初音
源氏三十六歳
大体は源氏側視点
一万七千字ほどあります
年明けの空は晴れ渡り、曇りがちだった暮れの名残りもなくうららかだ。フツーの人のフツーの庭だって若草がしだいに色づき始め、かすみは春を待ちかねてほんのりと漂って控えめに顔を出した木の芽を隠す。
ましてフツーじゃない六条院は庭をはじめ見所が多く、誉める言葉も足りないほどだ。
季節に合った春の町は特に凄い。春風が梅の香を部屋の奥まで運び、極楽浄土なんじゃないかと思える。
ここに住む紫の上は、さすがにのんびりと暮らしているようだ。
そばに仕える者たちも、若々しく才長けた者は明石の姫君の方につけ、少し年配の女房だけを自分の元に置いたけれどかえって風情があって、衣装や様子も見た目よくふるまっている。
さてここで唐突にモーツァルトについて触れる。彼の音楽はそのまま聞いても素晴らしいが、玄人的にも恐ろしいほどの才能が光る二重構造になっているそうだ。
源氏物語もいくつかの顔を持っている。そのまま読んでも凄い話だが、きらびやかな表面の下に仕掛けもある。ただしこれは、読者の主流派である清らかな心の持ち主になるべくダメージを与えないように、ちゃんと薄絹がかぶせてある。
だけど式部センセーは語るのだ。どの時代でもよ、もっとひねた読みするヤツいるんだろ? わかってるぜ、用意してるさ。だけどさー、無理にそっちに行く必要はないからな。素直に読んでくれるのもありがたいし、全力で喰いついてくるヤツも面白い。好きなようにやりな。
ということでここからしばらく、大変人の悪い読みを入れるので、推しキャラ関連でダメージを受ける可能性のある方は退避するか飛ばしてください。人を傷つけることが目的ではありません。
-***-
玉鬘が発見された当初、紫の上の周りには様々な女房がいた。それは夕顔の乳母子の右近が『上臈・若人どもの中にとりわきて右近を召し出づれば』と呼び出されている個所でも、源氏が右近にマッサージを頼む時に『若き人は「くるし」とて、むつかるめり』と言い三人の若女房が答えるシーンでもわかる。
その後玉鬘について尋ねた時に、紫の上は衣で耳をふさいでいるが、布越しだからもちろん聞こえる。
語られたことは、過去にゆかりのある若く美しい女の存在だ。そして、これは後だが源氏はその女を実父に黙って引き取ることを指示する。
場面を飛ばして『初音』に進む。この話題の直前のシーンに戻ってみてください。紫の上は自分の周りに置く人をどのように変えているか。
原文によれば『さぶらふ人々も、若やかに優れたるを姫君の御方にと選らせたまひて、少し大人びたる限り、なかなか由よししく装束・有様よりはじめて、目安くもてつけて』となる。
もちろん若い女房全てを明石の姫君の下にやったわけではないはずだ。けれど目立つ若い子のほとんどはそちらに行かされたと読んでも差し支えない。
秋好む中宮に関しては源氏のことを信頼していた紫の上も、玉鬘については不安を感じていたのではないだろうか。
深読みが過ぎると思う方もいるだろうが、実は同パターンが後半にもある。若菜(下)の女楽のシーンだ。
ここでは合奏を聞きたがった紫の上の女房たちが、われもわれもとお供を希望する。けれど彼女は音楽の方面がそれほどではないものを残し『ねびたれど、由ある限り選りてさぶらはせ給ふ(年をとってはいるが、音楽の素養のある者だけを選んで連れて行った)』。
音楽関係のことを言ってはいるがセンセーの真意はそこではなく、若い女が主役の会に年配の女房で身の回りを固めて出かける紫の上の姿を描いているわけだ。
もちろん女楽では彼女の美しさも充分に書かれているのだが、少なくとも紫の上本人は自信を失くしかけている。そしてその心理は、たぶん朝顔の辺りから生まれた不安感が、玉鬘の時には根底に刻み込まれてしまっている。
朝顔の件は未遂で終わったし相手も身分は上とはいえ年上だった。だが聡明な彼女はそれ以上のことを考えざるを得なかったのだろう。
式部センセーはバランス感覚が非常に優れている方で、たとえばシリアス近辺にはたいていギャグを埋め込んでいる(『須磨』に顕著)。同じように華やかさを語るほど、その影の部分が滲むように作ってあると見てもいいのではないだろうか。
この同パターン二種は戦略的に配置したと考えていいと思う。すでにセンセーは、玉鬘の時にはどう進めるかを決めていた。そして表面上の言葉の他に含んだ意味を持たせるこの物語は、世界最古の小説というにふさわしいと言いきりたい。
-***-
年の初めのめでたさに、女房たちが祝い事をしてふざけあっていると源氏が現れた。彼女たちは顔を赤らめて恥ずかしがった。
「ずいぶん熱心に祝ってたね。何を願ったのか教えてよ。私も祈ってあげるから」と源氏が声をかけた。
源氏の召人の中将の君は「自分のことではなく、殿の栄を鏡もちに祈っておりました」と得意げに語った。
女房たちがどのように祝い事をしていたかは書かれていないが、どうも性的な形だったようだ。
年賀の後に源氏が紫の上に向かって「今朝この人たちがじゃれあっていたのがとてもうらやましかったから、紫の上には私が見せてあげよう」と乱れたことも少し混ぜて祝い事を言った。
それについて大塚ひかり氏は”子孫繁栄につながる大事な部分を出した、もしくは出すふりをした”と考え、橋本治氏は”おっぱいである”と解釈している。
大塚説では鏡もちが意味をなさないので、ここではおっぱい説に一票入れたい(大変まじめな考察です)。
「薄氷の溶けた池の水面を鏡にして、世に類のないほど素晴らしい私たちの影が並んでいるよ」
源氏が歌を詠むと紫の上も微笑む。
「くもりなく澄んだ池の鏡に、いつまでも共に住むはずの私たちの影が、はっきりと映っていたわ」
何事も理想的な様子である。その上今日は元旦に加えて、千年の春を祝う新年最初の子の日だ。二重にめでたい。
この日は小さい松を引いて移植する行事がある。
源氏が明石の姫君の方に行ってみると、案の定女童や下仕えなどが庭の小松を引いて遊んでいた。みなはしゃいでいる。
冬の町から、わざわざ作った入れ物にみずみずしい果実や、味も色合いも気をつかった食べ物が届けられている。
それだけでも明石の君のセンスの良さや経済力がわかるが、もう一つの届け物が更にそれを強調する。
五葉の松の枝に移るうぐいすの飾り物だ。深い意味が込めてあるようだ。
「とし月をまつにひかれてふる人に 今日うぐひすの初音聞かせよ{初子の日の小松を引くように、心を惹かれている古い人に、今日はうぐいすの初音(姫の声)を聞かせてほしい}」と添えられていた。
源氏は「うわ、気の毒っ」と思って、正月なのに縁起悪く泣きそうになっている。誰のせいだ、誰の。
「このお返事は、姫が自分でしなさいね。声をケチるべき相手じゃないから」
硯の用意をすると、姫君は「別れて年はたちましたが、うぐいすの巣立った松の根を忘れません」と細々と書いている。
その様子はとても愛らしくて、毎日見ても見飽きないのに別れたきりでもう五年ほど会わせていないことをさすがに心苦しく思う。
数えで三歳だった姫君も、この正月で八歳になっている。
----だけど今会わせて、彼女の元に帰るって言い出したらみんなが傷つくよね
胸の痛みを押し殺していると、いつの間にか見慣れた女が上がってきて姫の乳母と話をしている。乳母子の大輔の命婦だ。
途端に気が楽になって自分から声をかける。
「来てたんだ」
「もちろん新年のごあいさつに。対の上の元には先ほど参りました」
すましてフツーの女房ぶっているのがおかしい。源氏は目配せしてわざわざ傍に呼んで小声で話す。
「どうせ他に行くんだろう。このままついておいで」
「うわ、後が怖いっす」
「今更だろう。見比べて感想でも聞かせてくれ」
「だから恨まれるんですよ」
ボヤきながらも加わると、源氏自身の女房たちは彼女と古くからの顔見知りが多いので、軽くうなずいて許容した。
次は夏の町へと向かう。季節外れの場所だからとても静かで派手な様子もないが、上品に住みこなしている気配が見える。
最近ではここに住む花散里の所に泊まることはない。だけど何でも相談するし頼りにしている。
今も顔が見たくなって、慎み深く置かれた几帳をのけると、拒むこともなく微笑んでくれた。
年末に送った海賦模様の浅縹(薄い藍色)の衣は、艶めいた様子がまるでなく少し寂しげだ。髪も薄くなっている。
----ウィッグとかするのがフツーだよな。他の男なら見切ってしまうだろうけど、なにせ私ですから。この誠実さが我ながらいいよね。彼女も、浮気なたちだったら今頃ひどい目にあってるよ
機嫌よく語らった後に、この町の西の対に渡った。
玉鬘は以前よりもこなれた感じに暮らしている。長年京を離れた人とも思えぬ雰囲気で、仕えている粒ぞろいの女童も優美さを添えている。
女房たちの数も増えた。金のにおいがして古い者の少ない場所には、新しい者がなだれ込むものだ。大輔の命婦がちゃっかりとリーダー格の右近にあいさつをしている。
見渡すと特注の調度品はまだ全部は届いていない。引っ越してからまだ二か月たたないほどなので仕方がない。だけどその空白の多い室内が、かえって清らかに見えている。
そしてそこに、新年の朝日のようにすがすがしい若い娘の姿がある。
贈った山吹の衣装がよく似合う。曇りなく華やかできらきらと輝くように美しいが、苦労したせいか髪の裾が少し細くなって衣にかかっているのが可憐に見える。
それがなければゴージャスな印象が強すぎて反感を呼びかねなかったが、おかげで清らかに見えている。
----引き取ってよかった。この姿を見ることができなかったら残念だった
姫はまだ実父以外の元にいることを納得していず、うつむきがちなのが清楚な感じで実にいい。
「ずっとここにいたみたいだね。本望だよ。気楽にかまえて春の町にも行ってみたら。ちょうどあちらの姫が琴を習い始めたところだから、いっしょに聞いて稽古するといい。あちらには軽率な者はいないから、困ることはないと思う」
「おっしゃる通りに」
玉鬘は硬い声で答えた。その小さな声もごちそうだ。ついニヤつくと横に戻っていた命婦が「典型的なオヤジっすね」と実に失礼なことを言った。
「田舎育ちの彼女に、いろいろ教えてやろうとしてるだけだ」
「あー、はいはい。だけど多少はともかく、あんまりあちらと交流させない方がいいですよ。どっちにとってもプレッシャーになる」
「なんでだよ。別にあの子に手を出してたりはしないよ」
「へいへい。あっしはどうでもいいです。だけど花散里の御方の女房のような対応は期待できませんぜ。イベント程度の付き合いでぐらいでちょうどいいと思うっスよ」
冬の町への長い道のりを歩きながら、命婦が不思議なことを言う。他の女たちは少し距離をとって聞かずにいてくれる。源氏は、女同士が風雅な付き合いを深めるのはいいことだと思う。ましてやこの二人に利害関係はない。
「紫の上は人柄がいいから中宮との仲も格別なんだよ。互いにジョークを交し合ってる」
「それは否定しませんよ。相性いいですね」
「ほら見ろ、だから」
「でもどんなにいい人でも全てと上手くいくとは限らんでしょう。例えば、これから行く冬の町の方とはどうです?」
痛い所を突かれて源氏が少し言葉に詰まる。
「そりゃ彼女には実の子がいないからちょっと妬くけど、直接攻撃したりはしないし、明石の君はちゃんと礼儀を守るし」
命婦は真摯な顔で年上みたいに彼を見た。
「あっしはあなたには恋心の欠片も持てないけれど、それでも乳母子として大事に思ってるっスよ」
「……持ってくれれもいいよ。応えられないけど」
「全然無理っす。だけどあなたが心配なんですよ。でも身を慎めなんて今さら言いません。ただあなたの大切な方々を傷つけないように気ぃつかってくださいね」
何もかも思いのままだし愛する女たちもきちんと保護している。その上かつて愛した女の遺児さえ手に入れたがちゃんと娘として待遇した。これ以上何に気をつければいいのか源氏にはわからない。
ただこの世知たけた乳母子がイヤミで言っているわけでないことはわかる。
「……心がけよう」
「あざーっす」
軽い調子で返されて、あまり信用している風ではない。源氏は少しむくれたまま冬の町に足を踏み入れた。日は傾いて暮れ方の気配が、西北の町によく似合う。松の枝ぶりに気を取られながら渡殿の戸を押し開けさせると、御簾の奥から薫り高い風が吹いてきた。
ひどく高雅な香りだ。他の町では聞いたことがない。意匠を凝らした蒔絵の火桶に侍従の香が燻らせてあり、それに布関係に焚きしめたえび香が加わって媚薬的効果を醸し出している。
視覚面の演出も洗練されている。唐の東京錦(白地に赤く鳥や蝶などの文様を織り出したもので最高級品。中国安南の東京産)の茵(平安座布団)の縁も手が込んでいて、その上に趣ある琴の琴が置いてある。
感心して見渡すが本人の姿はなく、文机の上に硯といくつかの草紙が散らしたように置かれている。そこにさりげなく彼女の手習いが加えてあるが、気取った書き方ではない。素直な字体で姫君への返歌が昔ながらの歌に混ざっている。
「めずらしいわ 花咲く寝床から木を伝って古巣の方へ様子を届けてくれるうぐいす(姫君)は。声を待ちかねていたの」
他にも前向きに心を慰める古歌などが書き散らしてある。源氏はそれを取り上げて微笑みながら命婦を見た。
「ほら、何の恨みも持ってないし趣味がいいだろう」
彼女は『チョロいな』と思いつつもその演出テクに感心せざるを得ない。
----趣味もいいし頭もいい。その上全力で来てる。まあそうでもなきゃこのお歴々の中で印象付けるのは大変だわな。確かに六条の御息所をほうふつさせる感じだけど、あちらより引きが上手いわ。あの方だったらこの手習いは、もっと流麗に書いて見せるだろうし歌も自分の辛さを訴えるようなのを選んだと思う。だけどそれをプレッシャーになると見て抑制する賢さがある。すげえ女人だ
「ええ確かに」
答えながらも彼女は『割とそのままの紫の上や花散里よりも心隔ては置いちゃうな。気持ちはわかるし、悪いわけじゃないんだけど』と用心している。
源氏は筆をとって墨に濡らし、手習いの端に何か書き加えたりしていると、明石の君がいざり出てきた。
気品高く暮らしながらも他の女君と違って、自らもてなす態度はいじらしい。以前大井にいた頃のように気取っていないので、やっとわきまえたかと感慨深い。礼儀正しくあいさつして廂に下がる命婦が『娘さんのために吹っ切れたんだなあ』と思っていることはもちろん気づかなかった。
源氏の視線は彼女の美しい髪に向けられる。紫に重ねた雅やかな白い表着の上に、対比するような黒髪が艶やかに流れている。さらさらとした髪の裾がわずかに細くなっているのも魅力的だ。
----新年早々はちょっとマズいかも
そう思いながらもどうしても離れがたくて泊まってしまった。
明け方前の暗い内に起きだして「げっ、ヤバっ」と身支度を整え慌てて帰る。
明石の君は「こんな暗い夜に帰らなくても」と寂しく思っているし、伝え聞いた他の方々は「あの人への寵愛は違うわけね」と不愉快になっている。紫の上の女房たちは「年の初めの初寝ぐらいは正妻格のこの方のために遠慮するべきでしょうが!」と怒っているし、彼女自身も不満に思っていることが源氏にはわかる。誰一人幸せではない。
「うたたねしちゃって。わ、若いからかなあ。誰も起こしてくれないから」
紫の上は表情をこわばらせたまま答えない。なだめるのも面倒になって寝たふりをしているうちに本当に眠ってしまって、日が高くなってから起きた。
今日は正月二日で、太政大臣である源氏は公卿や殿上人をもてなす臨時客の宴会を開かなければならない。親王たちも何人も来る予定だ。それをいいことに彼女と顔を合わせない。
「これは殿、改めましておめでとうございます」
「今年こそは心配させないでくださいね」
「六条院では初のお正月ですね」
良清と惟光と靫負尉が連れ立って現れた。源氏はちら、と奥の方に目をやると「行事だから仕方がないなあ、機嫌取りたい人がいるんだがなあ」と聞こえよがしに言って土器を手にした。
「え、それなら行かれてもかまいませんよ」
無邪気に良清が応えたが、惟光は冷たい目で源氏を見た。
「正月早々何やらかしたんです?」
「えーと、私ほどになると引手あまたで女たちが皆引き留めるからさ、つい足を止めているうちに眠っちゃってね」
「よその町に元旦から泊まってしまったってわけですね。ダメでしょ、それじゃ」
一瞬しゅんとしたが、急に強気に顔をあげて「一家の主人が何をしようとかってだろ」と唸るような声で言った。惟光は「後悔しない人のセリフですよ」とすかさず諭した。
「別に後悔なんか」
「してない人の顔色じゃないですね」
「太政大臣なんだよわたしは。好きにしたっていいはずだ」
やっと事情を察した良清がやわらかくたしなめる。
「殿はけっこう繊細だから、人を傷つけると自分が傷ついちゃうんですよ。ご自分のためにも原則に従った行動をとった方がいいですね」
「原則ってなんだよ」
横にいた靫負尉が「順位通りに人を愛せってことじゃないですか」と微笑んだ。
「その方が誰も傷つきませんよ」
心のどこかを小さな針の先が突く。
「だけどうちの場合身分の順位はあいまいなんだよ」
式部卿の娘だが脇腹の紫の上。昔の大臣の正室の娘で女御の妹だった花散里。亡き常陸宮の正室の娘の末摘花。受領階級から更に下ったが、もともとは大臣の息子である父を持ち血筋もつながりのある明石の君。
「じゃあ殿の愛情を基準とすればいいじゃないですか」
だとしたら紫の上が不満を持つのも認めなければならないが、それは何か違う。だいたいあの時自分の心が目の前の女に動いたのは事実だから、後で後悔しようともあの瞬間は明石の君が一位だ。
というか、相手の女が腕の中にいる限り、どこぞの女房であろうが姫君だろうが、その時点ではその女が一位である。
「どの女のことも本気で熱烈に愛してるんだよっ」
良清はしげしげと源氏を見つめ「さすがは天下の色好み。格が違いますなあ」と感心した。惟光は「かえって女の気が休まらないでしょう」と皮肉な口調で言った。
「どんな待遇をしたって女性は満足しない。だから、こっちができる範囲で忖度するしかないじゃないか」
断言すると、惟光も身に覚えがあるのか口を閉ざした。良清が「わたしなど二、三人でも持て余しているのに、あれだけたくさんの呼び名を覚えられるだけでも凄いです」とますます感心した。
「まあね」と源氏が気をよくする。
「どんな女のことだって忘れないよ」
「さすがです」と尉が源氏の土器に酒を注ぐ。
「それだけお付き合いがあったらいろいろなタイプがいるでしょう。目の前にいない時はどなたが気になります?」
「私にばかり聞くなよ。尉はどうなんだ」
「そうですね……新しい子が一番かな。いつだって」
「おまえもけっこう言うね」
源氏がにやりとすると良清が「そういえば新しい姫君が見つかったとお聞きしましたが」と尋ねた。事情を知る惟光が含みのあるまなざしを向ける。源氏は気にせず得意そうだ。
「ああ。実はこの対にはいないんだけど、それはないしょだ。見ろよ、端の辺りの若いヤツら。気取っちゃってさ。ここにあの子がいると思って心そぞろだ」
確かに彼らに今までにない緊張感も見えるし、そわそわしている。ただ比較的年上の者はそれよりも源氏の方寄りたそうにしているが、きりがないので側近以外は近づけない。あいさつだけをまとめて受けた。髭黒などもこちらをうかがうような顔をしている。
「無理ありませんよ。数にも入らぬ下仕えの者さえ、ここに来るときは気を入れておしゃれしてくるんですよ。まして少し上の方は、あなたの姫君がいると聞いたら『もしかして俺、逆玉乗っちゃうんじゃね』とか思っちゃいます」
「おまえはそんな気にはならないの?」
「わたしは分を知っていますから。あなたに関わりのある方にはきちんと仕えるだけです」
「いいこと言うね。ま、お飲み」
女房に目をやると、すかさず酒を注ぐ。そうなると音もほしくなり、あらかじめ用意させた伶人(楽人)に奏させる。
「君たちもみな自信があるだろう。加わりたまえ」
若手を煽ると誤解したままの彼らは、姫に聞かせようと勢いづく。そんな中、兵部卿をはじめ親王たちが現れた。さっそくしこたま飲ませて楽も勧める。
「まあ、自信がないわけでもありませんから」
源氏の弟の兵部卿がすうっと視線を御簾の奥へ向けると、一番得意な琵琶を手に取った。それを見て源氏は、彼の心が癒えてきたのを感じた。
----以前は早すぎたけれど、新しい恋が一番の薬だよ
正室を失って少し老けた感のある弟に、わかったようなつもりの視線を注ぐ。
のどかな笛の音をB.G.M.に、夕暮れの風がようやく咲き始めた梅花の香を運んでくる。源氏も時々声を合わせるがとても素晴らしい。何事も彼が加わると一味違う。「誰にも負けるものか」と気を張る人々も比べものにならない。
用意してあった引き出物やごほうびなども手の込んだもので、他にはありそうもない。そのためだけではなく人々が押しかけ、内裏に残る者がいないのではと心配になるほどだ。いななく馬や車の音もひっきりなしに響く。
この華やかな様子を遠くから聞く他の町の人々は、まるで極楽の下の方にいて蓮の花の中で眠っているため、仏の説法をちゃんと聞けない類の人のようである。
まして二条東の院に離れた人々は長年手持無沙汰にしているが、めったに源氏が来ないことの他は困ることもないので、彼を責めたりはしなかった。
空蝉は仏のお勤めに励み、末摘花は仮名の色々な草紙で本人的には学問にいそしんでいる。
そこにはある程度落ち着いた頃合いに出かけた。
末摘花は本人の人柄はともかく身分だけは十分にあるので、人目に付くところは上手に取り繕っている。
出かけて行って目の当たりにすると、以前はこれだけはよかった髪さえもこの頃は衰えている。滝のように流れる白髪混じりの髪のかかる横顔など本当にもうエラい様子だ。
正面から見るのは辛いので傍らに座ってちょっとだけ視線を投げるつもりだったが、圧倒的な醜貌は圧倒的な美貌と同じほど人の目を惹きつける。ガン見した。
暮れに送った優美な柳の織物の表着は、やはり彼女に似合わない。というかなんがエグい。
はて、なぜだろうと眺めると、古ぼけてくすんだだめ紅色が黒くなったかい練りの袿を、仰々しく糊で強張らせたものをたった一襲だけ下に着ている。
そりゃあ寒いわけだ。ヒートテックがあるでなし、どうしてそんなに薄着なのだろうか。おかげでただでさえ赤い鼻が更に鮮やかになっていて、春のかすみだって隠せやしない。
源氏は呆然と見とれている自分に気づき、あわてて几帳を引っ張って間を隔てた。美的感覚が狂いそうだ。
けれど彼女はおっとりと構えていて自分を隠そうともしていない。すっかり彼に心を許している。それがちょっと泣かせる。
----こりゃいけない。気の毒すぎて捨てられない。私以外は絶対に拾うヤツはいない
末摘花は声を震わせつつ会話する。鈍くて感じないのかと思えば、やはり寒いらしい。内容よりそちらが気になって、ついにつっこんでしまった。
「あの、ご衣裳のことなど担当している者はおりますか? こちらはその、カジュアル系の住居なので、えーと儀式ばった装束よりも糊気のないしんなりとしたものの方が暖かくていいと思いますよ。表面だけをがっちりさせた格好は、いま一つではないでしょうか」
はっきりと言われたので、さすがに彼女もむむと照れ笑いだ。
「兄のあざりの君の世話がありますので、自分の分まではできませんでした。皮衣まで取られてしまって寒いです」
----あの同じくらい鼻の赤いお兄さんだな。正直に話して素直な所はかわいい気もするんだけど、話さなくっていいって。でもこの人じゃしょうがない。こっちもストレートに言うしかないや
「皮衣はあげちゃってかまいませんよ。ありゃ山伏の方が似合います。この下にはシンプルな白妙の衣を七枚ぐらい重ねちゃってくださいよ。必要な時は私が忘れているようでも言ってください。私って気がきかない方だし、いろいろ雑用があって行き届きませんから」
女房に指示して向かいの二条院の蔵を開けさせて、絹や綾を彼女に送る。待っている間に視線を向け続けるのもなんなので、外の風景に目をやる。
荒れた部分はないが普段こちらに住んではいないためか閑静で、庭の木立が雰囲気よく紅梅の咲き出した匂いなども素晴らしいが、女たちは特に感じ入っている様子はない。
源氏も内面の思いが溢れてしまい「ふる里の春のこずゑにたづね来て 世の常ならぬ花を見るかな」と呟いてしまった。
帰りに空蝉の尼君の所に寄った。彼女はこじんまりとした部屋住みで、しかも大部分を仏間にしている。だけどそれがいかしてる。
経や仏の飾り、シンプルな閼伽(仏に供える水)の道具などもセンスよく優美でインスタ映えする。
趣味のいい青鈍の几帳に隠れながらも、見えている袖にくちなし色が見えるのがやわらかな感じだ。
「寄らなきゃよかった、くどきたくなる。昔から辛いことばかり多いご縁だね。だけど細々とでも切れないよ」
「このように頼らせていただくのは、浅くないご縁だからだと思い知りました」
「私の心を惑わした罰として仏に懺悔しているのを見るのは辛いよ。他の男はこんなに優しくないってわかった? もう知ってるでしょう」
空蝉は継子の紀伊守にくどかれたことをほのめかされて恥ずかしく「こんな有様を見せること以上の罰はありませんわ」と涙ぐんだ。
しっとりした雰囲気が以前よりもっといい。泣き濡れる未亡人尼僧風味ってのは実にそそるが、さすがに自分を押しとどめる。
----末摘花も、せめてこのぐらいの様子だったらいいのに
ちらりと彼女の部屋に目を向けてため息をつく。涙を押さえて空蝉「あちらの方に困らせられてはいませんか」と尋ねた。彼女は真面目な顔で答えた。
「個性豊かだとお見受けしていますが、優しい方ですね」
意外に思ってもっと聞いてみると「仏のお供えに」といろいろなものをくれるらしい。
「ですがこちらと家司(庶務関係の世話をする人)は同じ人ですから、あちらに届く物は大抵ここにも同じものが来ています。そしてあの方はあざりの君がいらっしゃるたびにたくさんの品をお渡ししているようです。非常に失礼ながら、うちに届いた柑子(みかん)の数から推測すると、あの方はほんの一つ二つをご自分の元に残して、全てを私とあざりの君にくださっていたのではないでしょうか」
驚いて見返すと、賢い彼女はすでに対処を終えていた。
「うちは仏さまのお下がりを私や女房がいただきます。ですからあまり多すぎてもみな太りすぎてしまいますと伝えて、一つ二つだけいただくことにしました。それと、僭越ながら、あちらの方とお仕えする方がしっかりと召し上がって身を健やかに保つことが殿のおためになると、助言させていただきました」
「ありがとう。さすがあなただ。ありがとう」
ちょっと目元を潤ませて礼を言う。あのとんでもない姫と同居するのがこの人でよかった。
しかし空蝉はゆっくりと首を横に振る。
「いえ私など、あの方の足元にも寄れません」
「……それはないでしょう」
「本当です。実は勝手ながら、ごいっしょに御仏に仕えませんかとお誘いしたことがあるのです。けれどあの方は『現世に、仏さま以上に仕えたい方がいるので』とお断りになりました。そして『殿のために祈ってください』と、徳もない私に託されたのです。あの、正直驚くようなこともありますが、純粋さであの方にかなう人はいません」
源氏は再び彼女の方向に目をやった。
----バカなんだよ。大バカなんだよ。私だってバカにしているんだよ……なのに本当にバカなんだ。なんでそんなに思ってくれるんだよ。バカすぎるよ
頬が生暖かくなったので指先で触れると濡れていた。慌てて袖で押しぬぐってクールな自分を保とうとするが、なかなか止まらない。
「…………みっともないね」
「人を想っての涙がみっともないわけないですわ」
空蝉は慈母のようににっこりと笑った。
東の院は他に、源氏の召人で身寄りのない人たちも住んでいる。その人たちにも一通り顔を見せて「ごぶさたが続くときもあるけど、心の中ではちゃんと思い出してるからね。寿命はわからないからそれだけは心配だけど、元気でいてね」と優しく語る。
それぞれをそれぞれに愛している。彼は「自分こそは」と思い上がりそうな身分なのに肩ひじ張らずにみんなに親しみやすく接するので、それだけを頼りに多くの女たちがずっとここにいるのだった。
さて今年は男踏歌のある年だ。
女踏歌の方は、内教坊の女たちが紫宸殿前で足を踏み鳴らしつつ歌い踊る正月のイベントだ。毎年ある。
一方男踏歌は数年に一度で、毎年ではない。なぜかとういうと大変だからだ。
これは夕方清涼殿から始まり、帝の前で歌って踊れるイケてる臣下を演じた後に宮中を出て、上皇、中宮、東宮、大臣などの所へ行き同じように踏歌をする。そのあと明け方に内裏に戻ってそこでさらに宴会だ。寝かせろっちゅうねん。
途中おエラ方の元で酒肴が出てごほうびの綿がもらえる。
むちゃくちゃ体力いるから四位以下の男子と決まっているが、平安の続いた現代の若者なめんな、この寒い中そんな体力あるか。綿なんかもらうよりかわいいあの子としっぽりやる方がいいに決まっている。
当然若い者はやりたがるはずもなく、何やかやと逃げようとするのだが、その親父世代が許すはずがない。
「近頃の若い者はすぐに骨惜しみをして困る」
「そうそう、われらの若い時分は名誉なことと自ら進んで行ったものじゃ」
なら毎年あるはずだ。当然彼らも自分たちの時は逃げに逃げた。
だがこの催しは超絶トップしか回らないから顔が売れるのは確かだ。自分が行かなくてすむのなら、息子たちはぜひ行かせたい。
さてここに、聞かずとも生贄が確定しているなうなヤングが二人いた。源氏の息子の夕霧と、内大臣(元頭中将)の次男の紅梅こと弁の少将である。ともに父が厳しい。
「参ったよ。正月のあいさつのときは人多すぎで注目されないけれど、これはちゃんと見てもらういいチャンスだから絶対行けって。どうせみな親戚なのに」
夕霧は口をとがらせながら、この四、五歳上の従兄に愚痴をこぼした。紅梅はちら、と冷たい視線を投げかけた。
「君は人並みになってからの勤続年数が短いから仕方ないね」
むっとして見返すと気取った様子で顔に落ちるほつれ毛をかき上げた。
「僕は違うよ。若手で一番の美声の主だから、どうしてもってあちこちに言われてさ。立場というよりファンの要望で仕方なくだ」
こいつむかつくな。そう思ったが夕霧は自分の感情を押し込めた。
以前、六位にされた時一番バカにしたのはこいつだった。兄ちゃんの柏木もいじってきたが、まだ長男の甚六的のんきさがある。
夕霧は冷静に彼の心理を分析し、浅葱(六位の色。浅い青緑)とバカにしていた従弟が身分を追い越したのが気にくわないのだろうと察する。去年夕霧は左中将になっている。一方紅梅はまだ弁の少将だ。
「まあせいぜい練習して、人の足を引っ張らないでくれたまえ」
不愉快だが彼が一番人気の歌い手であることは確かだ。夕霧は自分を制御しつつ、歌の師匠を探し始めた。今まで変声期でようやく声が安定し始めたところなので、長く歌っていないのだ。
その時はプリプリ怒っていたが、めんどくさいというう思いだけは一致している。男踏歌メンバーが確定したあと集まって、みなで共謀した。
「いつもの年なら三条くらいまで行けばいいけど、今年は六条までだろ。たまったもんじゃない」
全員に視線をあてられているのに気づいて、夕霧はうんざりした。あちらに住むことを決めたのは自分ではない。
「手を抜こうぜ。遠いから歩くのも大変だから牛車で行こう」
「回りきれませんからと断って、歌もいくつか省略しよう」
ところが親世代がそれを聞きつけて、阻止せんと立ち上がった。しかし従者たちに監督を命じても、次世代を担う坊ちゃま方は買収するに決まっている。
だが世間の荒波を乗り越えた親世代もしたたかだ。そこに秘密兵器を投入してきた。
「今年は髭黒が監督としてついてくるってさ!」
終わった、と若者たちはげんなりとした。
普通の公卿なら見ているだけでも疲れ果てて途中で帰る可能性があるが、あの体力の鬼のひげマッチョ、しかも妙に律儀だから必ず最後までついてくるに違いない。
「帝のおじさんなのに今さら顔売らなくたっていいだろ」
「いやでもあいつ、人好きしないからな。チャンスがあったら売り込みたいんだろ」
「臨時客の時もあいさつしかしてなかったし、コミュ能力に問題あるんじゃないの」
みな敵とみなしてさんざんにディスる。「奥さんと顔合わせるのがイヤで来るんじゃない」と、私生活のことまで引っ張り出した。恨みで意気投合する。
一方親世代は老獪だ。不満が高まったところで「朱雀院に行った後は牛車を使ってよろしい」と許可を出した。若者はあっさりと懐柔され、練習に励んだ。
当日の一月十四日になり、男踏歌のメンバーは内裏の後に朱雀院に行ってその次に六条院に回った。中宮と東宮は内裏にいたとして、大臣邸はどう回ったのか気になるが原文には書いていない。上皇の前にちょちょっと廻ったということにしておこう。
朱雀院の正殿前で催馬楽を歌い、楽人も九人連れて行っているので管弦を奏して歓待される。ここは蒭駅(飯駅)に指定されていてご飯が出る。風雅な院なのでなかなかしゃれたごち走が出る。荷物を乗せて引いて行った馬にも飼葉を与えてくれる。
だがのんびりしてもいられない。朱雀院の柏殿には大后が住んでいるので、そちらにも廻らなければならない。
近頃では茶かすような噂しか聞かないが、音にうるさいうえになにせ伝説の人物、どうにか無難に乗り切りたい。
院からの優しい言葉に名残りを惜しみつつ、真冬の滝つぼに飛び込むような気分で柏殿に向かった。
定めのとおり歌って踊ると、別に難癖はつけられず、ただ一言「ご苦労」と言われた。
若者が義務を果たしている間、髭黒は廂で酒を飲んでいる。と言っても女性に人気があるタイプではないので、おざなりに扱われているようだった。
「めっちゃ緊張したし」
「御簾内にいるのに恐ろしいほど迫力あるよな。なんかオーラ漂ってた」
「直視すると心の臓が止まるらしいよ」
四人ずつ乗せられた牛車の中で若者たちは騒がしい。次に行く場所も緊張するので、合間だけでも充分にはしゃぎたい。
牛車は人の歩く速度とほとんど変わらないため、六条院についたときは明け方になっていた。
月は曇りなく澄み渡り、薄雪がほんのりと降る風情がことのほか素晴らしい。
あらかじめ源氏が手紙で誘っておいたので、女たちは春の町の御殿に集まっている。東西の対にも渡殿にも人がいっぱいだ。
夏の町の西の対の姫君こと玉鬘は、この町の寝殿の南の部屋に渡ってきて、初めてこちらの明石の姫君と対面した。紫の上も姫といっしょにいたので、几帳だけで隔てて会話した。
六条院は水駅と決められている。これは先ほどの蒭駅よりも簡素なもてなしをする場所で、酒と湯漬けだけを出せばいい。だが源氏は山海の珍味を取り揃えていた。
「わざわざ遠くまでご苦労さま。歌の後は違うものを用意してあるから、とりあえず口を湿して疲れを癒してほしい」
----朱雀の院には負けないつもりだけど
内心の挑み心を奥に隠して歓待する。みな喜んだがこの後歌って内裏に戻りまた宴会だ。軽めに食べてから位置についた。
月の光が寒々しい。ずっと薄く降り続いた雪がようやく積もってきた。
松風が梢から吹き下ろしてくる。冷え切った空気は夜中よりも凄まじく、趣味のいい六条院の庭が一瞬、ぞっとするほど荒れ果てて見えた。
もちろんそれは錯覚で、薄らぐ闇を燃やし尽くそうとするかのようにかがり火が赤々と燃やされている。それに照らされるくったりと着慣らされた麹塵の袍と白襲の色合いは飾り気がない。
かざしの綿は他のイベントの時の花や紅葉よりも地味だが、場所のせいか高雅に見える。
歌頭の中でも源氏の息子の夕霧や内大臣の子息たちが、他の者よりも勝って美しい。舞い散る雪が吹きつける薄ら寒い中、そこだけ色がついているように華やかだ。
女たちの方も、いづれ劣らぬとりどりの袖が御簾の下から豊かにこぼれ出ている。その色合いも曙の空に春の錦を加え、おぼろにかすみを掛けたように見えた。
六位の蔵人の珍しいかぶりものや、少々エロい祝い言葉などはそれほどとも思えないのに、不思議なほど心に染み入るイベントだ。
「若、ご立派です、若っ」
源氏の横で良清が涙をふいている。惟光も隣にいて、うんうんとうなずきながら「他よりも若いわずか十五のお年で、よくもここまで上達なさいました。これはもう、弁の少将を超えたといっても過言ではないでしょう。歌って踊れて学問もできる、この平安の世の最強の公務員と言えるのではないでしょうか」と珍しく彼も感に堪えず涙をこぼした。
「本当ですね。以前にお聞きした時よりずっと上手くなられましたね」
靫負尉もうなずいている。
「短期間でこんなにレベルが上がるんだ」
「そりゃ、俺がつきっきりで教えたし」
良清が尉に自慢する。
「え、君が?」
「もちろん。仲間内でボーカルと言えば他にいないだろ。職業歌手は上品さに欠けるし」
「……見直したよ。そういえば須磨のバンドで歌ってたね」
「思い出すね、あの頃を」
潮の香りがしたような気がした。だが辺りに舞うのは波のしぶきではなく粉雪だ。
「われらと比べると今どきの若者はだいぶ軟弱だが」
呟いた惟光に良清が反論する。
「いや俺たちだって、もっと上世代からすると頼りないって言われてたし」
「昔の人は学問なんかは優れていたけど、風流な方面においては最近の方がいいんじゃないかな。確かにうちの子も、思ったよりは歌えている」
源氏が息子に視線を流すと、尉が大きくうなずいた。
「ええ。弁の少将に負けないぐらいです…………あなたもそうお思いになりませんか?」
少し離れて座っている髭黒に話を振ると、御簾下の女性の袖をじっと見つめていた彼が飛び上がりそうに驚いて慌てて賛成した。
「え、ええ。もちろんそう思います」
----むっつりなんかい
源氏は内心そうつっこむ。そりゃいっしょにあちこち回ってきたので歌にも舞にも飽きているだろうし、側近たちとの親しげな会話に割り込めないのもわかる。だけど正月は見え張って女の方を見もしなかったのに、人数の少ない今日になって露骨に視線を向けなくともいいだろう。
----実直のかたまりみたいな男だけど、微妙にダメな部分があるな。うちの息子も風流な私と違うまじめな公務員に育てようと思ったけど、やはり多少は雅な心がなきゃいけない。そんな面がないとこんな時でも色めいた方面がからかいにくい
とはいえ内裏の重鎮だし、奥さんとの仲が上手く言ってないらしいから、そういったことの冗談を言うのはやめておいた。
雪はやまない。月は凍りつくように寒々しい。
その中で息を白くして若者たちは最後の曲『竹河』を歌い踊る。
伊勢の斎宮の地の竹河の橋の元に花園がある。そこに私を放ってほしい。少女といっしょに。
若い男たちの催馬楽が女たちの心にどう響くのか。
源氏は御簾内に目をやった。こぼれ出た袖口の他はぼんやりとした透き影だけが見える。
あれは誰、これはあの子。六条院の主にはどれも見知った女たちだ。
やがて男たちのステージが終わった。みなこちらに頭を下げ、それから御簾に目を向けている。
踊りきった熱のままの彼らに向けて源氏はほくそ笑んだ。
----憧れるのは止めないよ
いっそもっと煽ってみたい。たとえば女楽を催して、その音だけを聞かせてみるとか。
夜は明けたのに月はまだ蒼ざめたまま空にあり、日の光も薄く頼りなく射しているだけだった。
次回最終回