乙女 Ⅱ
源氏三十三歳
源氏側視点
早朝の牛車がざりりと音をたてて霜柱を踏む十一月、人々の心は浮き立っていた。
去年は帝の母の喪に服するために五節のイベントはなかった。今年はその分も含めていつもより華やかに催されることになっている。
これは、秋の実りに感謝して深夜に帝が神さまといっしょにご飯を食べる新嘗祭を核とし、その前後も人々が共に祝う神事だ。四日間続く。
初日は丑の日で、舞姫が常寧殿の五節所へ入る。それを帝が直衣な姿でご覧になる「帳台の試」。
二日目は寅の日。舞姫は清涼殿に呼ばれ「御前の試」を披露する。この日は「五節の淵酔」という宴会でもあり、酒を呑んだ公卿らが歌いつつ酔う。
三日目は卯の日。前述のご飯会で、現代では勤労感謝の日になっている。
帝はこの神事より前に舞姫の付き添いの女童をご覧になるが、それは「童女御覧」と呼ばれる。公式ロリ見物。
最終日は辰の日。大内裏の豊楽殿(後には紫宸殿)で帝は秋の実りを召し上がり群臣たちにもふるまう。
日本古来の神楽歌や催馬楽などを歌い、白酒・黒酒(白酒に山うつぎの根の灰を加えた酒)を飲む。
その後、五節の舞姫が本番の舞を見せる。
昔、天武天皇が吉野で見た天女をイメージして、舞姫たちは五度袖を翻す。
神事でありながら歓楽を尽くす祭でもあり、謝肉祭と似ていなくもない。
今年、源氏は五節の舞姫を用意する係となった。
これは公卿から二人、殿上人から二人が担当する。
公卿分は源氏と、雲井の雁の継父の按察の大納言。殿上人分は良清と、内大臣(元頭中将)の異母兄である左衛門の督。
息子夕霧の師匠の一人である左中弁はちょうど上が空いたので、司召(人事異動)の時に上げてやった。当然その役が空くので、すかさず良清をそこに押し込んだ。
おかげで良清は近江(滋賀県)の守兼左中弁だ。そのためキゲンよくその大役を引き受けた。美人という程ではないが悪くはない容姿の娘を磨き立てている。
一方源氏の分である。この舞姫は担当者の娘であることが望ましいが、最近ではなかなかそうも言ってられない。
時代的に姫君は人前に出ないようにしつけられているので、顔をさらして舞うことは非常に辛い。現代でたとえるのなら、その辺の娘さんをいきなり紐ビキニと羽根をつけさせて山車に乗せ、人々の注目の中サンバを踊らすようなものである。
見てる方は大変に楽しいが、ダンサー志望でもない限り本人とその親御さんにとってはたまったもんじゃない。
それでも昔は帝の妃になれたりとかメリットがあったが、莫大な費用もかかるし今ではデメリットの方が多い。それで最近はみな娘を出したがらない。
そして源氏はそもそも供出できる娘がいない。唯一の姫君はまだ五歳である。
なので惟光に娘を出すように要求した。彼は当然渋い顔をした。
「え、それはちょっと」
「按察の大納言も、脇腹(正妻以外が生んだ子)とは言え実の娘を出すんだ。問題ない」
惟光は現在左京の大夫兼摂津(大阪府北中部大半と南東部)の守である。これも源氏のバランス感覚での配置だ。
須磨以前での彼の役職は民部の大輔で官位は正五位下。それをぐいぐい上げてやって、現在は従四位の下だ。正五位上の良清より一つ上で、都の半分の司法・行政・警察を担う重要な左京の大夫になっている。
ただし与えられた国は良清は大国で、惟光はその下の上国。あまり不公平にならぬように気をつかっている。
それでも良清は『思った以上に恵まれた』と思い、惟光は『もっといける』と考えた。
その理由が評判高い自分の娘だ。入内までは考えていないが、権門の若君との婚姻は想定内だ。
だが五節の舞姫となれば、人前に顔を晒した経験から軽い女として扱われ、遊ばれて終わる可能性が高い。
しかしこの状況で拒みきることはできない。彼は打算を重ね、どうせ逃れられないなら公務員として宮仕えさせようと結論を出した。
決まってしまえば行動は早い。里邸で娘に仕度をさせる。
付き添う女房が八人、女童二人他下働きを決まり通りに仕立てたが、源氏自身も手配していてとびきりの女たちをそろえていた。舞姫を二組出すこともできる程だ。
装束の用意は花散里がしてくれたし、中宮からも女童や女房の衣装が届いている。今の源氏にとっては莫大な費用も大したことはない。
準備万端整えて当日を待った。
「きれいでしたねー、惟光っつあんの娘。予定とは別の子とは言え二番目と噂の按察の大納言の姫を引き離して圧倒的に一番だったじゃないですか」
五節の後乳母子の大輔の命婦が二条院東の対にやって来た。思った通りあれこれとする話し出す。
「ああ。あいつの娘というより姫君クラスに見える程飾ったしね。だけど確かに素材はいいよ。ちょっと背が高いけどね」
源氏はキゲンよく思い出す。一番の美人だったので嬉しいが、以前聞いた通り惟光とよく似てたので、くどく気にはなれなかった。
ただかつてつきあった筑紫の五節が懐かしくなって文は送った。
「ええ。老いも若きもぽーっとなってましたわ。えーと......」
彼女がちょっと口ごもりながら「ご子息もその一人だったようですぜ」と報告した。
源氏はちょっと無表情になったが、すぐに「アプローチしてた?」と尋ねる。命婦はうなずいて「文を出したみたいですね」と答えた。
「誰が取り次いだのかな」
「ほら、惟光の息子で童殿上してるボンがいるでしょ。若君と同い年の」
「あの子か......で、惟光の反応は?」
「大事にしてたから文に気づいた時は怒ったようですけど、若君からだとわかった途端に手の平返して上キゲンだったとか。奥さんにも見せて、あの方なら宮仕えよりいいよなあ、とご満悦だったそうですよ。もっとも奥さんはスルーしたらしいけど」
「ふーん」
なかなか興味深い。しかし息子は学問もしなければならないし、内大臣(元頭中将)の娘にも懸想していてあちらが本命っぽい。彼の乳母に聞いた。
「殿は見初めた女性を絶対忘れないから、ご子息も信頼できるって言ったようですよ。どうです、取り持ってやったら」
信用されているのは嬉しいが、間に入ろうとは思わない。
「親は色恋沙汰には関わらない方がいいよ。じゃまもしないけど応援もしない。私も若い頃、父に口出しされたことがあるけど、恥ずかしいし耳も痛かった。男の子は傷がつくわけじゃないからほっておくよ」
他人の迷惑はあまり気にしない。ただし内大臣はともかく惟光は乗り気のようだったので、命婦も批判はしなかった。自分自身も好みの相手の気を惹くことは嫌いではない。
「そうですか。じゃあ自主性に任せましょう。だけど相談相手がまるきりいないのもかわいそうじゃないですか。大宮さまは甘やかすからかえって今行きにくいみたいだし」
「手は打ってあるよ。東の院にいるわけだから、西の対の花散里に頼んだ。私も若い時分、彼女の姉上がいてくれたことで助かったからね」
几帳の向こうで優しく微笑む麗景殿の女御を思い出す。弘徽殿の女御に引導を渡され萎縮した心に温かな灯を点してくれた。
「淋しい?」と尋ねた声は今でも胸にしみ込んでいる。その時はもう子どもではなかったので甘えるわけにもいかなかったけれど。
大輔の命婦はうんうんとうなずいた。
「そりゃいい選択ですな。能力もある方だしぴったりだ」
「美女じゃないからマズいこともないだろうし、大宮さまもお年だから長くはないだろうしね」
凄く失礼だなと思ったが、彼女は源氏をとがめなかった。ただ大宮さまの体調を尋ねると「大事に育てていた子が二人とも離れちゃったから、育児ロスらしいよ」と答えられた。
「そりゃお気の毒に」
雲井の雁のことを尋ねてこないので、かえって源氏は噂が広がっていることを知った。聞いてみると案のじょうだった。
「人の口に戸は立てられませんから」
「じゃ、入内はさせられないね。内大臣も意地を張らずにOKだしてやればいいのに」
彼は朱雀院の寵臣だから、娘が東宮に入内すれば五分の争いになるかもしれなかった。危なかった。
「それが一番いい気がしますけど、あのお方も素直じゃありませんからね」
「大宮さまの様子も知りたいな。いただき物がいろいろあるから、お裾分けを口実に様子見てきてくれないか」
「合点承知の助。見つくろってくだせえ、すぐ行きます」
腰の軽い命婦が二つ返事で引き受けた。源氏は手を叩いて女房を呼び、到来品を運ばせた。
太政大臣は出勤の義務はないので、暮らしは閑雅だ。面会人にあったり優雅に遊びごとをする。それにつきあうはずの一番仲のいい弟は、紫の上の父が式部卿になった余波を受けて、帥の宮から兵部卿になっている。だが今年最愛の北の方を失った。
北の方は大后の妹の一人だが、人柄もよく評判の美女だった。彼は大変に落ち込み、しばらく様々なつきあいも断っている。
それを慰めるために何やかやと呼び出し、気を晴らしてやろうと様々なもてなしをする。
「残念だとは思うけれど、世の中女性は多いじゃないか。見てごらん、君のためにとびっきりの美人を用意した。気に入ったら連れて帰ってもいいよ」
色とりどりの装いの若女房たちが微笑む。冬なのに部屋の中は極楽浄土のようだ。
なのに傷心の兵部卿は首を横に振る。
「どんなにきれいな女房でも、あの人の代わりにはなりませんよ。彼女は私の特別な人だったのです」
「そうか」
源氏は女房たちを下がらせて、急に年をとったような弟に寄り添う。
「すばらしい方だったのだね」
「私にとっては。ずっと思い続けていたのになかなか会えなくて、でもやっとあの人の父君(元右大臣)が許してくれた時は泣けて泣けて、もうみっともないぐらいに泣いてしまって。右大臣家の姫だからゴージャスな暮らしに慣れているのに、地味な親王の妻であることに不満一つ言わないで。なのに息子はいるけれど面影を宿す娘さえ残してくれませんでした。私は生涯、あの人以上に愛せる人はいないでしょう」
本気でそう思っているらしい。わからないでもない。彼にとってその人は初恋の相手で永遠の女だ。自分にとっての藤壷の宮のようなものだ。
それでも源氏は知っている。その人をけして忘れられなくとも、心を慰める相手を見つけることができることを。
「今はきっとそうだと思う」
しばらくは無理に勧めずにいようと、いったんは引いた。代わりに音の遊びに誘う。だが彼はまた、力なく首を振る。
「いえ......彼女を失ってからずっと触れていないのです。もう音の出し方さえ忘れてしまいました」
「そんなんじゃダメだ!」
源氏は自分で思いもせぬ大声を出し、気づいてちょっと顔を赤くした。だけど言葉は止めない。
「君は楽器は何をやっても上手いじゃないか。特に琵琶なんか絶品だよ。君の北の方も好きだったに違いない。このまま触れもしないで腕が鈍っていったとしたら、一番悲しむのはその方だよ」
兵部卿ははらはらと涙をこぼした。
「......彼女も私の音を好いてくれました」
「そうだろう。じゃ君は琵琶を弾きたまえ。私は琴にするから。亡き方を思って合わせよう」
控えていた殿上人を呼んで、笛を持たせて音をとらせる。兵部卿はしばらくためらい、音合わせの時は指先を震わせていたが、曲が流れ出すと見事に合わせて面目を立たせた。
————初恋は特別だよね
誰にとっても。息子にとっても。
亡き人を悼む静かな音の運びに、希望を思わせる明るい色を源氏は加えた。
仕事の早い大輔の命婦は、翌日にはまた源氏を訪れた。彼は東の院の方で、あれこれ指示して部屋を片づけさせている。命婦が不思議そうな顔で尋ねた。
「どなたかいらっしゃるんで?」
生まれた時からの乳母子に隠してもしょうがない。肩をすくめつつ「とある尼君に入ってもらうことになった」と告げた。
彼女はしばらく脳内を検索していたが、惟光あたりに聞いたことがあったのだろう、ニヤニヤと口元を歪めた。
「また古いの引っ張ってきましたなー」
「昨夜、ようやく承知してくれたと報告があってね。義理の息子にあたる靫負尉ががんばってくれた」
何年もかけて説得してくれたらしい。源氏は仏頂面で命婦をいなした。
「あくまで尼君としてだ。色恋沙汰じゃないからね」
みんなのために祈ってほしいと頼み、代わりに暮らしの全てを引き受けた。
「はいはい。尼さんくどくとは思っていませんぜ」
「あたりまえだろ。縁ある女性をほっておけないだけだ」
口元を崩さない彼女を威嚇すると、最後にちょっと笑いを深め、それからまじめな顔になり報告を始めた。
「大宮さまの前にいた時に若君がいらしたので几帳の端に退いたのですが、割と泣き言をおっしゃってましたね」
「男の子のくせに」
「それ、ジェンダー的にマズいっす。それにまだ十二歳ですぜ。あたりまえっスよ」
「言えるだけいいじゃないか。私なんかその年の頃左大臣家に縁付いてさー、いくら父上に目をかけられてるとは言え仕事もプライベートも気が抜けなくって、話を聞いてくれる人もほとんどいなかったんだよ」
女房はノーカンだ。わずかに心を慰めたのは朝顔の君の文と麗景殿の女御、たまに兄くらいだった。
「で、なんと言ってた?」
「大宮さまは若君の正月の衣装を用意させていたのですが、とっても上等なものができていました。けれど若君は『元旦に出勤するつもりはないのに、どうしてそんなに急いで用意するの』と」
「ほう」
「で、大宮さまが『行かないわけにはいかないでしょ。年寄りみたいなやる気のないこと言うんじゃありません』と。するとご子息は『年寄りじゃないけどやる気が出ない』と顔の濡れたアンパンマンみたいなことを言ってました」
源氏は顔をしかめた。
「でもあの上品な大宮さまが珍しく発破かけてました。『男は残念な身分の人だって意識を高く持つものです。めめしいことばかりじゃダメでしょ、縁起だって悪いし』と。で、それに応えて『ちょっとの間とはいえバカにされるのが辛いんです。おじいさま(故元左大臣)さえいらっしゃったらこうではなかったでしょう。それに父上は私を近づけてもくれないんです。東の院でだけは普通にお会いできるけど。あ、花散里の御方はとっても優しくしてくださいますが、それでも本当の母上さえいらっしゃったらと思うと辛くって』と」
それを聞いて彼はますます憤慨する。
「あいつ玉ついてるのか」
「無茶言わないでくださいよ、あなたの頃とは時代も違うのだから」
命婦はかなり同情的だ。だが源氏は歯がみしている。
「これだから坊ちゃん育ちは」
「お言葉ですがね、あなたも相当なボンボンでしたよ」
「私はそこまで泣き言は言わなかった」
「六位になったことないじゃないですか」
憤懣やるかたない源氏を彼女はなだめた。
「で、大宮さまはあっしがいることも忘れたらしく、更に『母を亡くした人は何かとかわいそうだけど、それぞれの宿命なのだから受け入れて一人前になればけなす人もいないでしょう。おじいさまには生きていてほしかったけれど源氏の君も立派な立場だから頼みにしているけどなかなかねえ。内大臣も人にはほめられるけれど昔と違うことばかり増えるし、あなたみたいな若い人までこう嘆くなんて、イヤになってしまうわ』と最後は愚痴になってしまったっすよ」
「仕方ないかな。そのうちフォローしとくよ」
ご年齢と状況を思えばその程度愚痴るのは仕方がない。問題は息子だ。覇気がない、と思いつつ近頃の子はこんなものかとも思う。
「なんにしろ学問が進んだら身分は配慮する。恋愛には関わらない」
「わかりました。また何か話を聞いたら持ちこみましょう。どれ、うちの姫さんと花散里の御方にあいさつに行きますわ」
そう言って命婦は部屋を下がった。源氏は腕を組んで息子のことをしばらく考えたが、これ以上手を出す必要はないと判断してまた部屋の片づけを再開した。




