澪標(みおつくし)
源氏二十九歳
ほぼ源氏側視点
「ちぃーっす。大后に盛りつぶされたって本当ですかい?」
東の対の自室に、乳母子の大輔の命婦がやって来た。大声を出したわけではないが頭に響いて、源氏は無言で威嚇する。彼女は「てへっ」と舌を出し、声を抑えた。
「その様子じゃ嘘じゃなさそうですね」
「どんどんつがれるから、呑まなきゃ負けのような気がしたんだ」
「つぶされる方が負けてませんか」
「つぶれてない。ちゃんと歩いて退室した」
「牛車でのびてたって聞きましたぜ」
「眠くなっただけだ」
意地っ張りな主人はつん、と横を向いた。命婦はニヤニヤしながら「やっぱ大后はハンパないっスね」と感想を述べた。
「そりゃあね。すでに伝説の人だからね」
「だけどよく会ってくれましたね。立場が悪くなったから、拒否するかと思ってましたよ」
「私もそう考えた。だけど、そんな人じゃないよ。あの人は......絶対に逃げない」
自分とは真逆だと彼は思う。帰京するまで自分は逃げ続けた。なのに彼女はこの屈辱的な面会を拒むこともなく、まっすぐな姿勢で応対した。正直、恐れ入った。
おとしめようとする意思が全くなかったわけではない。だが、あの毅然とした様を見て、そんな気持ちは一瞬で消えた。
確かに彼女は年を重ねていた。昔握ったことのある手はひからびていたし、几帳の下からのぞく髪には白が混じっていた。
だけどその威圧感と風格は大変なもので、衰えなどとは無縁に見えた。
————会いに行ってよかった
たとえ勝者であろうと、来訪を決意するには大変な気力が必要だった。もはや世から見捨てられつつある老女のはずなのに、長年抱えた恐怖心はカンタンには消えなかった。
それでもどうにか足を向けたのは、今会わなかったら一生会えないし、そうなったら自分は永遠に克服できない何かを抱えるだろうという予感のせいだ。
人にはけして退けない闘いがある。源氏にとってこの訪問がそうだった。だから、逃げたくなる心を叱咤して会いに行った。そして彼は、敬意を抱くべき敗軍の将の中に、長年忘れていた別の何かを見出した。
————かなわないな、あの人には
自分は歴然たる勝者のはずなのに、いまだ彼女は越えられない。「その程度か小僧!」と言わんばかりにそびえ立つ。もうそのことに脅えはしないが、正直烏帽子を脱帽せざるを得ない。
「それはそうでしょうね。まあ、敵は小さいより大きい方が、自分のプライド的にはいいっしょ。ですがそろそろしゃんとしてくださいよ。住吉もうでの打ち合わせもあるし、明石の人も呼び寄せたいんでしょ。あたしゃ女ですが言わせてもらうと、政関係も順調そうに見えてヤバないですか。権中納言(元頭中将)とこの姫さんは、今度入内するんでしょ。自分が帝の後見だからって気を抜いてると、足下すくわれますぜ」
至極まっとうな意見だ。そのことを考えると更に頭が痛くなる。
今はいい。帝の後見として大手を振っていられる。だが自分の都合でかつての左大臣を太政大臣としてつけた。これが意外に諸刃の剣で、元左大臣一族を勢いづかせてしまった。
いかに優秀であろうが源氏は一人だ。頼りになる身内を持たないため、関係性の悪くない彼らと手を組まざるを得ないが、権中納言の娘が入内し更に受胎して男宮を生めば、立場は逆転する。
この時代の政治は外戚、つまり帝に入内し東宮となる子を生んだ女の親族によって支配されることが基本だ。現在の源氏はそれにあてはまらない。だから、栄華を極めながら実は不安定だ。
————かといって生まれたばかりの赤子を入内させるわけにもいかないし
その上帝は実は自分の息子なので、いくら母違いといえどもそれはマズい。大昔はフツーにあったことらしいけれど、平安はもちろん、倫理観が違う。
————八方ふさがりだ。何か打開策はないだろうか
とりあえず政にいそしみ、敵や裏切り者にはやんわりとプレッシャーをかけ、味方にはほうびを与え、将来をみこして兄の息子である東宮にもいい人キャンペーンを張っている。彼は自分の使う桐壺の隣の梨壷にいるので、ことあるごとに奉仕しているのだが今のところ幼すぎて、あまり自分のことを認識していない。飼っている猫ほどにも気をとめていないだろう。
「気は抜いてないけどね」
「じゃあしっかりしてください。住吉もうでは派手なアピールの場になるから、権威づけにはぴったりでしょう。あなたは例の御息所ゆずりの美意識があるんだから、ちゃんと演出して世間に光源氏ここにありって思い知らせてやらなきゃダメでしょ」
命婦の言うとおりだ。二日酔いでつぶれている場合ではない。源氏はどうにか身を起こした。
「よっ、それでこそ光源氏」と冷やかす彼女を無視した。が、なんだか彼女を見ていると思い出したくはないが思い出すべき何かがあるような気がする。だがとりあえずは、住吉もうでの準備に取りかかった。
当時の住吉大社は海に近かった。防砂のためか松林が広がり「住吉の松」と歌枕にもなっている。
その松の緑に花や紅葉を散らしたように赤い色が混じるが、それは男たちの衣装だ。六位の蔵人の中でもリーダー格のものは、天皇の日常着と同じ色合いの青色(この場合山鳩色。麹塵とも言う。くすんだ黄緑色)を着るが、着用しているのは例の右近将監だ。彼はすでに衛門府の三等官の靫負尉になっていて、物々しい随身に囲まれている。
良清も同じ衛門府で、彼よりは少し上の次官だ。得意そうな顔で五位のカラーの真っ赤な袍を身につけていて、以前よりイケている。
たまたま明石の君も舟でお参りに来ていて、そんな様子を陰から見ることとなったが、知り合いなどと言い出すこともできないほど華々しい集団だった。
若々しい上達部や殿上人が、競い合うように馬の鞍などまで磨き立てた様子は、ひたすらまぶしい。
源氏の車の辺りには、みづらの髪を紫グラデーションの元結(糸紐)で優美にとめたかわいい童随身が、背丈も姿もそろえて十人ほど控えている。その傍には源氏の息子の夕霧が、この上なく大切に扱われて馬に乗っている。彼のお供のちびさんたちは、そろいのユニフォームで他とは区別されている。
同じ源氏の子を連れた明石の君は、あまりの格差に切なくなる。こんな日に祈っても神さまの目にはとまらないだろうと、お祓いだけするために近場の難波に舟を移した。
一晩中、神に捧げる大掛かりなイベントとして、ダンスパフォーマンス付きコンサートを楽しんだ源氏は、後になってそのことを聞いた。
「知らなかったよ、かわいそうに。ちょっとした手紙でも書いて慰めてやらなければ」
と住吉神社を出、とりあえずは観光を楽しんでから難波に行った。そこで「今はた同じ難波なる」と古歌を口ずさんでいると、近くにいる惟光が「そうくると思った」と、用意していたインスタント筆を渡してくれたので、源氏は懐紙に歌を書いた。
「みをつくし恋ふるしるしにここまでも めぐりあひけるえには深しな(身をつくして君を恋するかいがあって、ここに来てまでも君に会うなんて、江も縁も深いなあ)」
事情を知る下人に渡して届ければ、彼女も素直な返しをくれた。
夕潮が満ちて日は暮れる。入り江の鶴も声を惜しまず風情が高まる。そんな折りだからか、明石の君に会いたくて胸が痛い。しかし人目が集中しているのでそうもいかない。
苛立ったまま観光を続けていると、この辺りの遊女たちが集まってきた。
「お姐さーん、こっち向いてー」
「いっしょに催馬楽でも歌わなーい?」
さっそく男たちがちょっかいをかけ始める。若い上達部もガン見している。
源氏は冷めた目でその様子を眺めた。
「いやいや、面白いことも趣きあることも、相手の人柄あってのことだし。フツーのことだって、軽いタイプとはちょっとね」
と、商売の人にも非モテの人にも後ろから刺されそうなリア充的意見を述べ、艶めいた女性たちに対しては批判的な態度だった。彼はおばあちゃん育ちの上、クオリティの高い桐壺帝後宮の対帝用特化型レディを見慣れているので、水準が高すぎるのだ。
当日に住吉神社に行けなかった明石の君は、後日ちゃんとお参りしながらもその日のことを思い出して嘆いていたが、日のたたぬうちに源氏から便りがあった。
近いうちに京に迎えようと書かれていて、ほっとする。けれど旅立つことは、なかなか決意できなかった。
氷雨が細く降り辺りを濡らす。魂殿に置いた棺の前の香の煙も、湿度を含んだためか床近くを流れる。それはまるで、天に昇ることを拒んでいるようにも見えた。
六条の御息所が亡くなった。源氏が見舞いにいって七、八日すぎたばかりの頃だった。
娘である伊勢の斎院が役目を終えたので二人そろって静かに帰京し、適切に整えた六条の邸に戻って雅やかに暮らしていたのだが、急に重い病にかかった。それをきっかけに尼になっていた。
————薄情だと恨んでいるだろうか
病の知らせを受けるまで、訪ねたりはしなかった。上がった身分のせいで外出しにくいことをいいことに、使者だけをやって気づかった。彼女はそれを責めることはなかった。
だが見舞うと今までのよそよそしさはなく、枕元近くに席を作ってくれた。几帳越しでもひどく弱った様子が伺えたが、それでも身を起こして脇息に寄りかかって応対した。
「他に頼る相手もない娘のことを、よろしくお願いします。この子がもう少し大人になるまでは生きようと思っていたのですが」
かすれた声に気品が滲む。けれど今にも絶え果てそうな気配だ。
「そんなことおっしゃらなくても、もちろんですよ。まして、こうお聞きしたからにはしっかりとお世話しようと思います。ご心配なさらないでください」
と源氏が答えると、御息所は苦しい息の下からはっきりと伝えた。
「本当の父がいても母と別れるとかわいそうなことになる場合が多いのです。まして、この子があなたの想い人と間違われると、他の方も気にしてしまうでしょう。気を回しすぎでしょうが、そんな風な相手とお考えにならないと誓ってください。わが身に省みても女は悩みがちなもの。どうにかしてそんなはめに陥らせたくないと思っているのです」
鬼気せまる御息所の気迫は、先日の大后にさえ優るとも劣らない。源氏は内心「ひどいこと言ってくるよな」と苦い気分をかみしめたが「いえ、もう昔のような浮気心はありませんから、そうおっしゃられましても。私のこの澄みきった気持ちは自然とおわかりになると思いますが」と弁明した。
外は暗く、部屋の奥に大殿油が点されているので、明度差で中の様子がほんのりと見える。だが、細めの芯を使っているのか通常より微かな光だ。
几帳のほころび(わざと入れてある切れ目)から眺めると、美しい髪を華やかに尼そぎにした御息所が脇息に寄りかかっている姿が、ぼんやりとした火影に照らし出される。まるで絵のように趣がある。
だけど源氏の視線はそこを流れ、御帳台の東面に身を寄せた若い女性の方に向けられる。たぶん、斎院だった御息所の娘だ。悲しそうな様子だが可愛らしく見える。髪の流れる様子や頭の形、雰囲気はさすがに上品で気高いが、どちらかと言えばキュートな感じだ。
もっと見たい。源氏はそう思うが、あれほどはっきりと言われたばかりなので自重する。
「とても苦しくなってきました。申しわけありませんがお帰りください」
切れ切れの声に控えていた女房が現れ、彼女を助けて横たえる。思わず源氏が境の几帳に手を伸ばすと、御息所本人が拒んだ。
「......見苦しい様子なので。でも、こんなぎりぎりの時にいらしてくださったのはご縁ですわ。思うことを少しはお話しできましたので、私がいなくなった後のことも安心できます」
「ご遺言を残す相手の一人に入れてくださって光栄です。兄弟とは立場が違うのでそれほどは親しくもできず、子さえ少ない孤独な私です。大事な身内として大切にお世話させていただきます」
彼女が最後に自分にどんな視線を向けたのかは知らない。誇り高いその人の願いに逆らうことはできなかった。結局、それがただ一度の見舞いとなった。
わかってはいたことだが、御息所の死は源氏の心をえぐった。
————いつも人は、私を置いて去っていく
それでもどうにか立っていることができるのは、自分より心細い元斎宮のために山ほど動くことがあるからだ。内裏にも行かずに奔走した。
ごほうびのように彼女から文の返しをもらった。雪やみぞれが白砂を打つ、もの寂しい日だった。
控えめな書き方だが、おっとりしている。けして上手ではないけれど、愛らしく品がいい。香をしっかりとたきしめた鈍色の紙に書いてある。
————伊勢の頃から気になっていた方だ。しかも私の立場なら、どうすることもできる
そう考えては見たが、死の間際の御息所を思い出してさすがに思いとどまる。
————それに、世間がやっぱりというのがイヤだ。逆に心清らかに扱って、帝がもう少し成長したら入内させて世話をしよう
大変かってな思惑である。そう決めたら権力を見せつけるかのようにせっせと通い詰める。
「私のことは亡くなった母君同様に思って、遠慮なく扱ってください」
などと言い出すが、そんな迷惑なママンがいるか、と元斎宮は逃げがちだ。なのにそのことさえ「お声をを聞かせてくださらないなんて、世間では珍しいですよ」と謎常識を押しつけられる。その上、優秀な女房たちですら源氏の味方だ。
四面楚歌の中、仏事の手配をしてくれることだけはありがたかったが「乳母でもかってなことをするな」と源氏は強く命じた。ぶっちゃけ「他の男を入れるな」と言っているわけだが、彼女たちは源氏の美貌に夢中になって素直に指図に従っている。
元斎宮に逃げ場はなかった。
そんなこんなで行き来の増えた六条からの帰り道、源氏は話し相手として良清を牛車にのせた。だいたいの事情は把握していたが、元斎宮入内の話は初耳だったらしく、目をぱちくりさせた。
「え、帝はその方より九歳ぐらい下じゃありませんでしたか?」
「おまえがそれ言う?」
良清は以前、かなり年かさで身分下の女とつきあったことがある。
「いや、あれは事情が違いますし。えーと、殿も年長のご婦人にはそれなり苦労なさったじゃないですか」
「あんな知性派タイプじゃなくって、内気なかわいい系だから大丈夫だ」
断言したが根拠はない。そのせいか良清はのってこず「そういやその方、院が好みのタイプってアプローチしてませんでしたか」と思い出してほしくないことを思い出した。源氏的には割とイタい。
「あれは......御息所が断っていたし」
兄である朱雀院が、何年か前の十五夜に語っていたのは彼女のことだ。彼の在位中は伊勢にいたから関わりがなかったが、戻った時に「こちらには妹の元斎院などもおりますので、ぜひおいでになって里のようにのんびりお過ごしください」と勧めたらしい。
けれど母の御息所が「高貴な方々もいらっしゃる中に、大した後見もなく入内させるわけにはいかない」と考え、更に「院は病がちでいらっしゃるから、もしも先立たれでもしたら」と心配したらしい。
だが御息所は亡くなった。院はますます熱心に誘いかけているようだ。
「院のお声掛かりなら安心じゃないですか。帝とはあれだけ年の差があったら今はよくても先々大変でしょう」
「おまえの年の頃まではイケると思うけど」
「え、私今じゃあの人とは贈答品を贈りあうだけですよ」
源氏はしげしげと良清を見た。鮮やかな色合いの赤を着た、押しも押されもせぬ殿上人だ。
「まだつきあっていたの?」
「いいえ。ただたまにあちらに用事があって下人を行かせる時、ついでに様子を見に行かせると干物とかくれるのでこっちも多少は何か持って行かせるようにしてるだけです」
「良清はこっちに娘さんもいたよね」
以前モテないなどと言っていたが、ちゃっかり子はつくっていたらしい。
「ええまあ。そこそこ悪くない顔立ちです」
「いやそれはいいんだけど、子どももいて今はモテ期で入れぐいなのになんでそこまでする? 他の女房とかは別れたらほっておくだろう」
「敬老精神です。それに後家さんだから多少は心配してやらないと」
大したもんだと感心する。それと同時に何かが心の一部をかすめるような気がしたが思い出せない。
————私だって花散里のことはそれなりに心配してやってるし。今は忙しいから行けないけど。だけどそれじゃなくて
首をひねって考える。老女関係かと脳内検索していたら、真っ先に源典侍のことを思い出した。
————あの人もさすがに見かけなくはなったが、家柄がいいからか暮らしに困ってはいないらしいし。性格的にも抜け目がなさそうだしなあ。そうじゃなくて何か引っかかるのだけれど
他は意識の上に上がってこない。何か忘れているような気だけはするが、大したことではないと考えることをあきらめた。
「ま、プライベートは好きにしてくれ。元斎院のことはまだ保留だから内密に。院から横取りするのは申し訳ないしね」
そうは言ってみるが、ほのかに見えた面影がすごく可愛らしかったので、たとえ兄にでも譲る気にはなれなかった。
————このことは誰かに相談したい。やはり帝の母の入道の宮に
元藤壷中宮の面影が胸をよぎる。源氏は牛車の振動を感じながら、まだ知らぬ女ともう知ることはできない女のことを考えた。良清はそんな彼を表情を出さずに見守った。
秋の気配の残る道を、牛はゆっくり二条の方に向けて歩いて行った。