第一章 邂逅の時
深い深い空に適度に雲が散らばって、無骨な絵描きが油絵を描き殴ったかのような面白みのない情景がそこにはある。
それを背景に、このアルスフェルトの町並みを見るのがベアトリーチェは好きだった。
自分が所属する神殿は、郊外の高台にある。〝奉仕〟の合間に、町や周囲の森を眺めることが何よりの息抜きだった。
今は神殿長に頼まれて、町へ買い出しに出かけるところだ。
なかなか昼間に町中へ行くことがないから、ついでに友人たちにも会っていこうかとも思う。
――ちょっとくらいの寄り道ならいいでしょ。
厳格なことで知られるレラーティア教ではあるが、そういったことが許されるほどには、ここの神殿ものんびりとした雰囲気を|湛(たた)えていた。
アルスフェルトの土地柄がそうさせるのだろうか。この地域を治めるカセル侯のすばらしい手腕によって、ありがたいことに何もかもが今は潤っていた。
あちらこちらでは同教の腐敗や内部抗争が噂されているが、ここの神殿はそういったものとはまったくの無縁だった。
あの神殿は捨て子だった自分を拾って育ててくれた、いわば我が家のようなものだ。
常に神殿長が母であり、神官たちが姉妹であり、皆が家族だった。
自分の故郷でもある神殿にいる人たちが全員好人物だなんて、自分はなんという幸運なのだろう。みずからの知るかぎり、これほどまでにあたたかで、これほどまでに徳の高い神殿は他にない。
拾われたのはまだ物心つく前だったらしく、自分には幼い頃の記憶がない。しかし、それを気に病む必要がないくらい、今の暮らしはこころの底から充実感を得られるものだった。
ひとり悦に入りながら栗色の髪を風になびかせて坂を下っていくと、やがて|市壁(しへき)の門が見えてきた。
その市壁の周囲には、|空堀(からぼり)ではあるがは大きく深い溝が掘られている。門に使われている巨大な板は、そのまま橋として平時は使われていた。
門番に笑顔であいさつをしながら城門をくぐり抜けた。
本当は、誰であろうと外から中へ入る者は通行証を示さなければならないのだが、互いに顔見知りの場合は自由に行き来することができる。
心踊る気分に合わせるかのように、胸の青いペンダントが弾んで揺れる。それは〝ベアトリーチェ〟という南方系の自身の名を除けば、肉親を捜す唯一の手がかりらしい。
だが、そんなことよりも本当の母と慕う神殿長から渡されたものだという事実のほうが、自分にとっては遥かに大切なことだった。
「賑やかね」
思わずつぶやいてしまうほど、町の中は活気に満ちあふれている。
道の両側に、ほとんど隣同士の隙間がないくらいにぎっしりと露店が並び、みんな何が目的なのか、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと|忙(せわ)しない。
どうやら、今日は|市(いち)が立っているようだ。
神殿長が急に買い出しへ行ってこいと言い出したの理由がようやくわかった。こうした定期的に開かれる市では地元の特産物が出るだけでなく、各地の行商人もやってきて、普段は見ることのできない物産をいろいろと手に入れることができる。
「どれにしようかしら」
「今日は、はるばる南方のトゥルリア王国から運んできたオリーブ油がありますよ」
何から買おうかと迷っていると、行商人らしい男に知らず知らずのうちに捕まっていた。
しまった、とこころの中で舌打ちする。なぜなら――
「このオリーブ油はねぇ、簡単には手に入りませんよ。何せ、地元トゥルリアでも一部の人しか味わえないくらい数が少ないんですから。ちょうど知り合いがそのオリーブ畑で働いているんで、私は特別にいくつか譲ってもらったんですけどね」
「あら、そうなの。じゃあ、頂こうかしら」
押しに弱い。
呆れるくらいに弱い。特に『めったに手に入らない』だとか『これだけしかもうない』などと言われると、なかば反射的に買ってしまう。これではいけないと思いつつも、こころのどこかで『まあ、いいかな』とも思う。悲しい性であった。
ただし、たいてい後悔することになる。
「これ……」
少し歩いてからはたと気がつくと、瓶のラベルにトゥルリアの文字が見当たらない。それどころか、ガッセンと書かれている。南の国どころか、すぐ西にある地域の名前だ。だいたい、自分は南方の言葉なんて知らない。ラベルの文章が読める時点でおかしかった。
「やられた……」
すぐに振り返るが、行商人の男の姿はもうなかった。
これで何度目だろうか。懲りない性格のために、またいつか同じ失敗をくり返してしまう気がする。それが自分でわかっていてもなかなか直せないところに最大の問題があった。
「ベアトリーチェ、どうしたの?」
「ああ、カトリーネ」
気を取り直して買い物をつづけていると、横から聞き慣れた声が飛んできた。
親友のカトリーネだ。真昼の陽光を浴びて、少し赤みがかった黄金の髪がまばゆく輝いていた。
「また余計なもの買わされたんじゃないでしょうね」
「ま、まさか。いくら私でも学習能力はあります」
いつも妙に鋭い。しかし、屈託のない開けっぴろげな性格をしているせいか、彼女の言葉には険がなかった。富豪の娘だとは思えないほど親しみやすい人柄だ。
「まあ、いいけど。ところで、あとでうちに来ない? おもしろい食べ物が手に入ったんだけど」
「え、ええ……」
とはいえ、カトリーネの言う〝おもしろい食べ物〟はろくなものであった試しがない。内心を悟られてはならぬとみずからを戒めつつも、思わず顔が引きつってしまった。
そんなことでは、人の表情を読むのがうまい彼女をごかませるはずもなかった。
「あ、疑ってるな? 今度は大丈夫よ。私はもう食べてみたから。おいしかったよ」
「そうなんですか」
「だから、買い物が終わったら寄ってみて。ネリーも来るはずだから」
「ええ、わかりました」
もうひとりの親友ネリーが来るのなら、やっぱり変なものが出されたとしても断固として拒否できる――といったこころの中での計算はおくびにも出さず、カトリーネの言葉にはっきりとうなずいておいた。
彼女とはいったん別れ、その後も買い物をつづけて必要なものをどんどん買いだめしていく。
荷物が両手にいっぱいになった頃、ベアトリーチェがなんの気なしに周囲を見渡すと、町外れといってもいい場所に来ていた。
中央広場ではひしめき合っていた|出店(でみせ)も、この辺りの通りではまばらになっている。
その路地裏のほうにふと小さな影を見かけたのは、そろそろ神殿に戻ろうかと考えはじめていたときのことだった。
「え……?」
思わず声を出してしまったのは、その子供の背に何か大きなものが付いているように見えたからだった。
――あれは?
建物の陰になっていてよくわからなかったが、一瞬それは翼のようにも見えた。
まさか、あれが噂に聞く|翼人(よくじん)……
「ベアトリーチェ」
「は、はいっ!」
突然背後からかけられた声に、文字どおり飛び上がった。
「うん? どうしたの?」
「ネリー……」
真後ろにいたのは、先ほどの話に出てきたネリーだった。ぱっちりとした目を見開いて、不思議そうに首をかしげている。
「いえ、なんでもないんです。ところで、今日はどうしたんですか?」
「うん、それなんだけど」
ネリーは見目麗しく、穏やかな物腰の女性だ。同じ女から見ても、大きな魅力を感じるほどに。カトリーネとは反対に、少し年上の彼女のほうがお嬢様だというなら素直に納得できるくらいだった――カトリーネには失礼だが。
しかし、性格や外見とは裏腹に、彼女は苦労人でもあった。
病気がちな母親の世話をしながら、自身は領主館の手伝いとして働き、家計を助けている。父親は鍛冶職人をしているがまだ|親方(マイスター)になれていないがために、鍛冶屋が多いここアルスフェルトでの生活は厳しいようだった。
「ちょうど、神殿へ行くところだったの。ここでベアトリーチェに会えてよかった」
「何かあったんですか!?」
もしかして、母親の容態が悪くなってしまったのだろうか。この|母娘(おやこ)の絆の強さはよく知っている。片方にもしものことがあれば、おそらくもう片方も耐えられない。
「それが……」
珍しく言いよどんでから、意を決したように口を開いた。
「町外れの丘にある岩場に、人の|亡骸(なきがら)が打ち捨てられていると……」
「亡骸、ですか」
「うん、ちょうど町を挟んで神殿とは反対側のところに。領主館で働く同僚たちがみんな噂していて」
「地元の人でもめったに行かないあんなところに?」
「男の人らしいけど」
「街道から外れたときに賊に襲われたのかしら」
「でも、噂だと荷物はそのまま――っていうより、きれいなままだって。だいたい、治安のいいアルスフェルトで賊が出ることなんてまずないじゃない」
「そうですね」
「それと、その亡骸はかなりひどい状態らしくて」
口で言うのもはばかられるのか、ネリーはそれ以上、言葉を継げなかった。
「わかりました。では、私が様子を見てきます」
どの町でも、旅人や貧しい人の行き倒れはある。つらい仕事ではあるが、そういった人たちの遺体を葬ることも、神官の大切な役目であった。
これは何も、儀式的なことを司るから、という理由だけではない。死体を放置しておくと最悪、疫病が発生しかねない。
埋葬は死した人を敬うためというのもあるが、今この時を生きている人々のためでもあった。
「それなら、私が荷物を神殿へ届けておいてあげる。重いでしょ?」
「ああ、ありがとう。じゃあ、さっそく――」
「ネリー、ベアトリーチェ、何してるの? 遅いじゃない」
ネリーに買い物の成果を手渡していると、今度は横合いから呼び止められた。
買い物の途中で会ったカトリーネだ。馬車から顔だけ出して、こちらを呼んでいる。
そういえばさっき会ってから、もうかなりの時間が経っていた。生来待つことが苦手な彼女は、いても立ってもいられずに自分から迎えに来たのだった。
馬車から男のように飛び降りると、こちらへ駆け足でやってきた。
「ああ、かなり買いだめしたのね。この中にどれだけ無駄なものがあることやら」
今はネリーが持つ麻で編まれた袋を見て、カトリーネが眉をひそめた。
「失礼な。これでも厳選したつもりです。本当に無駄なものなんてひとつもありません」
「|トゥルリア|(、、)のオリーブ油以外はね」
「うっ……って、見てたんですか。だったら助けてくれてもよかったのに」
「どうやってあしらうのか観察してたら、そのまま買っちゃうんだもん。呆れたのはこっちよ」
「うう……」
理不尽な恨みを抱いてカトリーネを睨んでいると、彼女はさっさとネリーのほうに向き直った。
「ネリーもこんなところで何してるの? いつもは早めに来てくれるのに」
「それが……」
ネリーはベアトリーチェのほうを一瞥してから、亡骸の話をかいつまんで説明した。
「――そう、それでベアトリーチェに。じゃあ、これからそこへ?」
「ええ。だから申し訳ないけど、今日はカトリーネのところへは行けそうにありません」
半分ほっとしながらそう言うと、カトリーネははっきりと首を横に振った。
「いいえ、問題ないわ」
「え?」
「私も一緒に行くから。みんなで行けばいいじゃない」
ベアトリーチェは頭を抱えた。こうなることが予想できたから彼女には知られたくなかった。「でも、今回は場合が場合ですから。亡骸がどんな状態になっているかわからないですし、もし賊にやられたのなら、まだ近くに潜んでいるかも」
「だったら、なおさらベアトリーチェをひとりで行かせるわけにはいかないでしょ。|親友として|(、、)あなたを見捨てることなんてできないわ」
カトリーネが親友という言葉を使い出したのは明確な危険信号だった。その持ち前の気の強さで、たとえどんなに理不尽な要求でもごり押ししてくる。
どうやってなだめたものかと思案していると、横から助け船が入った。
「お嬢様、お立場をわきまえてくだせえ。あなた様にもしものことがあったら、御館様になんと申し開きをすればよいのやら」
太い眉をひそめて心底困った様子で諫めたのは、御者を務めていたテオという老夫だった。カトリーネの家で下働きとして雇われている彼は、忙しい実父に代わり、赤ん坊の頃から彼女の面倒を見てきた親のような存在でもあった。
そのテオに諭されると、さすがのカトリーネも分が悪い。しかし、ただで引くような彼女ではなかった。
「だったら、テオが守ってくれればいいじゃない。元は傭兵なんでしょう?」
「老いたりとはいえこのテオ、賊ごときにおくれを取ることなどございませぬ。ただ、お嬢様だけならともかく、全員を守ることはさすがにできかねます。しかも、疫病という目に見えない魔物は、わしにはどうしようもありません」
「でも……」
「お嬢様、あなた様のためだけに言っておるのではないのです。ネリーさんまで危ない目に遭わせることになるかもしれぬのですぞ」
テオが目配せすると、ネリーはゆっくりとうなずいた。
本当はカトリーネと同じくベアトリーチェをひとりで行かせることに不安はあるのだが、テオの意を汲み取ってカトリーネを抑えにかかった。
「私たちまで一緒に行ったら、ベアトリーチェの邪魔になってしまうかもしれない。逆に、テオさんにベアトリーチェと一緒に行ってもらったらどうかしら」
「なるほど……」
この説得は効果てきめんだった。カトリーネも筋の通った二人の主張に納得した様子で、テオに向き直った。
「じゃあテオ、行ってくれる?」
「もちろん、喜んで。もし悪漢が現れたとしても、ベアトリーチェさんだけは守り抜いてみせます」
カトリーネの館はここから比較的近い。カトリーネとネリーの二人は、このまま歩いていってもなんら問題はなかった。
「ベアトリーチェ、気をつけてね。もしものときは、テオを置いて逃げてもいいから」
「カトリーネ……」
「冗談で言ってるんじゃないの。こう見えて、テオは本当に強いんだから。戦えない人は逃げてくれたほうがありがたいのよ」
テオは首肯した。
「そのとおり。逃げられるのなら逃げてくれたほうが、こっちとしては自由に戦えます」
「――わかりました。じゃあ、テオさん。よろしくお願いします」
カトリーネたちとはここで別れ、ベアトリーチェはすぐに馬車に乗り込んだ。
助かった、と内心ほっとした。
護衛としても頼もしいが、現場までの足ができたのも大きい。丘の岩場まではそれなりに距離があるし、買い物のためにかなり歩いたせいで足が棒のようになっていた。
一息ついて窓の外に目を向けると、アルスフェルトの町並みがゆっくりと流れていた。
ガタゴト、ガタゴトと、一定のリズムで響く車輪の音を聞きながら大好きな故郷の風景を眺めるのは格別なものがある。
この町は、現在のノルトファリア帝国の礎を築くことになった〝アルスフェルト条約〟が締結された地としても有名なところだ。
しかし、今は政治の影は薄く、どちらかと言えば商人と職人の町といった趣のほうが強い。
そのためか、カセル侯の配下にあるここの小領主は都市参事会の長でもあった。本来、参事会は民主制。他の地域では都市と領主は相容れないものだが、ここはなぜかそれでうまくいっていた。
「ベアトリーチェさん」
「はい?」
市壁の門に近づいてきたところで、御者台にいるテオが声をかけてきた。
「いつもお嬢様とお付き合いくだすってありがとうごぜえます」
「お礼なんて。友達なんだから当たり前です。別に、たいしたことは何もしていませんよ」
「そんなことはございません。ベアトリーチェさんらがそばにいてくれるだけで、どれだけお嬢様が救われていることか」
テオは言葉をつづけた。
「お嬢様は|継子(ままこ)なんです。ですから、新しい奥方との折り合いも悪くて……」
屈強な男が言葉を詰まらせた。
それはベアトリーチェも人づてに聞いたことがあった。しかも、実の父が交易商だから家を空けることが多く、カトリーネはいつも寂しい思いをしている、と。
「なまじ家が大富豪なだけに、周りがみんな距離を置いてしまうんです。残念なことに、うちの御館様はあまり評判がよくありません。それで、余計にお嬢様は孤独になってしまって」
「テオさん……」
「ベアトリーチェさん方と知り合う前のお嬢様は、今では考えられないくらい暗い顔をしておられました」
「少し自傷癖があったとか……」
「ええ。それが、友人ができたとたんにすべてが好転しだしたんです」
自分さえも蔑みの対象としていたカトリーネが、ついには誰からも愛される存在となった。
「ありがたい、ありがたいことです。ベアトリーチェさん、あなたは自分では気づいていないかもしれませんが、うちのお嬢様をはじめ、いろんな人を救っているのですよ」
しゃべっているうちに感極まったか、テオは涙声になってしまった。
しかし、ベアトリーチェはあえて否定した。
「本当にお礼を言う必要なんてないんですよ。私たちだって、カトリーネさんからいろんなものを与えてもらっているんです」
それは世辞でも詭弁でもなく、純粋な事実だった。
一方が与えるだけの関係など友情とは呼べない。互いが互いのことを思い、与え合い、支え合う。ときには厳しい態度で臨むこともあるだろうが、それも相手のことを思えばこそであった。
親友が親友であることにいちいち礼を言う必要なんてない。
その説明で妙に納得したのか、テオはそれ以上。何も言わなかった。ベアトリーチェも、意識を再び|窓外(そうがい)へと向けた。
馬車はもう町の外へ出て、|件(くだん)の丘に差しかかっていた。神殿のある東側とは異なり、こちらは赤茶けた土がむき出しになって、ところどころに丈の短い草が生えているだけだ。
ゆっくりとそこを登っていくと、だんだんと町の全景が見えてきた。
東の丘から見える景色とはまたひと味違う。日がやや傾いてきたこともあって、少し町並みがぼやけて見える。黄昏の一歩手前のゆるやかな世界が広がっていた。
「ベアトリーチェさん、着きましたぜ」
「――はい」
風景に見とれていると、不意に声をかけられた。ぼんやりしている間に、目的のところに到着したようだった。
馬車から降りてみると、そこは土に覆われている下のほうとは違い、文字どおりの岩場だった。大小の岩石があちらこちらから突き出し、無機的な灰色の世界が広がっていた。
「例の亡骸は、この少し先にあるそうです。申し訳ねえですが、これだけ下が荒れていると、これ以上は馬車では進めねえんです」
「いえ、十分です」
「ベアトリーチェさんは、先に行っていてくだせえ。わしは馬をどこかにつないでから、辺りを見て回っています」
「はい、わかりました」
|軛(くびき)から馬を外そうとしているテオに礼を言ってからここでいったん別れ、ベアトリーチェはゆっくりと歩を進めた。
思いのほか足場が悪い。
――そういえば、その亡骸の人はそもそもなぜこんなところに来たのだろう。
素朴な疑問がわいてくる。
西側から町へつづく街道はもっと南よりのところにあるから、ここへは地元の人間でさえめったに訪れることはない。かく言う自分も長年アルスフェルトで暮らしているが、実際に足を踏み入れた記憶はなかった。
もしかして、別の場所で誰かに殺されてここまで運ばれたのだろうか。もし噂どおりの無惨な姿なのだとしたら――
どのみち、町の衛兵にも伝えておかなければならないことであった。
――気が滅入るな……
亡骸を本当は見たくないというのもあるが、それよりも衛兵の詰め所に行かなければならないことのほうが憂鬱だった。その中のひとりが変に言い寄ってくるからだ。
レラーティア教では恋愛や結婚を禁じているわけではないが、少なくとも今の自分にその気は全然ないだけに、男性からの好意をかえって苦痛に感じることもあった。
できれば、今日はその彼が非番だといいが、などと失礼なことを考えてしまう。
しかし、そんなことを気にしていても仕方がない。現場はそろそろのはずだった。
右前方に大きな岩がせり出している。その向こうではないだろうか。
荒れた足場を避けて遠回りに行く。
その先に見えたのは――
「え?」
我知らず声が出てしまった。まず初めに目に飛び込んできたのは、想像していた男の亡骸ではなかった。
漆黒の髪。
細身だが頑丈そうな体躯。
そして、背中にある一対の純白の翼。
「――翼人――」
生まれて初めて見た。厳密にはずっと昔、空の遠くのほうを飛んでいる姿をちらりと見ることができたが、こうしてはっきりと、しかも間近で見たことはこれまで一度としてなかった。
――きれい……
真っ白な翼は羽の一枚一枚に至るまでほとんど曇りなく、少し日に焼けた肌は町で暮らす人々とは比較にならないほど|艶(つや)やかで美しかった。
しかし、はっとして彼の足元に目を向けると、そこには例の亡骸が横たわっていた。
――まさか。
とは思うが、彼がやったのだろうか。
美しい人が悪いことをするはずがないという女の勝手な思い込みがあるにはしても、その亡骸を見る彼の真剣な眼差しはとても無関係だとは思えなかった。
その彼が、すっとこちらのほうを向いた。互いの目が合い、その澄んだ青い瞳に胸が高鳴る。
「こいつはお前の知り合いか?」
「へ?」
突然の言葉に間の抜けた返事をしてしまった。相手は、こちらのことなどとっくの昔に気づいていた。
「あ、いえ、神殿の者ですが……。その方を埋葬しようと思いまして」
言いながら、おそるおそる近づいていく。遺骸を確認したいというより、この美しい翼人をもっと近くで見てみたかった。
その彼は、意外に大柄だった。細身ではあるが、引きしまった筋肉がすごい。背中の翼は、ゆっくりと風に揺れるように動いていた。
「神官、か。だったら、早くしてやるといい。そのうち鳥や獣の餌になるぞ」
言われて亡骸を改めて見たとき、ベアトリーチェは思わずくぐもった悲鳴を上げてしまっていた。
胸に穴が空いている。
左胸、中央寄りのところにぽっかりと|拳(こぶし)大の暗い穴が顔をのぞかせていた。その男の顔は白目をむき、苦悶の表情に歪められたまま硬直していた。
神官という立場上、死体は見慣れているつもりだった。以前、|隊商(キャラバン)を襲おうとして返り討ちにあった賊の男の遺体を見たことがあったが、さすがにここまでひどくはなかった。
「傷口にほとんど乱れがない。かなり手慣れた奴がやったな」
「そう、ですか」
彼の指摘に改めて勇気を出して見やると、確かに驚くほどきれいに左胸の一画が切り取られている。
不自然なことに、男の服装も荷物もまったくといっていいほど乱れていないことからして、犯人はほとんど一瞬のうちにこれだけのことをやってのけたことになる。
「でも、なんのためにこんなことを……」
「ベアトリーチェさん!」
考え込んでいると、後方から野太い声が上がった。
「テオさん……」
驚いて振り返ると、御者のテオが短い足で一生懸命に急いでこちらへ向かってくるところだった。
と思った瞬間、すぐ隣で、ばさり、と大きな羽ばたきの音がし、強い風が吹きつけてきた。
「あっ」
気がついたときにはもう、翼人の彼は、空へ飛び立ったあとだった。
彼の瞳に吸い込まれそうな何かを感じていたベアトリーチェは、その姿が空の彼方に消えるまで、ずっと見つめているのだった。