花盗人
源氏11歳
弘徽殿視点
「た、大変ですっ、一大事ですっ!」
乳母子がすさまじい勢いで駆け込んできた。
「何事ですか騒々しい」
私は落ち着いて問いただした。
「入内ですっ、入内が決まりました!」
「オビワン・ケノビですか。新作の評判は今ひとつのようですね」
「それはジェダイ……違いますっ、前帝の四の宮が入内しますっ!」
人間関係が話題の多くを閉めるこの後宮ではそれは大きな事件だが、この弘徽殿に使える女房がはしたなく駆け込むほどのこととは思えぬ。
とはいっても、こやつは些細なことで大騒ぎする女だが。
あの女を失ってから帝は生気を無くした。
しばらくは何をする気にもなれないらしくぼんやりしていたが、急に女を漁り始めた。悲しみを忘れたかったのだろう。
だが彼にとってあの女と比べられる者はいなかったようだ。次第にそれも尻すぼみとなった。
けれど、彼の命を受けた女官たちは動いていた。
そしてついに典侍が、あの女によく似た娘を見つけたらしい。
「それほど似ているのか」
「クリソツですっ……いえ、そっくりです。しかも若返ったわけですから更にパワーアップ! 驚きの二段変身です」
少し興味を覚えた。
果たして似ているのはその面輪だけだろうか。
私の地位は安定している。
息子は東宮となった。
父は外戚として力を振るっている。
後宮の女たちは旧い者も新しい者も私に従わぬ者はいない。
私は大きな力を手にしていた。そして死にそうに退屈だった。
あの夏までは傷つき、悲しみ、怒った。
しかし、あの女が死に誰にも脅かされぬ高みに一人立つと、実に……つまらない。
時たま、叫びたくなる。
それが誰に向かってなのか自分でもわからない。
唯々諾々と従う女たちや男たちに対してなのか、それとも帝にか。
あるいは人の魂を呑み込んだ虚空にか、仏にか、神にか。
もしくは私自身にか。
わからぬまま私は権威と美に彩られた変わらぬ日々を送る。
穏やかで生ぬるい毎日。
人のうらやむ実力者、弘徽殿。
九重の誰もがひれ伏す特別な存在。
最上の力を持つ女御。
愛されることより司ることを選んだ女。
先の帝の四の宮は藤壺に入った。
帝の寵愛は深い。
世の人々は期待している。桐壺の更衣をいびりぬいた弘徽殿が、今度はどのような手を打つのかと。
彼女の入内後、初の管弦の遊びが行われた。
垣間見たその女は、確かに不思議なほど更衣に似ていた。
少し、胸が躍った。
だが、彼女が器用にかき鳴らす和琴の音を聞いて、すぐにその心は萎えた。
けしてまずい音ではない。それどころかなかなかの腕だと思う。
私は興味を失った。
「スキルは落ちておりません。すぐに懲らしめてやりましょう」
女房たちの言葉に、首を横に振る。
「………手出しはならぬ」
「何故です? 皇の方だからですか」
「違う」
たとえどんなに寵を集めようと、妬み心などそよとも起きなかった。
人々はさしもの弘徽殿も身分に負けて手が出せなかったと噂していた。
鵜の目鷹の目、力ある者のほころびを見つけることに必死な弱者らしい意見だ。
私はどうでもよかった。
絢爛で退屈な日々。
鬱々とした思いをなるべく外に出さず、倣岸な構えで人に接した。
そんなある日、わが部屋の表の前栽(平安花壇)に植えてある牡丹を、事もあろうにむしっている者がいた。
「これ」
恐れを知らぬその行為に、思わず御簾越しに直に声をかけた。
「何をしておる」
花盗人は振り返り、こぼれるような笑みを見せた。
「ごめんなさい。これが一番綺麗だからいただきます」
当然のことと決めて脅えもせぬその態度。
「やってもいいが、それをどうする」
「藤壺の方へ差し上げます」
咎められるとは微塵も思わぬその態度。
思わず苦笑した。
「私はもらえないのかな」
「欲しいのですか」
「ああ」
彼は困ったような顔をして一瞬考え、それからきっぱりと言った。
「あげられません」
「何故です」
「あなたはあの方ではないから」
そして軽く頭を下げ、花を掴んで駆けて行った。
「なんだかご機嫌がいいですね」
乳母子が、冷えた井戸水に甘蔓の汁を溶かした物を運ぶ。
「そう見えるか」
「はい。久方ぶりに」
そうかもしれない。今、自分の中の澱みは晴れてすがすがしい気分だ。
流石はあの、更衣の息子。
私は幼い子供を攻撃はしない。
だが、人を恋うすべを覚えた者はもう子供ではない。その域からは外れるであろう。
新しいゲームを始めよう。
最初は私が鬼だ。
さあ………どう逃げる?