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源氏夢想譚  作者: Salt
第四章
78/89

凶事

源氏三十一〜三十二歳

ほぼ源氏側視点

 絵合(えあわせ)は源氏側の完全勝利に終わった。

 大変気分がいい。世の人々も「こっちの勝ちやわ」とおもねってくる。圧倒的ではないかわが軍は、と一人ごちる。


 ただ、こうも上手くいきすぎるとだんだん不安になってきた。


————もとより私は帝の愛児で、顔もスタイルもバツグンの絶世の美貌、知性もこの上なく高く舞いも上手、楽も名人以上の腕前でその上イラストまで人の及びもつかない天性の才。さすがに恵まれすぎているから長生きできないんじゃないだろうか


 大丈夫だその分性格に難がある、と言ってくれる人はいなかったので源氏は考え込み「そうだ、出家しよう」などと安易に考えた。


 帝がもう少し大人になったらそうしようと、東の院作成は遅らせて山里ののどかな場所に御堂(みどう)を造らせ仏像を彫らせたり写経させたりし始める。こういった細々としたことは好きな方だ。


 東の院用の材木を回したせいや、おもねった人たちが手伝ってくれたおかげで御堂は割と早く出来上がった。その途端に出家の志は薄くなる。


————子どもたちの世話もあるし、すぐすぐには


 と、いつか遠い先の夢ということにして片づける。それでも心の寄り所ができたようで嬉しかった。世間の風向きはまだまだ自分の方を向いているので、この勢いで二条東の院造成のピッチを上げた。


 だがまだ完成にはほど遠い花橘の開き始めた季節、時鳥(ほととぎす)の声でも楽しもうと花散里(はなちるさと)の邸に行った。いつものように車を寝殿(しんでん)前に止めると、取りつぎの女房が暗い顔で迎えた。


「お方さまがご不調で......」


 辺り一面花の香がする。咲き始めた橘が(かめ)にいけられて、そこかしこに据えられているのだ。

 なぜもっと早く知らせてくれなかったのかと女房を責めると、女御(にょうご)さまのご意思で、と言葉を濁された。


 花散里自身が(ひさし)の間に出てきた。その顔色を見ると自分の驚きなど小さなことだと吹き飛んだ。物も言わずに腕の中に抱き入れて力を込めた。


「......大丈夫だ。私がついてる」


 懐かしい荷葉(かよう)の匂いがした。花散里は黙ってうなずき、普段は入らない母屋の奥に彼を通した。


「......まあ。ばれちゃったの」


 几帳(きちょう)越しに、横たわる元麗景殿(れいけいでん)の女御が微笑む。源氏はいきなり号泣したくなったが、自分の横で震えている彼女のためにもそれを耐えた。


「仲間外れなんてひどいですよ。私はあなたの家族じゃないのですか」


 しばらく返答はないが優しい気配がする。女御はようやく声を出し「もちろんよ......だけど忙しいでしょう」と、こんな際まで気づかってくれる。


「あなたの体調より大事な用事などありませんよ。なぜもっと早く伝えてくれないのですか」

「いつもと違ったのは今朝からよ。昨日まではいつもの風邪だったの」

「だからって......いや、すぐに祈祷(きとう)の手配を!」


 声が聞こえたのか、簀子(すのこ)にいた惟光(これみつ)が飛び出て行く音がする。源氏自身も指示を重ねようと立ち上がろうとしたが、女御自身がそれを止めた。


「いいの。それよりもう少し声を聞かせて」


 不安な心をぐっと抑えて、必死に落ち着いた声を出そうと心がける。隣にいる花散里の手をしっかりと握る。


「お望みとあらば。でも女御さまらしくありませんね。私は去年、親しかった方をなくしたことをご存知でしょう。こんな時期に不安がらせると完成したばかりの嵯峨野(さがの)の御堂で出家しちゃいますよ」


 くす、と女御が息を漏らす音が聞こえる。それはすぐに咳音に変わり源氏を慌てさせた。


「大丈夫......でもないけどお話しさせてね。私はあなたをよく知っているわ。だから何も心配していないのよ......妹のことさえ」

「お姉さま............」


 花散里は涙ぐむが彼女の意図はわかっている。几帳の裏に回って彼女の手を取った。


 引き止めようとする嘆きを聞きながら彼女は優しく微笑んだ。別れの涙は見せたくなかった。


「逝かないでください! もっと入内(じゅだい)のことも聞きたいし、噂に名高いあなたの琴の音をまだ聞いていないんですよ!」


 源氏の悲痛な叫びが急に広くなった寝殿にこだまする。女御はほんのわずかに口元をつり上げたまま、花橘の香の立ちこめる部屋で静かにこと切れた。



 葬儀の終わった後、源氏はまた花散里を抱きしめた。

 彼は姉のような人を失った悲しみを訴えたかった。だがこの人は自分よりももっと辛いはずだ。それはわかっている。彼女のことを頼むことさえしなかったその信頼に応えたかった。


「............東の院の完成を急ぐよ」


 花散里は拒まずに、腕の力を強くした。



 その年の秋に源氏の住む二条院の隣に東の院が出来上がった。花散里は西の対に移り住んだ。政所(まんどころ)家司(けいし)も用意して、大事な人だと回りにも意識させる。けれど紫の上は特に妬く様子も見せず、かえって姉をなくした花散里に親切に対応した。


 そこまではよかった。なのに明石の女に対してはどうして妬くのかわからない。だけどけしてそれは不愉快ではない。人の死で強張っていた感情が緩んでいく。


「斧の柄が腐って取り替えなきゃいけないほど長く行ったきりなんでしょ。待ち遠しいこと!」


 そういってぷい、と横を向く彼女は可愛い。仔猫が爪を出して毛を逆立てているのに似ている。


「やれやれ、またそんなこと言って。世間でも『すっかりまじめになって』と評価されてるのに」


 と、困り果てた顔をして見せるが内心ニヤニヤがとまらない。

 彼女はいつも本気だ。嘘いつわりなく自分を愛し、自分の動向で一喜一憂する様を隠さない。


 他にこんな人はいない。それには理由があって、源氏自身が慎み深く恥じらいのあるタイプが好きなことが一因だ。


 だけど、と彼は思う。そんなレディが自分のためにあえて乱れてくれるのなら大いにOK、むしろ全力で推奨する。

 ただし生霊は不可である。あれはナシ。ノーモアスタンド、ノーモア人死にだ。とくに長距離自動操作型は絶対にアウトだ。


 なのでそれさえ守れば自分の愛すべき女たちはジェラってくれていいのですよ、と内心思っているが、なぜかこの点においては模倣者(エピゴーネン)は出ない。たぶん六条御息所(みやすどころ)の件があまりに有名すぎて、同じ轍は踏まないとみな決意しているのだろう。


 いやそんな、私と自分の評判とどっちが大事なんだ、当然私であるべきでしょうと不満だが、さすが自分の手で育て上げた紫の上はふうふうと息を荒げそうなほど気を悪くしている。

 顔には出さないが嬉しくて、なだめるふりで更に煽ったりしてしまう。


 明石の女は上京し、大井の辺りの邸に住み始めた。すぐに行ってやりたかったが、そんなこんなでなかなか出かけられなかった。ようやく、予定より遅い時間に出発した。


 謹慎中は明石でも狩衣(ジャージ)で地味に装った。だけど今日は再会のためのこだわりの直衣(カジュアル)、ありえないほど優美かつ華やかな様子である。なかなか訪れがないので不安だった女の心の闇も溶けていく。


 源氏も初めて会う娘を見て、息子の夕霧より可愛らしいと感心する。派遣した乳母も以前のやつれ果てた姿がいつの間にやら綺麗になっていて感慨深い。言葉はタダなので充分にいたわってやる。明石の君もにこにこしている。

 もちろん泊まった。


 起きるとガーディニングにいそしんだり、女の母の尼君にあいさつしたり、嵯峨野の御堂に行って仏事の手配をしたりとそれなりに忙しい。でも夜はまた、女の元に戻った。


 月は明るく、朝のうちに指示した()り水の流れる音も響いていい感じである。しっとりとした雰囲気に気を惹かれていると、実にタイミングよく(きん)の琴を差し出される。明石を旅立つ時に渡した琴だ。演出力がある。


「ほら、約束通り音が変わらないうちに会えたでしょう。私の想いの深さはわかりましたか」

「そのお約束を頼りに、松風に泣き声を加えていました」


 そう答える彼女は美しくて自分の相手として似つかわしい。源氏はそう思って満足し、次に娘に目を移す。かわいい。


ーーーーどうしよう。こんなわび住まいをさせるには惜しい子だ。二条の本宅に渡して盛大に御披露目すれば世間体もどうにかなるかな


 そう思うがさすがに女が気の毒で言い出しかねる。幼子はどうにか源氏に慣れて片言でしゃべったり笑ったりするのがますます愛らしい。思わず抱き上げて高い高いをすると、きゃっきゃっと声をあげて笑った。



 さすがに次の日は帰る予定だった。本当だ。だがちょっと昨夜がんばりすぎて朝寝してしまった。

 それがいけなかった。権力者兼宮中のアイドルの姿が二日もないので、たくさんの殿上人(てんじょうびと)が桂の別荘に尋ねてきた。中でも勘のいいヤツらはこちらにまでやって来た。


「まいたつもりでしょうが、そうはいきませんよ」

「わたしたちからは逃げられませんよ」


 笑いながら言われると外面のいい源氏なので、接待しなければ悪いような気になった。みなを待たせて出ようとすると乳母が娘を抱いて戸口にいるのでちょっとかまい、さて女の方を見ると見送りには出てきていない。


————身分からすると気取りすぎじゃないか


 女房たちも気をもんでいる。ようやく端近にまでいざり出てきた。

 几帳に半分かくれたままの横顔がとても優美に見え、たおやかな様子は内親王(ないしんのう)と言われても納得するほどだ。


————これじゃ仕方ないか。この私に合わないこともないし


 源氏は男盛りで、特に女の目から見ると細すぎの体にちょうど良く身がついてとてもチャーミングに見える。ただしひいき目じゃね、と原作でもつっこんでいる。


 付き従うのは元右近将監(うこんのじょう)で、現在は蔵人(くろうど)に復帰して冷泉帝の元でも働いている。役職は靫負尉(ゆげいのじょう)で今年従五位の下にたどり着いたので、もう立派な殿上人(エリート)である。


 かれは源氏の太刀(たち)を取りに傍に来て、須磨で知り合った女房を見つけ洒落めかして声をかける。だが女がその何倍も気取って答えたので、ゲンナリして気が冷めた。

「そのうちに」と未練なさげに源氏の方に行ってしまった。


 源氏は、秋の風情のアウトドアライフに気もそぞろな迎えの人をほってもおけず、桂の院に連れて行った。桂川のう飼いたちを呼んで楽しませてやる。

 源氏を名目に他に行って小鷹狩りをしていた者たちも合流して宴会となった。


 順繰りに杯は回り酔いも回る。そのまま漢詩を作るが四句ですむ絶句を作る程度で精一杯だ。

 大騒ぎをしているうちに月が華やかに出た。途端に今度は音の遊びが始まった。


 琵琶(びわ)和琴(わごん)を腰にくるほどビートを利かせば、腕に覚えの笛の音がなまめかしくも絡み付く。それは昨夜の女の白い肢体を思わせて源氏は少し口元を緩める。気づいたわけでもないだろうが音の響きに艶が出る。川風は涼しげに人々に吹き付けるのに、彼らの熱気はなかなかおさまらなかった。


 月が高くさし上り全てが澄み渡る夜がやや更けた頃、帝の元から使者が四、五人現れた。


「今日は物忌みが明ける日なので参内(さんだい)すると思ったのにどうしたのか、とおっしゃっています」


 今さら帰っても間に合わないので返事だけでもしようとするが、できて間もない別荘なので使者に持たせる適切な品がない。急いで大井の女に使いをやった。


「あざとくない返礼品を用意してくれ」


 そのような心得のない田舎(当時)出の女を試すようなまねをしたわけだが、乳母の助言か王家の出の母の助けか見事に切り抜け、衣装ケース二つにセンスのいい衣が詰められて届けられた。


————やるな、彼女


 源氏の中での評価が上がる。

 内裏の使者はすぐにほうびを携えて帰って行った。



 そんなこんなで思った以上に長居してしまったので、紫の上に角が出ていないかと恐い。戻って女房に聞いてみると案の定だったので「悪いと思ったけれどみんなが来てしまって無理強いされて。それで今朝は体調が悪いんだ」ととりあえず眠った。


 目が覚めてもやはり彼女は不機嫌だ。知らん顔して「レベル違いと比較するなんてよくないですよ。我は我、あれはあれと誇り高くしていらっしゃい」と教唆する。


 しかし今回の件は度を超してしまったらしい。さすがの源氏も居心地が悪い。それでも日が暮れ内裏に出かける時刻が近づいてくると、大井の女にも文を書いてやりたい。急いでしたためているうちに傍目から見ても愛情が漏り出て、紫の上の女房たちは恨めしそうにしている。


 その夜は宿直予定だったが機嫌をとるためになんとか帰ってきた。

 タイミング悪くそこへ女からの返事が届いた。仕方がないので堂々と読むと、特にマズい所もなかったので紫の上に声を掛ける。


「これ、破いちゃって。面倒だから」


 脇息に寄りかかって文を広げたままにする。けれど彼女はそんなものはそこに存在しないかのように横を向いている。


「見たいくせにそんな顔してるのってかえって気にかかるよ」


 優しく微笑んで彼女の方に身を寄せた。


「実はね、かわいい子ができたのでほっておけないだけなんだ。相手は身分などないしね。だから、いっしょに考えてあなたが決めてほしい。どうしようか。ここに引き取って育ててくれないか。もう三歳だから袴着(はかまぎ)の頃だけど、取り仕切ってもらえる?」


 そういうと紫の上の心も少し溶けてくる。


「私が考えてもいないことばかり言って心の壁を作るのを、知らんふりするのもどうかと思っただけよ。私も子どもっぽいから幼子にはぴったりね。どんなにかわいいかしら」と少し笑った。

 子ども好きなので「その子をもらって抱いてお世話したい」と思っている。


 平安でも母から取り上げてまで育てることはけしてお勧めされてはいない。権門の妻でも受領(ずりょう)クラスはフツーにいるし、乳母もいるので育て方に困るわけでもない。その上明石の君の能力はテスト済みで申し分ない。


 この場面はえらく含むものが多そうである。愛する女の機嫌をとるために他の女との子を捧げる源氏と、それを何の疑問もなく受け入れてしまう紫の上。

 だが二人の生い立ちを考えると、その理由も浮き彫りになる。


 二人は母を知らない。育ち方もかなり変則的で、母の想いを知ることはできない。


————もし私に素敵な母上がいたら


 (フィクションなのはとりあえず置いておいて)そう考えたことがあったかもしれないし、幼子のためにその理想の親になってやろうとしたのかもしれない。

 だがその子には本当の母がいる。源氏は多少は悩むが紫の上は忖度(そんたく)することはできなかった。


 作者の式部センセーはこのシーンを意識的に書いたのだろうか。

 悩む所だが後半、明石の姫君が実年齢約十二歳で出産した時に生母の明石の君だけがゆっくりと養生することを勧めているが、紫の上は無邪気に源氏は打算込みでさっさと内裏に戻ることを求めている場面があるので、やはりわざわざ書いたと推察してしまう。


 式部センセーは源氏たちと同様母がいない。しかし自分自身が母でもある。旦那である宣孝(のぶたか)氏が他の女に彼女の文を見せた後、全部返せと要求したエピソードがあるから表面上はともかく内面は割と気が強いらしい。そして必要があってわが子を宣孝氏の女の一人に預けることになったら相当に苦しむことを想像できる人だ。


 しかしそうだとしても意図はわからない。無自覚でも罪は罪?

 仕方がないのでほっておいて先に進める。


 そんなこんなで大井には、嵯峨野の御堂を口実に月に二度ほど通うことになった。



 二条の邸に娘を引き取り袴着を終えた。

 紫の上は姫に免じて大井への訪問を許してくれる。

 源氏にとって安定した日が続く。


 東の院に移った花散里は予想以上に見事に住みこなした。姉女御の分も気を張っていることはわかるので、紫の上とそう変わらないぐらいに大事に扱っているけれど、一抹の寂しさが抜けきれない。


 もともと落ち着いた人柄だが、姉を亡くした時の心の動乱を最後にするりと何かを脱ぎ捨てた。もはや源氏の言動での心の揺れを見ることはできない。


 それは寂しい。大事にしながらもなんとか深い所を見ようと夜の通いを止めては見たが少しも動じない。いつも優しく気を抜かず、理想的な態度だ。


ーーーーそうだけど、そうじゃない


 麗景殿の女御の死は何か大きなものを連れ去ってしまった。

 源氏は花散里を愛しく思いながらも、自分の言動で一喜一憂する紫の上を見るとほっとする。


 大井の女の元へ行った時も同じで、この女がはしたない様を見せたら心が冷えるかもしれないけれど、冷静に完璧な対応をされることもイヤだ。


 自分でも無茶だとわかっている。あちらの花には香りが足りずこちらの花には蜜が足りない。全ての要素を完璧に満たした花などあるわけがない。紫の上にさえ、そう育てたにもかかわらず高貴さが足りないなどとわずかな不足を感じる時もある。


————普通は女性観の根底に、母という人がいるのだろうか


 目移りする桐壺帝の後宮、最終的に母として認めた人は一人だが、幼い彼には気分で選べるほどの母たちがいた。

 同じようにたくさん女を持てば、いつか一人に決められるのだろうか。闘いは数だよ兄貴、とは真理なのだろうか。


 面倒なことを考えると出家したくなるのでやめて仕事に励んでいるうちに太政大臣(だじょうだいじん)が亡くなった。

 お世話になったがもう彼は現場レベルでの仕事はしていなかったので、心置きなく悼んだ。


 その年は気候も荒れていて病気も流行った。煩わしいと思っていた所、入道(にゅうどう)の宮(元藤壷中宮)重体の知らせが入った。


 指先に力が入らない。帝の行幸(みゆき)の手配などをさせるが、恐怖で声も震えそうだ。

 耐えられないと源氏は思う。麗景殿の女御の時も辛かったが、花散里を思いやってちゃんと立っていられた。だけど、ひそかに思う彼女を失ったら自分は生きていけるのかどうかさえ危うい。


 必死に祈祷(きとう)させ見舞いにも行く。ここ何年か胸にだけ秘めていた恋心を伝えることができなかったのが辛く、几帳の際にまで近寄って女房たちに様子を尋ねる。


「お悪いのにお経さえお休みにならなくて」

「この頃は柑子(こうじ)にさえ手が伸びずに、もうこれでは......」


 泣いている者も多い。藤壷自身もかすれた声で、取りつぎの女房に源氏への日頃の礼を囁くが、可能な限り身を寄せた源氏の耳にも響く。涙がこぼれて止まらない。それを必死に止めて、振り絞るような声で答えているうち、灯火が消えるように命が果てた。



 春なのに世は薄闇に閉ざされているようだ。身分が高くても徳のない人もいる。だが藤壷の宮は下々を苦しめることもなく世につくし、仏事も過剰ではなく予算の範囲内で上手に行っていたので、理解力の足りない山伏さえ嘆いている。ましてや殿上人など申し合わせたように喪服で真っ黒だ。


 何を見ても彼女を思い出す。二条院の桜を見てさえ、自分が二十歳の頃の花の宴の彼女を思い出して切なくなる。


「......今年ばかりは墨染めに咲け」と古歌にかこつけて吐き出してみても虚しいばかりだ。

 だから二条院の敷地内の念誦堂(ねんずどう)(お祈り小屋)に引きこもって泣き暮らす。


————誰も彼もが私を置いていく


 夕日が華やかにさして山際の梢がくっきりと浮き出して見える。横様に流れる薄い雲が青みを含んだグレー、まさに喪の鈍色(にびいろ)を示している。


「入り日さす峰にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる(夕日のさす峰にたなびいている薄雲は、嘆き悲しむ私の袖の色に似ているだろうか)」


 色彩豊かないい歌だと思うが、式部センセーはこの原作の核をなすヒロインの死の嘆きを歌う源氏に、「人が聞いてないから意味ないけどねー」とつっこんでいる。まさにつっこみの鬼である。



「すぐに参内してください!」


 駆け込んできたのは靫負尉だ。いつもは落ち着いているのに何ごとだろうと驚くと、いっしょに現れた惟光(これみつ)も焦っている。


「帝が起きてこないんです!」

「昨夜のお相手が情熱的だったとか?」

「昨日は一人で寝たんです!」

「お病気だろうか?」


 心配になって慌てて駆けつけると、年若い帝は源氏を見て白い頬の上にはらはらと涙をこぼした。


————お母上のことを悲しんでいらっしゃるのだろう


 穏やかに慰めるが、帝はその美しい顔に新たな涙をためるだけだ。それをどうにかなだめて、なんとか明るい話題に持っていった時に訃報が入った。


式部卿(しきぶきょう)(朝顔の君の父。桐壺帝兄弟)の宮がお亡くなりになりました!」


 やっとなだめた帝がまたぐすぐすと涙ぐむ。式部卿は親王(しんのう)の役職で、東宮を除いて最上位だ。大変高い地位だし源氏にとっても叔父だしこの間国母が亡くなったばかりだし、太政大臣が亡くなって間もないし凶事が続きすぎる。

 いろいろとすべきことが増えて源氏は里にも帰らず奔走している。指図すべきことは多いが、何よりもメンタル病みかけている帝の傍に付き添っている。彼もどうにか落ち着いて小声で源氏に話しかける。


「私も寿命が尽きたのではないだろうか。心細くて普通の気分ではいられない。天下も荒れて悪いことばかりだ。母上がいらっしゃったからこそこんな立場にいるが、こうなったからには譲位して気楽に過ごしたいと思う」


 源氏は仰天した。烏帽子(えぼし)が吹っ飛びそうだ。


「絶対ダメですっ!! 凶事は政とは無関係です。賢帝の世でもいろいろあるし、聖帝の世でさえ乱れることが唐土(もろこし)でもありました! もちろんわが国だって! ましてお年寄りが亡くなったからって嘆くほどのことじゃありませんっ」


 口からつばを飛ばして熱弁する。割に失礼なことを言っている自覚はない。

 聞いている十四歳の帝は喪が明けないため黒い衣装だ。だがその容姿は鏡に映したかのように源氏にそっくりである。


 もの言いたげな帝を見ているうちに源氏も少し落ち着いてきた。だが不審の念は消えない。

 帝は普段よりも親しげに源氏を見つめて、話したい何かを呑み込んでいるようだった。



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