彼が告げたのは予想外の提案だった。
「結ぶか、専属契約」
「は?」
「契約期間は一生分」
「え?」
「お手製のトリュフ、もうヤローにはあげちゃダメ。同性のお友達にならいいよ」
「えっと……どうして?」
「普通、結婚したらよその男にチョコはやらないだろ?」
あっさりと、云った。けど。
何でもなさそうにしてて実は、震えてんじゃん、手。もう、何でそうやって平気なふりするかな。そんな芳郎君の『男の意地』に、キュンとなる。
いつか種明かししてあげる。私は芳郎君の望むことなら出来るだけ叶えてあげたいってこと。それで『ああ、私芳郎君に負けてるわ』って思うのは結構嫌いじゃないこと。
結婚は、まだリアルに思い描いてはいなかったけど、今申し込まれて嫌じゃないどころか大歓迎だってこと。
このまま芳郎君の膝の上に乗って、いつものように実力行使することで答えとさせていただこうかと一瞬考えた。けど、分かり切ったことでも、ちゃんと言葉で聞きたいことってあるじゃない? だから。
芳郎君によじ登って、キスをして、ものすごく近い位置から目をじーっと覗き込んでやった。私の返事を待ったまま不安げな表情を浮かべてるのが愛おしい。ほっぺたに大きな音たててキスをして、それからようやく「宜しくお願いします」って答えたら、「……無駄に返事を引っ張るな、この小悪魔」って苦情を頂戴した。そんな風に云いながらも、私が芳郎君の首根っこにぎゅーぎゅーしがみつくと、背中を優しく叩く、優しい人の優しい掌。
この人のこういうとこが好きなんだよね、とまた心のド真ん中をキュンとさせながら「小悪魔上等!」って憎まれ口を返した。