序章 赤い決意
血が手から肘へ伝い、|滴(したたり)り落ちていく。
刻々と流れつづける赤い|雫(しずく)。それはやがて大地の母が受け止めきれなくなったのか、ひとところに集まりはじめた。
ヴァイクは己のものではないその液体を呆然と眺めていた。
なぜ、こんなことになった。
なぜ、兄は倒れている。
なぜ――自分は兄を助けられなかった。
「兄さん……」
絶望的な思いが声となって出てしまう。折れそうになるこころは、助けてくれと誰にともなく叫んでいた。
「ヴァイク」
狂乱しそうになる精神をぎりぎりのところで支えたのは、他ならぬ兄の声だった。ヴァイクと呼ばれた少年は、あわてて彼の口元に耳を寄せた。
まだ意識があった。兄の声が聞ける。もっともっと話したいことはいっぱいあった。
お願いだから目をつむらないでほしい。ずっと自分を見ていてほしい。まだ自分には兄という存在が必要だった。
しかし兄ファルクの言葉は、期待とは裏腹のものであった。
「すまない、ヴァイク。もう、お前を守ってやれそうにない」
「嫌だよ、兄さん! 兄さんがいなくなったら、俺は――」
完全に独りきりになってしまう。生まれ育った部族が壊滅した今、もはや帰るべきところもない。
頼れる存在は、唯一安らぎを与えてくれる存在は、もう兄しかいなかった。
そのファルクは力なく、そしてどこか寂しげに首を横に振った。
「ヴァイク、お前は自分で思っている以上に強い。自信を持て」
「そんなこと言ったって……」
「生き物はな、みんな最後は自分ひとりの力で生きていくしかないんだ。いつかは自立しなくては駄目なんだよ。どんな生物でも、大人になったら自立している。群れをなす動物でさえ、まずはひとつひとつの存在がみずからの足で立っているからこそ全体も成り立つんだ。ひとつひとつの存在が互いに依存し合っていては……最後は、互いを滅ぼすだけだ」
「…………」
「でもな、ヴァイク。何もかもひとりでしろっていうわけじゃないんだ。ひとりでやれることには限界がある。だから――」
「兄さん……」
「だから、仲間を見つけるんだ。志を同じくする人とともに歩むんだ。そのためには――」
むせ返りながらも、ファルクは必死に言葉を紡いだ。
「自分の信じる道をひたすらに進め。わかるか?」
「でも、それだと余計に孤独になってしまう。もし、誰とも道が交わらなかったらどうするんだよ! 自分が信じた道を他の誰も選んでくれなかったらどうしたらいいんだ!?」
「ヴァイク」
ファルクは、優しく微笑んだ。
「それぞれの道が完全に一致することなんて、元からないんだよ。だけど、似た道はかならずある。そして、いつかどこかでつながるときもあるんだ。そのとき、素直に力を合わせなさい。素直に……周りを受け入れてあげるんだ」
「受け入れる?」
「ああ、そうやって道を進んでいけば、やがて仲間がひとり二人と増えていく。そして信じられる仲間が多くなればなるほど、ひとりではけっしてできなかったことが可能になっていくんだ。どんな存在も初めから孤独ではないんだよ、ヴァイク。常に他から支えられて生きている。我々が自然から多くのものを与えてもらっているように。それぞれがそれぞれとつながり合って、その網の目が〝世界〟と呼ばれるものを形づくっているんだ」
「世界……」
「そうだ、人は常にひとりじゃない。本当にひとりだったら生きていけるわけがない」
「でも、俺には兄さんが必要なんだよ!」
「しょうがない奴だな」
ファルクは苦笑した。いつも強がっている弟だが、これが本音だった。そんなヴァイクがかわいくてしかたがないという思いもあったが、今こそ自立してもらわなければ困る。
自分の命の灯は――もう持ちそうにないのだから。
「ヴァイク、よく聞いてくれ。私の弟であるお前だからこそ、自分で生きていけるはずだ。我々は大きな業を背負っている。でも、どこかに……どこかに生きる意味が、存在する意味があるはずなんだ。だから――」
一度ゆっくりと目を閉じてから、揺れる瞳を愛する弟へ向けた。
「私の|心臓(ジェイド)を喰え、ヴァイク」
ヴァイクの息が止まった。
「兄さん!」
「聴け、ヴァイク! お前には生き延びてほしい、なんとしても生き抜いてほしい。私は生きる意義を見出せなかった。だから、道を誤ったのかもしれない。でも、お前なら〝|翼人(よくじん)〟としての……」
兄の体から急速に生命力が失われていくのが、支えている手からも伝わってくる。
もはや、時間がない。
「迷うな。私が勝手に望んでいるだけなんだ。お前は何も悪くない。お前が私のジェイドを糧としてくれるのなら、これからも共に歩んでいける、お前の中で」
「兄さん……」
こらえていたはずの涙がとめどなく頬を伝っていく。
その悲しい|雫(しずく)は兄の手に落ち、やがて地の下へと消えていった。
「すまないな、ヴァイク……」
兄の目がゆっくりと閉じられていく。最後の最後まで自分のことを心配してくれている。
だから、迷わず自分の短剣を鞘から抜いた。
「兄さん、ありがとう。そして――」
すっと振り上げ、さっと最愛の兄の胸に突き立てた。
「ごめんなさい」
とめどなく流れる涙は赤く染まりはじめた空を映し、血の色となって大地へ落ちた。