舟
源氏三十四歳
大后視点
一万三千字を超えました
強要したわけではないのだが、朱雀院に来た者はここ柏殿にも礼を示さなければならないと勘違いしている。
いちいち面倒なので日常的に表れる臣下には、用がない限り来るなと厳命した。古い者などが「どうしてもご挨拶に」と申し出るので「正月かイベントの時だけにしろ」と命じた。
これで気楽に過ごせると思っていたら、夏場に妙に訪問者が増える。しかも若手が多い。不思議だと首をひねったら、女房の一人が「肝試しとして流行っているようです」と教えてくれた。
むっとしたのでたまたま現れた年若い殿上人を、御簾越しににらみつけたら気絶した。そのまま不快を表明したら訪問する者がだいぶ減った。
本殿の息子の方には変わらず人が来ているようなのでよしとする。
ただし断るべきではない相手もいる。例えば次期帝に確定しているわが孫東宮だ。
彼が来たらしょうがない。最高級の茵(平安座布団)を用意して、私自身も裳と唐衣をつける。蘇や一夜酒(甘酒)などを出してもてなす。
「はい、おいしゅうございます」
東宮は元気に答え健康な食欲を示した。うむ、食べさせがいがある。
彼の母の承香殿の女御は朱雀院の本殿で、息子と会っている。最初のうちは毎回来ていたのだが、大して面白みのある女ではないので迷惑なだけだった。だから前述のように断ると嬉々として来なくなった。
彼女は大后として君臨した私の立場に憧れているらしいが私と違って気性も荒く、美貌も才も知性もない女なので本家本元の圧倒的な美と気品、余り過ぎてその辺にこぼれるほどの知性のこの私を見ていると辛くなるのであろう。それはよくわかる。
それでも男皇子を生んだ功績をたたえて出会う際には粗末には扱わないでやるのだが、視線を向けただけで腰が引ける。その程度の女がいかにして頂点に立とうなどと野心が抱けるのか。
しかもこの女は国母としてちやほやされることのみが目的で、その立場を使って世をより良い方へ導こうとする意思がない。こんなヤツに力を与えても腐らせるばかりだ。
だが目の前の童はその母の持つ狷を持たない。容姿も知性もフツーで、気性も荒くはなく大人しすぎず、体格は割合にいいが飛び抜けているわけでもない。特別優れた部分もひどく劣った個所も見当たらない。
もちろん自然にそうなったはずがない。息子の手の者が上手く誘導したに違いない。
そのことを否定しようとは思わない。むしろあの健康以外とりえのない女の影響を可能な限り排除したことを称賛してやってもよい。
東宮は健康な体と健全な思考の持ち主で、その父の持つひずみは今のところかけらも見当たらないが、ただ一つだけ過剰に過ぎることがある。
「相変わらず猫を飼っておるのか」
「はい。この間子を産みました」
室内にけだものを上げるなど眉をひそめたくなるが、最近は臣下の者にも多い。まあねずみ駆除の意味はあるが、犬と同様外飼いすればいいと思っている。
「でも猫は毛並みも柔らかくて小さくて愛らしくて、犬とは全然違います。それにうっかり外に出すと逃げたりさらわれたりしますから」
高級ペットだから、よく慣れたもの以外は首にひもをつけて室内で大事に飼う。
「おばあさまもお傍に置けば、きっとその素晴らしさがわかりますよ」
「いやいらぬ。去年本殿に持ち込んだのもそなたなのだな」
「はい。三の宮も猫が大好きなのです」
東宮はとろけそうな笑顔を見せた。
彼の母と女三宮の母は犬猿の仲だったが、犬でも猿でもなく猫が取り持ったせいか、子ども同士の仲は悪くない。というか女三宮は他者にあまり好悪の情を示さないが、東宮は、同い年なのにずっと幼く見えるこの可憐な容姿の妹を大層可愛がっている。
あんなぼーっとした人柄でも美少女というものは得なものだ。姉の女一の宮も妙に執着しているし、何よりも父親の愛情を一身に浴びている。
「母上があの子をあまりよく思っていないことを知っていますが、それは亡くなった彼女の母君のせいです。彼女自身に何の罪もないのに憎むことは間違っていると思います」
なかなかの見識だが、それでも多少承香殿の女御に影響されてはいる。
私が見ていた限りでは、二人の争いはどちらが悪いというわけではないが、それでも女三の宮の母の源氏の宮の方が他者の反感は少なかった。承香殿の女御が朱雀院に移らなかったのは他の女御たちに好かれていないためもあろう。
だからこそ彼女は、華々しい行列を連れてこの朱雀院を訪れることを好む。他の女御・更衣に見せつけてやりたいのだ。
そのため本来はめったに動かない東宮が、わりに範例よりも多く朱雀院を訪れる。まあ孫の顔を見るのは悪くない。特に文句を言うつもりはなかった。
このように華々しい訪れもあるが、この年になると訃報も多い。季節の変わり目など思わぬ相手がぽっくり逝くことがあるが、さすがに妹の死には驚いた。
三の君は腹違いではあるが穏やかな性格で美しく、割に好ましく思っていたので充分に悲しい。
彼女の夫君は帥の宮から兵部卿に上がったばかりで、これから少しは華やいだ暮らしを送ることができたであろうに残念だ。
だが兵部卿自身は親族もいるし、兄である源氏とも仲良くしているようだからそう心配ではないが、唯一の姉を失った五の君とその夫の八の宮が気にかかる。
私は彼に近づくことはできず守ってやることもできない。だから今までは三の君を通して五の君の面倒を見てやったが、これからはそうもいかない。
息子も源氏も八の宮にかかわることは許さない。さすがに妹である五の君まで放置しろとは言わないだろうが、目立つ援助は認めないだろう。
苦い思いをかみしめる。八の宮は内気で、楽の腕はそこそこ優れているが他者とあまり交わろうとしない。彼にもう少し気概があったら、正妻が同腹の姉妹であることと音の遊びを口実に兵部卿に近づいて、そこから更に源氏に取り入ることができただろう。
しかし彼はそんなすべを持たず、五の君と互いに互いを抱き合うようにひっそりと暮らしている。まだ子さえいない。
もし五の君がその姉のように急逝したとしたら、彼は何をよすがに生きていくのだろうか。仏道に興味を示しているようだが、全てを捨ててその道に入るほどの強さを持っているのだろうか。
いやよそう。先のことを心配してもきりがない。
私は相当の物を用意させて妹の死を悼み、夫君の兵部卿をねぎらってやった。葬儀や法事などの実務的な手配は源氏の配下の者がやり、息子を始め高い身分の人々が気を配ったが、愛妻を失った彼の嘆きは深かった。
三の君の死で驚いたのはもちろん私だけではなく、妹の四の君も仰天したようだ。
彼女は彼女で動いていたが、少し落ち着いたころにこちらへ現れた。
「なにも急死することはないじゃない。充分に長生きして私の栄華を、指をくわえて見とけばいいのに!」
激しい言葉を連ねているが、彼女の顔は涙でダダ濡れで化粧崩れを起こしている。理性的な私よりよほど深く悲しんでいるのだ。
彼女は三の君と年が近く、同程度の美貌を誇ったので何かと張り合っていた。けれどそれを受け流す温和な彼女のことをけして嫌ってはいなかったのだろう。
人というものは不思議なもので、争いあっていた者同士が互いを他人より理解していることもある。この二人もそうであったのかもしれぬ。
私のようにレベル違いの知性と美貌の者は孤独だが、二人は互いにわかりやすい相手だったのだろう。
四の君はひとしきり罵倒すると声をあげて泣き、渡した手巾(平安ハンカチ)で顔を拭くと、まるで子どものように私の袖をつかんだ。
「?」
「お姉さまは絶対に死なないでね」
思わず見返したがえらく真剣だ。だから私は「小娘のようなことを言うでない」と諭した。
「人の生き死には運命だ。本人の思惑で変えられることではないわ」
「でも約束して。私お姉さまがいなくなったら耐えられないわ」
「約束はできぬ。それにお前は、藤氏長者となる男の正室で子宝にも恵まれておる。しっかりと立ち前へ進むがよい」
こやつの娘は中宮こそ逃したが、帝の寵愛も深い。息子二人も先行き有望だし、何よりも夫君の内大臣との仲は昔と比べて格段に良くなっている。娘の件で、仮面夫婦が学校の面接に仲よいふりをするように協力しているうちに、本当の家族となりえたのだ。今更私に頼る必要はない。
「わかっているわ。だけどお姉さまはわが一族の指針で礎だわ」
「これからはおまえがそうなるのだ。……そう不安げな顔をせずともよい。当分みまかる予定はない」
また泣きそうな顔になった妹を励まし、不安を取り除いてやる。
「それよりも家中の話でもするがよい。大宮のもとにいた夫君の娘を引き取ったとはまことか」
四の君は微妙な顔をしたが、素直にそのことを話し出した。
「ええ。あの子の母君は今、按察大納言の北の方だということは聞いている?」
「知っておる」
こやつの夫君と別れてその男の正室となった。その娘はそこで育つはずだったが、妹の夫が取り返して自分の母の大宮に預けた。世間に広がった話だ。
「あちらの大納言は彼女を東宮に入内させようと思っていたみたいなの。夫はそれを阻止する必要があったのよ。だけど私は帝に入内するうちの娘のことで手いっぱいだし、女御にしてからも中宮にしようと忙しかったから、うちの人はあの子を大宮さまの元にやったのね。結局中宮は斎宮女御(秋好む中宮)に取られてしまったけれど、本当は帝はうちの子の方が好きだと思うわ」
彼女の脈絡があるのかないのかわかりにくい話は長くなると疲れる。だが私は辛抱強く聞いてやった。
「とにかく、中宮にはなれなかったけれど今までより寵愛は勝っていたわけなの。なのにあの人急に娘を里に呼び戻したのよ。男の方はメンツがあるかもしれないけど、あちらが立后してからしばらくはうちの子も内裏にいたわけだし、申し訳ないと帝が下手に出ているうちにもっと親しくして、子が生まれるように持っていった方が実質的でしょう。男宮さえ生まれれば相手が中宮だって蹴落とす隙があるし」
言葉はたるいがさすがにわが一族の者だ。どんな手を使おうが、最終的に勝てばよかろうなのだァァァァッ!! ということをよく理解している。
「なのにこの大事な時期に帰らせるなんて何があるのかと思ったら、あの子を穏便に引き取りたかっただけらしいのよ。優先順位がおかしいと思うわ」
妹の指摘は正しい。内大臣はその父よりよほど政治的判断のできる男であるが、それでも緩すぎる面がある。
「これが東宮妃としての入内のためだったらわかるわ。うちの子が勝ち取れなかった中宮の座を賭けて、すかさず全力で突っ込んでいく。それなら協力するわ。娘はかわいそうだけど、情にとらわれている場合じゃないから。でもあの子は…………」
源氏の息子の夕霧と浮名を流している。もはや公然の秘密として囁かれている。
かつての藤氏ならば、悪評などものともせずごり押ししただろうが今は時代も違うし、私も孫に人の手のついたものを勧めるのはイヤだ。それでもわが一族のためであったら手を貸しただろうが、しょせん別系の者だ。
「ふむ。してその子はどんな人柄か」
妹はわずかに首をかしげた。
「そうねえ。あえて言えば天然かしら。大宮さまの元にいた割には高貴な雰囲気は持たないわ。雲居の雁ってあだ名だけど、孤高で扱いにくいわけじゃないのよ。実は私、最初のうちこの子のせいで娘が呼び返されたことに怒っててね、ついイヤミ言っちゃったの」
彼女は苦笑しながらカミングアウトした。
「何度も身の上が急変して大変ねって。そうしたらまっすぐこちらを見て『心配してくださってありがとうございます』って頭を下げたの。なんだか気を抜かれてしまって。天然って最強だわ。それにうちの娘もおっとり育っているから、悪意も持たずに遊び相手にしてるわ」
素直な娘は余計なことを悩まずにいるので周りの者も接しやすい。東宮妃を志すならそれだけでは困るが、その気がないのならその方が生きやすいだろう。
「ものおじする様子もないから気が弱すぎるわけでもないわ。夕霧と恋仲なら将来の縁談に悩むこともないでしょうから、それまではうかつに男を近づけないようにしとくわ」
「源氏の息子との仲に賛成なのか?」
彼女は若い娘の頃のような顔をした。
「一族のために東宮妃を目指すのなら仕方がないけど、単なる母の気持ちとしては、娘の失敗した中宮位を手にしたらやっぱり妬んじゃうと思うの。それより息子と仲がいい夕霧くんと一緒になるのなら、応援してあげてもいいわ」
そうして晴れやかに笑う彼女は、充実した人生を送る者の余裕を感じさせた。不安で苛ただしい新婚生活を過ごした彼女は、今ようやく落ち着いてきたのだろう。なんだかほっとして、こちらも少し口の端をあげた。
年が明け、澄んだ空気に清らかな梅の香が混じる。
拝賀の者に会い、息子のいる朱雀院本殿も訪れてその期間を規律正しく過ごしていると、里から戻った女房がとんでもない噂を携えてきて、怒髪天を突きかけた。
「太政大臣(源氏)は白馬の節会など内裏の儀式をそのまま真似ておられます。藤氏初の太政大臣であられた良房大臣の前例にならったと言っておりますが、公式資料には残らぬ話です」
「なん……だと」
あの男は自分を帝に模しているのか。内裏の行事を勝手になずらえていいわけがない。
「五節の際も舞姫のお付きを見比べる様が、帝の行う童女御覧とほぼ同様
であったとか」
普通なら帝に遠慮してそんなことはしない。なんだあの男は。とんでもなく不敬ではないか。帝も帝だ。いくら後見であろうが不快を表明するべき事案だ。でなければこれが公式な前例となりかねない。
良房の例が本当にあったのか知らぬが、少なくとも不適切とみなされて公式記録から抹消されているではないか。
「あの方はまさか、ご自分が帝位につこうと狙っているのでは」
「不可能だ。八歳の東宮の後に三十四歳の源氏がつくわけにはいくまい」
いくらなんでも孫の命を狙うとは思えない。だが、あまりに思い上がりすぎている。
あの源氏をリスペクトしかしない帝は何なのだ。皇統に対する挑戦とみなして警戒するレベルだぞ。
それでも息子には祖父から与えられた忍がいる。報告は受けているだろうし、ある程度で抑制するのではないだろうか。
私は儚い望みを持った。
すぐにその願いは破られることとなった。
二月になり帝が朱雀院に非公式に行幸(帝等のお出かけ)することが決まった。
本当は花咲き誇る三月の方がふさわしいが、その月は帝の母の忌月にあたるので前月に計画された。
二十日余りの頃に実行されたが私的とはいえそれなりに大仰で、迎える息子も御所を磨き立て準備万端に整えて彼らを待った。関係なさそうな私も念のため殿舎を磨かせた。
供奉(お供)として上達部や親王たちなどが青色(麹塵)の袍の下に桜襲をちょい見せして現れた。
その時の私には行列の様子や人々の様など、あまり伝わっていなかった。わずかに端くれを覗いた女房たちが噂していたが、気に求めていなかった。
当日の趣向として、院と帝の前で学生のテストを行うことになっている。式部省の行う省試になずらえて、帝から題をもらう。しかも今回は唐土で行われた「放島の試」と同じ形をとった。
これはカンニング防止のため、受験生がそれぞれ小舟に乗って互いに離れて詩作する。常々面白い方法だと思っていたが、現実に見ることとなるとは思わなかった。
「あ、やっぱり漕ぎ手も一緒に乗るんですね」
南池は柏殿の池とつながっているから、女房たちが御簾をふくらませて外を覗きはしゃいでいる。
いくら品よく雅な仙洞御所(上皇の御所)といえども、内裏のように若公達の多い華やかな行事はあまりない。彼女たちはこのような機会に飢えているのか、以前よりもイベントに食いつくようになっていた。
昔なら叱責させたと思う。いや、彼女たち自身が規制してそんな様は見せなかっただろう。
だが今は好きにさせている。稀な行事は楽しむがよかろう。
こちらに仕える女たちの数は減った。以前のように親や彼氏の出世欲に報いることはできないので無理もないことだ。長く仕える者は忠実だが、老いや病のために少しずつ欠けていく。
最近、仕える者の顔つきが昔と異なることに気付いた。
利に聡い者はすでに消え、残った誰もが大きな喜びもなく、食うに困るほどの苦しみもなくぼやけたような日々を送っているうちに、希望も欲望もない空虚な顔つきでいる者が増えた。
バカらしい。悟りでも開くつもりか。ならばさっさと出家でもすればよい。
私は大層不満だが「顔つきに覇気がないっ!」と因縁をつけるわけにもいかぬ。ぼんやりとした者が増えていくことを懸念してはいるが手をこまねいていた。
しかしそのような者たちさえ、こういった折りには元気にはしゃいでいる。結局、欲望は活力の基だ。
「あら、あれが源氏の君のご子息ですわね」
「顔の程までは見えませんが、さすがに品がありますわ」
「今日は特に優れた学生ばかり呼ばれたそうですけれど、みな緊張しているのにあの人だけ落ち着いてますね」
鈍いのではないだろうか。思わず内心でケチをつけるが、臆する様子もない辺りは評価できないことはない。
やがて日は暮れ始めた。大いに人手が入ってはいるが、一見自然な緑の多い朱雀院の風は山風のような音を立てる。早咲きの桜が花びらを飛ばす。
学生の小舟の間を竜頭鷁首の舟がゆっくりと池を巡り、乗せられた伶人(楽人)たちが音を奏でた。
ちなみにこの舟は、ドリトル先生に出てくる謎生物のように片側が竜でもう片側が鷁(想像上の鳥)というわけではなく、竜の頭を持つ舟と鳥の首を持つ舟で別である。
ただし二隻で一対になり、竜頭の舟では唐楽、鷁首の舟では高麗楽を奏した。
水の上の音はいつもより柔らかく響く。耳を傾けていると、それぞれの舟が交代で音を鳴らす。
「次は春鶯囀です。午前で舞も披露されるそうです」
音こそよく響くが、女房たちが身を乗り出しても舞はさすがにほとんど見えない。早くに聞いていたならあちらで見学させてやればよかった。
「かつての紅葉の賀の試楽を思い出しますねえ」
あの時もこの唐楽の舞があった。息子が急に源氏を踊らせたのもこの時だ。
「その後に帝が頭中将(今の内大臣)も舞わせて場を盛り上げてくださいましたね」
「ああ。その判断は適切だった」
あの方もよい帝であろうと努力していたのだろうか。
「そういえばお妹君はいらっしゃらないのですか」
「次男の方が風邪をひいているらしい」
ああ見えて情の濃い妹はわが子を放ってまでは来なかった。
「それは残念ですね。楽しみにしていたでしょうに」
「乳母まかせにしないあの姿勢は感心するな。雲居の雁も、イメージと違って驚いたことだろう」
すでにその名は愛称として公然と囁かれている。まさか本名をうかつに広めるわけにはいかぬし、いちいち、内大臣と別れて按察の大納言の北の方となった人の大姫(長女)、などと長々しく語るのも面倒だ。
こういった事例はほかにも山ほどあって、たとえば承香殿の兄は武人のような髭をはやしているので、髭黒などと呼ばれている。
本人はマッチョなタフガイ気取りだが、自分の召人(愛人)はともかくとしてあまりもてない。
「最近あの人と北の方の関係が、いささか悪くなっているそうですよ」
今回も供として来ているので何気なくその男のことを尋ねてみると、情報通の女房が答えた。
「北の方は確か式部卿の大姫でしたわね」
「美しく人柄もいい方だと聞いていましたが、夫君に愛想を尽かしたのかしら」
「逆ですって。お年上のその方を大事にしていらっしゃらないとか」
「そんなに上でしたっけ?」
「三つか四つ上だったはずよ……源氏の君と同じ年頃じゃなかったかしら」
「よくある程度じゃない。中宮なんて帝より九つも上よ」
はたしてそれは年齢だけが原因なのか。式部卿は顔だけはいいが無能な男で、娘を入内させたがあまり寵愛されていない。彼の妹である国母も亡くなった今、権力から離れつつある。
脇腹の娘が源氏の正妻格になってはいるが、不遇の時代に見捨てたために縁は薄い。
つまり、関係を維持する必要性は薄い。
だからと言って、あそこは確か三人ほど子がいる。切り捨てていい相手でもなかろう。
たとえばうちの妹の四の君だって、すでに父はなく娘も中宮にはなれず正室にしておく価値は少ないかもしれないが、夫君は見捨てたりはしていない。
もちろん年を重ねた今も奇跡的な美貌を誇る私のような存在であり得るわけはないが、もう少し大事にしてやればよくはないか。
「そういったところが人好きしない理由の一つでしょうね」
東宮の生母の兄であり、次期政権の後見とみなされる男だがあまり人望を集めていない。どうしても源氏や内大臣の下に人が行く。
「ご本人も自覚があって、その二人におもねってますわ」
「立派なヒゲは何のためなのかしら」
「帝の母君がいらした時は式部卿(当時は兵部卿)にも媚び媚びだったのに」
雄々しい見かけの割に小さい奴だ。孫のために粗末にはしないがあまり好感も持てない。
「でも娘さんはかわいがっていますわ」
娘は資産だから当たり前だ。
こうやって噂話に時を費やしているうちに楽の音が変わった。
どうも楽所をここ柏殿近くに置いてくれたため、舟遊びが終わった後は音が遠かったらしい。それを受けて集まった高貴がそろって音を奏でるという、某大御所三人がゴルフに興じるような、もしくは俳句の先生と花の先生と絵の先生が三人とも集まったようなゴージャスさで辺りは沸いていた。
それぞれ確かな技量で奏でる音は伶人とは違うがなかなかのものだった。のど自慢の殿上人もたくさん来ていて、安名尊や桜人などの催馬楽を歌う。
月がおぼろにさし出でて趣のある頃、池に二つある中島のあちこちにかがり火が灯っていった。
その夢幻めいた美しさに見とれていると、帝と源氏がこちら柏殿を訪問するとの知らせがあった。
念のため磨かせておいてよかった。用意がムダにならずにすんだし、女房たちが喜んで立ち働く様を見るのもうれしい。
機嫌よく彼らを迎えた私の表情は、御簾越しの対面で一変した。
臣下の者はみな青色(麹塵)の袍を着用する中、年若い帝は赤色の袍を身に着けている。
それはもちろんあたりまえだ。行幸などの行事の際には帝のケ(日常)の色である青色を臣下が許され、帝自身はハレの色をまとう。そのこと自体は範例通りだ。
しかしそこに源氏が加わる。帝によく似た顔に、同じ赤色の袍をつけた彼が。
規律違反とまでは言い切れない。正月の内宴の際や賭弓の時に、帝と一の上卿は赤色を着用することを認められている。
けれどそれは上皇の存在しない内裏での話だ。更に言うのならそれが許される背景として、一の上卿は帝の外戚(母方の親族)であることが暗黙の了解として必要だ。
源氏はその条件を満たしていない。なのにいけずうずうしく赤色を着て現れた。
これが何を意味するか。すなわち上皇たるわが息子への侮りだ。なぜなら、彼らを迎えた息子も同じ赤色を着ていたはずだからだ。
外戚でなくとも年寄りならまだわかる。長年の功労に対する褒賞としてなら理解の範囲内だ。
だが源氏はまだ三十路だ。充分に野心をたぎらせる年の頃だ。こんなヤツをのさばらせるなんて帝はなんなのだ。
それでも面と向かって不満を表明するわけにもいかないから耐えた。急に年取ったような気がした。
「……今は齢を重ねまして、何事も忘れておりますのに、わざわざのご訪問ありがとうございます。こうしていますと昔の時代のことなどを思い出します」
くそう、悔しくて涙が出てきた。
帝は礼儀正しく素直で、言葉に裏はなさそうだ。
「頼るべき父母に先立たれて以来、春が来ることさえもわからぬほどでしたが、今日この場をお訪ねできて慰められたような気分です。またぜひ伺わせてください」
源氏も挨拶だけはていねいにしたが、私の怒気を感じたのか「また改めて参上し、ご用の程を承ります」とつぶやくと、凄い勢いで帰っていった。
私の機嫌は収まらない。胸の鼓動はうち騒いでいる。
----あやつは昔のことをどの程度に思い出しているのであろうか。きゃつの天下を手にする宿命は並々では消せるものではなかったのだ。ならば、もっととことん追いつめるべきであった
息子でさえ救えぬほどに容赦なく打ちのめすべきだったと、過去を思って後悔している。
いらいらと眠れぬ夜を過ごしたら、朝になって妹の六の君が渡ってきた。
「……昔を思い出しちゃったわ」
そう言ってほほ笑む様子はやはり華やかだが、昔はなかった影がある。だからといってその美しさは減ることもなく、むしろ深い陰影は彼女を際立たせる。
冴え冴えしい月も美しいが、昨夜のようなおぼろ月もまた美しいのだ。
「後悔しているか?」
「いえ、それは全然・・・・・・ごめんなさい」
瞬時に否定し、あわてて謝っている。それをスルーし「私は大いに悔いているッ!」と断じた。驚く妹に「やはりあやつの息の根は止めておくべきだった」と告げると、彼女は目を丸くし、そのあと吹き出した。
「私、やっぱりあの人のこと嫌いにはなれないけど、お姉さまの気持ちを否定はしないわ」
「であろう。あやつはロクでもないっ」
六の君は小娘の頃のように大いに笑い、目じりの涙を拭いた。
「久しぶりに大笑いしちゃったわ」
「おまえはその方がよい……文など来るのか」
「ええ、時たま。季節の贈答品のお礼ぐらいしか返さないけど」
「そうか」
疑ったりはしない。彼女がそういうからにはそうなのだろう。
特に説明は求めなかったが、妹は自分の不確かな気持ちを語りたかったらしい。
「源氏のことをすごく困った人だと思っているけど、最近、院のことも困った方だと思うわ」
ドキッとして彼女に目をやると、やわらかな女らしい風情で御簾の向こうを見ている。
「私のことを許しすぎるわ。もっと冷たくあしらえばいいのに」
なんだその程度のことかと思ったが、ぬぐったはずの目じりにまた小さな露が宿っている。わが一族の女は情が濃いのだ。
「おまえに魅力があるから仕方がなかろう」
「身内だから気をつかっているだけよ。斎宮が帝に入内した時だってあっさりしていたじゃない」
ふるふると首を振ると涙は落ち、黒く艶やかな髪も揺れる。
並みの男なら命を懸けるほどの美女なのだが。
「そうでもなかろう。娘など呆れるほどに扱っているではないか」
「三宮ね。かわいいからもっと見たいのに、私の所へは連れてきてくれないのよ」
「他の妃の反応を面白がっているようだから、それだけ誠実に接しているということであろう」
「そうだと嬉しいけど」
二人の間に子はいない。そのことに気をつかっているのかもしれぬ。
妹はまた視線を、池の向こうにさ迷わせた。
午後には息子が来た。相変わらず優美に直衣の裾を引き、艶なる風情で現れた。
尋ねられる前に自分から答えた。
「ご機嫌麗しくない」
「先に言われてしまいましたね」
優しい笑みには毒の欠片も見あたらない。だが私は相当に不機嫌で、言いたいことが山ほどあった。
「源氏のあの思い上がった様子はなんです。あのまま放置するつもりなのですか」
「装束のことですか? それとも和歌でしょうか」
「どっちもですっ!!」
後から聞いた話だが、行幸の際に源氏の詠んだ歌はいささか皮肉を含んだと取れなくもないものだったらしい。それに応えた息子の和歌は自虐めいた趣があり、言葉こそ優雅ではあるがハレの場を盛り上げるにはふさわしくなかったとか。
続く兵部卿(源氏と朱雀院の弟)と帝はそれをとりなすように詠んだらしいが、ゲストに気をつかわせるのは違うだろっ。
「いえいえ。あの場合私が卑屈に読み上げることが最大のもてなしですよ。失意のまま九重(内裏)を去った気の毒な上皇を、心配する弟たちが盛り立てる。美しい図ではありませんか」
「私にはそうは思えませんっ」
「ぶぶづけを出されるまで待って侮蔑の目を向けられる。それこそが相手に対する真の愛情ですよ。私は弟たちを大事に思っていますから、訪問の礼としてのサービスですね」
「ぬけぬけとっ」
憤る私を彼は心の底から嬉しそうに見つめた。
「今回は母上に対してのサービスも含んでいますよ。私が憐れに詠みあげたせいで、最初に時代の差を明確にした源氏が悪人のようになっていますからね」
くくくっと彼は楽しげに笑った。私は振り上げたこぶしを下ろしづらく、仕方がないので配下の者の昇進が進まぬことなどの不満をぶつけてみた。
息子は更に嬉しそうに「最愛の母上のご希望に添えないなんて、私はもう生きている価値さえありません」などとうめいていたが、幸福の絶頂みたいな顔で「もうここまでにしましょう。見苦しい様を示してしまいそうです」と白旗を上げた。
「もっと責めあげなくていいのですか。加齢とともにさがなさ(意地悪さ)が加速しましたから、まだまだ可能です」
「いいえ、もうお腹いっぱいです。苦しくて耐えられません。さすがは母上、他の方とは格が違う」
ちっとも嬉しくない。まったく長生きしてもロクな目にあわない。このような世の末を見るよりかは何も知らなかったあの頃に戻りたいと、自分らしくない感慨にふける。
「このままほっておいても本当に大丈夫なのですか。源氏の野望は太政大臣に留まりませんよ」
「それでこそわが最愛の弟。かわいくてなりませんよ、あの思い上がった様子も。彼はあれでいいのです。牙を抜かれた様よりも、やはりちはやぶる若い神のような無謀さが似合う。ああ、できることなら母上と源氏をそれぞれ小さくして、掌の上に乗せて眺めていたいほどです」
うっとりと語る彼に、私がもう片手の住人を蹴落とすから無理だろうと告げると、口の端をわずかに上げて優雅で不敵な笑みを見せた。
「無様に落ちゆく様も、それはそれで楽しいものです。そのためには……」
どんな臣下の者より、いや他の帝よりもなまめかしく育った下り位の帝は、人とはかけ離れてそれでいて静かな表情を浮かべた。
「……出来うる限り上げてやることも必要です」
背中にぞくりと悪寒が走った。私が同情すべき筋合いではないのだが、それでもごく微かに憐憫の情のようなものが胸をかすめる。
耳をそばだてると朱雀院の広い池に水鳥の羽ばたきや魚の跳ねる音がする。
それは本当に鳥か、魚か。
水辺を舞う架空の鳥ではないのか。あるいは水底で鱗をきらめかせる竜のうねりではないのか。
朱雀の院には何かが潜む。それは人ならぬ妖しさと美しさを持つ上皇の一部のようでもあり、また彼を支配する闇のようでもある。
かつては確かに人であったはずの息子は、以前と変わらぬ優しげな顔に戻り「どうかなさいましたか」とやわらかく尋ねた。