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源氏夢想譚  作者: Salt
第四章
85/89

六条院

源氏三十四~三十五歳

ほぼ源氏側視点

 試験に通った源氏の息子・夕霧は進士(しんし)文章生(もんじょうしょう))となった。合格したのはわずか三人、その中の一人である。

 源氏は内心相当に得意だったが表面には出さず、祝いに来た者にも「この程度のことで来なくていい」と伝えさせた。


 夕霧にも「当然のことなのだから、気を抜かずこれからも精進するように」と告げ、動じないカッコイイクールなお父さんをやったつもりである。


 実は嬉しくて仕方がなく二条邸の自室である東の対で、蒸しアワビやハマグリの(あつもの)(セリ)を添えたものなどを(サカナ)にして上品に瑠璃(るり)の杯で祝杯をあげていたが、そのうち酔ってきたので女房に銚子(ちょうし)(巫女さんの使う長柄のアレ)でつがれるのがうっとうしくなってきて、瓶子(へいじ)(平安とっくり)に代えて手酌で飲み、盃も土器(かわらけ)に代えて時たまフリスビーをして遊び、さらにB級グルメが食べたくなって「サバか鰯を焼け!」とわがままを言った。


「え、そのような品下れるものを」

「アレはアレでうまいんだよ! 私のようなセレブはめったに食べられないんだ。持ってこい」


 女房たちは下人の住む下屋の方に行って、晩御飯のおかずにしようとしていた塩漬けを取り上げ、ここらで焼かせようと(くりや)(キッチン)の者を呼んだところに、別の女房がやってきて「ここで焼くと冷めるから目の前で焼くようにと仰せです」と伝えた。


「あの品のいい東の対で? 無茶でしょ」

「ほら、高貴な方の目の前で調理するのは高級なもてなしでしょ。この間の朱雀院(すざくいん)であったんじゃない」

「鰯は焼かないでしょ、鰯はっ!」


 文句は言っても主人の意向だ。下人に用具を抱えさせて連れて行き、白砂の上に火炉(かろ)を置かせてじゅうじゅうと鰯を焼かせた。


「殿、あの、骨をとります」

「いらん! 須磨(すま)で慣れてる。いいから熱いうちに食べさせろっ」

「そうだ、そうだ! 身離れがいいからカンタンだ!」


 いつもは源氏の無茶を止め、なおかつ教育的指導を加えてくれる乳母子(めのとご)が先に飲んだくれている。女房が首をかしげた。


「どうしちゃったの惟光(これみつ)さん?」

「若君は合格したからもっと内裏(だいり)にいらっしゃるでしょ。そして本命の内大臣の姫君には会えない。ということは典侍(ないしのすけ)になった惟光さんの娘さんに接近する可能性が高い。そう考えたみたい」

「割合ありかも。お子ができたらいける気がするわ」

「なるほど。フリーなうちに先行すれば逃げ切れるかもしれないわね。よっしゃ、わたしちょっと用事できたからこの場よろしくね」

「ちょ、待ってよ。抜け駆けは許さないから!」

「アナタ殿に熱上げてなかったっけ?」

「競争率と将来性を考えるとねー」


 固まってこそこそと語り合う女房に源氏が叫んだ。


「もう一尾焼かせろ」

「いや二尾焼いてくれ」

「あ、わたしにもお願いします」


 惟光に続いて良清(よしきよ)が手を挙げた。こちらは別に酔ってはいない。

 女房たちが顔をしかめて命じるともくもくと煙が高く上がり、普段はハイソな趣の二条院が煙に包まれた。



 翌日は二日酔いである。

 南廂(みなみびさし)に惟光も転がってうなっている。源氏はさすがに御帳台(みちょうだい)に運び込まれたが、やはり起き上がれそうにない。良清一人が幸せそうに粥を食べている。


「よく入るな……」


 惟光がうめくと良清は「食う? 燻製の鮭のせてるけどうまいよ」と応えた。


「いい。当分飯はいらない。魚のにおいもキモチワルイ」

「昨日あれだけ食べたのに」

「だからだ。うえっぷ」


 苦しそうにしていると、白砂を踏む音がして靫負尉(ゆげいのじょう)が現れた。


「ごめん、昨夜宿直で……ひどいな」

「何が?」


 良清が尋ねると彼は顔をしかめた。


「魚のにおいだよ。ここに来るまでも気になったけど、邸内にすごく残ってる」

「そうか? 今は別に感じないけど」

「鼻が慣れたんだろ」

「すみません、すぐに香を()きますね」


 女房が恥ずかしそうに立ち上がると尉が止めた。


「いや、やめた方がいい。においが混ざるとバイオテロだ。それより格子(こうし)を全て開けて風を通した方がいい」


 彼女たちが素直に従うと、二月(現三月)下旬のまだそれなりに冷えた風が吹き込み、源氏が一つくしゃみをした。


「これはいけない、(ふすま)(平安ふとん)をもう少しかけましょうか」

「いらない」


 力なく断りを入れていると、きっちりと身じまいを整えた女房が西の対からやってきた。


「殿はまだお休みだけど」

「いえ、対の上(紫の上)からご伝言でございます」


 転がったまま耳をそばだてると「昨夜はお楽しみでいらしたようですね。けっこうなことですが、ご身分にふさわしからぬ食物を召し上がることはお控えになった方がよろしくはないでしょうか、とのことです」と、うやうやしく伝えた。


 源氏はむっとしたが、どうにか身を起こして冷静に確認した。


「誰か報告したのか?」


 女房は首を横に振った。


「聞くまでもございません。昨夜は静かに過ごそうと、姫を連れて西の対にいらっしゃいましたが、雅ならざる煙がそちらの方まで漂ってきて、品よくお暮しになっている上がたいそうお困りに」


 憮然たる顔で源氏が「申し訳ないことをした。先日朱雀院で舟遊びをしたので、つい須磨にいた頃のことを思い出し、当時の苦労を忘れないために粗末なものを食べようと考えました。ずっと都にいたあなたはわからないでしょうが、食事もそのようなものを口に運ぶしかなかったので。そう言ってやって。昔の苦労は特に強調しておいてくれ」と告げる。


 女房が了承し、足音が完全に消えてから惟光が源氏をにらんだ。


「食べたかっただけじゃないですか!!」

「まあ、そうだけど」


 すまして答えたが、急にむくれる。


太政大臣(だじょうだいじん)になっても、鰯一つ食べられないのか」

「大臣だからじゃないですか。もっといいもの召し上がればいいでしょう」

「たまに食べたくなる! 思い出さないのか、あのアツアツのやつを飯の上にのっけてがーっとかきこむうまさを」


 まあまあ、と良清がなだめた。


「あれは男所帯だからできたことでしょう」

「いっしょに食べろって言ってるんじゃない」

「いやでも、あの上品な雰囲気の対の上の前ではきつくありませんか」


 尉が控えめにそれを止めた。だが源氏は憤ったままだ。


「忘れてた時はともかく、思い出したからにはまた食べたい」


 良清が提案した。


「別の方の所で召し上がればいいのでは」


 源氏もうなずきかけた。花散里(はなちるさと)だったら許してくれるような気がする。

 だがダメだ。ここから西の対までにおいが行くのなら、東の院で焼いても他の女君の所まで煙るに違いない。それは精進しているはずの空蝉(うつせみ)の尼君に申し訳ないし、さすがに末摘花(すえつむはな)にだって恥ずかしい。


 ひとしきり考え、ふいに源氏は真剣な顔で仲間を見渡した。


「邸を作る!」

「いやだから、東の対から西の対までにおってるんですよ。これ以上離すのは難しいでしょう」


 惟光の声に源氏は口の端を持ち上げた。


「そう思うのがしょせん一般人の発想だな」

「って、どうするんですか」

「フツーの四倍、四町分の邸を作る。そこの一つに花散里だけを住まわせる。そこで思う存分鰯を焼かせる!」


 あちゃーという顔で皆が見ている。だが源氏は一人ドヤ顔で「もう決めたから」と宣言した。だが尉が「この辺りだと住んでいるのはみな由緒ある方ばかりだから、太政大臣であっても四町分確保するのは難しいのではないでしょうか」と進言した。

 惟光も「そうそう。二条の院からは毎度鰯のにおいがする、などと噂されるのもイヤでしょ」と止めた。


 だが意見を変えたくない源氏はしばらく考え、すぐに名案を思い付いた。


「六条に中宮(ちゅうぐう)の里があるじゃないか。あの辺りは大した者の住まいのない閑静な土地だ。ご近所を立ち退かせるのもそれほど手間はかからないだろう。庶民も住む地域だから鰯を焼く者も多いだろうし。あそこに邸を作ろう!」


 こうして、六条院の計画はなされたのである。



 どうせなら広く見どころのある感じに作り、気がかりな山里の人、というかぶっちゃけ明石(あかし)の君も連れてきて住まわせようとちゃんと計画を立てた。


 予定どおり六条京極の辺りの中宮の邸を組み入れて四町の分の町を手に入れ、さっそく基礎を作り始めた。


 さすがに多少は手間がかかり、その年も押し迫ったてきた。その間秋の司召(つかさめし)(人事)で夕霧は五位になり、帝近くに仕える侍従(じじゅう)の役もいただいた。

 位階に合わせて(ほう)の色も赤に変わったので、機嫌よく出勤している。


 築山(つきやま)はこうして、植える木はこんなもの、邸の感じはこういう風にといろいろ忙しくしていると、紫の上が何か言いたそうにしている。

 育児系のことかなと見つめると、少し恥ずかしそうに目を伏せた。自分からは言い出せないらしい。


 まさか子供が、と夢のようなことを考えたがそんな風な照れではない。しばらく考えて事情を察した。


「そういえば、あなたの父上は来年になれば五十ですね」


 式部卿(しきぶきょう)のことなどどうでもいいわーと思うが、この愛しい人を悲しませたくなかった。スルーはできない。


「お祝いをしなければなりませんね。できれば新居で」

「ええ」

「プログラムや人事関係は私がやりますから、あなたはお経の用意や仏像の飾り、当日の衣装やお坊さんへのご褒美などをお願いします。費用はいくらかかってもかまいません。あ、東の院の花散里にも頼みましょう。あの人もそういったことはとても上手ですよ」

「ありがとう。相談してみるわ」

「あの方の姉上が亡くなった時にあなたが親身になってくれたので感謝しているようですし、この機会に付き合いを深めるといいでしょうね」


 嬉しそうに笑う彼女はいまだ少女めいて、とても子育て中には見えない。

 彼女をもっと喜ばせたくなって、六条院を先延ばしにして式部卿の賀の祝いの準備を整えた。


 このことは式部卿の耳にも入った。

「他には寛容な源氏の君もうちに関してはことのほか冷たく、ことさらに辱めることがあった。須磨のことを恨んでいるのだろう」と思っていた彼も、期待に胸をとどろかせた。


 はたして五十の賀は盛大に行われて、式部卿の面目も立った。今までは特にメリットもなかったが、源氏の数ある女君の中でもことに愛され、世間にもほめられる娘を持つことをほまれに思っていた彼は、老後の栄光として有頂天になった。


 もっとも彼の北の方は自分の娘の入内(じゅだい)の際に、源氏が何の手助けもしてくれなかったことなどを恨んで、不愉快だとさえ思っていたらしい。



 そんなこんなで多少遅れたが、翌年の秋真っ盛りの八月半ばに六条院が出来上がった。

 九月(現八月)は引っ越しには向かない月と言われているので、その月のうちの彼岸の頃に移った。


 西南に位置する秋の町は、御息所(みやすどころ)の名残りを残した中宮のための場所だ。


 元からあった築山に、錦と見まごう紅葉(もみじ)など色鮮やかな木を選んで植え、その間に澄んだ泉の水を引き込んで流した。わざわざ滝も作ったので、岩に落ちる水音がすがすがしい。

 広々とした秋の野ができていて、ちょうど季節なので萩の花が咲き乱れている。嵯峨(さが)の大井辺りの野山でさえ圧倒されるほどだ。


 流れる水は南池に集まり、鏡面のように秋の色を映す。

 その池はそのまま東南にある春の町につながる。

 ここは源氏と紫の上、明石の姫君の住む場所だ。


 築山は小高く作り、爛漫たる盛りの頃を夢見て春の花の木を数多く植えた。

 ゆったりとした池の様子は面白く、殿舎(でんしゃ)近くの前栽(せんざい)(植え込み)としては、深い緑の五葉の松、香り豊かな紅梅の木、おびただしい数の桜、忘れがたい藤、八重咲きの山吹に山つつじ。

 けれど今の季節の風情がまるでないのももの寂しく、秋の木も目立たぬようにあちこちに混ぜた。


 東北は夏をイメージする。住むのは花散里だ。

 こぽこぽと水を湧き出す涼しげな泉が木陰にあって、植えられた木を潤している。

 前栽は風が吹くたびにさわやかな音を立てる呉竹(くれたけ)を選んだ。

 築山は、麗景殿(れいけいでん)女御(にょうご)と暮らした里を思わせるように、小高い森の木をうっそうと茂らせたので、吹き渡る風が山の香を運ぶ。


 山里めいた()の花の垣根、昔を懐かしむ花橘。撫子(なでしこ)薔薇(そうび)など様々な夏の花。その中に春秋の木や草を彩り程度に混ぜた。


 この町の東正面に馬場を作り五月の遊び場として、池のほとりに菖蒲を茂らせ、その向かいの(うまや)には世にも珍しい名馬をそろえた。


 明石の君を呼ぶ予定の西北の町は、北の方に壁を作って御倉町(みくらまち)とした。

 隔ての垣に唐竹(からたけ)を植え、過去のよすがとして松の木を置いた。ここに雪が積もる様を眺めようという趣向である。


 冬の初めの朝霜を楽しむための菊のまがき、焔を灯したように赤くなり得意顔する(ははそ)の原。名も知らぬ深山木(みやまぎ)も、割と立派なものを移植した。


 一気に引っ越そうとしたが騒がしいので、紫の上と花散里が先に移った。


 前駆(さき)の者も少数精鋭で大げさにはしていないが、四位五位の者がほとんどで六位の者などは蔵人(くろうど)など選び抜かれた人だけだ。


 花散里の側も夕霧が付き添って気を配るので、紫の上の行列にほとんど見劣りすることはなかった。


 五、六日ほど過ぎて中宮が六条院に下がったが、退出の儀は簡単にといっても華々しい。たいへん世間に尊重されている。

 秋の町の殿舎に落ち着いて少し日がたち九月になると、前栽の紅葉が互い違いに色づいて大層美しい。

 思い立った彼女は風のうち吹く夕暮れに、紫の上に使いを送った。


 大柄な女童(めのわらわ)が濃い紫色の(あこめ)を着て、その上に季節にふさわしい紫苑(しおん)、つまり表が蘇芳(すおう)(赤紫)裏が青(といっても緑色)の織物を重ね、さらにその上に赤朽葉(あかくちば)(くすんだみかん色)の(うすもの)汗衫(かざみ)を着て、物馴れた様子で廊や渡殿(わたどの)反橋(そりばし)を渡っていく。

 春の町と秋の町は塀で分けてはあるけれど、建物どうしもつないでいるのだ。


 本来なら女房をやるべきなのだろうが、かわいいお使いにだれもが微笑む。内裏で働く童なので、立ち居振る舞いなども見事なものだ。


 届けられたのは硯箱(すずりばこ)の蓋に色とりどりの花や紅葉。風に吹き寄せられたように上手に配色してある。添えられた和歌は楽しくからかっていた。


 心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ

(心から春をお待ちのそちらでは、今を盛りのこちらの紅葉を指をくわえてごらんなさいな)


「まあひどい。いいわ、こっちも仕返しするわ」


 対等に挑まれたことのない紫の上には喜んで、同じ蓋に苔を敷き見事な岩の作り物を置き、五葉の松の枝に文を結んだ。


 風に散る紅葉は軽し 春の色を岩根の松にかけてこそ見め

(風に散る紅葉なんて軽くってダメよ。こちらの春の美しさを、重い岩根の松にかけてみてほしいわ)


 源氏は返しを送ることに反対した。


「あちらの文はこしゃくですね。でも、返事は春の盛りにすればいい。今紅葉をけなすと秋の龍田姫が気を悪くしちゃいますよ。春の花を後ろ盾にしてこそ強く言うことができるでしょう」


 と若々しく魅力的に微笑んだが、紫の上はスルーして中宮に送った。

 彼女はそのとっさのウイットに感心し、女房たちもそれをほめた。


 意見を聞いてはもらえなかったが、住まいも新しくなり女たちの関係も落ち着いている。源氏は自分の手腕に自信を持った。ちょうどこの頃彼はもう一つ気になることが出てきたが、それはこっそり進めている。



 ほかの女君が大体落ち着いた十月、明石の君がひっそりと移ってきた。

 姫君の実母であることを意識して、室礼(しつらい)(平安インテリア)や引っ越しの儀式は他の人と変わらぬように整え大事に迎えたが、冬の町は寝殿(しんでん)を持たぬ造りなので、やはり格下ではある。

 ただしその財は、中宮はともかくとして他の女君と違って個人のものである。



 全員の引っ越しが終わり、壮麗な六条院の生活が日常のものとなってきた。

 さっそく源氏は夏の町に渡り、花散里に鰯をねだった。


「え、こちらで焼くのですか?」


 さすがの花散里も新居を燻らせるのは嫌だったらしく、否定的なニュアンスで尋ね返した。

 源氏は言葉を尽くして口説き始めた。


「ええ。理由があるのです。それはあなたが心配だからです」

「?」

「このように通例よりゴージャスな邸を立てたわけですから、死霊や生霊の妬みが住人に襲い掛かる可能性があります。ですが秋の町の中宮は、もともとの住まいでもありこちらで亡くなられた母君の加護もあるので大丈夫でしょう。冬の町の女は身分も低いので妬みを買うことはないと思います。春の町にはなにせ私がいます。ですがここは(うしとら)(東北)で鬼門の位置にあたるので、とても危険です」

「………」

「なので鬼さえ払うという鰯の煙を存分にたて厄払いをする必要があるのです。そしてその副産物である焼き鰯をたんと体内に取り込んで魔を払いましょう。あ、厄払いにはよく打撒(うちま)き(邪を払うために生米をまく)をしますね。だからご飯も大事です。同時に姫飯(ひめいい)(フツーのご飯)をたんと炊いてこれも取り込みましょう」


 花散里は納得しかねる様子ではあったが、それでも了承し鰯を焼かせてくれた。恥ずかしがって几帳(きちょう)越しではあったが、共に鰯ご飯も食べてくれた。


「こう、柚子を絞ってかけるとおいしいのですよ」

「本当だ。さっぱりする」

「姉が里下がりをした時、内裏では絶対に食べられないからといっしょに食べました」

「なんだあなたもお好きだったんじゃないですか」

「ええ。でも目の前で焼かせたのは初めてですわ」


 ころころと花散里は笑った。源氏も嬉しくなって軽口をとばす。


「これからは私も付き合いますから、もっと召し上がるといいですよ。あなたはもう少しお肥りになった方がいい」

「あいにく身につかないたちですの。貧相でごめんなさい」

「とんでもない。やせていようが肥っていようが、あなたは私の大事な方だ」

「まあ、ありがとう。ええ、大事にしてくださいね。でなければ他に焼き鰯につきあう者はいませんわ」


 どうもばれていたらしい。姉の麗景殿の女御によく似た茶目っ気のある表情が、見なくてもわかる。


「でも、厄落としになるのは本当ですからね!」

「ええ、わかっていますわ、あなたのやさしいお心は。それにここは元の場所より何か寂しい感じですので、煙でしっかり払いますわ」


 少し木を高くしすぎたかもしれない。新しい割にはうっそうと茂りすぎる。

 それは遠い過去を思い出させる。女の死んだ邸。儚げな夕顔の花。


 源氏は首を一つ振った。真横には几帳を挟んで温かな生身の女がいる。


「そうそう。そのために、もう一尾焼いてください」


 すぐにそれはかなえられ、魔の者が取りつこうとしてもできないほど、もうもうと煙が立ち込めた。



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