輝く日の宮
源氏11歳、藤壷16歳
藤壷視点
物心ついた時に最初に思ったのは、私の人生はすでに余生であるということだった。
私の父は帝で、母はその后だ。
圧倒的に正統できらびやかな存在のはずだった。
しかし父はすでに世を去り、后腹の長子である兄は東宮にはなれなかった。
今私たちに力のある後見はなく世は別の帝によって統べられている。
これでよかったと思う時もある。兄は顔だけはいいけれど知性の欠けた男だから、彼が帝の座についたとしたら世が乱れたかもしれない。でも親王である限りは特に害もないので、それなりに大事にされてはいる。
「あなたとお兄様が逆だったらよかったのに」
母はそう言って嘆く。確かに兄は女にしてもいいほど美しい。でも実際そうだったとしたら、その時の気分でふわふわとろくでもない相手を通わせ、私は後始末に走り回ることとなったと思う。
それでも、男として生まれていたらという想念は私の心を強く揺さぶる。
状況からしてやはり帝にはなれなかったと思う。でも后腹だから早めに兵部卿になり、後に親王の最高峰である式部卿の位につくことになると想像できる。
だけどそんな道は選びたくない。いっそ臣下に下ろされて、おのれの実力で這い上がってみたい。
妄想に浸る自分に気づいて苦笑する。いくら永遠に続く余生に飽きているからといって、反実仮想などムダな思考だ。手習いか和歌か琴に励んだほうがましだと思う。
「まあ、もう充分にどれも優れていらっしゃるのに。これ以上磨かれますと天女になってしまいます。それより俗な話をさせてください」
身近に勤める者がいつものように恋バナを語りだした。ちょっと見栄えのいい女房で、その血筋をたどると私と同じ流れになる。女童だった時から色恋沙汰には目のないタイプだ。
少しうらやましい。彼女は恋に夢中になる普通の女の子だ。
「あら、四の宮さまこそお気に入る方がいらっしゃったら、なびかない方などいないでしょうに」
「私もそう思います。宮さまほど美しい方は内裏にもいらっしゃいませんわ」
みんなが口をそろえてほめたてるけれど、正直わずらわしい。だけど賞賛を聞くことは上の者の義務だから、口の端をわずかに上げて聞き流した。
圧倒的に高い身分だからこそ、私は恋などできない。どんな相手を選んだとしても親の恥になる。両大臣のどちらかならそしられることもないと思うけど、私におじさま趣味はない。
「でも確かに宮さまにお似合いのイケメン貴公子となると意外におりませんね」
「右大弁は? 白馬の節会の時に見かけましたけれど、どことなく宮さまに似たお顔立ちでしたわ」
「確かに悪くはないけれど、もう少しお若い方のほうがいいと思います」
「あら、それでは左大臣の正妻腹の若君はどうでしょう。童殿上の時も聡明な美少年でしたが、元服されてから更に男ぶりが上がって将来の期待度№1です」
「ですけどあの方は右大臣の四の君の婿殿となる予定でしょう。ちょっと怖すぎます」
「ああ、あのプチ弘徽殿と噂の方」
「宮さま、残念ですがあきらめられたほうがよろしいです」
残念も何も私はその人に興味を持っていない。内心むっとしたけれど表面には出さなかった。
女房たちは更に相手を選ぼうとしたけれど、うんざりしたので乳母子の弁だけを残して下がらせた。彼女といるのが一番落ち着く。
同い年の彼女はひどく無口だ。大柄で容姿が地味だから、私の乳母子でなかったとしたら何かとからかわれたかもしれない。でも私にとっては大事な相手だ。
他に人がいないことに安心して漢籍を取り出した。女がこんなものをたしなむことは非難されるけれど、私は好き。もともとは亡くなった父が将来中宮となることを想定して学ばせることを指示したらしい。世に捨てられたような一族だからそんなことは絶対ないけれど、人目のない時に続けている。他の女房に見つかったら止められるけれど弁はほっておいてくれる。
でも、母に来客が会って私も同席することになったのですぐに中断した。
「だれ?」「例の美魔女ですよ」
血筋の同じ女房が口もとに笑いを浮かべて告げる。帝に仕える典侍らしい。
父の代にも使えていたので、時たま様子伺いに来てくれる。年を知る者はみんな驚くほど若々しい人だ。
「まあ、こんな人気のない場所にまでわざわざありがとうございます」
「何をおっしゃいます。前帝の栄えあるお后でいらっしゃるのに」
退屈な社交辞令。それでも過去の栄華を忍ばせる訪問に母は嬉しそうだ。だから私も母の意に叶うように完璧な内親王を演じてみせる。
母は典侍に気を許して御簾内に通していた。私は几帳の影にいたけれど、季節はずれの強い風でほんのひととき帷がひらめいた。
典侍の視線があてられたような気がする。そっと後ずさって扇を持ち上げたけれど、今更遅いかもしれない。女の人だからそしられるほどのことではないけれど。
それから少し後の日、内裏から使者が訪れた。もたらされた言葉では母は卒倒しかけた。
「なんですって! 四の宮を入内させよと!」
私も驚いた。
「東宮さまにですか?」
思わず尋ねると母は噛み付きそうな勢いで否定した。
「そうであってもお断りしたいのに、なんと帝ご自身のもとへとのお勧めですっ」
「まあ、お年の差がだいぶありますのね」
「冗談じゃないわ、スケベオヤジっ! うちの娘をなんだと思っているのよっ!」
興奮のあまりは母は帝に対して極めて不適切な言葉を吐いた。女房たちがそれをなだめる。
「内親王の身分に一番ふさわしいのは、やはり帝であるとは思います」
母は激昂した。
「とんでもないっ! あの弘徽殿の方のいらっしゃる後宮に大事な娘を差し出せるわけがないでしょう! ああ恐ッ。気性の荒いあの方が桐壺の更衣を露骨に攻撃した例も不吉じゃありませんか!」
そのお方はすでに生きながら伝説になっている。不動明王の生まれ変わりだという人もいるし、十二神将の一人だという人もいる。
要するにとても強い方らしい。
子供が駄々をこねる時に「弘徽殿の女御さまが来るよ~」と脅すとすぐに大人しくなると言われている。
女房たちは一度は押し黙ったけれど「でも帝のお言葉をお拒みになるのも……」と不安そうにつぶやき、母は押し黙った。
わが一族にもはや力はない。そして帝はこの国の頂点に君臨している。お断りすることはかなり難しい。
母は苦虫をかみ殺したまま居室に戻った。返事はしなかった。
それから間もなく母が世を去ったのはこの件がこたえたのだと思う。
だから、帝は私の敵だ。
ようやく悲しみもいくらか落ち着いた頃、また入内の誘いが来た。「うちの娘と同様にお世話しましょう」と。
そして兄の介入。「ここにいても心細いだけだよ」
女房たちも口をそろえて勧める。
みんな、私のためと言いながら自分のことしか考えていない。
怒りを胸に入内することにした。そうするしかなかった。
儀式のあと会った帝は想像とまったく違っていた。いかめしい顔つきの傲慢な男を予想する私の前に立ったのは、上品な顔立ちの優しそうな人だった。
「本当、そっくりだ」
そう言うとはらはらと熱い涙をこぼした。
「ごめんなさい。他の方と較べるなんて失礼ですね」
「いえ。どんな方だったのですか」
いじめ殺されたと噂の桐壺の更衣と私が似ている、だからこそ入内に執着したとの噂は耳に入っていた。
「更衣さんはなにもかも他の方と違っていました。その優しさもその言葉もです」
帝の涙は止まらない。怒っていたはずの私でさえ心配になるほどだ。私は手巾(平安ハンカチ)を取り出して涙を抑えてあげた。途端にもっと涙が溢れた。
「………………較べちゃいけないとわかっているのに」
ついに彼は私の胸に顔を埋めて泣いた。
私は黙ってそれを受け入れた。
母の敵と思い決めたとき、もし入内することになったら心を隠して気に入られ、いつの日か必ず報復してやろうと考えた。なのに今、そんな気持ちは枯れ果てていた。
入内によって生活は華やかになった。女房たちも活気づいている。これを機会に多少の身分を与えられた者もいる。
血筋の近い女房もその一人で、そのことによって王命婦と呼ばれることになった。
「命婦ですよ、命婦」
彼女は嬉しそうに自慢している。連日帝もいらっしゃることもあって、与えられた藤壷は活気に満ちている。
「いらっしゃいました!」
女房たちが喜ぶのはただ帝が訪れるからだけではない。
私は急いで几帳の影に隠れた。
すると帝より先に愛らしい少年がかけてきて私を捜し始めた。
「見つけました! 藤壷の宮さま!」
帝の二の宮であった源氏の君は、ひょいと気軽に几帳をめくる。
雄猫にさえ姿を見せるな、といっていた母がこの様子を見たらどう思うだろう。いや、もしかすると母でさえ許してしまったかもしれない。そのくらい尋常ではない美しさだ。
もちろん女房たちは帝の皇子を止めることはできない。唯一止められるはずの帝はにこにことその様子を眺めている。
「いやがらないでくださいね。あなたをこの子の母だと見立てたいのですよ。無礼だと思わないで可愛がってやってください。顔立ちや目の当たりがよく似ているので不自然ではありませんよ」
帝にここまで言われてしまっては断れる人などいないと思う。でも、この年で血のつながらない相手から母と呼ばれてもあまり嬉しくはない。やっぱりこの方は何かずれている。
源氏の君は訪れるだけではなく折々に文もくれる。桜の花に添えて書かれたものはまだ幼いけれど、先が楽しみになるような手蹟ではあった。
今、季節は変わり女房が彼からの届け物を抱えて入ってきた。
「源氏の君からですよ。なんと見事な牡丹の花!」
とたんに中納言の君と呼ばれる別の女房が腰を抜かした。何事かと驚くと、あわあわと震えながらようよう声を出した。
「だ、だ、内裏にある牡丹の花といえば、こ、こ、弘徽殿の女御さまの前栽にあったものに違いありませんっ!」
雅であるべき藤壷の殿舎は阿鼻叫喚の声に満ちた。
「こ、こ、殺されるっ!」
「こ、こ、弘徽殿の女御……」
「こ、こ、こんなことがあってはなりませんっ」
まるで鶏小屋のようだ。私はみなをなだめた。
「いくら弘徽殿の女御さまでもあの愛らしい源氏の君のしたことなら許してくださるでしょう」
「宮さまはあの方をご存知ありません! 見敵必殺、天下無双の名も高く、一睨みで公卿も震え、二睨みで物の怪も倒れ、三度睨めば仏さえ逃げると言われるあのお方ですよ!」
「怒れば背中に鬼の面が現れ、目からビームが出るという弘徽殿の方ですよ!」
……以前聞いた時より話が大きくなっている。
「実際に桐壺の更衣は亡くなっていますからね」
「宮さまがその方に似ていると聞いて怒りをつのらせているに違いありません!」
「そんな! 宮さまのせいではないのに」
みんなが脅える中、王命婦が不満を述べた。
「でも、しょせんただ人でしょう。后腹の内親王でいらっしゃる宮さまとは格が違うわ。それにお年も召しているし」
「あなた、そんなこと聞かれたら……」
「この藤壷の中で話して聞かれるわけないでしょう。脅えすぎよ。宮さまをご覧なさいな。この方以上にお美しいとでも言えるの、その人が。そんなはずはないでしょうから帝は絶対こちらの味方よ。恐れることなんかないわ」
「でも……日輪にもたとえられる方だし……」
彼女は薄く笑った。
「もう暮れゆく日輪でしょう。うちの宮さまはこれから輝く日の宮よ。ご年配はそろそろ退場なさるべき時期だわ」
牡丹は源氏の君に返した。「強すぎる色合いのみの花は苦手なので。咲いていた所に戻してください」と言葉を添えて。しょんぼりとする彼のことを思うとちょっと胸が痛かった。
御簾越しでも陽射しはまぶしい。坪庭に植えられた藤の花が、今が盛りとその光に照り映えている。牡丹と違って白も含むので優しく見える。けれどじっと眺めていると、その色が抜けてこの身に添うような気がして、なんだか不安で目を閉じた。