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源氏夢想譚  作者: Salt
第四章
82/89

乙女

源氏三十三歳

視点は移動 源氏側視点→元頭中将側視点→夕霧側視点

 藤壷の宮の一周忌もすぎた。国母の死のために喪服を着ていた人々も、夏の更衣(ころもがえ)を機に普段の衣装に戻した。途端に空の色まで明るくなった。


 源氏は朝顔の君へは時たま文を書いたり贈り物をしつつ、現状キープでもいいかと思っている。もちろんウェルカムのサインがあったら突進していくつもりだが。

 フォローしてもらいたいとおばの女五の宮にもプレゼントしたらエラく喜ばれた。



 彼女のことはさておいて、今気がかりなことは息子夕霧の元服(げんぷく)である。彼は臣下として生きるわけだから、ライフプランに気を配ってやらなければならない。


 この時代、脱サラして起業などそうそうできることではない。それでも明石の入道(にゅうどう)はやったわけだが、資産は()やせたが引き換えに身分を失った。しかもそれは自分の代だけの話ではなく娘も一生差別される。生半可な気分で選べる道ではないのだ。


 一生続く一本道だから、できるだけ早くできるだけ高い地位から始めた方がいい。

 皇族から下りた一世源氏は従四位になるのが普通だ。その息子である二世は従五位から始める。だが大臣の子なら四位か五位が一般的だ。


 源氏は現在内大臣であるのでそちらの手が使える。だから最初十二歳の息子を四位にしようと思った。が、ふと帝のことを思い出した。


————あの方は大変優れた方だけど、今臣下に落とされたら何もできないだろう


 庇護者を亡くした自分も苦労した。もし自分が不慮の死を遂げ、誰も息子を助けなかったらどうなるか。

 息子のおじにあたる(ごん)大納言(だいなごん)右大将(うだいしょう)(元頭中将)は多くの息子を持っている。たぶん彼らの次にしか配慮はしてくれまい。いや、部下より下かもしれない。


 そう考えてぞっとした。現在自分は力を持っているが、盾となる一族を持たないのだ。普通ならあまたいる子どもでどうにかするのだろうが、あいにく(おおやけ)にできる子は二人だけだ。


————私が倒れたら、息子はあっという間に没落する


 それを避けるに有効な手段は何か。可能な限りどんどん出世させることか。でもそうしておいて途中で死ねば、妬んでいた男たちが禿鷹のように襲いかかるだろう。


————一度うらやまれない立場に落としておくことはどうだろう。そして人が侮ってる間に実力をつけさせる


 悪くはないかもしれない。だが、自分が早死にしたとしたら最初の案以上にかわいそうなことになる。


————一か八かだ。今のところ健康に不安は亡いし、帝も譲位しそうにない


 なにせ東宮(とうぐう)(皇太子)はまだ七歳だ。しばらく安泰だろう。そのうちに帝に男宮ができるかもしれない。


————弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)に生まれたらコトだが、それでも全くいないよりはいいのかもしれない。あの人との愛の結晶の(すえ)だし



 源氏は息子元服計画を立て動き始めた。最初のうちは自宅の二条院でと思ったが、今は亡き正妻(あおい)の上の母・大宮さまがたいそう見たがっていると聞いて、そちらの邸で行うことになった。


 右大将(元頭中将)をはじめ彼の腹違いの兄弟の上達部(セレブ)たちも、われもわれもと押し掛けて行事の手伝いをする。なかなか体育会系な一族である。


 式は立派に遂行されたが、最後に着替えた夕霧を見て人々はどよめいた。六位の衣装の浅葱(あさぎ)(浅い青緑)色だったのだ。


「はあ? ありえないでしょう」

「身内が六位なんて恥ずかしすぎる」


 上流貴族にとって五位からが人で、それ以下は庶民と変わりない。口をきく便利な動物のように思っている者さえいる。

 当然大宮さまは腰を抜かしそうになった。さっそく源氏に面会を要求する。

 もちろん彼は求めに応じて現れた。


「いくらなんでも六位はあんまりでしょう。五位ならまだわかりますが」


 右大将の息子たちもその兄弟の子も、今現在こんなに低いスタートの者はいない。

 けれど源氏は焦る様子もなくこの高貴な女性の説得を始めた。


「思う所がありまして、まだ幼いのですがこのように元服させました。実は大学に行かせて学問をさせたいと思っているのです。これから二、三年はそのために使おうかと。その後お役目に就く年頃になれば人並みの身分にもなれるでしょう」


 反論の隙を与えず言葉を重ねる。


「私など内裏(だいり)に育って世間知らずで、夜昼父帝の元にいて漢学の手ほどきもそこで受けました。尊い父自身に習ってさえ、広い経験を積むまでは何ごとも今ひとつでした。つまらぬ親以上の出来の子はめったにいません。代が替わるたびに枯れ果てていくのではと心配でなりません。今はいいです。チャラ男であっても、人は内心はともかく追従(ついしょう)し持ち上げてくれるでしょう。でもいったん実権を失ったり私が世を去ったとしたら? 人からバカにされても頼る道のない男になってしまいます。学問を(いしずえ)としてこそ大和魂(やまとだましい)をいかすことができるのです。しばらくはもどかしいでしょうが将来のために学んでおくと何かと安心できると思います。それに今のうちは私がついております。さすがに『貧乏学生うぇ〜い』とからかうヤツもいないでしょう」


 と大変な長セリフを述べていると、孫廂(まごびさし)にいた靫負尉(ゆげいのじょう)が、じゃまをせぬように遠回りした女房から井戸水の椀を受け取り、御簾(みす)を掲げて渡してくれる。舌の疲れた源氏がそれを飲んでいると、大宮さまが言い返してきた。


「納得のいくお話ですが、右大将などもあんまりではなかろうかと首をひねっておりますし、この子自身も下に思っていた子たちがみな上へ上へと進む中、一人だけ格下の浅葱の(ほう)を着ることを苦にしている様子がかわいそうなのです」

「いっぱしに恨むものですね。そこがまだ子どもだ」


 かわいいものだと思わないでもない。


「学問などして物事がわかれば、その恨みは自然となくなりましょう」


 と押し切って、品のいい彼女を黙らせた。



 大学の入学記念に唐風の名を付ける儀式は、二条東の院で行った。ちょうど東の対が空いているのでそこに場所をしつらえると、普段はそんなことに興味を示さない上達部たちがわれもわれもと押し掛けた。


「気にせずいつもどおりに行え」と源氏が命じたが、博士たちはさすがに気後れしたのかサイズの合わない借り物の装束で、強張った表情をして現れた。それでも学者の誇りか過剰に威張ってみせる。


 席に着いた貴公子たちはそれを見て耐えきれずに吹き出している。落ち着いたタイプの男に酌をさせたが、儒者の儀式は通常の宴会とは違うため、右大将の杯の受け方さえ注意される。そのことさえ笑いの種だ。


「ゲスト席まで設けることは常ならぬこと」

「なに、高名な我が輩の名を知らぬと? それでよく公務が勤まりますな。実になさけない」


 貧相な借り着の博士たちのつっぱりに、かしづかれ慣れたセレブやエリートたちは大受けする。腹を抱えて笑うものもあれば、扇でその辺を打ちながら笑っているものもある。それを見て学者たちはまた腹をたてる。


「やかましいわ!」

「静粛に。神聖な式の最中ですぞ」

「静まらぬ者はさっさと退出なされい!」


 脅して言うが、こんな面白い見物をやめるわけがない。

 中ではちょっと学のあるセレブが薄笑いを浮かべつつ源氏をほめるが、学者たちはゲスト席のおしゃべりをとがめる。

 夜になると灯りが華やかに点され、博士たちの貧相な様子がますますはっきりと見え普通でない雰囲気だ。


 源氏は叱られるのがイヤなので御簾の中から隠れて見ていた。だが、部屋に入りきれない大学生が帰ろうとしているのに気づいて、釣殿(つりどの)の方に案内させて物品を授けた。こんなことには割と細かい。


 事が終わった後は漢詩の会となった。さすがに博士たちは上手い。中でもイケメンの左中弁(さちゅうべん)が声高らかに読みあげているのが神がかって見えた。


 学者たちはみな、何不自由のない家に生まれて遊び暮らせるはずの若君が、蛍の光窓の雪といった勉学の道に進むことを讃えて心を込めて作ったので、唐土(もろこし)にも伝えたいほどのものができた。中でも源氏の詩は親らしい愛情あふれたいい詩だった。



「ご入学おめでとうございます。それで若君は今どちらにいらっしゃるのですか」


 源氏が本邸のプライベートルーム、東の対でくつろいでいると良清が靫負尉(ゆげいのじょう)といっしょに現れた。権門の子息には珍しい進学コースに興味津々のようだ。


「ん、東の院に部屋を作ったよ。家庭教師もつけた」

「そうですか。大宮さまの元へは?」


 (じょう)が尋ねると「月に三度だけ行っていいことにしたよ。甘やかすからね」と答えた。


「そりゃ大変ですね」


 良清が気の毒そうな顔をする。従兄弟たちはみな気楽そうにしているのに、一人だけ学ぶのはかわいそうだ。


「思う所があってね。でも私にて根がまじめだから、せっせと史記を読んでるよ」


 良清と尉は顔を見合わせた。源氏はそれに気づかないようだ。


「読み終わったら試験があるけれど、その前に模試でも受けさせようかと思う」

「いきなりよりワンクッションあった方がいいですね、雰囲気もつかめるし」


 尉が首を振って納得している。


「うん。度胸をつけさせるために、また大将を呼ぼうかと」

「......前回でこりないのですか」

「確かにひどかったよ。学者は格好悪かったし、息子もバカにされた。だから......やり返す」


 急に据わった目に妙に強い光が見える。ああこの方は帝の愛児でプライドの高い方だった、と良清は再認識する。

 時に抜けてて女好きで、意外な部分で人が良くても、その根っこには火のようなものが燃えている。さすがは自分が主人と決めた人だと彼は口元を少しほころばせた。


「お手伝いできることがあったらなんでも言ってください。協力します」


 尉がちゃっかり売り込んだが、源氏は「今回はいらないな。息子ががんばるしかないからね」と断った。



 模試は上手くいった。百三十巻もある「史記」を見事に読み解いて不足はなかった。その後の口頭試問もミスがなく、十二歳とは思えないほどだった。


 進学に批判的だった右大将も「亡き父(元左大臣)が生きていたらどれほど喜んだことか」と涙を落とした。



 その後の寮試(テスト)の日もすぐに来た。源氏の息子の試験の様子を見物しようと、大学寮の東側の正門に所狭しとセレブの車が押し寄せてきたが、ひときわ美しい少年は落ち着きを失うことはなかった。


 ただ、若輩者の彼は貧相な学生たちの中でも末席に着かなければならない。蝶よ花よと育てられた若君にとってそれは辛いことだった。


 牛車の中からその様子を見ていた源氏は、過去の自分を思い出した。


 兄弟の中で一人だけ臣下に落とされた皇子。自分とはかけ離れた距離の親王(しんのう)たる弟たちの座る上席。そしてやはり一人で、しかし特別な者として区別された席に座る東宮である兄。


 過去の屈辱が、悲しみが、怒りが、そして憧れが胸に蘇ってくる。源氏は拳を固く握って息子を見守る。そして声なき声で叫んだ。


————勝て! 自分の力で這い上がって来い!


 千尋の谷に落とされた獅子の子を見つめるまなざしを少年にあてる。

 彼は自分が成長した獅子の子である自覚があった。

 だから自分の子もまた獅子であると信じた。


ーーーーえ、なぜそう思ったんだっけ?


 御簾越しに日の光がきらめく。思わず閉じたまぶたの裏で一瞬、いつもの獣と違う影が駆け抜けていったような気がした。



 もちろん成功しないわけがない。夕霧は優秀な成績で試験をクリアーし、本人だけではなく源氏や教師の名をあげた。



 波に乗っていると自分でも思う。兄の時代には定められなかった立后(りっこう)の話が出てきた時もそう感じた。


「帝の亡き母宮は、梅壷の女御(にょうご)を頼りにするようにとおっしゃいました」


 源氏はそう主張した。しかし世間は否定的意見も強い。


弘徽殿(こきでん)の女御(元頭中将の娘)の方が先に入内(じゅだい)したのに」


 そんな声が聞こえてくる。彼は素早く守りを固め、にらみをきかせて対抗した。

 表面は穏やかで波一つ立たぬ水面のようでありながら、その底では熾烈な闘いが繰り広げられている。


 そこに新たに参戦した者がいる。亡き藤壷の宮の兄の娘だ。

 兵部卿(ひょうぶきょう)だったその人は、朝顔の君の父が亡くなった後に上手く立ち回って式部卿(しきぶきょう)の地位を手に入れている。親王の中で東宮だけは別としてほぼトップのその位置と、帝のおじである立場を利用して娘を入内させた。彼女は王女御と呼ばれた。


「王女御こそ最も高貴な血筋の方。なにせ后腹の親王の正室腹でいらっしゃる。同じ王室腹ならこちらの方が」

「父宮の身分も申し分ない上に亡き方の兄上ですわ。母代わりの後見にはぜひこの方を」


 こちらはこちらでかまびすしい。人づてにその声を聞いた源氏は怒りが蓄積していった。


————弘徽殿方はまだいい。右大将は有能な男だ。敵対している今でさえ時には敬意を感じざるを得ない。だが式部卿、あいつが何をした。与えられた立場に甘んじて時の権力者におもねるだけではないか。逆風が吹けば自分の娘さえカンタンに見捨てる男だ


 心底見損なってはいるが、紫の上の立場上げのために式部卿につくことは妨害しなかった。その結果がこれだ。


————それに后腹だとか正室腹だとかなんだ。ただの、出来の悪い兄にすぎないではないか


 自分自身の内部の矛盾が鎖のように彼を縛る。何をしても許されるはずの自分——それは帝の息子だから。臣下に下ろされたことは納得がいかないーー能力は他よりも高いから。


 片方を立てれば片側が立たない。しかし自分の絶対的価値を信じるという、どこぞの元女御さまによく似た根幹を持つ彼はその矛盾に気づかなかった。


————あんな程度の男にいいように言わせてたまるか


 正直、中宮を決めることはまだ後でよかった。源氏の心の中のその地位は変わらず一人の女が占めていたからだ。


————なんたって私には切り札(ジョーカー)がある


 もちろん自分のことを帝に確認したことはない。だが今までの好意を見れば、彼がどう決断するかはわかる。

 源氏は帝に進言し、梅壷の女御が中宮となることが決まった。


 そのことを受けて源氏は太政大臣(だじょうだいじん)になった。少しでも藤氏の不満を抑えようと、同時に右大将(元頭中将)を内大臣に定めさせた。

 その上で世の(まつりごと)を彼に譲った。彼は能力も高く華やかで学問にも長け、漢字ゲームは源氏の方が上だが仕事のできる男だ。男の子を十人以上持っているが、認知した娘は弘徽殿の女御ともう一人しかいない。


 その子の母は親王家ので出なかなかの血筋ではあるが、今はもう内大臣とは別れて按察(あぜち)大納言(だいなごん)の北の方になっている。

 そちらとの子どもも増えたことをいいことに、大納言がその娘を自分の子宝の一人として扱いそうだったので内大臣は慌てて回収した。


 なにせ女の子は少ない。いや他にもいたことはいたが行方知れずだ。それにこの子は故太政大臣の孫なので、按察の大納言がそのことを武器に帝か東宮に入内させたとしたら大変だ。


————いくら自分の子とはいえ、母があちらと暮らしているわけだからあの家の資産として扱われてしまう


 内大臣は考えた。按察大納言の地位もけして低くはない。死にさえしなければ出世の可能性がないわけではない。


————昔の桐壺の更衣(こうい)も父さえ存命だったら、娘の寵愛を盾に必ず大臣の位にたどり着いたに違いない。そうなるとマッチポンプで彼女も女御になったはずだ。すると源氏は二の宮であっても東宮位にたどり着いたかもしれない


 とりあえず源氏の祖父の野望(内大臣主観)はいったんついえたが、彼は敗者復活戦で上がってきて推し女御を中宮にすることに成功した。だが、まだだ。自分はまだ終わってはいない。


 中宮に子ができず自分の娘に男宮ができたら一発逆転のチャンスだ。それに中宮は源氏の娘ではない。いくらあちら側とはいえ彼が決定的な力を持つに至らない。

 その上源氏は政権を譲って太政大臣になった。もうめったに内裏に現れることはない。実権は自分のものだ。


 そう考えると自分にはまだ輝かしい未来があるような気がしてきた。貴重な姫を大納言ごときに渡すべきではないのはもちろんだ。


 だが内大臣の正妻は、かつて弘徽殿の女御として名をはせた大后の妹だ。伝説の女ほどではないしあれはあれでかわいい所もないではないが、以前通った女を脅しその娘ごと行方不明にしてしまった過去がある。そこに呼ぶのも気が重い。


 彼は考えた末、王家筋の娘を自分の母(大宮)に預けることにした。

 そこには源氏の息子の夕霧が育成されていたが、その時点ではただの童だったので、まあいいかと目をつぶった。


 赤子の頃からそこで育った夕霧にとって、急に姉ができたようなものである。けれど二つ上の彼女は人柄も姿も大変可愛らしく、気を張るような相手ではなかった。


 母のない子と母から取り上げられた子は、互いを心の寄り所として育った。十歳を超えて部屋を分けられ、内大臣に「男女は仲良くしてはいけません」と注意されても聞く気はなかった。


 桜の季節は花に秋になれば紅葉にことよせ、何もなければひな遊びに加わるほど仲が良かった。

 年を重ねるほど心を通わせ、年上の姫君の方は無邪気だったが夕霧はその年よりも重い気持ちを抱えていった。


 子どもっぽい書きぶりの文を交わしてはいたが、時たま落っことして女房に見つかるのがご愛嬌だ。

 ということで身近な者にはバレていたが、微笑ましく思われて祖母君の大宮さまや双方の父に報告するものはいなかった。



 源氏、内大臣それぞれの就任祝いの大饗(たいきょう)(大宴会)もすみ世間も落ち着いた頃、内大臣は大宮さまの邸に向かった。時雨(しぐれ)が降り(おぎ)の上風もいつもより趣き深い夕暮れだった。


 何ごとも上手な大宮さまから手ほどきを受けた姫君は、まだたどたどしい琴の音を響かせている。


琵琶(びわ)などは女が弾くと可愛げがないようだが品はいい。最近は昔ほど弾きこなすものはあまりいないな」


 彼は大后の音を思い出したがそれも昔の話だ。今では彼女は人前で披露することなどない。だが最近、女の妙手の話を聞いた。


「太政大臣(源氏)が大井の山里に置いた女が達人らしい。そんなような血筋ではあるらしいが田舎者がねえ。あの方が相当のろけとったわ。楽器の腕は競い合ってこそのびるものなのに、ソロでマスターとは珍しい」


 大宮さまもその場に来たので彼は琵琶の音をねだる。


「今ではすっかり初心者ですわ」


 と言いながらも上手に弾いてみせた。一通り奏でた後にまた(くだん)の女の話に戻る。


「運がいいだけではなく気だても優れた人みたいですね。あの方のお持ちにならぬ女の子を産んだだけではなく、その子をもっと高い身分の方に譲ったことを見てもそう思いますよ。感心なことだと噂になってますわ」


 内大臣も母にうなずき「女は心の持ちようで出世するものでしょうな」と応えた。


「うちの女御も何ごとも人には劣らぬように育てたが、思いもせぬ相手に押しのけられたわ。想定外の世の中よ。だからこそ、この姫だけでもどうにかしたい。東宮の元服が近いだろう思っているが、その強運女の娘がじゃまをしそうだな」

「この家からずっと后がでないことがありましょうか。亡き夫さえ生きていれば、あの子も絶対に中宮になっていたでしょうに」


 彼女もさすがに恨めしそうに源氏のことを考えた。

 大人たちの悩みに気づかぬ様子の姫君は(そう)の琴をつま弾いている。髪の下がり具合などが上品で優美なので大臣がつい顔を覗き込むと、恥ずかしがって背けた横顔が実に愛らしい。(いと)を押さえる手つきが人形めいて見えるほどだ。

 けれど長くは続けず、すぐに手を止め箏を押しやった。


 代わりに内大臣が和琴(わごん)を引き寄せる。名人級の腕前が今どき風に乱れ弾く。指先は止めずに気持ちよさげに漢詩までうたう。気がのったのか次には秋風楽(しゅうふうらく)演奏(プレイ)する。これは唐楽だ。

 大宮さまはその様子を微笑みながら見ている。そこに夕霧がやって来た。


「やあいらっしゃい。こちらにおいで」


 内大臣は彼をさし招いて御簾内に入れた。もちろん姫は几帳を隔てている。


「久しぶりだね。学問のしすぎじゃないのかい。もう少しは遊ばなければ。笛の音から学べることだってあるのだよ」


 竜笛を渡すと育ちのいい夕霧は気後れもせず、素直にそれを吹き立てた。


「あなたの父上もこの手の遊びはお好きでね。だから急がしい政を私に押しつけて逃げてしまったのだよ。世の中は味気ないからせめて好きなことをして過ごしたいね」


 などと言って土器(かわらけ)を勧めているうちに暗くなった。灯りが運ばれ、湯漬けや果物などをみなで食べるが、姫君だけは奥に下がらせた。彼女の琴さえ聞かさずに遠ざける。


 老女房たちは「あんな風に引き離したら、かえって何か起きそうね」とこっそり囁きあった。



 夜が更けた。内大臣はこちらの女房にも手をつけているのでこっそりと尋ね、用事が終わったので忍び足で帰ろうとした。

 そこで女たちの噂話を聞いてしまった。夕霧と姫君がつきあっている。親は何もご存じない。確かにそう語られていた。


————なんということだ!


 想像した明るい未来が崩れ落ちていく。あまりの衝撃に彼は平静さを保つことができなくなりそうで、音も立てずにそこを離れそのまま部下をせかして帰ることにした。


 慌ただしい前駆(さき)(先払い)の声を聞いて女房たちは驚いた。


「あら、まだいらっしゃったの」

「通いどころがあるんじゃない」

「ねえ、さっきいい匂いがしなかった? 若君が通ったのかと思って気にもしなかったけど」

「もしかして、聞かれた?」

「どうしょう。こんなことにはやっかいな方よ」


 女房たちは身を震わせた。けれど今さらどうしようもなかった。


 暗い帰り道、内大臣は腹が立って仕方がなかった。


————ええ口惜しいっ。悪い相手とは言えないが、いとこ婚などありふれすぎとる。今回の立后(りっこう)を逃したのも源氏のせいだが、次世代のコマさえつぶすとは、謀ったなシャア!


 過去のライバル心までよみがえって怒り狂う。邸にたどり着いても気がおさまらず、横になってもほとんど眠れなかった。



 二日ばかりして内大臣はまた大宮邸に行った。大宮さまは「よく来るわね」と嬉しそうだ。

 息子ではあるが仰々しいタイプでくだけた格好を嫌うので、髪や衣装をきちんと整えきれいに化粧して対面した。なのに彼はえらく不機嫌だ。


「こちらでは大変に見下げられているので、気が引けますな。大した力もない私ではありますが母宮のおためばかりを思っておりますのに、不出来な娘のせいで恨み心を押さえきれません」


 恨めしそうに訴える。何ごとかと大宮さまは顔色を変えて目を見開いた。

 その様子を見て少しかわいそうにはなったが、鬱憤がたまっているので不満をぶつけた。

 つまり、せっかく預けたのに夕霧とのつきあいをほっておくとは何ごとだ、せめて知らせてくれればいいのにと申し立てた。

 もちろん大宮さまは知らなかったので驚いた。


「そうおっしゃるのも無理もないでしょうけど、誓って私は知りませんでした。残念というのなら私の方ですよ。大事に思って大切に育てていましたのに、まあ。だけど本当のことなのですか。よからぬ人が無責任に言ったことなら、かえって姫の名に傷がつくわ」

「いいえ。身近な者に聞いてください。もう、いい笑い者ですよ」


 そういって長居はせずに立ち上がる。

 帰り際に姫君の部屋を覗けば相変わらず可愛らしい。それを見るにつけてもこの子だったら后の位を手にすることができるだろうにといらだちがこみ上げてくる。


 思わず乳母を責め立てたが、二人を離さなかった大宮の教育方針を理由にいいわけされた。同時に彼女たちは姫君の義理の父のことまでいいだして彼を青ざめさせた。


————按察大納言もこの姫を東宮に差し上げようと狙っておった。こんな不始末を聞いたらさぞかし嘲笑うことだろう


 腹が立ってしょうがないが口止めのために、乳母たちに怒りを向けることはどうにかやめ大宮さまを全ての感情のはけ口にした。


 しばらくはそちらに足を向けるのもイヤなほど怒りがたまったが、ほっておくわけにもいかない。その上北の方にも話せないのでストレスがたまる。


 しかし内大臣は有能な男だった。北の方にも不審がられずに事態をいったん収める手を考え出した。


「后の地位をかっさらわれて、うちの女御はさぞかし気落ちしていることだろう。なのに帝は昼夜おそばに召していて、あれでは傍付きの女房も落ち着かないだろう。里で休ませよう」


 そう言って弘徽殿の女御を連れて帰った。心苦しかったのか今までよりも親密に過ごしていた帝は嫌がったが、内大臣の心の主人は彼ではない。若造の不満など歯牙にもかけなかった。


「お暇でしょうからお相手に、あちらにいる姫を呼びましょう。祖母宮に預けているのは気楽ではあるが、小賢しい者が近くにいるようなので」


 娘を亡くした心の隙間を埋めてくれた孫娘を奪われる大宮の嘆きもあまり気にしない。女御の件をいいわけに強引にコトを進めようとした。


 バタバタしている最中に夕霧が来た。牛車が何台も寄せてあるのでおじがいることがわかる。今は内大臣に後ろめたい気分なので隠れて覗くと、少将(しょうしょう)(柏木)や従兄弟たちが勢揃いしている。


 それでも大宮さまの御簾の中に入れてもらえる男の孫は自分だけだ。それを慰めに様子をうかがっているとおじさんは「一度内裏に行ってくる。夕方迎えにくるから」と言って出てしまった。どうやら姫を連れて行ってしまうらしい。


————自分を雲井(くもい)(かり)にたとえるぐらい寂しがりやなあの子が、あまりなじまぬ人たちの所へ連れて行かれるなんて、どんなに不安だろうか


 姫君こと雲井の雁は、出立(しゅったつ)前のごあいさつに大宮さまの元へ行っている。十四歳で年よりも幼く見えるが、大人しくて可憐だ。

 夕霧はこっそりと忍び込み、そっと近づき屏風の影に隠れた。


「かわいいあなたを日々の楽しみにしていたのに寂しくてならないわ。年ですから成長を見届けられないかもと心配はしたけれど、こんなことになるなんて。見捨てられた気分だわ。でもどこへ行くかと思うと知っているからこそ胸が痛いわ」


 祖母の泣き声に姫も顔を伏せたまま泣き濡れている。

 そこになぜか彼の乳母の宰相(さいしょう)の君の声が加わった。ぎょっとした。


「姫君のこともわが主と思っていましたのに残念です。お父上は何かとおっしゃるでしょうが、従ってはいけませんよ」


 みんなが知っているのかと思うと、雲井の雁は恥ずかしくて声も出せない。夕霧も耳まで赤くしている。


「それも難しいでしょうね」


 大宮さまがやんわりとたしなめるが彼女は強気だ。


「いいえ、うちの若様をとるに足りぬとバカにしているのです。ですがあの方が人に劣っているものですか。誰にでも聞いてみてください」


 興奮しているようだ。だけど彼のたてた微かな物音に気づいて振り返ったせいで目が合った。

 彼女はパチンとウィンクを一つ飛ばすと、更に勢いよく主人を売り込み、わずかな別れの時を勝ち取った。


 みなが仕度でバタバタしている夕暮れに、こっそりと二人は見つめあう。嬉しくてでも悲しくて、恥ずかしくてそして辛くって、胸の鼓動はダンスをやめない。なかなか声は出ないのに涙はカンタンに流れる。


「おじさんの気持ちが辛くて君のことをあきらめようとしたのに、できなかった。父に何を言われても、もっとこちらに何度も来ていればよかった」

「私も......同じよ」


 年より幼い姫君と年寄り大人びた若君は、互いの姿を目に焼き付ける。

 夕霧はかすれた声を絞り出した。


「恋しいと思ってくれますか?」


 少年の言葉に少女はうなずく。胸に刻み込まれるようなその時は長くはなかった。

 灯りが点され、内大臣が帰ってくる気配がする。前駆がうるさいほど声をたて、邸の人々も騒ぎ立てる。


 二人は恐怖におののいたが、それでも夕霧は気丈に自分が盾になる。背中が、姫の吐息で温かい。


「姫さま、どこですの? 姫さま」


 雲井の雁の乳母が彼女を探して入ってきた。部屋の隅の屏風(びょうぶ)の影を覗き込むとそこに二人がいた。


『やはり大宮さまはご存知だったのだ』と、乳母は腹を立てた。


「なんてことでしょう。お父上どころか継父の大納言殿さえもどう思うかしら。どんなすばらしい方であったとしても、初婚の相手が六位ふぜいじゃねえ」


 わざわざ屏風近くで言うのを聞いて夕霧は「私を侮辱しているのだ」と思い、ちょっと恋心が冷める気がした。


「あれが聞こえた? 君を思う血の涙に染まった衣の袖は、六位の浅緑なんて言えるものじゃない」

「いろいろと悩んじゃうわ。どうなってしまうのかしら」


 心を残しながらも彼女は行かなければならない。

 何をしても許される男の息子は何をすることも許されず、すごすごと自分に与えられた部屋に引き上げていった。


 心配した大宮さまが「こちらにいらっしゃい」と呼んだけれど、寝たふりをして動かなかった。

 その夜は眠れず、泣きはらした目を彼女に見られたくなかったので、朝早く霜が白い頃に東の院へ帰った。車の中から見上げる空はひどく曇っていて、真夜中のように暗かった。



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