薄雲
源氏三十一〜三十二歳
元藤壷中宮視点
連続投稿です。前話”絵合”の続きになっています
その年の秋になって源氏の作っていた東の院が完成した。そこには彼のたくさんの女たちが入ると噂だったけれど、それほど人は多くなかった。
筆頭格は、私と同時期に麗景殿の女御だった方の妹だ。
女御自身は移る以前に亡くなっている。眠るように安らかな最期だったと聞いて少しうらやましかった。
「ええ。姉のように思っていました。新しい邸を見ていただけなくて残念です」
花散里とあだ名される妹君は、悲しみを抑えてその邸の西の対の主人となった。亡き姉の名を辱めず、なかなか評判のいい暮らしぶりだ。
北の対には今のところ、故常陸の宮の姫君だけが入っている。東の対の主人の予定の明石の女は、どうにか上京して来たが大堰川のほとりの家に落ち着いたらしい。
「......かわいい姫君がいると聞いているわ」
「母の身分からして今のところ姫などと言える立場ではありませんよ。もし、あなたが......」
彼は何かを言いかけて寂しそうにそれをやめた。尋ねなかったけれどどう続けたかったのだろうか。
「いえ。今年中には二条の邸に引き取ろうと思っています」
「そう......」
あなたはあなたの暮らしがあるのね。わかってはいたことだけど胸のうちに木枯らしが吹く。
内裏にもなくてはならない重鎮でみなに愛されていて、私生活も充実していてたくさんの妻を持ち、子どももいる。
————私は......
息子はいるけれどこの人がいるから安心だ。権中納言(元頭中将)も娘を入内させているから尽くしてくれるだろうし。朱雀院も穏やかに暮らしていて、梅壷の女御のことで意趣返しなど考えもしないようだ。
ただ一つ気になることがあって、おずおずと尋ねた。
「ここの向かいの邸を閉ざすという噂を聞いたけれど、本当?」
源氏は一瞬考えて大きくうなずいた。向かいには大后の亡き父の所有していた邸がある。
「ええ、大后も尚侍の君も朱雀院からほとんど戻ることはないので、こちらは閉めて二条にある邸の方を里として使うことにしたようですよ」
重い物で頭を打たれたような衝撃を受けたのがなぜなのかはわからない。
————あの人は敵で、目の前から消えてくれるのならいいことじゃない
扇を強く引き寄せて、必死に自分を落ち着かそうとする。なのに自分のどこかがきしむ。
————思う存分敗者の屈辱を味あわせられないから?
心の一部が疑問に疑問で答える。
————私はそれほど浅ましい考えを持っているの?
「あそこは院の財産として管理することになったそうです」
勝ち組を見せないための、彼の大后に対する配慮なのかもしれない。
いや、それはおかしい。二条には源氏の邸がある。だけど源氏は彼の弟だ。
じゃあなぜ? 大后を守るため?
誰から? ............私から。
震えていると女房の中務が気づいて、面談を中断させた。
私は横になってもおこりのように小刻みな震えが止まらなかった。
ちょうど季節も冬で、何もかもうら枯れていた。
そんな頃に夢を見た。
舟に乗っている。辺りは雪に閉ざされていて何も見えない。女童たちに雪まろげをさせるようなそんな雪ではない。あられまじりの痛いような雪だ。
連なる山々や人の通った道があるはずなのに、それさえもわからない。
だけど私は寂しくはなかった。同じ舟に蓑笠をかぶった翁がいて、川に釣り糸を垂らしていたから。
————こんな冷たい川で何が釣れるのかしら
私は凍りそうな川をしばらく眺め、尋ねるために顔を上げた。
ーーーーいない!
ぎょっとして探しているうちに、手の平に何かを感じた。
よくしなる竹の竿が私の手に握らされている。
舟は冷たい川の真ん中で、打ちつけるように雪が降る。
私は孤独な漁り人で、辺りには誰もいない。
————源氏の描いた須磨の絵に閉じ込められてしまったの?
いいえ、あの絵は川ではなく海だ。
千鳥も飛び交い音があった。
大波は恐くても漁師には仲間がいて、優しい月が輝いていた。
————いやっ、こんな所にいたくない!
悲鳴を上げそうになると幼い声がそれに応えた。
————あなたが望んだのよ
————違うわ!
————いいえ、あなたの行きたかった場所よ
声は冷たく決めつけた。必死になって叫んだ。
————あなたは誰?
声の主は薄く笑う。けして下の身分の女ではない。高貴な生まれの品のいい少女だ。
————あなたの殺した女よ
あどけない声が、私の罪を告げた。
もちろんそれは夢で、目が覚めるときらびやかな一日が始まる。臣民はかしづき、みな私の寵を得ようと必死だ。いつかの貧しい庶民のように。
————お恵みください、お優しい中宮さま
————わたしには地位を施してください、お優しい女院さま
————国母にあたる貴い方、私には身分を授けてください
人の欲望がいとわしい。私に取り入ろうと他者を貶める者たちがうとましい。
人の悩みや罪をエサに、少しでも稼ぎを増やそうとする坊主たちさえ汚らわしい。
私は明らかに心の安定を欠いていた。
何もかも振り切るように経を唱えていたが、名のある僧にさえ会いたくなくて自分一人でこもっていた。
やがて年が明け春が来た。例年のようにうららかな春だったがその月が終わると妙に荒れた天候が続いた。
それが体にこたえたのか、太政大臣(元左大臣)が亡くなった。源氏も息子も嘆いているが、だからといって世のあり様が変わるわけではない。せいぜい大臣の一族の力が多少削がれるだけだ。
それまで世は二つに分けられているように見えたが、正直言って亡き大臣は源氏と権中納言の操り人形だった。
だからそのこと自体に不安を感じたわけではない。けれど不順な天候も大臣の死も、病んだ私の心を更に薄暗い方を向かせるには充分だった。理性は感情をせき止めてはくれなかった。
連日夢にうなされ、日に日に消耗していく。そういえば今年は私の厄年だ。だけどもう、自分のために祈ろうとは思わない。残される人のことだけを仏に願った。
食欲もどんどん失せて、柑子(みかん)の類さえ手が出ない。
湯で割った甘ずらや少しの重湯、そんなものだけをようやく口にする。
「......これを」
弁が銀の鋺(金属製の椀)を運んで来た。
「なに? これは」
「蘇の蜜あえです。つてを頼って手に入れました」
いつも無表情な彼女がさすがに悲痛な顔をしている。それがなんだかおかしくて、ふふっと口元だけで笑った。
「ありがとう。いただくわ」
いかにも体によさそうな濃厚な味わい。おいしい。だけど二口が限度でそれ以上は体が受け付けない。三匙目を断ると、彼女が涙をこぼした。
「............」
私はどうにか微笑んで、下がるように彼女に言った。
————無愛想な弁が泣くほど弱っているのね
食は細くなったけれど、どこかが痛んだりするわけではない。ただぼんやりとしただる気が抜けないだけだ。
————死ぬのは仕方ないとして、永遠にあの夢に閉じ込められるのはいやだわ
いつも見るわけではないけれど、眠りにつくのが恐い。
————どうせならもっと幸せな夢が見たいわ
ーーーーたとえば?
少女の問いに瞬時に答える。
————過去の夢
聡明でかわいい少年と温かな春の光を眺めながらお話をする夢。
————他には?
あの紅葉の賀の試楽の夢。青海波を舞う彼の姿。
花の宴に響く彼の声。わずかに打ち返した袖の揺れ。桜の挿頭。
あるいは人が訪れなかった時期、わざわざ来てくれた彼。普通の人の千人分以上に心強かった。
公的な行事の晴れやかな姿。私的に来訪する時の繊細な美しさ。供奉(お供)の時のりりしさ。におい立つような気品。
————いつもあの人は夢のように美しい
現実が夢で夢が現実。それなら私を腕の中に閉じ込めたあの人はどちら?
よそう。だってそれは過去の夢。私はこの白い牢獄に一人いることがふさわしい。音もなく降る雪の中で永遠に震えていることが似合いの女だ。
————もっと幸せな夢を見る人もいるのに
温かな人の涙と優しさに見送られ、永遠の安らぎに静かに旅立つ人だっている。
————それは誰? ......人に愛される麗景殿の方ね
私は違う。世間の評判はともかく愛してくれる人なんていない。それどころか誰もが好きなあの人にさえ冷たい目を向けられたことがある。
ーーーーまさか
病んだ私の心は、私自身を暗い澱みに引きずり込む。
————私がこんな所に一人でいるのは、麗景殿の呪いなの?
明るい灯を点す人から院を奪って独り占めした。なのに彼を裏切り源氏の子を帝にした。
穏やかに誠実に院を愛したあの人からすれば、私は汚れた罪の女だ。
今夜も凍りつきそうな川の上の小舟で、一人竹竿を握っている。
私の目から涙があふれたが、それはすぐに凍って消えた。
ーーーーあの漢詩の会で聞いた詩だわ。それを使って殺すのね
「んなわけあるかい、無茶言うなよ」
あきれたような女の声が唐突に私を否定した。
驚いた私は竿を川の中に落としてしまった。
慌てて下を覗き込むが激しい水の流れがそれを飲み込んでいく。
「竿が......」
「いらねえんだろ。ほっとこうや」
いつの間にか舟の上にもう一人女がいる。長く艶やかな髪が華奢な体を取り巻いていて、蓑はかぶっていない。着ている物も漁師とは違い品のいい小袿姿だが、色はまるでお産の時のように全て白い。顔はなぜだか見えない。
「あの人はさー。並よりよっぽどいい所行ったよ。生きてても死んでも呪ったりなんかしねえよ」
「でも......」
私のことを恨んでいたでしょう。そう聞くと彼女は吹き出した。
「悪いが、死に際すら思い出してねえ。妹さんと院とあいつのことで精一杯だった」
「そう......」
そうね。私なんか身分と多少の見た目を覗けば地味な女だ。人の心に残るわけがない。
「やれやれ。面倒なやつだな」
女はにこりと笑った。顔は見えないのにそれがわかった。なぜか柑子のにおいを感じた。
「だけどその可愛げのねえ所が好きだよ、嬢ちゃん」
え、と驚いて見つめると女はまた笑う。明るくてさっぱりとした私とは違う笑い方。
恥ずかしくなって顔を背けながら「若くはないわ。もう三十七なのよ」といつもより早い口調で否定すると「私からすると小娘さ」と、にこにこする。
だけどその姿はたぶん私よりずっと若い。なんとなくそれがわかる。艶やかな黒髪や弾むような声のせいかもしれない。
私は人の好意、特に女の好意に慣れていなかった。女房は違う。いい人に仕えたと思ってくれている人も多い。だけどそれは利害が伴うので、同腹の姉妹を持たない私は対等に親しい女とは無縁だった。
もし私が麗景殿の女御だったら。きっとみんな仙洞御所に来てくれただろうし院もあんなに早く亡くならなかった。私みたいな女が厚かましく中宮になんかなったから院は命を縮めた。
女はまだおかしそうに私の顔を覗き込んでいたが「そのくらいでやめときな。あんたのせいじゃねーから」と止めてくれた。「でも」と呟くとひらひらと手を振った。
「まったく。頑固でまじめで必死で不器用で優しくて。これだけの女に惚れたのに、なんであいつふわふわしてんだろうな」
源氏のことを言われると胸が痛くなる。もう隠すためではない。
あの人は私にさえ会わなければ幸せでいられたのだろうと思うからだ。
「......責めないであげて。私が悪いの」
先に好きになったのはきっと私。競い合うことが正義の後宮で、彼に救いを見出したのはたぶん私。
あの少年の訪れを心の宝物にしてしまったせいでこうなってしまったんだわ。
「あんたは入内を目的に育ってないからな。あそこにいることは相当辛かったと思う」
「院は............優しかったわ」
「だからったってダメじゃん。文句言っていいぜ」
首を横に振る。むしろ謝りたい。
「まじめだなあ。そこは全然似てねえな」
誰にかしら。ああ、なんだか記憶がおぼろだわ。
女はちょっと考えてから、急にいたずらっぽい顔で答えた。
「院にだよ。似てるとこあるからほっとけねえ」
............私あんなに天然じゃないわ
女は舟縁をばんばんと叩いて笑い「自分じゃ気づかないもんだよ」と明るい声で言った。でも、納得がいかない。
不満げな私に彼女は優しく「お迎えが近いことわかってるだろう」と尋ねた。
うなずいてそのおぼろな顔を見ると目が慣れたのか、少し目鼻立ちがわかるような気がした。
なぜか見覚えがある。それは誰かに似ている。だけど私は無理に思い出そうとしなかった。女もそれを肯定した。
「そこは重要じゃない。持って行けるものは少ないから、あんたの気持ちが大事なんだ」
そう。全部捨てなくていいの。嬉しいわ。
「でもな、置いてった方がいいものもある。そうするためにはちゃんと自分をわかってやらなきゃいけない」
それはいったい何? どんなに世間にほめられようと、私は私の汚さを知っているわ。それ以上に醜い部分があるの?
女は私の髪を撫でた。女房に世話される時でさえ触れられることは好きではなかったのに、ちっとも嫌じゃない。まるで幼い時にお母さまに撫でられた時みたい。
「どこから行くかな。あー、内裏はやたら冷たくて寂しい場所だと思ってただろ。そう感じてたのはあんただけじゃない。一時期の院もそうだし、あいつもそうだった」
そうなの? 二人とも小さい時からいるから誰よりもなじんでいると思ったけれど。
「寒い場所でも他の人と違って行き場がなかったからな。そこにあんたが現れて二人を暖めてくれた」
そんなこと、できなかったわ。
「いや。あの時期それができたのはあんただけだ。院はあんたを得て成長した。時にはマズい方にも行ったが、それでも自分と同じ欠点に気づいた時に、憎む代わりに包み込んでやろうとするほど大人になっていたよ」
そのために傷ついた人もいたわ。
「だろうな。だけど二人は救われた」
本当にそうだったらいいのに。少しでも私の罪が軽くなるのに。
「そんなあんただからだろうな」と女は痛ましそうに私を見た。
「あいつはあんたのきれいな顔や姿より、表面だけを飾った内裏の中の圧倒的な孤独に惹かれたんだと思うよ」
季節の花を愛で月に見惚れ楽を奏す雅の中で、片時も消えない深い孤独。あの幼い少年がそれを抱えていたのかと思うと、かわいそうで泣きたくなる。
「嬢ちゃんは優しいからな。こら否定するなよ面倒くせえ。あんたは後宮の中で誰よりも寂しかった。だって他の女御や更衣は闘い方を仕込まれて、ガチンコ勝負するつもりで来てたんだぜ。中で一人『闘うつもりはないわ』とすかしやがってるくせに装備だけは最強で、涼しい顔をしてるんだ。そりゃわかりあえないし嫌われるわ」
プロトコルが違いすぎて異質だったのね。
「だけど、あの人だって孤独だったわ」
後宮に君臨し、他の人たちとは一線を画した大后ーー弘徽殿の女御。彼女は他となれ合う様を見せなかった。
「あれは為政者となるために育ってきたんだ。それが当然だ」
唇をかんだ。夢だったかもしれない過去。おぼろな意識の中で聞いた澱みない彼女の声。いついかなる時も理性を揺るがせない冷ややかな声。
そう彼女は政治家だった。だけどそれが何? 私だってそうだわ。
あの人は負けたのよ。負けて私の前から逃げてしまったのよ。だからもう、何の価値もないわ!
怒りで身が張り裂けそう。いつもの怒り。いつも以上の怒り。
「ちゃうちゃう。そこら辺から勘違いしてるんだ。あんたが最初に彼女に怒ったのはいつだった?」
「悪い陰陽師に捕まって、ひどい目にあいかけた時」
途中で意識を失ってしまったからよくはわからないけれど、あの人は......私を憐れんでいた。
全身が熱くなる。あの時のように。
その熱を冷ますように女は、やわらかな声を出した。
「嬢ちゃんはさ、育ちが良すぎていつも仰ぎ見られていたからわからなかったんだ。困難な状況を平然と切り抜け、あまつさえ他者の心配までする相手への感情。人はそれを憧憬って言うんだ」
再び頭を打たれたような衝撃を受けた。
そんなはずはない。私はあの人を憎んでいた。
「その後あんたはいつだって彼女のことを意識していたな。産後命が危ねえ時も、あの人に嗤われるってがんばったし、不遇の時もずっと彼女のことばかり気にしていた。ヤバいほどの権力者とはいえ顔を合わせることもないあいつのことを、どうしてそこまで気にかけたんだ」
私の生活はあの人によって脅かされたし、中宮の御封(給料)は取り上げられた。恨むのがあたりまえだわ。
「そうせざるを得ない事情があったが、あんたは中宮の職務を放棄して出家した。彼女たちは生まれた時からそれを目指して生きてきたんだ。かっさらった上に投げ捨てた。そう見なされても仕方がない」
......恨まれていたのは私の方?
「かわいそうな子と見られたり、視線を向けてももらえないよりその方がよかったんだろ。実際あんたは凄かったよ。誰も助けてくれないひどい状況から、一人で這い上がってここまで来た。その手段のキレ味には舌を巻くぜ。地頭は大后よりいいと思う」
けして女は私を責めていない。師のように母のように私を見ている。
「だがな、そもそもの生まれ育ちが違う。あんたは入内を目的に育っていず、独身のまま一人で完結することを求められて個人の雅やかさを理想として与えられていた。一方大后は幼少の頃から国母を目指し、自分を個人としてだけではなく氏族を代表し国民を導く存在として考えていた。最初から違いすぎる。合わなくてしょうがないんだよ」
淡々とした声が胸にしみ込む。私が殺した少女の声と、よく似たもっと大人の声。
「その後あんたも政治家を目指したが、その理想像は? 清濁呑み込んで君臨する女政治家に、あんたに染み付いた美意識を加えたもんじゃなかったか」
ああもう一人私が死んだ。これから本当に死ぬのに。
「...........私はまがいものの月だから」
「んなわけねえだろ。おまえはほんと、院に似てるわ」
やれやれと肩をすくめた直後、彼女は私を抱きしめた。
「あんたの本質は朝日なんだ。そりゃあ綺麗に輝く日の宮なんだよ」
しばらく抱きしめた後にそっと体を離した。空が見える。もう白くはない。
彼女の持つイメージなのかそれは夜空の青に染まり、徐々に淡くなっていく。東の果てに滲んだような曙。その紅と混ざりあった美しい青紫。藤の花の色。
「ご覧、あれがあんたの色だ。永遠に若々しくてみずみずしい明け方の色だ」
————あの人もそう思ってくれるかしら
「思うに決まってるだろ。あんたはあいつの永遠の女だ」
————そうだと嬉しいわ
「ああ。だけどあんたは行かなきゃいけない所がある」
————あの少女を殺したからね
「そうだとも言えるし違うとも言える。どっちにしろお勤めは果たさなきゃいけない。だが本当はそれはカンタンなことなんだ」
————私が私を許してやればいいのね
「そうだ。さすがおまえは頭がいい。自分自身を殺すのはもうやめてやれ」
だけどそれはとても難しい。今の私は私の屍で築かれているから。
それにたくさんの人の恨みも買っている。後宮の女たち、弘徽殿の大后、そして朱雀院。
女は表情を出さずに首を横に振った。
「後宮の女たちはもう忘れているし大后は別の方を向いている。それに朱雀院のことは......ま、気にしなくていい」
なぜなのかしら。傷つけられたあの人を見ぬ振りをしたのは私の罪なのだ。
「いろいろあるのさ。それより救われ方を考えようぜ。やっぱあいつに好きなだけ文句を言えよ」
「死に際ぐらいは印象よくしたいわ」
女はまた匂い立つような笑顔を見せる。
「それもそうだな。じゃあ化け方教えてやるから枕元に立てよ。ヒューードロドロドロってBGMつけてやる」
それもなかなか楽しそう。だけど効果音はいらないわ。
「そうか。雰囲気出るんだがな。ビビるあいつを見てみたかった」
おかしくなって私も笑う。確かにそれは見てみたい。
「やっと笑ったな。その方がイカすぜお嬢ちゃん」
あなたが喜んでくれるのなら私も嬉しい。
「じゃあな。言いたい文句は全部言って、できるだけ早く抜け出すんだぜ」
さわやかな笑顔を残して彼女は消えた。もうほとんど食べられないけど、柑子の匂いは好きだなとちょっと思った。
咲き始めた花の影が水面に映っている。だけどもう私は直接見ることはできなかった。
帝がわざわざここまで行幸に来てくれた。寒い頃じゃなくてよかった。
「今年はそんな年だと思っていたのです。でもそれほど辛くなかったので特に供養はしたくなかったの。そのうちあなたの所へ行って昔話でもしようかと思ってたのに、行けなかったのは残念だわ」
もう彼も十四歳。何ごともしっかりとできる年頃になりつつある。
「厄年なのですから、もっとご祈祷などするべきでした」
最近慌ててたくさんの加持祈祷をしてくれたことを知っている。ムダではあるけどありがとう。タイムスケジュールがあるから早々と帰らなければならないけれど、心をここに残してくれていることも知っている。
本当のことを教えてあげなくてごめんなさい。これだけは心残りだわ。でももうあまりしゃべれない。一時的なことと知ってはいるけれどとても苦しい。
見送ることもできなかった。こんこんと眠り、目覚めると源氏が傍に来ていた。
几帳越しの別れ。今わの際まで人目を気にしなければいけないのね。
「院のご遺言どおりのご後見のお礼をずっと言いたかったのにごめんなさい。深く感謝しているといつか伝えようと思っていたのに......」
ああ、本当に言いたいのはこんなことじゃないわ。
源氏は泣いている。返事さえおぼつかない。
「つまらない私の身ですが心の限り勤めさせていただきました。太政大臣がお隠れになったことさえ、まことに心穏やかならぬ世と思っていましたが、宮までこのような状態で私はもう、生きていられぬ心地です」
わかっているわ。最後だけ汲み取ればいいのね。
ごめんなさい。その涙を拭いてあげられない。
泣かないで、私の愛しいあなた。
彼を見つめながら、灯火が消えるように私は逝った。
もう温度も質感もない手で、そっと彼の頬に触れた。
源氏の泣き声が室内に長く響いていた。