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源氏夢想譚  作者: Salt
第四章
79/89

加齢

おおむね源氏視点

源氏三十二歳

 急に帝が学問に励み出した。まわりの者は首をかしげる。

 けして頭の悪い方ではない。だが学問に力を入れると早死にするという桐壺院の思惑のせいか、今までは基本的なことと儒家(じゅか)の思想を少し、後は漢詩などをお好みになっていただけだった。


 別にいけないことではない。そんな思想の桐壺院も妙に熱心に学んだ時期があったので、マイブームなのだろうとみな干渉はしなかった。イラストの時のように他者を巻き込んだりはせず、身近な学者を多少招くだけでほぼ一人で学んでいるようだった。


 そのうちに秋の司召(つかさめし)が近づいた頃、源氏に太政大臣(だじょうだいじん)になるようにと内々のお達しがあった。大変な名誉職だが彼はまだ三十二の働き盛り、そしてこの地位は敬して遠ざけられ実権が微妙に弱まる位置なのでぜひ忌避したかった。道長もにらみをきかせるために内覧(ないらん)に留まってこの地位を拒んだほどである。


 断るために参内(さんだい)した。すると帝は目を伏せて「というより、あなたに帝を継いでいただきたいのですが」と小声で告げた。源氏は腰を抜かしそうになった。


ーーーーば、ば、ばれた?!


 誰だ? 王命婦(おうみょうぶ)か。まさか亡き中宮(ちゅうぐう)では、とばくばくうるさい心の蔵を無視して必死に考えるが今はそれどころではない。全力で表情を消してそれを断る。


「亡き桐壺院も、あまたの皇子の中でとりわけ私に目をかけてくださりながらもそのようなことはなさらなかったのです。そのお心に背くつもりはありません。定められた通り公務員でいて、もう少し年をとったら出家したいと思います」


 内心の揺れは外に出ず、普段どおりの声が出た。それを聞く帝は残念そうだ。せめて太政大臣にと定めるが、源氏は必死にそれも断る。


 前の太政大臣が亡くなって一年もたたないうちにこの地位に就けば非難もされるだろうし、女に妬かれるのはほどほどなら嬉しいが男に妬かれるのは全く嬉しくない。

 まだ人事関係その他もやんわりと脅しつつ固めておかなければならないし、目の届かないその地位に就くことは時期尚早だ。


 いろいろとやり取りをしたあげく、地位はそのまま位階だけ上げてもらって、牛車に乗ったまま建礼門(けんれいもん)まで行っていいという特別待遇を許してもらうことにした。


 帝はまだぐずついて「やはり親王(しんのう)になってほしい」と求めるが「あなたの後見がいなくなります。権中納言(ごんちゅうなごん)(元頭中将)が大納言(だいなごん)右大将(うだいしょう)になっていますが、もう少し出世したらいろいろと譲ります。でもそうなったら静かに暮らしたいですね」と逃げる。


 帝の前から下がった後も心の蔵はダンスをやめず、自分の元に王命婦を呼び出すまで続いた。


 その頃彼女は尼姿では縁起が悪いと帝の女房をやめ、御匣殿(みくしげどの)の後任となって部屋をもらって勤めていた。


「このことをあの方は露程でも帝にお話しになっていたか」と尋ねると彼女は「全く。お聞きになられたら大変なことになる、けれど知らないことで罪を得ることになるかもしれないとお嘆きでした」と伝えた。


————思慮深い方だったから


 面影が胸をかすめる。沈めたはずの恋心が水の上に浮かぶように現れ出てくる。

 それを抑え、礼とともに更に口止めして命婦を帰した。


————彼女以外に知る者もないだろうに。顔立ちが似ていることからの推測か


 聞くわけにもいかぬことだから胸のうちがぐるぐるする。


————もしかして私のようなスーパースターが父だったらいいなという願望かもしれないし


 あ、そうかもしれないと、彼の心にやっと平安が戻ってくる。

 源氏は深く息を吐き、落ち着いて状況を振り返った。すると新たな心配がこみ上げてくる。


————帝は多少、思考形態が普通と違ってはいないだろうか


 万が一あのことに気がついたとしたら、自分が罪の子であることを悩み、帝ならぬ実父を憎むのではないだろうか。

 知らないとしたい所だが、念のためにシミュレーションしてみることは必要だ。


————気づいたとしてもこの申し出は変だ


 仮に帝が譲位したとしても次に継ぐのは東宮(とうぐう)だ。いかに帝の意思があってもそこを飛びぬかすわけにはいかないし、六歳の子の後に源氏が継ぐことになったら、それはいつになるかわからない。

 その上、帝の位についても源氏の子の扱いが極めて不明瞭だ。臣下であった時の子である夕霧が東宮になることはできるだろうか。


————宿曜(すくよう)によれば私の子は三人。すでにみな生まれているからこの先できないかもしれない


 上皇の子でさえ東宮になることは困難だ。それを考慮すると可能性は薄い。ましてや今の東宮が帝となり在位中に皇子を得れば。


ーーーーいや、それより何より顔立ちがひどく似ている私に帝が強引に譲位したとしたら、人々の心にある推察が生まれないか


 帝は中宮の不義の子。いったんその噂に火がついたら絶対に消し止めることができない。物の怪のために遅れたとされた出産時のことまで蒸し返されて証拠とされる。


————むちゃくちゃヤバい


 昔だったらかばってくれたかもしれない大納言(元頭中将)も今は政敵だ。父も亡く太政大臣(元左大臣)も中宮もいない。兄もあてにできるかどうかわからない。


————人の善意は最大の凶器だ


 帝の無邪気な愛情が自分を追いつめている。源氏は唸りながらなおも考えた。


————彼は俯瞰(ふかん)ということがまるでできない


 たまたま帝という男でありながら女以上に守られる存在であるからいい。だが政敵を見据え味方を守り手を組むべきは組み時によっては裏切る男との立場をこなせる方とは思えない。


 頭が悪いわけではないと思う。なにせ自分の息子だし記憶力もいいし和歌なども上手い。人あたりもよく下の者にも優しい。だが本質的な何かが欠落しているかもしれない。


 たとえば、と考える。去年の絵合(えあわせ)はもともと帝のイラスト趣味がきっかけだ。だがああいった大きなイベントになったのは新弘徽殿(こきでん)側の対抗心のためだけではない。帝が絵が得意な者をひいきするので、実質的な利益不利益が発生したためでもある。


————父上の時代にそんなことがあっただろうか


 臣下のことは特に覚えがない。だが女性は美しい者や才のある者を目をかけていて、とりえのない物にとっては辛い時代だったらしい。


————私は不美人でも大事にしますけどね


 ちょっと得意になっている場合ではない。今後のあり方に関わりかねない。気を引き締めて、次は兄について考える。彼はそんな風ではなかった。


 もちろん帝位についた年が違う。だが東宮だった時代から兄はかなりバランス感覚があった方だ。華々しい勝利者への賞賛も忘れないが、涙を呑んだ敗者にも言葉をかけてやる。


 人は勝利の時の賞賛よりも傷心の際の配慮の方を心に残すことが多い。そのせいか、父と違って院となってからは力を失ったように見える彼の下に、足繁く通う殿上人は少なくない。


————どこで違いが出たのだろう


 しばらく考え、もしかしてと思いつくことがある。同時に自分がなぜここまで天才的に賢いのかと考え、その答が間違いではないと判断した。


————教育か


 兄は争わない人だった。漢学は自分よりだいぶ劣ると思うが、それでも花の宴の時に学才があり優れていると人々に認められている。その理由を考えると彼の母がクローズアップされる。


 弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)(当時)の学才は凄まじいもので、須磨に流されていた時さえ史記を元ネタにした大罵倒が伝わってきた。

 彼女はごく日常的に漢籍を読む。その道に秀でた女房も何人かいるらしいが、もちろん及びもつかない。

 源氏も幼い頃その片鱗を見ている。


 読んでいない物などないのではないかと疑いたくなる知識量で、大っぴらには入りにくくなった最近の作品さえもどうにか入手して読んでいた。


 兄は学者について学んでいたが指示は出されるらしく、ある物が過剰すぎると判断されると別のものを学ばされる。本人は「漢詩だけで充分だよ」と笑っていたが、広く浅くいろいろな書籍を目にしていた。


 源氏ももちろん師は持ったが、寂しい時に女房とはぐれて一人でいたら「喪家(そうか)(いぬ)(野良犬)かっ」(史記にあるエピソード)と叱られたりで、日々の暮らしにフツーに学問がとけ込んでいた。


 一方、今の帝は教育にある程度制限がかかっていたようだ。最近こそ史書の類を熟読していたが、それまでは恥をかかない程度に留められていたらしい。


 気になってこっそり人をやって調べてみた。その結果妙なことがわかった。メインが儒教(じゅきょう)関係なのは一般的だが、孟子(もうし)を与えられていたらしい。


 儒教は人の道徳性を高めるありがたい教えだが、そもそも根幹に論理矛盾をはらむ。中でも孟子の説はセンセーちょっと落ち着いてくださいと押しとどめたくなる。


 その上「悪い為政者(トップ)はやっちゃってかまわない」と主張するので、万世一系(ばんせいいっけい)(血筋長持ち)のわが国には不向きと、(おおやけ)には取り入れていない。『孟子』を積んだ船は必ず沈んで日本にたどり着けないとさえ言われるほどだ。


————あのロジックではなく熱意で押してくるタイプの書を。私も一応読んだけど、脳内の修造箱にいっしょに入れているよ


 性善説を推したことでも有名だが、その辺りの大意を書くと「誰にでもいい心はあるものじゃ。まさに今、幼子が井戸に落ちようとしていれば人はみな助けるじゃろ。それはけして利益のためではない。いい心があるからじゃ。なに、そんな心のない者もおると?! そんなヤツは人間じゃないッ!!」で論理もへったくれもない。ただセンセーがいいやつなのは確かだ。


————墨子(ぼくし)兼愛(けんあい)説を攻撃したことでも有名だな


 それは自分を愛すように他者を愛せ、とする説で肉親さえ特別視しない。けして下げる意図はないのだが、親を特別視しないことは儒家にとっては許し難かったらしい。


 源氏はううむと考え、結論を出した。


————万が一バレた時に親を恨まないようにと、意図的に教育されたのだろう


 誰に? もちろん藤壷中宮にだろう。王命婦には無理だ。


————死んだ後まで私を守ってくれるんだ


 ほろりと涙がこぼれそうになる。そのすばらしい人を失ったことがつくづく悲しい。

 しかし今は先の事を考えなければならない。亡き中宮の意思を汲んで、帝の学問は元の路線に戻すことを推奨し、代わりに彼が寂しくないようによく気を配ってやろうと心に誓った。



 とはいえ他に何かあるとすぐに初心を忘れる。

 梅壷の女御が里帰りすることになったので、寝殿(しんでん)室礼(インテリア)を輝くほどに整えて、自宅の二条院に迎えた。


 一つだけ年上の紫の上は大喜びでお母さんぶっている。気が合ったらしく仲よくしているが、明石の姫君のこともあるのでずっと傍にいるわけにはいかない。


 秋の雨がとても静かに降り、前栽(せんざい)(平安花壇)の花が色とりどりに乱れ咲く上に露が滴る。


 源氏は色の薄い鈍色(にびいろ)(青みを含んだ灰色。喪の色)の直衣(カジュアル)姿で女御の元に渡ってきて、さっさと御簾(みす)の中に入った。彼の自邸なので拒否はさせない。几帳(きちょう)だけでガードした彼女と話をする。


「こんなに悲しい年なのに、花はちゃんと心得て決まった時期に咲くものですね」


 夕映えに照らされる源氏の姿は美しい。それを充分意識して、昔御息所(みやすどころ)と別れた野の宮の曙などについてしんみりと語る。

 女御も母の在りし日を思い出して少し涙ぐむ。物越しでもその様子がとても愛らしく上品なので顔を見られないのが残念だ、と彼はくやしがる。


「想いの絶えない私の心の中でも、特に苦しかったことが二つあります。一つはあなたのお母上のことですね。今わの際まで誤解されていて辛かったです。でも今ここまであなたに尽くす姿をご覧になったらと心の支えにしていますが、お恨みが溶けなかったことは彼女の来世の障りになるのではないかと心配です」


 体のいい脅しではないだろうか。「代わりに私が慰めてあげる」とでも言ってもらいたいのだろうか。ちなみにもう一つは語らなかった。


「かつて辛かった時期に願ったことは少しずつ叶ってきました。東の院に住まわせている者なども以前は心もとない身の上で心配だったのですが、今は安心です。いい人だと互いに認めあっているのでさわやかな関係です。帝の後見などの仕事は大して心に染みず、このような女性関係の方を大事に思うこの私です。あなたの後見をしているのもあなたへの気持ちを抑えてのこととお気づきになりませんか。『あわれ』とだけでも言ってくださらなければそのかいがありません」


 女御は面倒に思って返事もしない。源氏も「ですよねー、傷つくわー」と言って話題を変えた。


 ここで源氏の要求する”あわれと言ってくれ攻撃”を、本帖後半に柏木(かしわぎ)くんが女三の宮に多用する。むしろ女性の方が言ってもらいたいだろうと思いつつ、朱雀院(すざくいん)はどうかなと、一番女々しそうな譲位を決めた後六の君をかきくどくシーンを読み返してみると逆だった。


 彼は「あはれ」を要求するどころか、彼女のことを一シーンに三回もそう思っていた。


 いとあはれに思されけり

 セリフ内「ただ御ことのみなむ、あはれにおぼえける」

 あはれにらうたしと御覧ぜらる


 女性的な表面と違って実はこのキャラ割と男らしいのではないのだろうか。いざという時の行動の早さも物語中でも最大級だ。式部センセーは何かと仕掛ける方だから、これも何かのヒントかと思う。


「今は心静かに来世のための勤めも充分にして引きこもりたいと思っていますが、この世の思い出にするほどのことがないのが残念です。大したことのない幼児はいますが、まだまだ先は長い。ぜひあなたの手で出世の道を開いて娘を導いてやってください」


 言い放つとどうにかひとことだけ返事をもらったが、彼女の気配が素敵だったのでそのまま日が暮れるまでそこにいた。大迷惑である。


「春と秋はどちらを推しますか。古来人々の争ったテーマですが唐土(もろこし)は春、大和では秋をひいきしてますね。両方用意したいですけれど、しいて言えば?」


 答えないのもマズいかと彼女は「私程度が決めることではありませんが、母のなくなった秋の夕べこそ露のよすがにも思わずにはいられません」と微かな声を出した。その様子も可憐だったので源氏は心を抑えられない。


「あなたも秋に心を寄せるのなら、この私と情を交わしてください。秋の夕風で人知れず私は感傷的(センチメンタル)。セーブできない時もあるのです」


 内心「げっ」と思った梅壷の女御は知らぬ顔で答えない。なのに源氏はこのついでに自分の恋心について訴える。もう少しヤバげなこともしそうな勢いだったので、女御が「いとうぜえ」と思ったのもあたりまえである。


 源氏自身も「年がいもなくいけないことを」と思い返して嘆いている様子が苦みのある優美さなのに、彼女はドン引きしている。


 さて、ここでちょっと視点を梅壷の女御の立場に変えて問題点を整理してみよう。


1.九つ下の帝に入内(じゅだい)するのはイヤだった


2.たぶん「あなたのため」と源氏や女房に説得されてしぶしぶ入内した


3.帝と趣味が合ったのでどうにか気を取り直したが、やはり年下すぎると思っている。義務は果たす


4.入内させた当のおっさんがくどいてきた。こいつのせいで母の評判は落ち更にこんな目にあっているのに、私の気持ちをわかれとうるせえ。こっちの気持ちをわかれや


5.しかもこいつ、出世してうちの娘のためにつくせとか言いやがる。どうやら入内は自分ちのためだったらしい。だまされた


 落ちるわけがない。特に5がいけない。入内させた時点で恋心とか言い出しても通用しないのは当然だがなぜこれを言った。表面上のあなたのためって言葉さえ通じなくなる痛恨のミスではないか。


 和歌から読み取ると秋好はそれなりに賢いお嬢さんだ。自分が政の道具にされたことはある程度はわかっていたとは思うが、更にその上セクハラまで受けるとは思わなかっただろう。死に際のママンがあれほど言ったのを聞いているわけだから、それを裏切ってくどいてくるほど厚顔無恥とは思わなかったのでは。


 この時の彼女の心の全ては書いてはいないが、こんな扱いを受けると相対的に朱雀院が上がってくる。絵合のイベントで彼にはデメリットしかないのに自分に絵を贈ってくれた。入内の時もすばらしいプレゼントをくれた。原作に描写はないが、弘徽殿の使っていた梅壷を使用しているということはたぶん彼が配慮してくれたのだろう。


 先程のあわれ攻撃と合わせて考えると、ここは源氏下げと同時に朱雀院上げのシーンではなのかもしれない。


 心底うんざりした女御は、バレないように少しずつ奥にずり下がっていく。目ざとい源氏はすぐに気づく。さすがに意味はわかる。


「呆れるほど嫌われちゃいましたね。でも本当に心深い人はこんなに薄情ではないでしょう。別にいいですけど、これ以上は嫌わないでくださいね。辛いから」


 と彼は退散した。気合いを入れて香を薫き込めてきたので、帰った後まで残り香が凄い。

 女房たちはありがたがっているが梅壷の女御こと秋好は、その匂いさえうとましがった。



 寝殿から西の対に移った源氏は紫の上のいる奥にも行かず、端近くに寝転んだ。釣り灯籠(とうろう)を遠くに掛けて女房たちに話をさせる。


————無茶なことに引きつけられる癖がまだあったんだ


 女の声をB.G.Mに考える。


————昔はもっと罪深かったけれどまあ、若いから神や仏も許したのだろうな。今はだいぶ大人になったよ


 一方女御は秋の趣を訳知り顔に答えたことを後悔して気分まで悪くなっている。

 なのに源氏は気にもとめずに普段より親ぶって世話をする。紫の上にも平然と語る。


「あの方がお好きな秋のあわれも、君が春の曙に惹かれるのもわかるよ。季節の花などによせて音の遊びとかしたいね。だけど公私共に忙しすぎるからなあ。出家したいとも思うけれど、そうすると君が寂しいだろうし」


 と恩に着せる。この時の紫の上の心情は書かれていない。



 さすがに女のことばかりにかまけているわけではない。それなりに公務にも励むのだが、心はあちらこちらに飛ぶ。


「こうも忙しいとなかなか大井にも行けない。恨んでいるだろうが仕方がないよ。だいたい、こちらに来て他といっしょに扱われるのがイヤだなんて身の程知らずだ」


 と言いつつも気の毒な気がして、仏を口実に出かけていく。


「かばうつもりはありませんが、やはり気が引けるのでしょう。あそこにいるのは昔の女御さまの妹君と親王の正室腹の姫君ですから」

「って一人はアレだし、もう一人も性格はいいけれど美人じゃない」

「殿の水準が高すぎるのじゃありませんか」


 こだわりを捨てた良清が、大井への道のりも供をする。今回は牛車の中にもつきあわせた。


「いや。掛け値なしの残念感」

「そうですか。須磨のあの人よりマシでしょうが」


 どうやら例の老女のことらしい。さすがに苦笑してうなずいて「その人元気?」と尋ねると表情が曇った。


「先々月に使いをやったのですが、少し前に大往生を遂げたそうです」


 妙な所が律儀な源氏が悔やみを述べると、良清は礼を言い「もう隔たりのある人だったのに、不思議なほど寂しいですね」と続けた。


「ああ、そうだろうね」

「比べものにもなりませんが、殿もご縁のある方々を亡くされてお気持ちが滅入るでしょう。大して役にも立ちませんが、ご用の際はいつでも声をかけてください。たとえ夜中でもすっ飛んできますから」


 源氏はちょっと微笑んだ。


「今のところ大丈夫だ」

「はい」

「いろんな女性がよりどりみどりだ」


 大堰(おおい)川にはう飼いの舟が浮かんでいる。手も入れていない川辺の木々は暗い影を落とすが、その挟間からかがり火がこぼれて()り水の傍に舞う蛍にも見える。


 その光が映し出した源氏の横顔が妙に寂しげに見えて、良清も少し表情を暗くした。

 牛車の歩みはのろい。かがり火の光はとぎれとぎれに、いつまでも源氏を照らし出していた。



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