予定
元麗景殿視点
源氏三十歳(原作ではこの年の話はありません)
師走も近くなっていて、風の音が凄まじい。それでも今年は二、三年前とくらべるとだいぶ温かいような気がする。それは気候のせいではなくて、源氏の君が帰ってきたおかげだ。昔より風邪を引きやすくなったからとてもありがたい。
築地塀も以前よりしっかりと築かれ、庭の葎は刈り取られた。だけど恐いぐらいに鬱蒼とした木立は多少間引かれたけれど、それほど変わらない。
「......なので、来年は二条の自邸の隣に邸を造りますから、そちらにお越しいただきたいのです」
「まあ。考えても見なかったことなので、まずは妹に相談してね」
「それはもちろん。ですが、まず女御さまに賛成していただきたいのです」
少々古びて木立が深すぎるとはいえ、親の代からの邸から移るのにはなかなかの決意がいる。それに最近では源氏の君におもねるために、彼に仕える下家司がしきりにご用聞きに来てくれるから不自由はない。
だから「しばらく考えさせてね」と保留させてもらった。
「彼女と女御さまがお隣に住んでくださると安心できるのですが。あなた方のためではなく、私のわがままとして聞き入れてください」
「上手におっしゃるわね」
「本当なんですよ。私は少々見栄を張って生きていますからね。お二人にお会いするととてもなごむのです」
まんざら嘘でもなさそうに彼は目元で笑い、唐菓子を指先でつまむと口に入れた。そのまま咀嚼して飲み込むと「他ではこんなにくつろげませんよ」と指先の粉を落としながら言った。
「あら、どうかしら」とは言ったけれど口元が緩んでしまって牽制にはならない。でも確認はしたくて少し押してみた。
「そちらの邸に入る予定なのは私たちだけではないのでしょう」
「それはまあ」
少し歯切れ悪く言ったけれど、目線は反らさない。ごまかさずにちゃんと答えてくれる。
「寝殿にはもちろん女御さまに入っていただくわけですが、部屋数は多めにして、少し心もとない暮らしをしている方たちもお呼びしたいと思っているのです」
「どんな方に声をかけるの?」
「そうですね。たとえば......故常陸の宮の姫君とか」
一瞬考えたけれど、たぶん何代か前の宮だと思う。その中であてはまりそうなのは、琴の琴が得意だった方かしら。
「その方です。ええと、いつものようにオフレコでお願いしていいですか」
妹にもないしょでということね。ちょっと笑ってうなずく。せっかく里として扱ってくださるのだから、そんな風にもてなしてあげたい。彼はほっとした様子で声をひそめた。
「実はですね、常陸の宮の姫君はあり得ないほど不美人でいらっしゃる。ああ、完全に黙っておくわけには行きませんね。女房たちに口止めしなければならないから」
どんな人でもどこか美点はあると思うけれど。
「ええ。髪と頭の形は美しいと思いますが、真夜中に出会ってしまったらもののけと間違うレベルです」
それはあんまりな言い様ではないかしら。あっけにとられていると、その醜貌をきめ細かくていねいに説明し始めた。それが本当ならお気の毒すぎて正視できないと思う。
「その上態度も田舎じみて極端に内気で、和歌も古くさくって」
「そうなの」
よくそんな方とおつきあいなさっていると感心する。それがちょっと声に滲んでしまったのか、彼は急に部下の良清さんの話を始めた。
「あいつが須磨にいた時、変わったタイプとつきあったんです。身分もえらく下で、見た目も業平の話にあったような九十九髪。当然長くは続かなかったのですが、いまだにちょっとしたやり取りはしているんですよ。いやあいつ、別にフェミニストでもなんでもなくて別れた女房なんかにはけっこう冷たいのだけど、人としての情があるというかなんというか。ただ気が合っただけかもしれないけど。別にまねしたいとは思っていないのだけど、悪くはないなあと思って。もちろん男女間と関係のない単なる情なんですけどね」
「......違うわ」
きょとんとする彼に微笑みを向ける。
「良清さんのまねではないわ。あなたは最初から優しいのよ。ううん、世間で言っているような意味ではなくて、もっと根本的な所で。負けず嫌いで意地っ張りな所もあるから、ご自分でもわかっていないけれど、あなたは温かな光を抱いて生まれてきた方だわ」
驚いたような彼の顔色がふいに赤くなる。耳まで染まるのを見ながらも、言葉を止めてあげない。
「その姫君とは須磨に行く前からのおつきあいなのでしょう。今言ったような方だったら、普通は見放してしまうわよ。それに、私たちにはずっと昔からとても親切だわ。いつも頼りにしているもの。だから良清さんの方があなたの光を分けてもらったのだと思うわ」
源氏の君は赤くなったまま、ちょっと溶けちゃいそうな表情で「女御さまにはかないません」と言って目元をやわらかく緩めた。
「その光はきっとあなた方が点してくれたのだと思います。そういえば例の方も、こちらに向かっている時に通りがかってようやく思い出しました。申し訳ない話ですが、あちらから帰ってしばらくはすっかり忘れていたのです」
「ずっとお忙しかったから仕方がないと思うわ」
私たちは文だけでももらっていたけれど、それでも寂しくなるほど長い間会えなかった。
「帰ってからもいろいろとおありだったことは知っているけれど、須磨や明石のことをもう少しお話ししてほしいわ。どんな風に暮らしていらしたの?」
風景や邸のつくりなどは聞いたけれど、当時の暮らしの様子はあまり話してくれていない。よほど辛かったのだと思う。だけどもう、時は流れてそれはすっかり過去になっている。
源氏の君も懐かしむような目をした。
「そうですね。ガーデニングにいそしみました。あとバンドとかスケッチ、散歩とか。明石に移ってからは馬の遠乗りはしたけれど、もう少し文化的だったかな」
私の思っていた謹慎生活とだいぶ違う。
「須磨にいる時、家の辺りに煙が時々流れてきたのですよ。私はてっきり歌によく詠まれる海人の塩焼く煙だと思って感動していたのですが、実は裏山で芝を燃やしていただけでがっかりしました」
思わず噴き出してしまった。彼はすました顔をしている。
「まあ。妹も私も毎日心配していたのに」
「いえこちらも涙涙の毎日だったのですけれど、期間が長いとそればかりでもいられなくて」
男の方だからそんなものなのかもしれない。
「私たちは二人だからまだいいけれど、二条の方はさぞ心細かったでしょうね」
「ええ。そのせいもあって一時期はこちらに、ご無沙汰を重ねてしまいました」
「もう落ち着かれた?」
「もともと元祖バブみキャラなので、今はまあ」
年下だけれど母性を感じさせる方らしい。その方は二条院の方にいらっしゃるから、そのままそちらで暮らすそうだ。
「他に東の院にいらっしゃる方は?」
「了承を得ているわけではないのですが、お迎えしたいと思っている方がいます」
「どんな方?」
「女御さまのライバルになったかもしれない方ですよ」
「妹ではなくて?」
「ええ。父の後宮に入ると言う噂があった人です。でもそこまでたどり着くこともなく、受領の妻となって今は夫に先立たれて出家した人がいるのですが、お世話する者もいないようなので僭越ながら私がそうしようかと」
遠い記憶を探ってみると、確かに立ち消えになった噂があった。それでもあの方の周りの女性は多かったから、源氏の君が暮らしに困った方全員を救おうと思うはずがない。とするとやはり、おつきあいのあった人だ。
「ないしょにするために教えてくださらなきゃ。うかつなことを言ってしまいそうよ」
「女御さまは鋭すぎます」と彼は苦笑して白状した。
「深いおつきあいがあったわけではありませんよ。ただ一度、間違いのようなことはありましたが」
「それだけでお世話なさりたいなんて、よほど素敵な方なのね」
「素敵ってわけじゃなくて、見事! って感じで。実は去年の九月、石山寺にお礼参りに言った時に、たまたま逢坂の関で出くわしまして」
「あら、以前別の人と住吉の方で行きすがったとか言ってなかった?」
「はあ、まあ」
「道を歩けば女に出会う、ね。いいわ、それで?」
「いえ、ただそれだけなのですが、深いご縁を感じて。そうこうするうちにその人の夫君が亡くなられ、心細い暮らしの中出家したと聞いて、お役に立てばと」
「あら、会ってそれ以降のこともご存知なのね」
源氏はちょっと烏帽子をかいて肩をすくめた。
「参りました。会ってから気にはなっていたのです。おつきあいしたいというわけでもなくて、時たま文通ぐらいしたいという程度ですが」
その人の弟も知っているし、義理の息子の一人は忠実な部下だそうだ。
「彼らを通して動向は把握していたわけです。片方は私の指示でよそよそしく見守っていた所、実兄が彼女に気を向ける様子があったので報告してくれたのですが、あっという間に人知れず出家してしまって」
「確かにお見事ね」
意思の強いりんとした女性が思い浮かぶ。まるで、以前に噂で聞いた藤壷の宮のような潔さだ。高貴な方に引けを取らない。
「それを聞いてなんだか、胸に迫って。私の方はほら、去年御息所を亡くしているじゃないですか」
「ええ。惜しい方でしたわ」
記憶の底に残る品のいい気配。あの方の元に入内したのでなくてよかったと、胸を出を撫でおろしたのだった。
「もうお会いすることもほとんどなかったのにこの世にいらっしゃらないとなると寂しくて。全然似ていないのですがこの人もセンスがいいので、季節の趣など語り合ったりしたいと」
「いいことだと思うわ」
だけど説得するのに骨が折れそう。弟さんや義理の息子が協力してくれるでしょうけど。
「もしご一緒したら嫌わないであげてください」
「もちろんよ。その人の方はわからないけれど」
「女御さまを嫌いになる人なんてこの世にいませんよ」
「ありがとう。で、それを前提にもっと尋ねるけれど、肝心な人をおっしゃってないのではなくて」
「え、なんでしょう」
「明石に想い人がいらっしゃるって、こんなつきあいの狭い家にまで噂が流れているわ」
たぶん住吉ですれ違ったその方だと思う。だって京の住人で源氏の君の住吉もうでを知らない者なんていなかったもの。ついて行くなんてはしたないまねもできないほどの行列だったみたいだし。
「想い人って程大げさな相手ではないですが、娘を生んでくれたのは本当です。私には子が少ないから早く来るように言っているのですが、なかなか上京してくれないのです」
はっきりと聞くのは初めてだ。私は「こんなおめでたいことを今まで教えてくれないなんて」と目元に笑いを含ませながら軽く責めた。
「その方がいらっしゃったら押し掛けて行ってお祝いしますからね」
「女御さまに寿いでいただけたら幸いですよ、娘も」
少し照れてはいるけれど嬉しそうな彼は「東の対に入ってもらおうと思っているのです」と告げた。私は首を横に振った。
「それはダメよ」
困惑した様子で私を窺う。傷つけたくはないけど先を見越したら、あらかじめちゃんとしておかなければいけない。
「姫君をお呼びしたからには、ちゃんと寝殿に入っていただかなければいけないわ」
「そちらには女御さまと決めていたのですが」
私は昔の感覚を呼び起こして背筋を伸ばした。遠い昔、一族を代表する姫であったときのことがよみがえる。伝えるべき筋を持たない私は、できるだけ多くのことを彼に伝えなければならない。
「最初に言っておくけれど、あなたと妹との間に子どもができたらと思っているわ。私にとってそれが一番。だけどあの子はあなたと同い年でしょ。少し難しいかもと考えています」
残念だけれど今まで恵まれなかった。
「あなたにとっていいことは、二条の方との間に設けること。二十二歳でしたっけ、その方。まだお若いから充分可能性はあると思うのよ。だけどあなたがお帰りになって二年、いまだ懐妊の兆しがお見えにならないのなら、不吉なことを言ってしまうようで申し訳ないけれど、今後もおできにならない可能性だってあるわ」
私もその年頃は、そのうちかわいい若宮を抱けると信じていた。
「よくお手紙をいただいたし多少の人付き合いもしているから、あなたが内裏で活躍していることは知っているわ。だけど帝の元へ娘を差し出さなければ、真の意味で政権を手にすることができないことはもちろんご存知ね。御息所の娘の元斎宮もあなたの後見で入内なさるのでしょうけれど、血のつながりのある方のご縁が一番。でもあなたの本当の掌中の珠は、今の時点ではその姫君しかいない。増えることを祈ってはいるけれど、万が一のことを考えてその姫をちゃんとバックアップしておかなければならない。明石でお生まれになったことも、生んだ母君がどんなにすばらしい方だとしても身分を持たないことはデメリットにしかならないのよ」
失礼なことを言っている自覚はある。それでも教えなければならない。
「だから、姫君にはなるべく早く上京していただいて、盛大にかしづいて正当なあなたの娘であることをアピールしなくてはいけません。そのために寝殿に住まわせるべきだわ」
「女御さまは......」
「私は妹と同じ所にいられたらむしろ幸い。私自身がかつては一族を背負っていたから当然のようにそこにいるけれど、今はその必要はないもの」
源氏ははっ、と気づいたように目を見開いた。そう。私ももともとは権謀術数の最中にいたの。あまり上手にはできていなかったとは思うけれど、彼の手助けぐらいはできる。
「こんな身近にすごいブレインがいたとは」
「話を進めましょうよ。元斎宮の入内の日取りは決まっているの?」
「ええ。年が明けて桜の季節に予定しています。説得に時間がかかってしまって」
一刻も早く入れたいけれど、本人が乗り気ではないのね。自分の方が帝よりもだいぶ年上だから、それはそうだと思う。
「そちらの方のことは帝の母上と直接お話しになるでしょうから、私は口を出さないわ。でも後宮のことについてお話しさせてね。そこではたくさんの姫たちが妍を競い合うのは当然のことだけれど、長所が特出していることより短所が少ない方が闘いやすいの」
「え、そうなのですか」
源氏が驚いた顔をした。そう、私も入るまでは知らなかった。
「ええ。私は入内する時すでに弘徽殿の女御さまがいらっしゃったから、音の遊びをどんなに訓練してもあそこまではたどり着けない、それよりも彼女の不得意な和歌の方を練り上げろと命じられてそちらの方に特化しましたが、それで欠点は帳消しにはならなかったわ。他の方々にもことあるごとにつっこまれたし」
「知りませんでした」
「ええ。ご自分でもご存知じゃなくて? 以前彼女に和歌のことで攻め入ったことがあるでしょう」
「あれは、まあ。子どもでしたし」
「いいのよ、別に。でも後宮は、隙があったら攻撃されると覚えておいて姫君の教育に役に立ててね」
彼は真剣な顔でうなずいた。その後も私はしつこく寝殿の件を推し、源氏は遠慮がちに承諾した。
「それではとりあえずそこは私の場所として使い、娘が来た時用に空けておきましょう。と言ってもまだ計画だけで、建設には取りかかってももいないのですが。女御さまはこの件を了承されたということでいいですね」
あら、夢中になっているうちにそんなことになってしまった。少し困ったけれど仕方がないからふふっと微笑んだ。
「もう。源氏の君は策士ね」
「いえいえ、けっして。でも後宮のことはもう少しお聞きしたいな。娘の生まれのことはそんなにおとしめられるのでしょうか」
辛いけれど正直に言わなければならない。
「......あなたのお母さまのことを思い出してね。桐壺の方はご両親とも立派な筋の方だったけれど、辛い目にお会いになったでしょう。他者の目に欠落と思われる所があったらそこをついてくる場所なのよ。あなた自身がどんなに高い地位になったとしても、姫君の母の件は声高に噂されるわ」
辛い時代も乗り越えた彼は動じなかったけれど、少し視線が厳しくなった。それを避けるいい手段があればと考えたけれど難しい。
「帝のご母堂が中宮のままでいらっしゃったら養子にしてもらうという手があったわ。いや、それでも無理だったかしら。兄上の兵部卿の宮も姫君の入内を考えているらしいし」
一生懸命考えていると、彼は驚いたような顔でこちらを見た。
「養子ってアリなんでしょうか」
「もちろん。それこそ権中納言(元頭中将)の姫君も、箔を付けるためと女御にするために、祖父君の太政大臣の養子になったでしょう。あなたはもう内大臣になられているからその必要はないけど」
大臣の娘なら女御になることは確実だ。
「いえ、母の方を」
「高い身分の方でしたらその方が有利だわ。だけど出家した方は縁起が悪いといわれるし、あまり縁のない方でも非難されるでしょうね。形だけでも、親しくて高い身分の方の早目に養子にしていただいて、できればほんの一時期でもその方の元で過ごした方がいいわ。実の母君も一緒でもいいから」
彼も考え込む様子で宙を見上げていたけれど、私の視線に気づいて礼を述べた。
「経歴ロンダリングには有効ですね、ありがとうございます」
いろいろと思うことがあるらしく「それでは」と述べて車宿りに向かおうとしたので、慌てて呼びかけて妹のいる西の対の方に行かせた。彼も赤くなって「一瞬、一瞬だけぼーっとしてしまって」といいわけをしながら彼女の部屋の方へ歩き出した。
忙しいのはわかるけれど、あんな状態で春に予定された元斎宮の入内の準備は大丈夫なのかしら。何かと予定を詰めすぎじゃないかしら。普段はきめ細やかな配慮ができる方だけれど、実の娘の入内について口を出したのもいけなかったかも。
でも、できるだけ早く京に上ってもらわないと話にならない。
————何かと心配だわ
そう思いながらも、少し弾むような気持ちが混ざる自分に気づく。そうね、私はこんな風に誰かの心配をしてあげたかったのかもしれない。できれば妹の娘、いいえ男の子でもいいわ、子どものことについて。
————遅くにできる人もいるそうだし
幸せな未来を思い描いていると、コン、と一つ咳が出た。
いけない、もう若くはないのだから温かくして風邪などひかないようにしなくては。人の心配をするより、人に心配させないことが第一だ。
私は女房を呼び、もう一枚袿を重ねた。火桶も近くに寄せられる。赤く熾った火の色を見て、もう一度小さなかわいい赤ちゃんを脳裏に描き出した。