未来の方から来ました
謎の少年×教師
オリオン座、位しか知らないな、星座。オリオンに敬意を表して、オリオンビール飲めばよかったかな。
三月頭の夜の公園のジャングルジムに上ってぼーっと空を見ている。そんな馬鹿な真似をしているのは酔っぱらっているから、だけじゃない。
付き合いの長さは思いの強さと比例するとは限らないって知ってる。でも、長く付き合えばそこに情が生まれたりするもんじゃないのか。――燃える様な思いはとうになくて、ほぼ情だけだった自分が云う事でもないけど。
二年付き合ってた彼氏と今日別れた。正確にはお別れを申し入れられた。
気持ちがよそに行っちゃったかどうかは聞かなかったから分からないけど、私へのそれが失せた事実だけはかろうじて理解した。そこからの愛の再構築はないなと、諦めと共にその提案を受け入れざるを得なかった程度には、一度云ったら決して引かないその人のパーソナリティを熟知していた。
彼の前で瞬間凍結した心は、文字通り別れて、スーパーでビールを買い込んで――コンビニじゃなく行きつけのスーパーでって云うのが所帯臭くて嫌だったのかな――この公園で飲んでいる間にゆっくりゆっくり解凍した。解凍する時に魚や肉から出るドリップみたいに、傷口からぷっくりと盛り上がる血みたいに、じわじわと涙が止まらない。
情だけだってさ、急に切られたら痛いんだよ。自分に粗を探したくなるんだよ。
ホワイトデー前かつ私の誕生日前って云うのが、また。私にはもう投資する価値はないと云われたみたいだ。特別に価値がある人間だなんて自惚れてはいないけど、彼にとってたった一人の特別なのだと云う気持ちはいつも私に喜びをもたらしてくれていたのに。
こんなに寒いと公園にたむろする悪い少年達もいなくて、思う存分公園にいられる。寒い上にビールなんか飲んでるからしょっちゅうトイレに行くけど。
家で泣くなんてまっぴらだ。悲しい記憶は外に置いて帰るんだから。私は、強いんだから。――そう云う所がかわいげないと思われたんだろうな。
そろそろ首の後ろとひざ裏に当たる鉄の棒が痛い。ジャングルジム冷たいし。
帰らなくっちゃと思う。
帰りたくないと、思う。
帰ったら、元が付いてしまった彼氏が置き去りにしていった物達をゴミ袋に入れないと。まったく立つ鳥跡を濁しまくりだ。だからといってひっそりと私物を引き上げられていてもきっとそれはそれで傷付いただろうなと思う。――帰りたくない。
帰ったら、お別れしたんだって現実を受け入れなくちゃいけない。登録してある番号もメールアドレスも画像も消して。そんなの、全部代行してくれる会社があればいいのになあ。それか、恋の記憶だけうまい事消してくれる装置とか誰か開発してくれたら、ノーベル賞ものなのに。
バカみたいな事ばっかり考えて、バカみたいにいくつも缶ビールを飲んで、バカみたいに泣いた。
でも明日も仕事だし、結構酔ってるしもうこれ以上飲んだら駄目だ。てか、また買ってこないともう酒がない。
帰らなきゃ。――でも。
思考が完全にループしている。
ヤバいな、と思っていたら突然正面から声を掛けられた。
「お姉さん、こんな所で寝てると凍死しちゃうよ?」
凸の字の形のジャングルジムの、てっぺん部分に寄り掛かっていた体をビクッ! と起こせば、貸切だったそれに手を掛けて、一段だけ昇った男の子と目が合った。
「こんばんは」
綺麗なその子の口から挨拶が出たので、反射で「こんばんは」って返した。
真っ赤なニットカーディガンは、胸元に白い雪の結晶の模様入り。
職業柄一六~一八歳の少年は見慣れている筈なのに、それにしたってこの子はなんて綺麗なんだろうと見惚れて、頭小さいなーとか形いいなーとか感心した。指なんかあれ、私より細くて長そうだ。唇、私より艶々。
もしかして、私を天国に連れて行く為にやってきた天使だったりして。別に死ぬつもりでここでこうしてた訳じゃないけど。――にしても、
「最近の天使って足長いのねぇ」
背は私と同じ位の様だけど、足がすらりと長くて少女漫画に出てくる男の子みたいなボディバランスだ。ほっそりしているけど、結構鍛えてそう。運動部所属と見た。
感心した気持ちを素直に吐露したら、ふむ? と子犬がするみたいに小首を傾げる。
「やだ、かわいいー」
手を伸ばしても届かなかったから近付いていって、鉄の棒越しに頭を撫でた。想像通り、少し茶色い髪の毛はとっても柔らかかった。
「お姉さん、だいぶご機嫌モード?」
「うん! だってさあ、凍死するにしても、こうしてかわいかっこいいすっごい好みの顔した天使をお迎えに寄越してくれるって、最近の天国ってサービス充実してるんだね! 感動した! よし、じゃあ行こうか天国!」
何代も前の、ライオンヘアーがトレードマークだった首相の名台詞を云ってしまうよ。
「ちょお、待って待ってなんか誤解があるよー」
天使(仮)はあわあわとして、私がよいこらしょっと掛け声をかけながら一段ずつ降りるのを見守ってくれた。降り切って地面に両足が付くと、天使(仮)は自分も下に降りてそのまま長い脚をぎゅっと折りたたむみたいにしゃがみこんで、は―――っと息を吐いた。
「ジャングルジムがこんなに心臓に悪いアトラクションだとは思わなかった……」
「おや、天使(仮)なのに何とひ弱な」
「だから俺天使じゃないしー」
膝を抱えている腕から上目に覗く目がキラキラしてる。
「じゃあ何? 悪魔?」
「ねえその発想もうやめようか……れいこさん」
「!」
「何でって顔してる」
あは、って笑うけど、当たり前でしょう? だって天使でも悪魔でもない、知らない男の子が私の下の名前知ってたら何でって思うじゃないか。
「さっきはジャングルジムの上だったから、無駄に脅かして落っこっちゃったら大変と思って黙ってたんだよね」
いや、聞きたいのはそこではない。
「ああ、あと俺ストーカーでもないから安心して?」
「出来るかぁ! 天使でも悪魔でもストーカーでもないなら何なの!」
謎の少年になってしまった彼はンーと考える素振りで、女の子みたいにピンと伸ばした人差し指を顎に当てている。無駄にかわいいっつうの。
「信じてもらえるかなぁー……」
「そんなの聞いてみなくちゃ分からないでしょ」
聞いて信じるかも分からないけど。てか多分信じないけど。謎の少年はダヨネーと云いつつ、「とりあえず、怪しい者ではありません」と申告した。
「そりゃあ、怪しい人が自分で怪しいですって云う訳ないじゃん」
某コメディアン演じる所の変なおじさんならいざ知らず。
「成程、さすがに学校の先生は冷静だね」
「!!」
――やだ何、怖いこの子。
じり、と下がった私に「後ろ、砂場の段差あるから危ないよ」と優しく囁く謎の少年は、私が転ばないようにか手首を掴んできた。ぎゅうぎゅう掴んでない癖に、振り切ろうとしてもびくともしないのがまた怖い。
「ちょっとやめてよ……」
普段の私なら、教頭先生にだって悪い子供にだってもっと毅然と立ち向かえるのに、出てきた声は小さく、しかも震えていた。
「……あーごめん、怖がらせちゃったね」
掴んだ手首をそっと離して、ポンポンと頭に優しく触れた。困った笑顔で、私を見る。
「泣かないで」
云われて初めて泣いていた事に気付いた。多分、お酒入ってるしさっきまでずっと泣いていたしで、涙腺がいつもよりかなり緩んでいるんだろう。
「君に泣かれるの、俺すっごく困るよ」
見るからに年下のくせに生意気に『君』なんて云う。
「何で困るの? 面倒くさそうだから?」
「その発想はよく分かんないけどさ……」
彼はそこでちょっと言葉を切った。漏れる息が白く生まれて、すぐに消える。
「俺が君の未来の恋人だから」
「はは」
即座に乾いた笑いが出てしまった。少年は憮然とした顔を隠さない。そして尖らせたその唇はつついてしまいたいほど可愛らしい。
「そりゃ無理だわ、信じられないっていくら何でも」
天使って云われる方がまだ信じられる。
「うん、まあ、信じろって云ってもなかなか難しいとは思うけどさあ、そんな風に笑う事ないじゃん……」
「ごめんごめん。でも笑えるポイントが二つもあって、笑うなって云うのは難しいと思うよ」
未来? 恋人? 何それ。
「怪しい少年は未来人、ねえ」
「未来の方から来ました、が正しいかな」
「はは、それはますます怪しいや」
『市役所“の方”から来ました』は詐欺の常套句じゃないか。
こら、と咎められる。
「そうやって笑うの、駄目だよ」
「どうして」
「心が笑っていないのに、笑わないで。見ていると辛いよ」
「だから、どうして」
「……俺が君の未来の恋人、だから」
ははってまた笑いかけたけど、切なげなその顔に何とか堪えた。人の事云えないけど酒か何かでぶっ飛んでんじゃないの、この子。
「まずはさあ、ここすっごい寒いからどっかあったかいとこ行こうよ」
「どっかってどこよ、行かないからね私」
悪い人は人を唆す時『いい所に行こう』、悪い男は女を唆す時『どこか行こう』って云うもんだ。はいコレ、テストに出るからねー! と、仕事中にテスト範囲を書いた黒板を叩く自分の姿が想像出来た。
「変な所が頭でっかちだなあ、れいこさんは」
少年は苦笑しながら私をじっと見て云った。
「れいこさんを襲う様な真似はしないよ」
数時間前に嫌な形に鷲掴みされて痛んだ心臓が、懐かしい鼓動を刻む。――いやいや、ないない。今のは気のせい。私は緩く頭を横に振る。
「……信じない?」
謎の少年は悲しげな顔になる。
「あ、違うのごめん」
別れたばかりでときめくとかありえん、と、その錯覚した気持ちをとっ払おうと思って頭を横に振ったのだけど、それで否定されたと思われたらしい。
「じゃあ信じるんだ!」
ぱっとチャンネルを切り替えるみたいに、今度は弾ける笑顔。
「そうは云ってないけど……何その二択」
「んー、だって早くあなたをファミレスか飲み屋か連れて行きたいんだよ俺。お酒飲んでたくせにぶるぶる震えてるの自分でわかるでしょ? 凍死しなくても風邪引いちゃうよ」
「ほっといてよ」
「ほっとけないわよ」
「……何で、女言葉?」
「や、何となく」
冷えた心に、小さく小さく火が燈る。
「おかしな子」
「それでも、れいこさんの未来の恋人ですから」
「だからそれ怪しいって」
「怪しくっても信じなくっても、いいよ別に。……あなたが、元気なら俺はそれが一番幸せなんだ」
じっと見つめてくる目。キリンとかラクダとかみたいにばっさばさな睫毛。羨ましいぞ。マッチ棒何本か乗るんじゃないかなあれ。
「本当は未来の事を話すと時空警察に捕まっちゃうんだけど、いっこだけ教えてあげるね」
子供の秘密話みたいに、顔を近付けて小声で話された。なになに? 儲け話希望!
「君が笑顔を取り戻すと、すぐに恋する男が現れるよ」
「……何だ、そんなのか」
「何だって何! せっかく打ち明けたのに!」
「だって、恋なんて」
失ったばかりでまだ痛い胸。楽しい事だってたくさんあったのに、告げられた別れの言葉ばかりが蘇ってきて、辛い。
「恋なんて、何?」
「……当分、うんざり」
「それでもいいよ」
「いいの?」
思いもよらない返答にびっくりした。普通、こういう場面は『俺が前の男を忘れさせてやる』と云わんばかりに強めに来られるんじゃないの、ドラマなんかだと。でもドラマじゃないからか、その子はうん、と頭を縦に振る。
「だって、そうして閉じてる間は他の男を見ないからね」
「君の事も見ない訳だけど」
矛盾点につっこむと、「冷静!」って笑われた。
「俺はいいんだよお、なんてったって俺は君の、」
「『未来の恋人だから』?」
いい加減読めてきた。
「お、理解していただけて?」
「してない!」
「ざんねーん」
少年は、私をここから引き離すのは無駄だと分かったのか、自販機のコーナーで何かを迷わず二つ買ってきて、小走りで戻ってきた。
「コーヒーと紅茶、どっち? ってきかれたら、れいこさんは紅茶、でしょ?」
「……」
「ストーカーじゃないからね?」と念を押された。
「どうぞ、手に持ってカイロ代わりにするもよし、飲んで暖を取るもよし」
云いながら、カシッと音を立てて缶コーヒーのプルタブを押し上げる少年。
「れいこさんのも、飲む時開けるから云ってね」
「お気遣い無用。自分で開けられるから。――戴きます」
ミルクティーは暖かくて優しい味だった。甘さがじんわりと体の隅々にまで染み渡る様だ。
二人で、ベンチに並んで座ってた。私は普通に、少年は椅子の上に足を乗っけて体育座りして。お行儀悪いったら。
「俺はね、れいこさん」
白い息を漏らしながら、謎の少年は前を向いて話し始めた。
「恋って素敵だと思うよ。自分以外の誰かを思って、その人を思うと苦しいけどときめいてさ、何だってやれそうな力がどんどん湧いてきて」
そんな事もあったな、とぼんやりと思う。
「……自分が好きな人が自分を好きでいてくれたら、なんて素晴らしいだろうって、ずっと思ってた。誰かにとってたった一人の特別でいる事は、いつも俺に喜びをくれるんだよ」
ドキッとした。
心の中を読まれたのかと思った。それと同時に、火にかけたお鍋の水が沸く時みたいにふつふつと笑いが込み上げてきた。だって。
「お、女の子みたい……少女漫画の読み過ぎっ」
堪えきれなくて声を出して笑った。今日、心からの笑顔になるのはこれが初めてだ。声を上げて笑うのなんか、いつぐらいぶりだろう?
するとそれを見て少年は、「うっ!」と両の手を胸に当てて、大げさによろめいた。
「ちょっと、大丈夫??」
慌ててその背中に手をやり覗き込むと、「だいじょぶだいじょぶ」と軽く手を振られ、にこやかにほほ笑まれる。
「……何、騙したの?」
眉を顰めると慌てて否定された。
「違うよ! 云ったろ、『君が笑顔を取り戻すと、すぐに恋する男が現れるよ』って。ね? 現れたでしょう?」
にこにこと、さも素晴らしい事をしたかの様に、誇らしげな少年。
その姿に、負けた、と思った。苦笑が漏れる。
「詐欺じゃないの」
「どこがだよー」
「未来の恋人なら、私に恋するのは当たり前じゃない」
はは、自分で口にするのは持ちネタとして云うにしても照れるもんだ。
少年はふわんと笑う。
「そうだね。俺は、いつどこで君に会ってもきっと恋した。だから、君もいつどこで俺に会っても恋に落ちる様に、万全の態勢でいてね」
「何それ、可笑しいって」
「いいから。約束だよ」
「約束?」
「……もう、帰らないと。タイムマシーンでここに居られるのは、残り僅かだから」
「……そうなの」
何を、ガッカリしているの。てか、何信じちゃってるの。バカじゃないの。
少年は、ジャングルジムの隣の砂場の向かい側にある、くるくる回る丸い形をした遊具まで駆けて行って振り向いた。
「ねえ、れいこさん、最後にこれ乗ろう? そしたられいこさんももう帰るんだ」
「……いいわよ私は、ほっといてくれれば」
「そしたら未来に連れて行くけどいい?」
その遊具に手を掛けながら、まっすぐ私を見つめる少年。
私はゆっくりと首を横に振った。
「その場合、未来に元々存在する私はどうなってしまうのか説明して」
「うわ! やっぱ冷静!」
途端に弾ける様に笑う。
「今、俺を好きになってと云っても無理なの知ってる」
「……そうだね」
結構、人としては嫌いじゃないと思うよ。夢見がちで、調子が良くて、ちょっと間抜けな自称未来の方から来た少年。
じゃり、と足元の小石交じりの地面を踏みながら一歩ずつ歩く。
「これで、もう少年とはここでは会えない?」
「……俺に会いたい?」
「恋愛感情抜きでよければ会いたいかも」
「悲しい大前提プラス『かも』! どんだけ報われないの俺!」
そう云いながらがははと笑う。そんな馬鹿笑いしなければモテそうなのにね。
遊具の内側に腰掛ける。両手で棒を掴んでから「ねえ少年」と声を掛けた。
「何? てか俺そもそも少年じゃないけどね」
ゆっくりと、動き出す遊具。
「少年、趣味が悪いって云われない?」
「それどういう意味?」
だんだん、加速して。
「だって私を恋人にするとか趣味悪い」
「そんな風に云う人は、一人もいないよっ!」
全速力で走って、遊具を回す少年。壊れた回転木馬の様に、景色がびゅんびゅん飛んでいく。
「これ久しぶり! 楽しい!」
少年はまだ遊具を掴んで走っている。
「ならよかったよ! ――今から俺は、君に魔法を掛けるからね」
「え?」
「れいこさんは、かわいい。俺の一番スペシャルな人だよ。だから、安心してこっちに歩いておいで。――未来で、待ってるから」
遊具の向こう側から、見つめてそんな事を云われて、見えないと思うけど顔が赤くなる。
慌てて目を背けた瞬間、突然スピードがぐんと上がった。
「ちょっと、やだ怖いって少年!」
そう云えばすぐにやめてくれる筈だと何故か分かっていた。そして、緩むスピード。
「ああ、びっくりしたー。ちょっと少年! 、……」
文句を云おうと見た先に、もうその姿はなかった。
誰かが動かしていないとすぐに勢いが落ちる遊具がみるみる減速して、止まる。
「少年……」
ベンチに、ビールの空き缶を入れたコンビニの袋を置いていたのにご丁寧に持ち去られている。飲みさしの紅茶の缶はそのままに。まだほんの少し熱を残すそれを両の手に持つ。
何よ。
人を散々からかっておいて、未来の恋人とかふざけた事云って、――悲しい気持ちを楽にさせてくれて。
なのに私、お礼も云わずにいた。名前すら教えてもらえなかった。何でよ。
――時空警察に怒られちゃうからね。
そういたずらっぽく話す少年の声が、柔らかく耳の中に響いた。
「……帰ろ」
飲みさしの缶を胸の前で抱えたまま、アパートへと歩き出した。
あんなに帰りたくないと思っていたのに、お酒だって抜けてしまってとても寒いのに、心の中は仄かに暖かだった。悲しい気持ちはまだ胸の内に確かにあって、でも涙では消えない火がたった一つ、ぽっと燈っている。
あれをいたずらだと云ってしまうには、私はロマンティスト過ぎた。要するに、ちょっと信じてしまった。ほんのちょっとだけ。きっと弱ってたせいだ。
あの自称『未来の恋人』の現れた夜から、早いものでもうひと月弱が経とうとしている。
月が替わると年度も変わって、今日から私は市内の別の高校へ赴任する。段ボールに詰めた荷物を軽自動車に乗せて、新しい学校へと向かった。顧問をしていた部の練習試合の引率で訪れた事があるので道は分かっている。
元恋人のあれこれは、予想以上に引きずらなかった。
私の部屋に残された、元が付いてしまった彼氏が置き去りにしていった物達の処分も、携帯に登録してある番号やメールアドレスや画像の消去も、思ったより胸が痛まず、ついでに掃除や物の処分ができて助かった。あれこれ捨てたら、すっきりした。
情はまだ熾火みたいに燻ってる。でも、それが大きな炎になる事はもうない。なるとしたらそれは、とあの少年の顔を思い出し、すぐにかき消した。
アパートから二〇分も車で走れば、次の赴任先の高校に着く。昨日までいた学校に比べると若干学力で引けを取るものの、マイペースでのんびりした子が多く、校内の雰囲気はいいと聞いた。
春休み中と云う事もあってグラウンドはともかく、高校の敷地の端っこにある教職員の駐車場付近に生徒の姿は見られない。野球部の掛け声を遠くに聞きつつ段ボールを抱え直していたら、「お手伝いしましょうか」と部室棟の影からひょっこりとあらわれた人に話掛けられた。――この声は。
思わず足を止めると、返事をしないまま段ボールを勝手に取られる。ノートや書類や教科書と云った、紙モノの詰まった段ボールは結構な重さがあるのだけど、造作なく横にひょいと抱える、私と背の高さが変わらない、その人。
「初めまして、体育を担当しています、松本健人です」
そう云う名前だったのか、元・自称未来の恋人少年。黒いジャージの上下で、首からはこの学校の教員であると示す顔写真入りの名札を下げているので、どうやら本当に教師らしい。でもやっぱり綺麗な少年にしか見えないけど、と思いながら私も同じ様に挨拶をした。
「有村玲子と申します。宜しくお願いします」
そう云って、段ボールを奪い返す。
「お気遣いありがとうございます。でも自分で運べますから」
つんと云い放ち歩き出せば、くつくつと笑う声が聞こえる。
「そう云うと思った。職員室まで案内しますよ」
再び、管理棟を目指して歩き出す。ジョギング中の運動部の子たちが次々に擦れ違っていく。そのたび、男子も女子も元少年に「あ、松ケンせんせー」だの「松っつんナンパ―?」だの気安く声を掛けている。やっぱり愛されるキャラクターらしい。その一人一人に「おう、ちゃんと走れよ」だの「うっせーよ!」だの返している。私の目指している教師像とは少し違うけれど、それでも共感の持てる対応だ。
綺麗な顔、華奢な体、少年みたいなのに実際の少年少女に見せる顔は教師のそれ。――ちょっとときめいただなんて、誰が云うもんか。
「れいこさん、元気にしてた?」
ひと月弱ぶりに、馴染んだ口調で話しかけられた。
「……お陰様で、まあ何とか」
不本意ながらそう告げると「そう、よかった」と本心からホッとしている事が伺える返事が来た。
「ずっと、心配だったから。よかった」
よかった、と繰り返されて、ちょっとむず痒い気持ちになる。
「それより何が未来の方から来た、よ。もしかして、私の事知ってたんじゃないの?」
自意識過剰か、と思いつつ問い詰めると元少年はあっさり吐いた。
「うん、前にれいこさんが部活の練習試合でここ来てた時に一目ぼれ。自販機で紅茶買ってたのも名前も、その時にチェック済み。ついでに今日の新聞でここに異動で来るって云うのもチェック済み」と色々タネを明かされた。
それにしても意外と敷地が広い。道が角に当たるたび、こっちね、とさし示されてもらって助かった。前に来た時には生徒と一緒に徒歩で来たので、駐車場から歩くのは初めてだ。一人だとちょっと迷っていたかもしれない。
「……なんで、あの公園に来たの」
やはりストーカーかと疑惑が再燃する。顔をじろりと見れば、違う違うと慌てる元少年。
「それはもう、ほんとにたまたま通りかかって。俺あの近くに住んでるから」
「……」
本当かしらとは云わないでいたけれど、沈黙は上手に私の心を伝えてくれたらしい。少し焦った様子の元少年が弁明した。
「ほんとにストーカーじゃないからね? れいこさんちだって知らないし。ただ、こんな寒いのに何してんのかなって思ったのと、未成年の子だったら注意しないと、って見たられいこさんだったから、チャーンス! って突撃したんだ」
「それで、自称未来……」
その発想はどうかと思う。
「まあ、無い知恵を絞って物語を拵えた点は評価してくれないかな? 筋肉脳なんだから、俺」
「……リアリティに欠ける。細部が甘い」
「うーん、冷静。さすが!」
あは、って笑う顔は、やっぱりかわいい。
「会いたかったよ、れいこさん」
「よく云うわよ、人をひと月も放っておいて、しかも『未来の恋人』だなんて嘘ついて」
「嘘にするつもりはないってば」
「……どういう、意味?」
「さあ? 体育教師の俺なんかより、国語のセンセイのれいこさんの方がわかってるんじゃないの?」
その鮮やかな返しに言葉を詰まらせると、思いのほか優しい顔で見つめられた。
「やっぱりねえ、傷付いてる女の人にあの場で気持ち押し付ける程バカじゃないよ、いくら筋肉脳だって。そっちの高校の知り合いの先生にれいこさん情報流してもらってたから焦ることもないし、ゆっくり近付くつもりだった。異動がなければ、そろそろこっちから動こうかと思ってたとこだよ」
「ちょっとまって聞き捨てならないんだけど、その情報提供者って誰」
「それはその人の安全上云えないなー」
その後いくら聞いても笑ってはぐらかされた。かわいい見てくれに反して、意外と頑固だ。
ようやく職員玄関に到着すると、先回りした元少年がドアを開けてくれたり閉めてくれたり、来客者用スリッパを並べてくれたり私の靴を下駄箱にしまったりと甲斐甲斐しい事この上ない。その濃やかさ女の子みたい、と感心しながら思いついた事を聞いてみた。
「ねえ、文化祭で女装コンテストに出たりする?」
「票が集中するから出るなって、実行委員から釘刺された」
予想を斜めに上回る珍回答。エントリーを要請されるかも、位に思っていたのに。思わず笑ってしまう。
「れいこさん、そこ左ね」
「こら! 学校でそう呼ばない!」
ちょっと笑ったからって、そんな嬉しそうな顔して調子に乗るな。即座に笑顔を引っ込めて、まだうそ寒い階段を昇る。
「――じゃあ、プライベートならオッケー?」
にこりと笑って、また卑怯な二択。その手にはもう乗らないって。
「ノーコメントで」
「あ、ずるいよソレ!」
「ずるくて結構。――あの時、結局どうしたの」
そんな曖昧な聞き方でも、元少年はちゃんと分かってくれた。
「全速力した後、ベンチの後ろの茂みに潜んでた。れいこさんがあのまま寝てしまったり、危ない目に合ったりしないように」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
――本当は、再会出来てすごく嬉しかった。次にもし会えたら、こんなに元気になったのは少年の言葉のおかげだって伝えたかった。
怪しくても嘘臭くても、未来の方へ手を引いて、背中を押してくれたのは。
『れいこさんは、かわいい。俺の一番スペシャルな人だよ。だから、安心して歩いておいで。――未来で、待ってる』というあの言葉で、魔法を確かに掛けてくれたから。
こんな自分でも、いつかまた恋が出来る。未来にはモノズキな恋人も待っているらしい。
そう思うだけで頑張れた。でも、やっぱりまだ素直にはなれないみたいだ。
いつか云えたらいい。そしたら、またふわんと笑ってくれるだろう。
そんな事考えて歩いていたら職員室を通り過ぎた。
「先生戻って、扉はココだから」
苦笑する元少年――松本先生が、引き戸の前で私を待っている。
彼が恋人になるかなんて、ここですぐに決められる訳ないし、赴任したばかりだし今は無理。でもいつか、もしかしてもしかしたら、そうならない事もない、か?――たった一晩の邂逅と、約ひと月の熟成期間で随分とほだされたもんだ。苦笑しながら、ゆっくりと一歩ずつ、彼の待っている方へと歩き出した。
その後のふたり
「松本先生って、おいくつですか」
「今年二六になります。有村先生と同い年ですよ」
何だその若さこっちに寄越せムカつく。
*
「……松本先生、そんなに食べるんですか」
「食べてもなかなか太れなくて。やんなっちゃいます」
何だそれケンカ売ってんのかコラ。
*
「松本先せ、」
「もうプライベートだよ、れいこさん」
「……」
下の名前を呟いたら、ふわんと笑ってくれた。
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