朝顔
ほぼ源氏側視点
源氏三十二歳
「けっこう噂になってますよ。焼けぼっくいに火がついたって」
二条東の院に来てみたら、ちょうど大輔の命婦が末摘花の所へいて意味ありげな目つきをするから、用事を果たした後そのままそこの寝殿に連れて行った。
世間が取りざたしているのは、源氏と朝顔の君とのロマンスだ。
大后腹女三の宮の後に斎院だった彼女は、父の死のために役目を下りた。それでもすぐに戻ることができず、風もしめやかに秋の風情を運ぶ九月になって、やっと内裏の西北にある桃園の実家に帰った。
「昔からそんな関係じゃないよ。文は交わすけど」
「今回は訪問なさったんでしょ」
「従姉妹だから心配でしょ。えーと桃園式部卿は父上の兄弟だったし、同じく姉妹の女五の宮もいるし」
桐壺院はこの二人を特に大事にしていたので、源氏自身もつきあいは長かった。幼い頃など朝顔の君と遊んだことさえあるほどだ。
「いや、あっしはこうしてあの方の面倒を見てくださってるんだからどっちでもいいんですがね、本邸の西の対の人たちが事情を聞いてくれとうるさくって」
面倒そうな顔で命婦がこぼした。彼女は源氏直属の女房ではないが、立場としてはそれが一番近い。彼の乳母を母に持ち、桐壺の更衣に仕えた女房たちの元で女童時代を過ごした彼女は紫の上の女房たちの仲間ではない。
「ほっておけばいいじゃないか」
「面倒なんっスよ。一時期はあなたの召人の一人と間違われてエラい目で見られたし」
思わず源氏がぷっと吹いた。
「ないわー。惟光とつきあうぐらいありえない」
「でしょ。でも惟光っつあんは女装させればいけるんじゃないっスか。娘さんは似てるけど美人ですよ」
ほうと思ったが、彼に似てるってだけで範囲外である。あんな口やかましい男を思い出させるだけで大減点だ。
「遠慮しとく。来る者拒まずってわけじゃないんだ」
「いや来んでしょう。大事にされてるらしいし」
「私が呼べば走ってくるね、たぶん。だけどさすがにそのつもりはないよ」
「今は朝顔の君に夢中だからっすか」
ずけずけと命婦が踏み込んでくる。他の女たちには許さない彼女のスタンスを、源氏はけして嫌いではなかった。
「さあ、どうだろうね」
「あなたの女の高貴枠が空いたからじゃありませんかね」
人間驚きすぎるとかえって無表情になる。内面ではムンクなる者の代表作になりながら、外面は鉄壁のポーカーフェイスで彼女を見た。
「ほら、六条の御息所が亡くなってからそのポジ空いてるでしょ」
————そっちか。セーフ
ほっとしつつも憂いも滲む。彼女がいないことも寂しい。
季節の移ろいのやり取りは誰とでもできるがみな素直すぎて、解釈を外したらどうしよう、この凄みを越える返しができるか、などの緊迫感がない。
「あの方が亡くなって悲しいのは事実だけどね、そんなことはないよ」
「生前は面倒がってても、なんだかんだで殿は高貴な女性につくすことに慣れてるでしょ。今は亡き正室の方に対してもそうでしたし、入道の宮(藤壷中宮)や元麗景殿の女御さまに対してもそうだったじゃないですか」
源氏は自分でも考えた。ポジションの問題なのだろうか。よくわからない。だが権力欲は充分に満たされているはずの自分に何かが欠落していて、ひどく飢えていることは確かだ。
「だろか」
「あっしじゃわかりかねますがなんかこう、核を欠いた感じというか、落ち着いたようでいてもっとマズい感じと言うか。何の根拠もないんですけどね、ちょっと迷走してるような気がしちゃって。その上あっちの女房が」
言いかけて命婦が口を押さえた。源氏は威圧を込めつつ話すように促した。
「誰から聞いたか言わないでくださいよ。それとあちらのお方さまは悪くないですからね。用事で行く時も夏なら冷えた井戸水や削り氷、冬なら湯で割った甘ずらなんぞごちそうしてくれるいい方ですよ」
前置きしてから小声になる。
「本邸の西の対の女房たちは、かなり強気になっています」
わー面倒ー。そうは思ったが自分で要求したからには聞かざるを得ない。命婦の作戦だったとしたら大したものである。
「うちの姫さんとその女房たちは浮世離れしているから心配はしなくていいでしょう。明石の方も姫さんと別れているのは気の毒ですが、身分差もかなりありますし場所も遠いのでとりあえずはいいでしょうが」
「まさか花散里と争うようなことが」
「いえけっして。こちらの方も大変いい方で、あっしが来ている時も何かと配慮してくれて親切です。その上こちらの女房たちは、うちの姫さんのとっぽい女房たちをバカにしたりもしない。表情にさえ出しません」
源氏は首をかしげた。
「いいことじゃないか」
「ええ。だけどそりゃ、並大抵のこっちゃない。普通だったらかなり侮るはずだ。なのにこうしているのはここのお方さまがあらかじめ女房たちに厳重に注意しているからでしょう」
ますますもってけっこうなことだと彼は苦い顔をした命婦を不思議そうに眺めた。
「つまり、あの人はわかる方なんですよ他人の侮りが」
容姿端麗とは言い難い彼女のこと、人から向けられた悪意の経験がそうさせたのだろう。なのにそれを他者に向けたりしない所が本当に人柄がいい。それを知って命婦がなぜ晴れない顔をしているのかわからない。
「それで?」
「はあ。あちらの方の女房は、こちらの方への蔑みが顔に出ることがありますぜ」
もちろん言動には出さないと彼女は続けた。そしてそんな時でも花散里の女房はけしてそれに気づいた風を見せないとも言った。
「わかった。それとなく注意しておこう」
「ちょちょっ、待ってくださいよ短絡的だな。言葉に出してないことを叱っても、実感がなくて因縁つけられたようにしかとりませんぜ。その恨みはチクったヤツに向かうから、あっしかこちらの女房が疑われて言いつけるには小さすぎるがけっこう不愉快って目に合わされるんでさあ。かんべんしてくだせえ」
じゃあどうすればいいんだと源氏は不満そうだ。命婦も困ったような顔になった。
「頭の片隅に置いておいてくださいとしか言えません。で、今回の騒ぎですわ。人を見下す者は順位に敏感ですぜ。もし殿のラブコールが成功すると朝顔の君は、正室(正妻)ということになります」
自分の純粋な恋心に水を差されて源氏はむっとしたが、同時に思ってもいなかった視点に感心もする。
「親王のほぼ最高位の式部卿の宮の正室腹の姫君で、桐壺院のご姉妹と寝殿を西と東に分けあって過ごすほどの方ですからね。それを抜いたご本人の人柄も大変に評判が高い。斎院としての仕事ぶりもとても評価されています」
「趣味はいいね。字も綺麗だ」
「和歌を見せていただいたことがありますがとても優れた方とお見受けします。その上お美しいのでは」
「今は知らないけど小さい時は可愛かったよ」
「そんな方が正室となられたら、あっという間に立場を失ってしまいますからね。女房たちが気にするわけですよ」
そう着地されて少し考え込む。女房はどうでもいいが、紫の上にそんな心配をさせたのだとしたら少しかわいそうだ。
ーーーーとはいってもこの気持ちは急には止められないな
「だけど彼女は気にしているなんてひとことも言わない」
「そりゃそうでしょうよ」
「明石の彼女のことはけっこう言うのだけれど」
「あちらの立場や評判をご存知ならカンタンには言えないでしょ」
「そうかなー。だいたいおば上(女五の宮)はひどく老けていて、亡き太政大臣正室の大宮さま(桐壺帝姉妹で女三の宮)と比べものにならないほど劣った方だよ」
「われわれ一般人はそんなこと知りませんよ。皇女と聞いただけでとりあえず尊敬するっス」
そんなものかと源氏は思う。なにせ彼は生まれがよい。加えて兄弟よりも自分の方が能力的に上だと思っているのでその辺りの感性が人とは違う。更に自分の感覚を絶対視しがちだ。
それでもちょっと気にして「噂ではどう言われている?」と尋ねた。
「前の斎院に熱心に文を書いているが、それを女五の宮も微笑ましく思っている。お似合いじゃなかろうか、などと」
割に好意的である。いけるんじゃないかな、とぼんやり彼女のことを考えることが増えていった。
それを見て紫の上の悩みも重なっていくが表面には出そうとしなかった。
やがて冬が来る。神無月だが春すぎの国母の死去を受けて神事などは中止された。
源氏はまた女五の宮の見舞いを口実に、桃園の邸に出かけることにした。
雪が静かに降っている。常緑の松や竹に積もり行く様が艶やかに見える黄昏時だ。
彼の衣に薫き込めた香の匂いが遠くまで漂う。メイクにも気合いを入れて昼間から塗ったくったようである。平安だから仕方がないが、若い時分に彼の化粧に言及したことがあったかどうかは思い出せない。
ーーーー大抵の女はなびくね
よく磨いた鏡で最終チェックして、自分自身でOKを出した。そのまま紫の上にあいさつに行く。
「女五の宮が風邪かなんからしいので行ってくるよ」
「そう」
明石の姫君を抱いたまま、源氏の方を向こうともしない。けれどその横顔が強張っている。
「ご機嫌が悪いね。やましいことなどないのに。あなたが私を見慣れすぎてつまらなく思ってるみたいだから、ちょっと離れて倦怠期対策してるだけなのに疑うの?」
「慣れすぎると辛いことも多いのね」
姫君をひざから下ろして乳母に預ける。下がらせてから彼女は脇息に身を伏せた。
それを見捨てて行くのもかわいそうだ。だけどもう、女五の宮に連絡している。
彼はそのまま出て行った。淡い鈍色のやわらかな衣が、彼女の元から消えていく。
気づかれぬように顔を上げてそれを見送る。雪の光を受けて輝くような姿を。
夜は彼女のものだった。同じようにていねいに扱われる花散里は昼の女で、末摘花は問題外、明石の女は遠出の折りの休み所でしかなかったはずだ。
それなのにこの趣き深い夕暮れに、彼は出て行く。
こんなことが増えるのかしらと、紫の上に憂いは絶えない。
「......何か言いたそうな顔だな」
最近けっこうエラくなってお供の回数が減ってきた惟光が、難しい顔で付き添うのを源氏はちょっとからかった。
「別に」
「女優か。懐かしいこと思い出させないでくれ」
「そんなつもりはありませんし、わたしが立ち入る話でもないので」
紫の上の三日夜の餅を用意したのは彼だ。だから何か言われるかなと思ったが、特に批判はされなかった。考えてみれば幼少時に彼を連れておじさんちに行ったこともあるので、朝顔の君のことも知っている。どちらかに肩入れしようとは思わないらしい。
「枯れないねとでも言いたいんじゃ......ん?」
これ以上噂になりたくなかったので、人の多い北門ではなく西門から入ることを命じていた。ところがちゃんと伝わっていなかったらしい。寒そうな格好の門番が出てきて門を引くが錆び付いてなかなか開かない。他に男手はないようだ。
だいぶ待たされてからようやく通された。
連絡を受けた女五の宮は暗くなったので今日は来ないのだと思っていた。彼女は夜が早いのだ。せっかく源氏が現れても眠くてたまらずに、牛のような大あくびをしている。そのうちいびきが聞こえてきた。
————ラッキー。さっさと彼女の所へ行こう
喜び勇んで立ち上がりかけると、年寄りめいた咳をしながらやって来る人がいる。
「恐れ多いことですが、私のことをご存知かと思いましたのに数にも入れてくださらないのですね。亡き桐壺院はレディおばばとお笑いになっていらっしゃいましたが」
いきなり名のられた。源典侍だ。
そういえば彼女は尼になって、ちゃっかりここの宮の弟子になったとどこかで聞いたことがあった。まだ生きていたらしい。
ーーーーなぜなんだ。シリアスなロマンスを繰り広げようと思うと、どうしてこうじゃまが入るんだ
初期はともかく式部センセーはシリアスな状況の前後にはギャグを練り込んでくる趣味がある。踏襲したこの話の方向性は間違いとは言いきれないと思うと、さりげなく自己弁護を入れておく。
「あの頃のことはみんな昔話になっていくのに、嬉しい声だ。かわいそうな子だと大事にしてくださいよ」
とおだてるとその気になった彼女が色っぽく身をよじるのでゲンナリする。
————この人の現役時代の人などほとんど残っていないだろうに。入道の宮のようなすばらしい方が四十にもなる前に亡くなり、こんなとんでもないタイプが生き残ってのんびり過ごしているなんて、世は無情だ
「年はとってもこのご縁は忘れられませんわ」
「ら、ら、来世で待っててくれますか。けして忘れませんから。頑丈なご縁ですので今後の楽しみということで、今宵はまた」
と焦って立ち上がる。
朝顔の住む西面は格子を下ろしてあったが、拒否しているようには見られたくなかったのか一つ二つは開けてあった。
月が差し出てうっすらと積もった雪に映えて、とても趣のある夜の風情だ。
————冬の月を世間では嫌うけれど、私は好きだな
当時の枕草子ではすさまじきものとして師走の月と老女の懸想を並べてあげていたそうだが、その部分は現存していない。
気を入れ替えて真剣に朝顔の君をくどき始める。
「いやならうざいと言ってください。直接言われたらあきらめもつきます」
と責め立てる。彼の感情整理のためになぜ悪役を引き受けなければならないのか疑問だが、理性的な彼女は応えない。
————若かった昔、世間も父も勧めてきたことがあった。だけどありえないと思ったし、恥ずかしくもあって断った。今さらこの年でラブストーリーは似合わないわ。もう、声を出すことさえきまり悪い
彼女は内心そう思ってかたくなになっている。だけど源氏に恥をかかせるつもりはなく嫌悪しているわけでもない。充分に彼の魅力を感じてもいる。
彼の方からしてみれば中途半端な状況に「もうひと思いに殺してくれえ」と言いたいわけだが自分もよくやる手ではある。
犯人役をけして引き受けない二人が出会っても、恋物語は始まらない。敬意と親愛が残るだけだ。
月の光に照らされる雪は溶けることはなく、庭の籬(平安花壇)に朝顔の花は残っていない。
源氏には彼女が手折ることのできる花ではなく、常緑で趣き深いが風にも雪にも負けない松や竹などに見えてきた。
女房たちは惜しがったが、彼はあきらめて口止めをして帰っていった。
「......御愁傷さまです。えー、私は馬で帰りましょうか」
「その優しさやめて。かえって辛い」
来た時と同じく惟光と同乗したが、さすがに顔色が冴えない。負けて終わるのも口惜しく、人目も気になる。
「人格も身分も申し分なく、昔より経験値も積んだこの私の何がいけないのだろう」
「遅すぎたんじゃありませんかね」
なんのかんのありながら、さすがに正室のいた時期に彼女に手を出したら、さすがに父の手前もあって妻の一人にするしかなかったと思う。なんだかそれは負担で、本格的に攻略しようとはしなかった。
「かもな。今じゃ全く隙も手落ちもないよ。尊敬せざるを得ないけど、心が凍りつきそうだ」
惟光は肩をすくめるだけで何も言わなかった。それにも腹が立つ。
「あの人は兄弟もたくさんいるけれど、同腹の者は一人もいないんだ。すぐに立ち行かなくなるよ。もうその気配はあったし」
なかなか開かない西門。唯一の男手である年老いた門番。あっという間に末摘花の立場が迫ってくるに違いない。
だが今度は惟光は薄く笑った。
「あなたがそうはさせませんよ」
「どうかな。フラれたし」
源氏はそっぽを向いたが惟光は目を反らさなかった。
「今一番勢いに乗ってる内大臣さまはね、大事な従姉妹の異腹の兄弟にやんわりと声を掛けるのです。あの人が暮らしに困るようなことがあったら、おまえたちはもっと困窮するだろうと」
「そんな露骨なこと言わないよ」
「表現はともかく同じことでしょう。わたしの主人はそんな方なんです。だから、身分も何もかも捨てて田舎まで行くことがあっても何人もついて行くし、真夜中に楽器弾いたり歌われたりしてやかましくて泣いても、帰るとまでは言い出さないんです」
「え、あれ感動して泣いてたんじゃ」
惟光は目を三角にして凄んだ。
「んなわけないでしょ。妻子を置いて先の見えない単身赴任でもの凄く辛い思いをしていたら、当の主人に夜中に叩き起こされるんですよっ。エラい目見たわ」
「えー、もののあわれがわかってるなと高評価だったのに」
肩を落とした惟光がため息をついた。
「あなた時たまわかってるようで全然わかってないことがありますよね」
「繊細な心理のひだを読むのは得意なんだけど、さすがに一般人の心は読み違える時あるよ」
「はいはい。じゃあ女の心は読み違えないでくださいね」
「読めるからこそ辛い。もうこんな年じゃ憧れの源氏の君の隣にはふさわしくないわ、という心の叫びを耳にして無理に押せなかった」
「はいはい、好きに言ってなさい」
主従の乗った牛車はゆっくりと冷たい夜の道をたどっていった。
このまま二条院に戻るのもきまり悪く、そのまま内裏に向けさせ夜勤をこなした。
源氏の戻らぬ夜を重ねた紫の上は、今までのように皮肉る気力もない。耐えようとするが涙がこぼれる。ようやく帰ってきた源氏がそれを見た。
「妙にキゲンが悪いね。どうしてかな」
いとおしそうに髪をかきやる様子は、絵に描きたい程似合いのカップルに見える。
「藤壷の宮が亡くなってから帝が寂しそうなので心配なんだ。太政大臣も亡くなって忙しいんだよ。ちょっと会えない時もあるけど気にしないでくれ。君はもう大人なのに思いやりがなくて人の気持ちもわかってない。でも、そういう所が可愛いね」
泣いていたせいで額に張りついた髪(重力仕事しろ)を整えてやるが彼女はそっぽを向いて口をきかない。
「ほら、子どもっぽい。そんな態度は誰が教えたの」
おまえや、と言ってやるべきなのだが傷ついた彼女はそれどころではない。源氏は優しく見つめて言いくるめる。
「明日をも知れぬ人生なのに、心離れされるなんて悲しいな」
紫の上はまだ目を合わせようとしない。けれど彼の声はかってに入り込む。
「朝顔の君とのやり取りを勘違いしているのじゃないかな。そんな風なことじゃないよ。そのうち自然とわかるから見ててごらん。昔からそういったタイプの人じゃないのだけれど、折々にちょっと文を書くとごく稀に返事をくれることがあるってだけだ。後ろめたいことじゃないよ」
その日は一日傍にいて慰めた。
雪がひどくふりつもる日の庭木の様子が風情ありげに見える夕暮れ、源氏自身もいつもより輝いて見える。
「季節ごとの楽しみの花や紅葉よりも、冬の夜の澄みきった月に雪の光が加わった空の方が色もないのに身にしみる。すさまじいものと言った人は心が浅いよ」
御簾を巻き上げさせて眺めている。
月は隈一つなく雪と同じ色合いに見える。
しおれた前栽(植え込み)を取り巻く遣り水もむせび泣くような声をたて、池の氷も恐いほどだ。
「雪まろばしをさせよう」
モノトーンの風景を見飽きた彼は、色とりどりの袙を着た女童たちを庭に下ろして雪で遊ばせた。
小さな女童は子どもっぽく喜んで走り回り、扇なども落としてかわいい顔をさらしている。
「大きく丸めよう」とコロコロさせているうちに動かないほどになってしまって困っている子もいるし、庭には下りずにそれを見て笑っている子もいる。
「去年、藤壷中宮が雪山を作らせたことがあった。昔からあることだけれど何かと工夫をさせていたな。あの方がいないといろいろな時に残念だと思うよ。近寄り難い方だったので詳しくは知らないけれど、後見としては使いやすいと思っていただけたと思う。私もあの方を信頼して何かと相談させていただいたが、出しゃばらずにいながら話しがいのある方だった。ささやかなことでも上手に片づけてくださった。世にあれほどの方はいないだろうね。ものやわらかでシャイでいらしたのに教養もおありだった。君はその血筋を受け継いでいるのにちょっと困った所があるね。頑固な点が残念だな。朝顔の君の雰囲気はまた違って、心寂しい折りに遠慮なく話せる方もこの方だけが残っている感じかな」
雪の上に咲いた花のような子どもたちから目を移して、源氏は紫の上に話しかけた。彼女はつんとして言葉に罠を仕掛ける。
「尚侍の君の方が奥ゆかしくて人より落ち着いているのではないの。軽々しいことなどなさらない方だったのに、妙なことがあったわね」
有名な源氏とのスキャンダルを皮肉っている。彼はさっそく仕返しする。
「そうだね。婉然たる美女の見本になる人だ。そう思っているのにかわいそうで残念だよ。人より何もない私でさえこうなんだから、浮気者なんかはもっと後悔してるよね」
などといって、もう手紙さえ受けてくれない彼女のことを思って少し涙ぐむ。
「あなたが数にも入れずに貶めている大井の人も、身の程以上のものの心を身につけているけれど、立場からすると少し思い上がりすぎかな。それ以下の人の心は知らないけれど。完璧な人なんてめったにいないよ。でも、花散里の性格は昔からいいね。あまり見ないよあんな方。思い上がる様子もなく慎ましく生きているから、今さら離れたりはできないな。凄い人だと思っている」
まるで自分に言い聞かせるように次々と、女の話をあげていく。
月はいよいよ澄み渡り、静かに下界を照らしている。
「凍りかけた水は流れにくいけれど、空に住む月の影は流れるのね」
紫の上がか細い声で言った。二人の心は途絶えそうなのに、あなたの心はいろいろな人の所に自由に流れていくのね、ぐらいの意味だろうか。
月を眺めて少し頭を傾けた彼女の様子は誰にも似ず可憐だ。けれど髪の流れや顔立ちが恋い慕う人の面影と重なって、朝顔に向いていた気持ちが戻ってくる。
凍った池の真中からおしどりの声が聞こえた。
藤壷の宮のことを思いつつ眠ったら、出た。
夢ともうつつとも知れぬ淡い闇の中、愛しい人がほのかに見える。
たいそう恨んでいる様子である。
「私のことは絶対に言わないと誓ったのに嘘つき。浮き名が隠せないのも恥ずかしいし、苦しい思いをしていることも辛いわ」
亡くなった頃の姿とは思えない。長い髪が豊かに流れ、恋いこがれて無理に会った頃の懐かしい姿だ。
返事をしようと思うのに声が出ない。愛しい人の姿を目に焼き付けようと凝視するが、辺りに鈍色の闇が満ちる。
何かが襲いかかる気配がある。恐怖に打ちのめされても指一本動かせない。
声なき叫びを上げていると、視界の端で獣が飛んだ。
「うわあっ!!」
急に声が出て、傍らの紫の上を驚かせてしまった。彼女の「どうしてこんなに怯えているの」という声ではっきりと目が覚めたが、せっかく夢に訪れてくれた姿が消えたのが残念で、胸の鼓動に手をあてて押さえる。
自分の頬が濡れている。それは今も止まらない。紫の上は何ごとかとガン見している。源氏は答えず身じろぎもしない。
————虚しいね
思わせぶりに現れて、返事も聞かずに消えていく。愛しい人の儚い姿。
————辛い想いをさせているんだね
早目に起きてあちこちの寺に手配して誦経などをさせる。理由は一切明かさなかった。
ーーーー死の間際まで仏の勤めを行って全ての罪は軽くなったはずなのに、私故に苦しんでいる
どうしようもなく悲しい。
————あなたを追ってそこまで行きたい。たとえ地獄であったとしても。全ての罪を代わってあげたい
けれど現実では彼女の名をあげて法要することさえままならない。人にもバレるだろうし帝も気づくはずだ。できることは阿弥陀さまに祈ることだけだ。
極楽では同じ蓮の上にと願っているが、そこに父桐壺院がいたとしたら目もあてられない。
女は最初に契った相手に背負われて三途の川を渡るという伝説がある。男より先に死んだ時は、その辺りのサービスエリアで待っていなければならない。
————この世を去ってもあなたはいなくて、私はただ惑うのだろうか
何もかも申し分なく満たされているはずの権力者は凍てついた心を持て余し、自邸の持仏堂の仏像の前に据えられた香の煙を、声もなくただ見つめているだけだった。