玉鬘(たまかづら)
おおむね源氏側視点
源氏三十五歳
誰にだって忘れられない恋はあると思う。
そう自己弁護する源氏が普通と少し違うのは、その恋が一つや二つや三つではすまないことだ。
それでも夕顔の女との思い出は、今も色濃く胸に残っている。
夏に出会って秋に死んだ、花のように儚い女。
ただし夕顔の果実はわりに大きく、カンピョウにもなる。
同じように彼女も子を残した。
かつて夕顔の乳母子だった右近は、源氏が不遇の時に須磨へ下ったことをきっかけに紫の上の女房となり、今でもそこに仕えている。
それでも彼女は昔の主人を忘れず、夕顔の娘との再会を願って、よく神仏を拝みに行っていた。
その年の九月、長谷寺に詣でるために泊まった宿で、はからずも当人とそれを守った乳母たち一行に再会した。住んでいた筑紫から帰京していたのだ。
太宰少弐だった乳母の夫はすでになく、次男三男は裏切って彼女に求婚する地元の有力者、大夫監についたが、長男は姫を守って上京していた。
住所を取り交わし、その話を土産に右近は六条院に戻り、あくる日紫の上に名指しで呼ばれたことを名誉に思いつつそば近くに参上した。源氏も彼女を目にとめて声をかけた。
「宿下がりが長かったね。いつもと違うな。お堅い人が若返って乱れることもあるし、よほどいいことがあったんだろう」
セクハラ気味な言葉が最近癖になっている。オヤジ真っ盛りである。
「いえそんなことは。ですが山歩きをして心に染み入る方を見つけました」
「誰それ?」
右近にとって現在直属の上司は紫の上である。飛び抜かして源氏に報告するのはマズかろうと「そのうちお話しします」と告げた。
彼女の出会った姫君は、おっとり&しんなりとしたその母と違って、奥ゆかしく気品高く知的な美女だ。会っている時は紫の上にも見劣りがしないと思ったが、こうしてみるとそうとは言い切れない。
源氏は右近に足をマッサージさせ親しげに話しかける。
「若い者は面倒がる。年寄り同士仲良くしよう」
若女房たちはくすくす笑う。
「そうですわ」
「あら、マッサージは嫌じゃないんですよ」
「殿がセクハラめいたことをおっしゃるから面倒なんですぅ」
この箇所はほぼ原文通りで、なんと光源氏三十五歳、一般女子に少々迷惑がられている事実が判明する。
「うちの奥さんもシニア同士が仲良くしたら妬いちゃうね。あり得るあり得る」
そう言って笑いかける様は愛嬌があって雰囲気も悪くない。
彼は太政大臣なので仕事は少なく余裕があるので、古女房にさえつまらぬ冗談を言ってちょっかいをかけている。
「で、見つけた人とはどんな人? 修行者でもたぶらかしたのか」
「何をおっしゃいます。儚く亡くなりました主の形見を見つけたのです」
右近がとがめると源氏はさすがに驚いた。
「それはクるものがあるね。この長い期間どこにいたの?」
「つまらぬ山里に。昔からの者も多少は仕えているようでした」
「わかった。ご存じじゃない方もいるからここまでに」
隠そうとすると紫の上は「面倒なこと。眠たいから聞いたりはしないのに」と言って衣を頭までかぶって耳をふさいだ。それをいいことにもっと尋ねる。
「美人? 昔の夕顔以下?」
右近は自信ありげに答えた。
「どうかなと思っていましたら、この上なく美しく成長されたようでした」
途端に源氏が気を入れる。
「面白いな。誰ぐらい? 彼女ほど?」
目線を紫の上に向ける。右近はあわてて「そこまでは」と答える。
源氏は「得意げだね。私に似ていたらいいけど」と親ぶった態度を見せた。
その場ではそこまでだったが、後で源氏は右近をこっそり呼び出した。
「その人をここに移そう。彼女の子が行方不明だったのを長い間残念に思っていたんだ。実父の内大臣には教えなくていいよ。どうせあちらは子だくさんだから、そんな身の上で混ざっても肩身が狭いだろうし。うちは子が少ないから、今頃見つかったとでも言っておくさ。その子を使って好き者たちをメロメロにしてやろう」
状況もわからぬ内大臣家に行かされるより、右近にとってはよほど嬉しい。
「お心のままに。お父上にお知らせするべき人も殿の他にはありませんから。姫君をお助けすれば、亡くなられた方の分の罪も軽くなることでしょう」
「割と言うね」
源氏の口元は微笑んでいるが目元は潤んでいる。
「彼女との縁を忘れたことはないよ。ここにいる人たちだって、あの時の彼女以上に思ってるわけじゃない。長生きしているから私の心を受け止めてくれているだけだよ。君だけが彼女の形見で寂しかったけれど、姫がいるならその分の気持ちを伝えることができるね」
そう言って手紙を書きだした。末摘花のキャラクターが貧乏によって作られたのなら、夕顔の娘にだってその可能性はあるので、ちゃんと確認しておかねばならない。ちょっと硬めに父親っぽく書いてみる。
右近はそれを自分で持っていった。姫の衣装や女房たちの物も様々にそろえて運んだ。衣装所を管理する紫の上にちゃんと打ち明けたようである。
「あの……本当のお父さまなら嬉しいのですけど、なぜ知らない人たちと関わらなければならないのでしょう」
姫はもっともな疑問を口にしたが、届けられた美麗な衣装にすっかり心を奪われた乳母や女房に言いくるめられる。要求されてしぶしぶ返事を書く。
か細く墨色もほのかに、まだ未熟な点はあるけれど上品な字だ。紙も唐の物に香を深く焚き染めたものを使っている。
受け取った源氏はそれを見てほっとし、受け入れ準備を始めた。
住む場所も、紫の上のいる春の町はやはりマズいし、秋の町では中宮の女房に間違われかねない。考えたあげく、夏の町の西の対で今は文殿(書庫)として使っている場所を空けてそこに入れることにした。鰯は惜しいが女の方が大事だ。
----花散里ならいい人だし、仲よくしてくれるだろう
決めてから紫の上に報告し、ついでに過去の恋バナも打ち明ける。彼女は気を悪くしている。
「無茶言わないでくれよ。生きている人のことだってフツーは言わないよ。特別に話すことが君への愛の証明だよ」
と言いくるめる。
「自分のことだけでなく人のこともいろいろ知ってるけど、女性は怖いからうかつに恋はしないと決めていた。でも、縁があった中で夕顔は特別にかわいかったな。生きていたなら冬の町の人ほどの待遇はしたと思う。理性的なタイプじゃなくって風流でもないけど、品があってとにかくかわいかった」
紫の上は不愉快そうな顔で「きっと明石の人ほどは大事にしないわよ」と言ってそっぽを向いた。死んだ女より彼女の方が許せないらしい。
源氏は花散里にも事情を話した。
「ずいぶん昔につきあった人が行方不明になっていたのだけど、子供がいたから長年探していたんだ。やっと見つけたけれど亡くなっていて、二十歳過ぎの娘一人が残っていた。君は息子の世話がとても上手だから、この子のことも見てもらえないだろうか。田舎育ちだから困ることも多そうなので、何かと教えてやってほしい」
花散里はおっとりと答えた。
「そんな方がいたなんて知らなかったわ。姫君が一人しかいないのはさびしいからよかったわね」
「ありがとう。その子の母もとても気立てがよかったけれど、君もそうだから安心して任せられる」
「夕霧さんの分のお世話だけでは暇だったからうれしいわ」
微笑む彼女を見ていると、心配することは何一つない気がしてくる。
右近の里の五条にいったん置き、人を雇い入れて用意をさせ十一月になってから、三台ほどの車で女は移ってきた。
人々は何かと言い立てたが、右近が気を遣ったので田舎めいたところは特になかった。源氏も引っ越し祝いにまばゆいような綾絹などを送った。
その夜源氏は夕顔の娘の元に行った。彼女の女房は光源氏の評判は聞いていたが、さほどのことはないだろうと考えていた。
だが几帳のほころび(切れ目)から覗いてみて、その美しさに仰天し、怖いとさえ思った。
廂に用意された場所に座った源氏は、ほの暗い明りを見て姫に笑いかける。
「まるで恋人みたいな気分だよ。親の顔を見たいでしょ、そうは思わないかい」
そう言って几帳を押しのけるので、彼女は恥ずかしくてたまらなくて横を向く。美人だ。源氏は思わずにぱあと笑った。
「もう少し明るく」
彼の注文に右近が応える。すかさず灯心を掻き上げた。
明かりがくまなく彼女を照らす。逃げ場はない。姫はいっそう身をすくめた。
源氏は上機嫌である。夕顔よりも美しい。特に目元がいい。
「長い間ずっと気になっていたんだ。やっと会えて夢みたいだよ。だけど君の母上のことを思い出すと辛いね」
と涙をぬぐう。夕顔のことは本当に悲しい。
「親子で、こんなに長いあいだ離れてるなんてそうないことだ。もう子どもってわけでもないのだから、長年の話など聞かせてほしい。なのになぜ、そんな風なのかな」
そう恨めしそうに語るが、姫は困惑する。
全くの他人だ。なのに厚かましくも顔を見た上にまるで父親のようにふるまう。こちらが違うと知っていることまで平然と無視する。
不愉快だと表明したかった。だけど身を捨てて筑紫から連れ出してくれた乳母たちを思うとそうできなかった。
その上この男は、臣下の一の位である太政大臣らしい。当然自分の実父ともつきあいがあるはずだ。穏当に接して、どうにか会わせてもらいたい。
とすると気持ち悪くてもこの男の機嫌を損ねるわけにはいかない。そう決意して彼女は小さな声でそれに応えた。
「脚も立たないうちに田舎に落ちて、そのあとは夢のようでした」
神話をふまえた知的な答えだ。しかも源氏も須磨から帰った時に兄に使ったことのある「蛭子」の話だし、ほのかな声も死んだ夕顔によく似て初々しい。
「落ちた身をかわいそうだと思うのは、私くらいですよ」
機嫌よく失礼なことを言うと、右近にすべきことを告げて退出した。
喜びのあまり春の御殿に戻って、紫の上に報告する。
「田舎者の中で育ったのだから残念な感じだろうと侮っていたら、これがなかなか馬鹿に出来なくってね。こっちが恥ずかしいくらいだったよ。どうにか人に知らせてさ、弟の兵部卿の宮なんかをその気にさせてやろう。好き者たちがすましているのもうちに年頃の姫がいなかったからだ。これからはそうもいかないさ。姫を大事にして男心の程を見よう」
紫の上はあきれて源氏を見た。
「妙な親だこと。引き取ったとたんに人の心を乱すことを考えるなんて。いけないと思うわ」
「私が今の心で昔だったら、君をそんな風に扱ったな。何も考えずにもらっちゃったけど」
彼女は顔を赤くした。まだ若々しく魅力的だ。
源氏は硯を引き寄せて、さらさらと歌を書く。
「恋ひわたる身はそれなれど玉かづら いかなるすぢを尋ねきつらん(亡き夕顔に恋する私自身は昔のままだけど、玉かずらみたいにきれいなあの子は、どんな筋をたどってここを尋ねて来たのだろう)」
書き上げて「あはれ」とかひとりごとを言うので紫の上も「本当に深く思っていた人の子なんだわ」と考える。
中将になっている息子の夕霧にも話をした。
「そういう人が私を尋ねて来たので引き取った。そう心得て親しんでくれ」
彼は素直に玉鬘の姫のもとに出かけて行った。
「取るにたりない私ですが、呼び立てて使ってくださればいいのです。引っ越しの手伝いもせずにすみません」
真面目だ。事情を知る者たちは冷や汗をかく。
そんなこんなで上京した一行は、じょじょに都の水に慣れてきた。
あの実直な乳母の長男は、玉鬘の家司の一人となった。
長年の田舎住まいの身から浮き上がり、昔はあいさつ以外関わることもできなかった源氏の元に朝夕出入りして、人を指図して働く立場となった。ありがたいことだと彼は思った。
源氏はこんな方面には細かいので、報いるべきはちゃんと報いる。そのため玉鬘に仕える者はみな落ち着いてきて、過去を思い出してぞっとしたり、今住む場所のきらびやかさに感心したりしている。
凍りつくような年の暮れも、壮麗な六条院では風情の一つに見える。新年の準備のために人々は立ち働き、女たちのための織物も職人たちが技を尽くした物が連日持ち込まれる。
「たくさんあるね。公平に分けなければいけないな」
源氏は、染めたり縫わせたりがとても上手で衣装関係の統括をする紫の上に声をかけ、あちこちから届けられた物などを見比べる。年配の女房たちも近くに控え、これはこちらへそれはあちらへと分け始める。
紫の上はそれを見ていたが、源氏の方に振り返った。
「どれも変わりなくいいけれど、着る人に合わせて差し上げてね。似合わないものは見苦しいから」
源氏は思わず微笑んだ。
「何気なく人の容姿を推し量ろうとしてるね。ご自分のはどうする?」
さすがに恥ずかしそうに答える。
「鏡を見たぐらいじゃよくわからないわ」
口元を緩めたまま源氏は彼女のための衣装を選んだ。くっきりと紋の織り出された紅梅色の表着に葡萄染めの小袿、それに鮮やかな今様色(濃い紅梅)を添えてひときわゴージャスな同系色コーデをセレクトした。
次は明石の姫君の分だ。かわいい桜襲の細長(小袿の上に着るズルズル。庶民は着ない)に艶やかな練り絹を選ぶ。
浅縹(薄い藍色)に海賦の紋(貝とか波とか海関係の模様。タコとかはないと思います)で織り方は優美だけれど色気のないやつを花散里の分とする。
ビビットな赤の表着に山吹の細長は玉鬘の姫に。紫の上は「内大臣に似て、華やかで綺麗だけれど優美さとか趣のたりない感じかしら」と想像する。それでもちょっとやきもちも妬く。
「衣装で想像するなんてナンセンスだよ。色には限界があるし、人はいま一つなようでも奥行きがあるのだから」
と源氏は言って、その言葉を裏付けるかのように、柳の地に上品な唐草模様が織り出されたひどく優美な装束を取り上げて末摘花の分として微笑んだ。
次は明石の君だ。紫の上の手前少し抑えようと思ったのだが、あまりに似合いそうなものがあって無意識にそれを選りだしてしまった。
梅の折り枝に蝶や鳥が飛び交う唐めいた白い文様の浮きだした表着に、艶のある濃い紫の袿を添えた。彼女は思わず目を見開いた。
華やかさは彼女の分の方が上だ。しかしその滲むような格と気品は、身分下の女に許せるようなものではない。だが口は挟まなかった。
「これは空蝉の尼君にいいね」
青鈍の織物の趣あるものに、自分自身の衣装からくちなしの御衣を合わせ、いくら尼でも女性的な感じも加えたくてゆるし色(やわらかい感じの淡いピンク)も添える。
各自揃えたので、正月の同じ日に着るように手紙を添えて届けさせた。似合うかどうか見たいのだ。
素敵な衣装を届けられてみな嬉しかったのか返事も並ではなく、使者へのかずけ物もそれぞれ凝っていた。ただし二条東の院にいる末摘花だけは適切な対処ができず、山吹の袿の袖口がヤバいことになっているものを重ねる衣もなく使者に与えた。
その上返事の手紙も凄まじい。香の焚き染めたみちのく紙の厚ぼったいやつが古くなって黄ばんでいるものに「着てみればうらみられけり唐衣 返しやりてん袖を濡らして(着てみれば裏も見えるし会えない恨みもつのるこの唐衣、私の涙で袖を濡らして返してしまいましょうか)」とえらく古風な字で書いてある。
苦笑いする源氏を紫の上が「何事かしら」と覗いた。源氏は更にかずけ物に目をやって「あんまりだろこれは」と不機嫌になったので使者はさっさと退出した。女房たちは小声でくすくす笑っている。かばう気にもなれない。
こんなひどいセンスなら目立たないようにしとけばいいのに、やたらに出しゃばるのがうとましいと思う。
「ことあるごとに唐衣で袖が濡れるんだよ。レトロ感ありすぎだ。きっと私も似たようなもんなんだろうけどね。だけどあの人はお父上の常陸の親王の古くさい和歌のマニュアルを信奉していて、ことあるごとに読めっていうんだよ。渡されたから見たけど。そうしたらなんかルールばっかりで、非才の身の私としてはわけわからなくて返しちゃったよ。そのようなルールに詳しい割には凡庸な歌だよね」
「あら返しちゃったの。写して姫君の手本にでもすればよかったのに。私もルール本持っていたのに虫に食われてしまってよくわからないのよ」
「姫君に見せるもんじゃないよ、あれは。女性は何かに熱中するべきじゃない。だけど普通のことができないのもダメだ。芯が強くって表面は穏やかなのがいいんだよ」
そう言ったまま返事を書こうとしないので、紫の上は気の毒になってそれを勧めた。
「あちらの歌に『返しやりてむ』ってあるのにお返事しないのは意地悪だと思うわ」
彼女にそう言われると薄情でもいられず、気楽な感じで返事を書いた。
「返したいって君が言うにつけても、衣を裏返しにして好きな人の夢を見るおまじないをする君のことが思いやられるよ。恨まれても仕方ないな」
それでも源氏の字を見て末摘花の心は慰められた。
ーーーーあんなタイプに育ってなくてよかった
苦労のせいか少し軽めの髪の様子や魅力的な目元を思い出して心が弾む。まだ誰の色もつかない若い娘の清らかさと、幼さを感じさせないしっとりとした知性。自分の手の内にいる誰にも似ていない
ーーーーしいて言えば秋好む中宮かな。でもあの方はうかがった感じからするともっと可愛い系でもう少しあどけなかったかな。大昔の文からすると実は感情も強そうだし。その点こちらはもうちょっとクールだけど、若さと立場からくる隙、というか拒否しづらい感があるから、つけ入る手がないわけじゃない所が実にいい
そうは思ってもいきなり手を出したりするつもりはない。じっくりと長々と手の内においてなめるように愉しむ。他者にも見せびらかし煽って、でも結局は私が一番いいと自分から心を寄せてくるように持っていこう。
綺麗な玩具を手に入れたつもりの光源氏は、無邪気さの欠片もない悪い笑みを口元に浮かべた。
六条院に納められた新しい玉はそんなことも知らず、実の父を思ってため息をついていた。