グリッサンドの魔法(☆)
使用人×お嬢様
「クリスマスファイター!」内の「ピアノドルチェ」の二人の話でもあります。
「お嬢様、何か御所望の品はございますか?」
其の問いに、稍あって苦笑交じりの返答があった。
「欲しいと申せば何んでも用意が出来るとでも云いたげだな、早乙女」
尋ねた男にそう答えた娘は寝台の上でゆっくりと囁く。少女らしからぬ嗄れた小さな声は意図して出している訳ではなく、もう普通に会話をする事が困難であるが故だ。いま一度あの凛とした声を聞きたいと幾ら男が望んでも、叶える術は此の世界の何処にも在りはしない。
「如何様にも」
内なる感情を押し殺して答えると、諦念を静かに滲ませた声の主が又囁いた。
「お前達の手を煩わせる事を、此れ以上は望むまいよ」
ひっそりと喉だけで、笑う。其の微かな音が男にはもの悲しく響いた。
春の陽を存分に浴びて笑っていたあの日が嘘の様に、薄地のカアテン越し、僅かに光が差し込む此の部屋で、少女は時が満ちるのを待っている。かつて薔薇色であった頬は削げ、白蝋の如き色をしていた。目だけがぎらぎらと命の炎を燃やしている。
早乙女が仕える少女は、太陽神も彼女の足元に跪くだろうと誰しも疑わぬ様な、圧倒的な生命力と美しさを兼ね備えていた。
彼女の父は一代で財を築いた。手掛ける事業の一つであり、彼が事業家として成功する切欠であった高利貸しから転じて『氷菓子』と揶揄される事も多い所謂『成金』と称される人間の一人だが、仕事の面においては冷酷とも思える彼も家では一家庭人であった。望めば何んでも手に入れる事が出来る彼女も、そう云った環境に置かれながら奢る様子なぞ一切見せず、礼節を弁えた極めて全うな人間であると云う事は、此の屋敷に勤める者なら知って然るべき事柄であった。
早くに細君を亡くしてから後添えをもらう事無く、その家の家族は父親と彼女のたった二人きりであった。
早乙女にとって、彼女は女王だった。
此の屋敷を中心として回る世界で、彼女こそが創造主だった。
喜びも悲しみも、此の世に創り惜しみなく早乙女に分け与えるのは彼女只一人だ。
彼女の為に。彼女が喜ぶ様に。彼女が外で恥をかかぬ様に。其れのみを旗印に、彼は己を磨いた。屋敷での仕事の傍ら勉学に励み、マナァを身に着け、屋敷の内外に人脈を築いた。
何れ余所へ嫁ぐであろう彼女がこの屋敷に居る間、何一つの不自由も無い様に。
ピアノを弾く彼女の為にと設えられた、専用の音楽室。今は覆い布がしてあり、大きなピアノが其の音色を奏でる事は無いが、其処には幸せな記憶が沢山在った。
レッスンはきらい、と云いながらも与えられた課題をこなそうとつっかえつっかえ練習する姿。
伴奏する彼女の周りで身を寄せ合い歌を歌う、彼女の通う女学校の、おさげ姿の同級生の少女達。
時折ドレスに身を包み、父や早乙女をはじめとした使用人等の前で腕前を披露する小さな演奏会は、必ず誰かの誕生日や何かの祝いの日だった。
病が彼女から彼女足らしめていた全てを奪った。
外見の美しさ、長い髪の艶やかさ、鈴を転がす様な声、眩しい程の強さ、生れ持っていた快活さ、そうして、何れは命までも。
彼女が不治の病である事を知った時、人々は二種類に分かれた。
一つは、『成金に天罰が当たったのだよ』と離れて行った者達。
一つは、病の前と変わらず傍にいる者達。
後者は実に少なかった。時同じくして、彼女の父の事業が行き詰っていた事も災いした。
躓きは又新たな躓きとなり、少しずつ膨らんでいく。
屋敷にあった調度品は、ピアノの他は既に其の多くが借金のかたに売り払われていた。かつて高利貸しを生業にしていた彼女の父が今、借金で首が回らなくなるとは大変な皮肉だと男は思った。
もうずっと、金策に走り回っている父親は此の屋敷に姿を現わさない。ある日久しぶりに帰ってきた彼は、大陸に渡り商売をするので暫らく留守にする、お前の病気を治すお医者を屹度連れてくるから待っていなさいと彼女に告げた。草臥れた背広、やつれた顔にかつての威厳は無い。そんな父親に、疑いの言葉も発さず不安な様子も見せず、彼女は只一言「行ってらっしゃいませ」と寝台の上から頭を下げた。それが三月前の事だった。
以来、早乙女等にも杳として父親の消息は知れ無い。時折、送金があった。借金の完済には程遠い金額の其れには、屋敷の皆に迷惑を掛けていてすまないが、どうか娘を頼むと書き記した手紙が同封されていた。
「……が、欲しい」
彼女が珍らしく願望を呟いたのは、二月の半ば――年を越すのは難しいでしょうなと医師に云われていたのを鼻で嗤うかの様に、無事に新年を迎えた其の二月後であった。
早乙女は内心困り果てた。
此の屋敷にあるもの、厨房で作れるものであれば――例えば、アイスクリンや大福と云った、彼女がかつて好んでいたもの――、直ぐに用意出来た。だが彼女が此の時欲したものは食べ物ではなく、夏になると其処此処に咲き誇る大きな黄色い花だった。
其の花を模したものを、手先の器用な女中に造らせてみるかと思った彼に、彼女は薄く笑った。
「嘘だよ。在りやしないと分かっている。云ってみた丈だ」
全く生真面目だなと呆れた様に呟いた後、彼女は突如として激しく咳き込んだ。
一体其の弱った体の何処に潜んでいたのだと訝しむ程、咳は強く、長く続いた。
咳を抑えつける様な息を幾度も繰り返し、やがて落ち着いたのを見て漸く男は声を掛けた。
「お嬢様」
「大事無い」
其の言葉が嘘である事は男が一番能く知っている。何故なら、彼の主である彼女の今の在りようが既に『大事』なのだから。
後、幾日。もう、じきに。そんな風に屋敷の外にいる心無い者に囁かれる彼女は、其れでも気丈に振る舞う。そうする事で彼女の世話をする者達の心に満ち満ちている悲しみがほんの一匙分でも減ると、本気で思っているかの様に。
彼は彼女の言葉を受け、「左様ですか」と一言だけ発した。
彼女はすっかり落ち窪んで影の色が濃くなった瞼を閉じ、「疲れた。少し、眠る」と告げた。
其の儘苦しまずに逝った事が、見送った者達には僅かな慰めとなった。
結局、唯一の肉親である父親は彼女の死に目に立ち会う事無く、到頭葬儀にも現われず、屋敷は洋館の辺りの一帯を残して他人の手に渡る事と為った。やがて其の広大な敷地は切り売りされ、彼女を送った使用人達は其れ其れ次の職場や田舎へと分かれて行った。
残ったのは、早乙女だけだった。
仕事の口が無かった訳では無い。寧ろ、その仕事ぶりと人脈を知る人から次々に差し伸べられたありとあらゆる好条件の勧誘を全て断り、自分の代わりにと他の使用人の雇用を斡旋した。
そして、己の才覚と僅かな財で手堅い商売をしつつ、屋敷の中で唯一残った洋館と小さな庭を手に入れ、其の管理に生涯を費やした。
主を失ったピアノは、それでも毎年調律を欠かされる事が無かった。
音楽室から見える前庭には、夏になると彼女が最期に欲した向日葵の花が揺れていたと云う。
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翌日のサロンコンサートを控えて、恋人はただいまリハーサル中だ。――その割に、私をすぐ傍に置いて時折キスをくれたり鼻歌交じりにピアノを弾いたりと、随分とリラックスしているけれど。こんな風にリハが出来るのも、こぢんまりとしたコンサートならではだねと笑って。マネージャーさんやスタッフさんは、一時間先に帰られている。
スポンサーを集い、大々的に広告を打って広いホールで行うものと違い椅子を五〇人分も入れればぎゅうぎゅうになってしまう、もとは富豪の邸宅だったそこの、音楽を楽しむためだけに作られた部屋。今は管理会社が邸宅の手入れをして、こうして個人に貸し出しもしている。小規模のパーティーなんかにも使われるらしいと、恋人が教えてくれた。
「もう、時間ですよ」
私が腕時計を示しても、「まだ、もうちょっと」とピアノを奏でる手を止めない恋人。微笑みながらピアノに向かう姿は、彼の活動を追っていた本に書かれていた『ピアノ王子』そのものだ。でもマスコミに付けられたその呼び名を彼は毛嫌いしていたので、今は使われないらしい。残念。ぴったりなのにな。
でも前にそう云ったら、ものすごーくイヤそうな顔されたっけ。くしゃっと、眉間と鼻に思いきり皺を寄せた顔は、小学生の男の子みたいだった。私より年上なのに。――かわいいって云ったらさすがに怒られるかなとこっそり笑ったんだった。
ここは閑静な住宅街の中にあって、演奏は二一時までと規則で決められている。古い建物には防音材などは使っておらず、また今から手を加えることも文化財なので難しいらしい。見ている方まで楽しくなっちゃうような演奏スタイルと耳が喜ぶ彼の音だけど、ずっとそのまま弾かせてあげたいと思う気持ちを頑張ってえいっと断ち切った。
「はい、もうおしまい!」
携帯のアラーム音が、彼の指先から生まれる美しい音色に割り込む。不協和音過ぎて悲しいけれど、こうしないと止められないので仕方がない。彼のマネージャーさんにも彼自身にも『こんなことさせて、ごめんね』と謝られつつ許可をもらったやり方だ。
弾いている両の手をやんわりとおさえて、「時間です」と目を見ながら云うと、「……はぁーい」と子供みたいな不承不承感丸出しのお返事と共に、ようやく音が止まった。
「ごめんね、じゃあ窓の施錠を確認したら出ようか」
ピアノにそっと蓋をして、その上を『ありがとう』と云う感じで一撫でして、彼が振り向く。
「もう確認済みですから、すぐに出られますよ」
「ありがとう」
電気を消し、管理室に声を掛けて、時間ぎりぎりにそこを退出した。門を出る手前で振り返れば、二月の冴え冴えとした月と、ライトアップされた建物が美しい。
鎧戸と屋根は青。壁や窓枠が白で統一されている洋館をぽーっと眺めていたら待ちくたびれたらしい恋人がちょこんと手を繋いできた。
「行こう、風邪をひいてしまうよ」
それもそうだ。私はひいたって構わないけど、明日コンサートを控えた彼にひかせるわけにはいかない。指先だけを繋いできた彼の手を包み直して、「お待たせしました」と駅方面に向かって二人で歩き出した。長身のその人を見上げたら、ピアノの音色より優しく甘い目で私を見てくれていた――照れる。夜だし外だから赤くなったところでそうそうばれたりはしないと思うけど、照れ隠しに話題を振ってみた。
「明日、楽しみですね」
「うん、君が聴いてくれると思うとそれが一番の楽しみだ」
ぎゃー。あまあま方面から逸らしたつもりだったのに、返り討ちに遭いました。でも負けないぞ。
「演奏する曲も、楽しみです」
ちょっと怯んだ声を、音楽家のこの人が聞き逃す訳もない。なのに、多分見逃してくれた。何も云わずに、ただ繋いだ手をきゅってしてくれただけ。――そういう『武士の情け』的に優しいとこ、けっこう好きだったり。
クラシックはチケットもぎりのお仕事がてらしか触れたことがない。でも、ちょびっとだけど好きな曲だって何曲かはある。特に、グリッサンドのある曲がお気に入りだ。それを以前彼に話したら、明日の演奏会でも『好きだ』と伝えた曲を披露されることになってて、刷り上がってきたプログラムを読んで慌てたのは一週間前。
「そんな風に曲を決めるの、やっぱりどうかと思いますけど!」
二人で駅前まで歩いて入ったカフェで無駄なのは分かりつつまた私が抗議しても、茶色いふわふわの前髪の彼は笑うばかりだ。
「これは僕が企画した内輪の演奏会だから、好きにする。大事な人に向けて、楽しく弾く為にね」
それを云われると何も云えなくなる。演奏するのが辛くて自分の前にたまたま逃げてきた彼の憔悴しきった姿を知っているから。今、自信を取り戻して弾いている彼に、その時の影は見当たらない。ひょこんとあまり上手じゃないお辞儀をするのは長年の悪癖みたいで、これは自信を取り戻していても直ってはいない。クリスマス前々日のコンサートの後には恩師のおばあちゃん先生に『あなたには大事な事を教えそびれてしまったわ』と呆れられていたほどだ。
「――僕も好きなんだ、グリッサンド」
云いながら、テーブルの上の手は滑らかに幻のピアノでその音を生み出す。ピアノの右の方、高い音域を駆け上るようにしゃららららん、と奏でる音はまるで。
「魔法、みたいでしょう?」
そう云ってじっと目を見るこの人は、心が読めるのかと一瞬思ってしまった。
「僕に魔法を掛けてくれたのは君だよ」
そう云われて、初めて会った日、彼に掛けたいんちき魔法を思い出す。――あんなものが?
「あれで、僕はまたピアノとちゃんと向き合えた。だからそのお礼に、僕は君に魔法をきかせてあげる。何度でもね」
そんな風に云われたら、顔を上げることなんかできない。ひたすら俯いて、ココアを飲んでた。でもやっぱり、彼は『武士の情け』で黙っていてくれた。
お店を出る頃になって、ようやく蚊の鳴くような声で「アリガト」って、云った。
彼は、「何が?」とか云わないで「どういたしまして」って笑った。
彼の演奏を、まだほんの何回かしか聴いていないけれど、男の人だなあっていう力強さも、反対に泣きたくなる程優しい、雨音みたいな音も、両方好きだなと思った。でもそれは音に関してだけの話だし熱烈な気持ちじゃなくて、どっちかっていうとじんわり好き、って感じだ。
全然、恋愛感情なんてないと思ったし、そんな風にならないと思ってた。なのに今こうして傍にいる不思議。
クリスマス前々日、ロビーで遭遇したあのへなちょこな男性が、ぐいぐいアプローチして来るなんて想定外だった。翌日のイブ、お仕事で行ったホール。舞台上に彼の姿を見てひたすらびっくりしているうちにコンサートは終わって、終演後、連れて行かれた楽屋で冷静になってガードを張り巡らしちゃう前に、デートの約束も連絡先の交換も済んでしまっていた。
それなのにやっぱり会えばへなちょこのまんまで、指定された待ち合わせ場所に現れてみれば泣きそうな顔して『……本当に来てくれるなんて』と感激されて、それでちょっとほだされていたら勝手に手を繋がれた。
強気なの弱気なの何なの。押してるの引いてるのどっちなの。
ヨーロッパに長く滞在していた大人の男子と、恋愛経験なんて高校どまりの私とじゃ、恋愛経験も異性の取り扱いもレイヤーが違いすぎる。
戸惑う。逃げたくなる。縋られる。振りほどけない。
見つめられる。見つめ返す。目を逸らされる。追いたくなる。
気持ちと目線のやり取りが、シーソーのよう。駆け引きなんて理解出来ないから、するのならまっすぐにアプローチして欲しい。そう表明したら『……それでいいの?』と意味ありげに念を押された。『いいですよ?』と返せば、『じゃあもう手加減なしね』と云って、翌日家にバラの花束を配達され、それを受け取った母にも彼の存在を知られるところとなった。電話も、携帯に掛けてくればいいものをわざわざ家の電話に掛けてきて、私に取り次ぐはずの母――花束攻撃で乙女回線をやられてしまったらしい――とすっかり意気投合して。
デートも、どこかで待ち合わせではなく家まで迎えに来られてしまった。
玄関先で、やっぱり母とじゃれ合っている間に『どうぞ』と小さな花束を渡して母を感激させて、そのまま空になった手の中に、すんなりと私の手を入れて。
『お嬢さんをお借りしますね』
にこやかに宣言されて、ちょっと待った繋ぐ前に私の意志を聞くとか云う配慮は、と慌てていたら、両手にそのブーケを持ったままの母に『いってらっしゃい』と笑顔で送り出された。がくりと項垂れ、なされるがままに車までエスコートされると、『――手加減しないって云うのはこう云うことだよ』と、私に遅れて車に乗り込んだ彼にシートベルトを装着されながら初めてキスを受けた。
『これでも一応年上だから、どこまでならいいか、とか検討を付けながらアプローチしようと思っていたのに』
まるで私が悪いと言いたげな口調。
『嫌なら嫌って云って。嫌いなら嫌いと。でも、云われなかったら俺はそこに付け込むからね』
恋愛感情がそこまで育っていないことを見透かされて、それを理由に『ごめんなさい』をすることは出来ないと暗に示されて、嫌と云わない限りはこの関係は続くと、そう教えられた。
『……嫌ではないです、けど』
『けど?』
さっき強気だったくせに、声が少し震えてる。やっぱりへなちょこは健在か。そう気付いたら、くすりと笑えた。
『サプライズはあんまり連発しないでください。びっくりしすぎて心臓に悪い』
そう申告したら、運転している横顔が安心したように笑ったから胸がどきんて高鳴った。
へなちょこなくせに時々強気なその人への気持ちが、恋になるのに時間はそうかからなかった。
それまでコンサートではチケットを戴いていたのだけれど、『手加減なし宣言』の後からはチケットなしの顔パスになった。『スタッフに話しておいたから』と云われたとおり、受付で名前を告げるとそれだけで楽屋まで行けた。舞台裏も楽屋も、彼の周りにはいつも人がいたにもかかわらず、繋がれた手を離されることはなかったし、私から離すことも、もうない。
「そう云えばここ、何かいるってねえ」
背が高くて燕尾服が似合う恋人は、今日はボーダーのカットソーにトレーナーにジーンズのカジュアルスタイル。今日のコンサートは内輪だから、いいんだって。
今日は冷え込むってねえ、みたいにさらりと云われてぎょっとした。
「え、いるって、その、ネズミとか?」
「ううん、幽れ」
「ヤダー! やめてそういうの!」
「でも悪さはしないから」
「わーわーわーキコエナイ!!」
両耳を塞いでた私を、彼はそっとハグして宥めてくれた。
「大丈夫だよ」
ぽん、ぽん、ぽんと頭と肩と背中で掌を弾ませて、かがんで目を合わせられたら笑われた。
「涙目になってる、かわいい」
「だって、急にそんな怖いこと聞かされたらっ!」
「無敵の君にも怖いものがあったんだね」
「ありますよそりゃあ!」
足の生えていない物は軒並み苦手だ。幽霊然り、ミミズ然り。
「でも、ほんとに大丈夫だよ。ここねえ、音楽家の間では有名なんだよ」
震える私を優しく腕に入れたまま、扉の向こうにお客さんが入場しているのを聞きながら、彼が静かに教えてくれた。
ここでは不思議なことが起きる時がある。いじっていないのに天井のシャンデリアがちかちか点滅したり、鍵を掛けていないのにピアノの蓋がどうしても開かなかったり。
「でもね、それはどうやらマナーのなってない人とか、ピアノの扱いがぞんざいだったりする人がそう云う目に合うみたい。だから、僕も君も大丈夫。ね?」
にこっと笑って、頬を撫でてくれた。――確かに。
私はそもそも演奏しないし、ここを傷つけたり落書きしたりなんてことはもちろんしてない。彼だって演奏が終われば名残惜しそうに蓋を撫でる位、ピアノが好きな人だから。――うん、大丈夫。
ようやく、体の強張りが解けた。腕の中から見上げて「ありがとうございます」とお礼を云えば、「どういたしまして」と云う言葉でゆっくりと解放された。
「ごめんなさい、もうすぐ本番なのに、こんな」
「それ云ったらこのタイミングで話を振った僕も悪いし、気にしないで」
「でも」
少しは力になりたいのに、ちっともだ。若干落ち込んでいたら。
「――じゃあ一つだけ、お願いしようかな」
その言葉に何を? と思いつつ、役に立てるなら嬉しくて、しっかり聞くつもりになった。
彼は私の手を引いて、扉を開ける。え、ちょっとそっちって。抗議したくても、扉の前に置かれたパーテーションの向こうには、内輪とは云えもうお客さんが来ているからぎゃあぎゃあとは騒げない。何をしたらいいのと目で聞いてみた。彼の口が開く。ほとんど息だけで囁いたのは。
お願い、魔法を掛けて。
年上なのに。そんな、子犬のような目をして乞われたら、エエ―って思って若干引いても、やらないと悪いみたいな気になるじゃん。
困った人だ。これよりうんと規模の大きいコンサート前日にリハばっくれと云う輝かしい前科を持つ人でもある。
恥ずかしいけど――しょうがない。女は度胸。
あの時みたいに、テキトー呪文のいんちき魔法を掛けた。ただし、パーテーションの向こうを考慮して、こそこそ話の音量で。
楽しく、楽しく、楽しくなーあれ。
ちらりと上目で様子を伺うとまだ何か足りないらしい。そして、『君から、キスして』と唇が動いて、子犬の目がまた縋る。――だあああっ!
コンサートだから。ここで要請を断って演奏がしょんぼりだとお客様にもスタッフさんにも悪いから。それよりなにより、楽しくのびのび弾いて欲しいから。私のおまじないでそう出来るんだったら、私も嬉しいから。
そうするための理由をたくさん盛り付けて、そして『女は度胸』の第二弾を発動させた。
パーテーションの影で、背伸びしてほっぺにキスをした。なんで唇じゃないのと小声で抗議されて、これが精いっぱいですよ! と小声返し。
ま、いいや、じゃあご褒美は後でねと、魔法のせいなのか堂々とした彼が囁きながら素早く私のほっぺにキスをし返して、パーテーションの向こうに消えていく。
わあっと起きた拍手に紛れて、私もそこからこっそり出て一番後ろの席に着いた。ちらりと見やれば、ピアノに向かう恋人は楽しげに微笑を湛えている。
そして始まったグリッサンド満載のその曲を、苦笑しながら楽しんで聴いた。
そうして始まったグリッサンド満載のその曲を、二人してシャンデリアの上に並んで座り、聴いた。生前では考えられない事だ。隣に居る彼女が、周囲の人間には聞こえる筈も無いのに声を潜めて話しかけてくる。
「あの音楽家の恋人を、すっかり怖がらせてしまったな」
「気の毒な事をしてしまいましたね。あの方は何も悪くないと云うのに」
過去に何度か、霊的現象と云われる行為をした事は認める。俺も、彼女も。
「折角お前が此処を大事にして呉れていたと云うのに、後年使う人間の中に不遜な奴がいたから灸を据えたのだが、其れにしてもまさか噂になっていたとはな」
「お嬢様のピアノを乱暴に扱う人間に、俺が一寸した嫌がらせをした事も、噂に拍車を掛けてしまいましたね」
「まあ、いいさ。嘘では無いし、こうして中々好い演奏をする音楽家に使ってもらえた事だし……それより、早乙女」
「何んでしょう」
「好い加減、『お嬢様』は止せ」
そう苦笑する顔に、かつての白蝋の如き色も、削げた頬も見当たりはしない。死んでいるのに顔色が好いと云うのも可笑しな話だと思うが、彼女が生き生きとした姿である事は嬉しかった。浮かれている自分も、彼女に釣り合う様にと願った所為か若い時分の姿だ。だからと云って、平成の世を生きる若者の様に、砕けた話し方が出来る訳も無い。自分は平成に入ってから死んだ筈だが、気付けば物の考え方も話し方も姿と同時にあの頃に戻ったようだ。
彼女の命令は絶対だ。だが、此れは一体如何したら好いものやら途方に暮れる。
「……そう仰いましても」
「私もお前も、幽体になって久しい。今はもう、二一世紀なのだぞ? 身分制度は存在せず、男女は自由に恋愛して好いのだから」
指先が、自分の指先に触れる。
「名前で、呼んでは呉れないのか」
「……明治生まれにそう云った向きを求めないで下さい」
「殆ど大正生まれの様なものだろうが」
「ご勘弁下さいませ」
「ならぬ」
「……」
沈黙の帳が下りる。俺も引かないが、彼女も引かない様子が見て取れた。お嬢様のくせに、頑固者なのだ。そんな所も、俺は――。
その時、音楽家の指から一際美しいグリッサンドが紡がれた。その魔法の様な音色に乗せられて、漸く口に出すと。
「はい」
初めて名で呼んだその人が、羞ずかしげに頬を紅く染めて、鈴を転がす様な声で返事を呉れた。
「何んでも」「現われる」等々、誤字ではありません。一応。
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