七絃琴
大后視点
源氏三十五歳
紅葉も色づき、朱雀院の秋の風情は池に映える。広い水鏡に緋色や黄金の葉影が揺れ、萩の花がこぼれる。
間近に見える豊かな池は内裏でも見ることができず、里邸ともスケールが違う。
通常なら楽しめる景色だが、今はそれどころではない。悩んだあげくに息子の住む正殿を訪ねようとしたところ、すぐに手の者が連絡したのか本人が来た。
「こちらから伺おうと思っていました」
「私など、手を叩いてお呼びになればいいのです」
息子は最近気に入りの卑屈ごっこの真っ最中らしい。スルーしてさっさと本題を告げる。
「いい尼寺を知りませんか」
「絶対許しませんよ」
瞬時に真顔になったので、鼻を鳴らした。
「私ではありません。うちの女房だった者のためです」
「なんだ」
彼は苦笑して肩を落とした。麹塵の袍が午後の光をわずかに弾く。
「焦りました。でも珍しいですね、今どき女性はたいてい自宅内出家でしょう。わざわざ寺に入ろうとしているのですか」
「はやり病で身内のほとんどを失った者なのです。小金はため込んでいるし、老いてもしっかりとしているのですが、最近病で少し体が不自由になったので」
下人が金を奪って逃げる可能性が出てきた。それよりかはどこかの寺に寄進して、老後の面倒を見てもらいたいらしい。だが、前述のとおり近頃は尼寺が減っている。安心して身を任せることのできる場所は少ない。
まあ尼寺が減るのも無理はない。年寄りばかりの寺は悪人を惹きつけ、若い尼僧の多い寺は色好みを惹きつける。女は出家したとしても気を抜けない。
だから難題だとは思ったのだが、長く仕えた者なので福利厚生には気を使ってやりたい。
息子は少し考え「心あたりはあります。ただ、その者は口の堅い人でしょうか」と尋ねた。
妙な気がしたが素直に答えた。
「保証できます。その上私が命じたことは絶対に守ります」
「そうですか。では離れた地域にありますが、大変に待遇のいい場所を紹介しましょう」
彼はその者を送るための人の手配も請け負ってくれた。
「助かります。で、何を黙らせればいいのでしょう」
「先にそこに入っている者がおります。その者について何か知っていたとしても、決して誰にも語らず文にも書かないと約束させてください」
珍しく無表情に告げる彼にうなずいた。
たぶん、過去の召人(情人)でも入れているのだろう。彼にだってプライベートはある。聞きたいとは思わなかったので知らぬが、六の君や女御や更衣以外にも寵愛した女はいるのだろう。
「わかりました。誓わせましょう」
「助かります」
息子は簡潔に答え、すぐに人を呼んであっという間に動かした。私も女房に命じてその女に知らせをやった。支度もあるだろうし早い方がよかろう。
用事を果たしてほっとした。彼は茵(平安座布団)の上にゆったりと座ったまま、脇息に肘をついてくつろいでいる。時間は早いが多少の酒肴を運ばせてもてなした。
乳母子が立ち上がって高坏を運ぼうとしたので止めた。
「おまえは座ってなさい。ひっくり返っても困る」
「いえ、この程度は大丈夫です」
「休んでいなさい、無理はしない方がいい。君がいない間は母が寂しそうだった」
院からの直接の言葉を受けて彼女は恐縮した。
「いえ、ただのぎっくり腰ですから、お気を使わないでください」
彼女が小刻みに手を振るが、かまわず下がらせた。
「別に寂しがってなどいません」
「そうですか。最近は何かといろいろなうわさが飛び交っているので、心許せる女房が傍にいた方がいいでしょう」
「関係ありませんっ」
睨みつけると優しく微笑む。相変わらず人の心の揺れを楽しんでいる。それにむっとして、自分から源氏の話を振った。
「あのような暴挙を許すとは、公のチェック機構はどうなっておるのです」
「六条院のことですか」
「そうです。宇治の山中ならともかく、六条とはいえ洛内に四町もの邸を作るとは思い上がりもはなはだしい」
怒りをあらわにすると彼は「源融の例もありますし」とさらりと言ったが、かえって火が点いた。
「帝位への野心をあからさまにした男じゃないですかっ」
かつて六条に広大な河原院を造営した源融は、陽成帝が退位した時に皇位への野心を示したといわれている。
「似たような場所に作ったからには同じような野望を持っているということですっ」
「今回だけは違うと思いますが」
彼は何か知っているようだが、それ以外にあれほど広大な邸を立てる理由などありえない。
納得できないが今更私にはどうすることもできない。押し黙ると息子はやわらかな視線を向ける。
「たとえ彼が至らぬことを考えたとしても、私が阻止しますから大丈夫ですよ」
あなたが一番危険だというわけにもいかなかった。なにせ遊びで帝位を投げ捨てる男だ。何をするかわかったもんじゃない。
「とにかく、東宮だけは守り抜いてくださいね」
「もちろんです。この命に代えましても」
両手を開いて大仰な恭順を示すが、まったくもって信用ならぬ。大体彼は息子にはそれほど執着を見せない。
「三の宮ほど大事にしていれば信用するのですが」
「あの子は母を亡くしていますから特別ですよ」
「相変わらず連れ歩いているのですか」
「もちろん。あちこちの妃の元に伴いますが、大人しいので周りもあまり気にしなくなりましたね」
「女の元に連れて行くよりも、芽の出そうな臣下に声でも聞かせてやりなさい」
「当然、そうしていますよ」
これは皇女を持つ者の保険だ。世の中は急激に変わることがあるし、我々の寿命も保証されてはいない。だから赤子のうちに臣下に見せてやったりもするし、その後も多少は声を聞かせる。
それは自分の手の者とは限らない。むしろ敵対しかねない相手を選んでそうさせることがある。万が一こちらが政敵に敗れることがあったとしても、幼いうちから見知った皇女をむげにもすまいという暗黙のルールだ。
たとえば私は娘の女一の宮が赤子の頃、当時左大臣であった政敵に抱かせてやっている。
これは私が彼に対して抱く人物評とはまた別だ。気が合わない相手であるからこそあえて親しませた。
彼はすでに世を去ったが、そのためもあって彼の息子の内大臣はいつも彼女に気を配る。
ただ、私の娘の女三の宮にはほとんど会わせていない。あの子は赤子の頃から元気がよすぎたので、かえって「ほっておいても大丈夫だろう」と思われかねなかったからだ。
「ほう。誰を選びました?」
「内大臣(元頭中将)と髭黒です」
能力と政治的立場を考えれば妥当なところだ。そのことをよく理解してはいたが、それでも私はつい渋い顔をした。目ざとい息子はすぐにそれに気づいた。
「最近の噂ですね」
髭黒は最近北の方との不仲が進み、ついには三つ四つ上のその人をばあさん呼ばわりしたとまで言われている。
そのような人間性の持ち主は、うちの孫のことなど気にかけてくれないのではないか。
「そうでもありませんよ。あの男は三の宮に年の近い娘がいますからね、意外に女の子をあやすのは上手です。むしろ内大臣の方がていねいには接していますが、ややぎこちない」
「あなたの妹の女一の宮とは気が合うのだが」
「ちゃんと成長した女性には適切な礼を示しますね。それに彼女とは趣味が合うようですから」
彼は和琴の名手だし、娘も楽器全般を好んでそうす。話題は尽きない。
「てっきり源氏あたりに会わせようとするのかと思いました」
息子は口の端を上げ軽い笑い声をあげた。
「……そのつもりはありませんね」
わずかに皮肉な色合いを含んでいるような気がするが、それがなぜなのか私にはわからぬ。ただこのような時は一段と優美さが増すように感じた。
日がたっても女房たちはやたらと六条院の噂をしている。同時期にちょっと流れた髭黒と北の方の不仲説は、すぐに人の口に上らなくなった。
なにせあの男はマッチョすぎて女房たちの好みの範囲外だ。もっとも状況に変化があったとしたら、多少は流れるだろう。
源氏の四町分のその屋敷はそれぞれ四季を模しているとか、そこにその季節をイメージする女君が入ったとか、色々とかまびすしい。
私は乳母子に「史記にあるように、いずくんぞ猛士を得て四方を守らしめん、ということだろうか」と言ったが「うちと違って猛士といえるほどの女傑はいないようです」と返された。
はて、うちの女房に女傑と言えるほどの猛者がおったであろうか。
「なんにしろ、女を盾にして身を守っているように見える」
「婦人で布陣ですか。やりますね」
いつもならにらみつけるのだが、病み上がりなので容赦してやる。だが彼女はなんだかもの足りなさそうな顔をした。
「なんだ」
「いえわたくしが高度なジョークを飛ばしますと、すべてに恵まれていながらもユーモアセンスだけは欠落した大后様が嫉妬のまなざしをお向けになったものですが、今回はそれがないということはさすがにこの所キレがないかもしれないと反省しておりました」
…………こやつはあれを本気でハイセンスだと思っておったのか。
「いい年をしてくだらぬ軽口をたたかなくともよい」
「いえいえ、こちらに長くいる者はどうしても感情が薄くなる傾向がありますから、情感豊かなわたくしががんばらねば」
「女たちを勢いづかせるには、若い男の出るイベントか派手な噂話の方がよかろう」
「それはそうですが六条院の話はもう暗記できるほどに……いや、新ネタがありましたわ」
目を輝かせて報告する。
「源氏が新たな女を引き取ろうとしていることをご存知ですか」
「いや、知らぬ」
「これはまだ確定はしておりませんが、先日、出入りの市女が就活中の女がいないかと訪ねて来たので、何事かと聞いてみたところ、五条の方で人を集めている女がいると話しました。なんとなく場所を尋ねたところ、近くにいたうちの下仕えの女が、そこに住むのは六条院に仕える女だと教えてくれて」
ほかの女房が「確かなの? その女が使う人を探しているんじゃない?」などと口をはさむが、乳母子は否定した。
「市女の探している女房は見た目のいい若手で、できれば品のいいタイプがいいということでした。しかも多ければ多いほどいい、金に糸目はつけぬという話です。セレブの住む地域ではないのに妙だと思って、その下仕えの女を探索に出しました。わたしのほーむず魂に火が点いたのです」
病み上がりで退屈していただけではないのか。
「五条の女の家には謎の女がいて大事にされているようでした。その女はどうも、九月末にどこからともなくやって来てそこに住みついたようです。それ以後に女房をたくさん集めていることから、留まらずあちらに移ると見ていいでしょう」
「源氏の新しい恋人かしら」
「どうせ古物よ。そんな人ばかり集めてるでしょう」
彼の噂になると女たちは活気づく。何人もが加わって勝手な論評を加えている。
乳母子は得意げに推理を披露する。
「古物でしたら二条東の院に入るでしょう。それならそれほど人は集めませんよ。なんか尼さんが入った時も地味だったし」
「あれは尼さんだからじゃないの。でも、あの人も若い時つきあった相手らしいわよ」
「いいわねえ、あの圧倒的に美しかった若い時分の源氏と付き合えて、なおかつ老後保障も手に入れるなんて」
わいわいと騒いでいたが一人が「実は彼の落とし胤の娘ってことはなくて?」と言い出した。すぐに一人が否定する。
「もし娘がいたのなら行方知れずにはしないでしょ。貴重な玉なんだから」
「そうそう。たとえ下仕えの女との子だったとしても、誰かに預けてロンダリング済みよ」
「女の方が黙って行方をくらましたとか」
「須磨に流れていた時はともかく、最近の羽振りを知れば大手を振って現れるわよ」
「だけどすぐに来なかったということは相当昔のお相手か、そうじゃなかったら源氏の娘と偽った人じゃない」
「ニセモノを引き取る?」
「引き取るんじゃない、美人だったら」
みなどっと笑い、源氏の過去の噂の復習を始めた。
聞くともなく聞いていたが、途中からは自分の考えに入り込んだ。
若い時分の子だとしたら、須磨や明石以前のことだろう。
彼には、明石の女以前に娘はいなかった。息子さえ一人だけだ。と言うことは、女房の言うように男であれ女であれ貴重な宝子は、どんな者との間に生まれても大事にしたはずだ。
女が人妻で最近その男が死んだとしたら。
いやその場合は女房の里になど置かず、そのものの里から二条東の院に直通のはずだ。
やはり女ではなく娘で、その子の母が人妻で夫の子として育てていたとしたら。太政大臣托卵の噂を振り切る為にいったん女房の里に預けることもあるかもしれない。
しかし、実子の場合市女の集めた女のような得体の知れぬ女房を身近に置くだろうか。
源氏は今春の町で育てられている娘の乳母をわざわざ本人が面接して決めたと聞く。較べると雑すぎる。
もし源氏の娘なら母は誰であれ帝や東宮の下に上げることも、他の有望な公達に与えることもできるのだ。
「なんにしろ大事な女じゃなかったら、六条院には入れないと思うので注目しておきましょう」
単なる過去の情人だったら東の院に入るだろう。女たちはそう結論づけた。
やはりその女は六条院に入った。三両ほどの女車で夜中にこっそりと移ったようだ。十一月のことだ。
「夏の町に入ったようですよ」
「ふうむ」
そこに落ち着いてしばらくすると、また噂が漏れ出てくる。
謎の女は若く美しいらしい。源氏の娘だと言われている。
男たちに広まる前に、女たちが話を吟味する。
「若いと言っても二十すぎらしいですよ」
「普通なら、もう夫を決めているはずの年頃ですわ」
「裳着もまだだそうですよ。急ぐべきではありませんか」
「越したばかりでは落ちつかないのでしょう」
女たちのつながりは今いる場所だけではない。母や姉妹や親族や下仕えなど、様々なネットワークで話の触手を伸ばす。
だがその女の素性は伝わっては来なかった。ただ、玉鬘の姫君というあだ名だけが耳に残った。
「絶対に娘じゃありませんよ」
乳母子が拳を握って主張する。
「ありゃきっと、まだ手を出してない女ってだけです」
「ならすぐに出すのではないか」
「山ほどいる夫人方に気を遣ってるのでしょう。とりあえず夫を定めてからそれを隠れ蓑として囲い込むつもりですよ」
特に根拠のある話ではないらしい。まあ想像はタダだ。少しでも彼女が元気を取り戻してくれるのなら、源氏がしっちゃかめっちゃか言われようと別にかまわない。
「まあよい。そのうち知れてこよう」
「一、二年の内には事情がわかりますわ」
そう言った別の女房の声に、乳母子がほんのわずかに目を細めた。こちらが尋ねる間もなくまた手を握って「早めにわかるといいんですけどね」と声を大にした。
「あの色好みの浅ましい本性が大々的に晒さればいいんです」
「相変わらず上の世代には人気がありますが、最近の若い子たちの好みはまた別ですね」
「彼のご子息の夕霧の君や、内大臣の太郎君なんかが話題に上りますね」
「でも源氏一色だった昔と違って、好みで分かれる感じですわ」
「顔立ちでいえば夕霧最強だと思いますが、真面目すぎて」
「あら容姿は帝が一番でしょう」
「帝は別格ですからね。やっぱりお二方が人気です」
新世代はどうでもよかったが、女房たちがはつらつとしているのは好ましかった。
翌日は孫の女二の宮が来た。少々地味で内気だが、芯の強そうな子だ。
はにかみながら挨拶するのを受け少し会話したが、つき添いの母である更衣がすぐに割り込んでくるのがうっとうしい。
好みなどを尋ねると「琴が好きです」と答えた。とたんにその母が「大した腕ではありません」などと口を挟んでくる。ひと睨みで黙らせ、余興として要求すると少しだけ箏を奏でた。年の割には悪くない。
「うむ、筋はいい。心して励むように」
「ありがとうございます、おばあさま」
消え入るような声で礼を言う。はらはらと見守っていた更衣が「達人である大后さまの前でつたない音を」とか、くだくだ言い出したのでうるさくなって早々に帰した。
この更衣のことを才ある女だと誉める者もあるが、大したことはない。
「あまりご両親に似ていませんね」
「あのようにシャイな所は、むしろ私の若い時に似ているかもしれぬ」
「へくしっ」
乳母子が思いっきりくしゃみをし「それはあまり賛同できませんが」などと控えめな声を出した。
人の記憶は薄らぐものであるから、高貴で華麗な現在のイメージが強すぎて、可憐ではかなげな美少女時代の私の存在を忘れがちなのであろう。
「ですがお美しかったのは事実です。失礼ですが姫宮さま方よりもずっとお綺麗で、さすが頂に上られる方は容姿も気概も人とはかけ離れていると敬意を抱いたものです」
珍しく本音を言うではないか。
「うむ。父など地上に舞い降りた天女ではないかと言っておった」
「ええ。あの入内の折りの桜襲の姿は今でも思い出せます。右大臣家の姫君はみなお美しかったけれど、私の姫さまは最も美しく最も賢い方だと心から誇りに思っておりました」
こう正面切って言われると、さすがに少々こそばゆい。
「事実ではあるがそのぐらいにしておけ。次世代の者の耳にでも入ったら、足元にも寄れぬわが身を嘆いて引きこもってしまうかもしれぬ。私は身内を圧迫するつもりは毛頭ない」
「大丈夫ですよ。時の流れは悲しいものだなあ、としか思いませんよ」
きっ、とにらむとこやつは不謹慎にも口元を緩め、にっと笑ってこちらを見た。いつもの見慣れた表情だった。
秋の名残りの豊穣は色濃い紅葉となって燃え尽き、散り果てて時雨に打たれ人に踏まれ、地の肥やしとなった。うら枯れた冬の気配は、この雅やかな朱雀院にさえわがもの顔にのさばる。
いまだ雪の降らぬ寒いだけの日々は人の気持ちを暗くして、また女房たちが無口になった。
内裏では最も重要な神事である新嘗祭を中心に、宴や舞姫に沸き立つが、こちらは静かなものだ。
下の酉の日には例年通り賀茂の臨時祭も行われたが、休んで見に行った女房たちの口の端に上っただけだ。
世の中は落ち着いていて、人々は個人的な不満はあれど公を揺るがすほどの不幸はなく、若く美しい帝は無能であろうが有能であろうが平安の世に飾っておくにはふさわしく見えているようだった。
息子は変わらず、なまめかしさが性のようになってますます人とかけ離れてきたように見える。
もはや引退した身の上で、まるで帝であるかのように華やかに暮らす源氏とは対照的なほど控えめに過ごしているのに、彼の元を訪ねる者は途切れない。
祖父の与えた力だけではなく、静かで親しみやすい彼の魅力に惹かれているらしかった。
けれどそれは私の心に大した感慨を与えない。そうであろうなとうなずくだけだ。
この分ではさすがの私も女房たちと同様、虚を抱える日が遠くないのかもしれぬ。
「いえ、ありえませんよ。無気力な大后さまなど上品なマントヒヒか美貌のウアカリ、知性あふれるハダガデバネズミかボーイ姿のゴルゴ13ぐらい無理な設定です」
「ゴルゴ13は実際にある。あんなデカいボーイがいるかとつっこみたくなったわ」
「知的なハダカデバネズミも読んだことがあります」
乳母子の声に他の女房も反応した。すると彼女は勢い込んで「つまりフィクションでしかないってことですよ。リアルな大后さまに空虚な瞳は似合いません」と言い切った。
他の女房たちも「私たちも何となくぼーっとしがちですが、しっかりしなくては」と微笑んだ。その言葉に乳母子は深くうなずいている。
「ですよ! なにせわたくしたちは世に名高い元弘徽殿の女房なんですからね。いえその頃はいなかった子たちもいるけれど、伝統は受け継いでいきましょうや!」
彼女はみなを元気づけると、くるりと振り返って私に詰め寄った。
「そのためにも琴を弾いてください」
私は彼女を見返した。最後に奏したのはいつだろう。
平穏すぎる日々が続き、いつしか琴に触れることさえもの憂くなっていた。
自分が弾かずとも、娘や孫やたしなみのある女房たちが音を立てればそれでよいとし、終日池のたゆたいを眺めていた。
長く怠った私の指は、もはや昔のようには動かない。
「…………その気はない」
過去の伝説を無に帰すぐらいならもう二度と琴など弾かず、失われた栄光を当時のままに輝かせておきたい。
だが乳母子は、正面から強いまなざしで私を見た。
「恐いのですか?」
「そんなわけがなかろうっ!」
つい怒鳴ってしまったせいで、近くにいた女房たちが胎児の姿勢で身を守っている。
「じゃあ弾いてください」
「そんな気分にはなれない」
彼女はぐいと間を詰め、無礼なほど私の間近に寄った。
「逃げるのですか? 世に名高い大后さまが」
「やかましいっ!」
絶叫すればほかの女房たちはうずくまったまま転がって逃げるが、乳母子はただの一歩も引こうとはしない。
「こちらにだって都合があるのだ」
「どんな都合です? 言い訳じゃありませんか」
「主人に向かってその言いぐさはなんだ!」
「道を誤っている主を正道に戻すことも従者の使命ですっ」
なんとこやつも怒鳴り返してきた。
落ち着こう。Be cool. 同じ次元に落ちてはならぬ。
私は息を吸い込み、何とか穏やかな声を出した。
「逃げるのではない。だがもう、昔のような音は出せぬ」
ストレートに語った。政から離れた者にとっては、正直さはやはり美徳だ。見栄を張っても仕方あるまい。
だが乳母子は、予想外にも更に責めたててきた。
「ならば、今の音を出せばいいのです。年を重ね失意を味わい、思うにまかせぬ現在をそのままぶつければいいのです」
「思うにまかせぬわけではないっ」
「それならばその喜びを、違ったとしてもその悲しみを聞かせてください!」
「指が動かぬと言ったであろうっ」
「かつてあなたは、音の核は魂だと教えてくれたではないですかっ。指が動かないくらいなんですか! あなたのその魂は少しも変わらないっ」
相手がどのように言おうとも、受けるつもりはなかった。だが、彼女は恐ろしく物わかりが悪かった。
「稚拙な技では何も伝えられない」
「わたしにはわかります」
いつもの彼女より低い声がピシリと響いた。
「…………わたしのために弾いてください」
呆然と彼女を見た。
摂関家の大姫(長女)として生まれ、帝の添臥として選ばれ、彼の最初の子をうみ国母となった女の命に逆らって、一介の従者が大きな口を叩くことだ。
だが彼女に、普段の軽さは欠片も見あたらなかった。
「この一曲のために命をとられてもかまいません。わたしはあなたの現在の音が聞きたい。過去の音全てを引き替えにしても」
彼女の瞳に濁りはなかった。
私は不機嫌に、うずくまる女房に命じて娘の女一の宮の元に琴の琴を借りに行かせた。
「どれほど音が鈍ったかとくと聞け! そして思う存分嗤うがいい」
全身の力を込めて彼女を睨むが動じなかった。
「聞かせていただきます。わたし自身の魂を賭けて」
ふん、と鼻を鳴らし指をほぐして準備していると、どうやら廊を走ったらしく最速で女房が戻ってきた。その腕には紺地錦の袋に包まれた琴が抱えられている。
かつて宜陽殿に納められていた大変な名器だ。かそけき音なのに不思議と遠くまで響く。光源氏も愛してやまなかった国宝だ。
七絃琴(琴の琴のこと)を置かせて、少し鳴らして調子を整える。娘が使っていたのが幸いしたか、絃の具合もよかった。
大声をあげて宣言する。
「遠からん者は音に聞けっ。近くば寄って目にも見よ! その昔内裏にこの人ありと称えられた、伝説の弘徽殿の女御、いざ、参るッ!!」
聞けわが音を。かつてを無にするなれの果ての音をっ。
荒ぶる気持ちとは裏腹に静かな音が出た。
以前の音とは違う。凍えるような冬にふさわしい枯れ果てた響きだ。
琴の琴はなまじの人には弾きこなせないと言う。理由の一つは季節ごとに変わる調子のせいだ。
春は呂(長調)の双調、他の季節はみな律(短調)で夏は黄鐘調、秋は盤渉調そして冬は平調だ。
それだけではない。その決められた調子を、その日その時の寒暖によって緩めたり強めたり微調整する必要がある。
冬の平調に合わせた音に骨身にしみる冷たい気を取り込み、夕暮れまではまだ間のある薄白けた午後の陽光を加える。
寒々しい空、凍てつく白砂、鳥さえ見えぬ陰鬱な鈍色の広い池。
松の緑さえくすんで見える今日の朱雀院の柏殿周辺を、そのままシンプルに読み込んでいく。
飽きるほどに眺めた景色が目の前に広がる。まるで池の中島にいるようだ。
魚の跳ねる音がする。そちらに目をやると、ふいに水面が割れた。
そのまま指先を止めずにいると、裂け目から青い何かが昇ってくる。
----青竜?!
それは紛れもなく四神の一つだ。蛇身に似た巨大な姿をくねらせて音を食べている。
----その程度の音では腹の足しにもならぬであろう
どうせならもっと温かいものを喰らわせてやりたい。そう望むと、琴は心を読み取ったらしく素直に従い曲は双調に変わった。
寒さが薄らぎ梅の香が漂う。少しやわらかな白梅の香だ。
そう思った瞬間、目の前が白梅の木で占められている。
花を咲かせているのは神さびた古木で、海原を渡る竜のようにその幹を低く這わせている。
青竜はその狭間を飛び、花に変わった音を食べている。
----梅ばかりでは飽きよう
そう思うと今度は桜が呼ばれた。やはり時を経た古い木で、悠久の時の流れを花に変えて美しく咲き誇っている。
喜んだ竜が口を開いて花びらを呑みこもうとすると大風が吹き、桜吹雪が辺りを包んだ。
風に驚く指先は自然と調子を変え、黄鐘調に移りゆく。
呉竹の葉鳴りの陰に花橘の垣根。そこにとまるは香を懐かしむ時鳥か。
この鳥は、この世とあの世を行き来するという。それが本当なら、あの方へ私の想いを伝えてほしい。
鳥は羽ばたき空へと消える。限りなく明るい夏の空だ。
白い雲が水面に影を映し出している。
それがまた、割れた裂け目に沈み込んだ。
水面からは巨大な鳥が現れた。朱雀なのか鳳凰なのか、大きく翼を広げている。
緋色に近い朱色を主体に何色かの差し色が入っている。晴れの日に帝や上皇の着る赤色によく似た焔の色が目を引く。
かえりみすれば青竜も消えず、遊びに誘うようにしきりと身をくねらせる。鳥はそれに応え、巨大な体を宙に放った。
月のように薄青い鱗をひらめかす青竜と、朱夏の陽に似た羽根をそよがす聖なる鳥が天空に舞う。盆と正月が一緒に来たような華やかさだ。
地上では桐が薄紫の花をつけ、その近くには藤がもっと色濃い花房を揺らしている。
その二つに見とれていると、桐によく似た形の別の木の葉が一枚落ちた。
一葉落ちて天下の秋を知るーー淮南子だ。とするとこれは梧桐だ。わが国では桐と混同されることが多い。
よく見ようと目を向けると、その葉がいっせいに散り辺りをおおった。
左手で徽の位置を押さえて揺すり、右手をしなやかに走らせて絃を弾く。それを正確に実行しているはずだが私にはもう、奏でているという意識はない。音と共にあるだけだ。
それでも調子は盤渉調に変わり、過ぎたはずの秋がなおいっそう鮮やかによみがえる。
紅葉の錦が織り出され、水底にも同じ景色があるかのように映し出されている。
秋の陽は柿の実を色づかせ、自らも紅に染まり、気高き鳥の焔の色を濃くする。
すべてが豪奢な茜に染まり、これ以上の美しさは世にないのでは、と思った瞬間に、反転したかのように青い闇が包む。
紺色の空には銀の月。ひんやりとした光が青竜の鱗を輝かせる。
自ら発光したように見えるほど月の光になじんだ姿が、もう一つの至上の美を見せる。
秋の夜の中天の空に飛天する竜の、この上なくのびやかな姿。
さやかな月影を受けて、地上では松風が吹く。清らかで寂しい風景だ。
そこに人影はない。誰ひとりいない。女房たちの姿さえない。乳母子もいない。
気づけば空にいた竜も鳥も消えている。音はまた平調に戻る。
雪のない冬は趣もなくひたすら厳しい。
だがたぶん、それは私にふさわしいのだろう。
前にも後にも人はなく、力さえない孤独な空白。
辺りにはもはや風景さえもない。ただ虚空に風が吹く。
けれど後悔するかと尋ねられたら、馬鹿にするなと瞬息で答える。
聞け、わが音を! 見よ、わが生き様を!
どのような想いを抱くかは感じ取れ、もはや語るまい。
私はきつく歯を食いしばり、かじかむ指先を無視して限界を超えて走らせた。
風はびょうびょうと凄まじい音を立て、降りだした氷雨が骨まで凍らせる。
それでも私は弾くことをやめない。誰も私を止められない。
音と共にあり音を支配し、音に焦がれ音に殺される。
本望だ。何の不満があろうことか。
そう思った瞬間、声のない泣き声が辺りを揺るがした。
----?
冷たい雨が温かくなった。何事だろうと空を見ると、大きな鬼神が男泣きに泣いている。
「泣くこともなかろうに」
むしろ嗤えばよかろう。そう思うのだが鬼が大泣きするのでさすがに手を緩めた。
とたんに鬼神は消え、私は柏殿のいつもの御座所にいた。
もちろん濡れてはいないし、大して寒くもない。
女房たちはみな泣いていて「浦島太郎の気分ですわ」「わたくし確かに竜を見ました」「わたしは桜を」「わたしは鳳凰らしいものを」とか語っている。
中の一人が「わたしは鬼神を見ました」と言い出すと、別の者が「名人の琴の琴は天地を揺るがし、鬼神を泣かすと言いますものね」と応えた。
急に気分が盛り下がる。まだ天地は動かせなかった。
不満を抱えたまま乳母子を見ると、彼女はまだ目を閉じていた。声をかけずにいると、廊の方から凄い勢いの衣擦れの音がするので、誰だまったく無礼な、とむっとするとわが娘の女一の宮だった。
はて面妖な、普段は品よくおとなしやかな方なのに驚いていると、今しがたの私より不機嫌な顔で茵も敷かずに目の前に座り「ひどいわ」と言った。
「……何がだ」
「お母さまより劣るのは承知しています。だけどこれでも必死に努力しているのです」
「認めるにやぶさかではないが」
「なのに、どんなに努力しても一瞬で及びもつかないほど遠い所へ行ってしまう。本当にずるいわ」
もしかして、誉められているのか。
「仕方があるまい。過酷な人生であったから、音に凄味が出るのであろう」
「ええ。でも弱点はおありだったから、私はその辺を究めようとしたのに」
「弱点?」
「音に抜け感が足りないと思っていましたのに、いつのまにか枯淡の境地まで達して、そのくせ小娘より軽くもできるのですもの。もう、同じ楽器を弾くのは辛すぎるわ」
一通り文句を言うと少し笑み崩れて「お母さまの娘であることを誇りに思っていますわ」と呟くとさっさと膝立ちになって暇を告げた。
少し嬉しかったが、まだ私も精進が足らぬ。天地を動かすまで頑張りたいと思う。
まあとにかく今日の所は終わりだ。ふう、と息を吐くと乳母子が神妙な顔でこちらを見ていた。
「気が済んだか」
尋ねると彼女は平伏し、頭を上げるとひとこと口走った。
「…………あなたの生き様が音楽です」
まあ否定はしない。乳母子はもう一度深く頭を下げた。




