負け犬
源氏二十九歳
大后視点
一万字を越えました
左右の大臣がふさがっていたため、源氏は内大臣になった。飛躍的な昇進ではあるが、一気に全てを掌握したとはいえない。どうするかと思っていたら、引退していた元左大臣を引っ張り出して、ほこりを払って太政大臣の位につけた。思わずうなった。上手い手だ。
どんなに時流に乗ろうが、若造が出世すること自体が気にくわぬ者は多い。表面は過剰にもてはやそうと陰に回って舌を出す。そんなヤツらに対しての煙幕だ。
温和な性格の元左大臣は無能だが、家格が高く評判もいい。若輩者が命じてもそっぽを向かれる事柄も、彼を通せば受け入れられる。小憎たらしいやり方だ。
歯がみしたが、妹の四の君だけは幸せそうだ。彼女の夫はまた出世して権中納言(元頭中将)になった。
「そうなの。今の帝にうちの姫を入内させる予定なの。女御にしたいから、いったんお義父さま(新太政大臣)の養子という形にするつもりだけど。え、弘徽殿を譲ってくださるの? もの凄く嬉しいわ、ありがとう! それと、次男の元服のお祝いもありがとうございました」
目をキラキラさせていたが、ふいに下を向いて「私だけ......ごめんなさい」と小声で謝った。
「おまえの婚姻は、こんな際の保険でもあったわけだからかまわぬ。堂々と栄華を楽しめ」
素っ気なくいうと、少し不安そうに私を見てまた礼を述べた。
「重ねて言う必要はない。至極当然のことだ」
実際彼女がいなかったら、わが一族はもっと惨憺たるありさまだったはずだ。念のため手を打っておいてよかった。
「お姉さまには本当に感謝しているの。こちらからいただくお菓子も息子たちが楽しみにしているし、あの子が来た時も......」
言いかけて急に言葉を止めるのを見て察した。
「源氏の子も喜ぶわけだな。元気か。七、八歳だったはずだな」
「八歳になっているわ。今度、童殿上することが決まっているの」
「ほう。それは重畳。どんな子だ」
「そうね、人より可愛らしい顔立ちだわ」
それはまあ、わが息子の甥にもあたるから当然であろう。話を聞いてみると、年の割には大人びて落ち着きのある感じらしい。
「賢い子よ。だけど噂に聞く源氏の君ほど華やかな様子ではないわ。育ったらそうなるのかしら」
見たこともないからわからぬ。だが源氏自身は幼少の頃より、そこそこ派手だった。
「そう。いい子だからこのままでいてほしいわ。あの子(六の君)みたいな目にあう子が少ない方がいいもの」
胸の奥がズキリと痛む。大事に思う息子が大事に思う妹を傷つけたことを謝りたいが、そんなことを知ったらなおいっそう彼女が傷つくだけだ。
自分の痛みを軽くするために真実を吐き出すことなど、絶対にやるつもりはない。胸のうちがどんなに重くとも、墓場まで持っていく。
「あの子に直接聞いたけれど、もう源氏には会っていないそうよ」
「ほう。なかなか殊勝なことだな」
現在の帝の後見としてやりたい放題の源氏が自重するとは思わない。今さら私が口を出すことではないが、朱雀院に移ってからもたまに会っているのではないかと疑っていた。
「ううん。それは本当だと思うわ。彼はくどいてきたらしいけど、ちゃんと断ったって。院の優しさにほだされたのと、ちょっと懲りちゃったみたい」
「.........」
内心忸怩たる思いがあるが、いかんともし難い。
「第一、まだつきあうつもりならこちらには来ないわよ。だけど、内裏もいいけれど朱雀の院も素敵ねえ。池も広くて、風雅な感じはこちらの方がむしろ上じゃないかしら。この池は本殿とつながっているの?」
私の住む柏殿は朱雀院の敷地内の東北にある建物で、東池に面している。池の水は南に流れ、息子の住む本殿前の南池につながる。
「そうなの。舟遊びなどする時は呼んでね。ここからゆっくりと眺めたいわ」
仕える者以外は人の少ない場所だから、確かに落ち着いてイベント見学ができるであろう。口元が軽く歪んだが、妹には「その時は呼ぼう」とだけ伝えた。
土産をたんと持たせて返した。盛りの夫君を持つ彼女には大して必要のない行為だが、長年の習慣だ。
まだ少年の新帝が位につき、世の中は変わった。私の一族は力を失い、新太政大臣家と源氏がそれを得た。
複雑な気分で世を眺める。私の立場は明らかに負け犬だ。訪れる者も減ったし、人にも嗤われる。手下の出世も滞りがちだ。
だが暮らしは風雅なままだ。不自由もなく、このクソ面白くもない仙洞御所(上皇御所)で過ごしている。
「やはり譲位なさるべきではなかったのです」
乳母子が口を尖らせる。あたりまえだが事情は誰にも話していない。だから彼女は憤慨したままだ。
「私もそう思う......おまえの身内の出世も通せなくなった」
「いえそれは、よくはないですけどわたくしの気持ちは微塵も揺るぎません。そうではなくて、こう、源氏一派の真綿で首を絞めるような生ぬるーい感じがなんか嫌いですがそれでもなくて、子どもを皇統の頂きにのせてジジイを前に出して、自分は小綺麗でいようという感じが小面憎くてイヤなんです」
一理ある。そもそも権力とは綺麗なものではない。あちこちに配慮すればにっちもさっちもいかなくなる。だから、憎しみなどものともせずにスピーディにコトを進めることが効率的だが、彼は手を汚さずにいようとする。
確かにやり口は上手い。一見穏やかだが、その実、割にねちっこい。彼に敵対した我々にも表面上は礼儀を守るし、裏切った者にもいきなり恥をかかせるような真似はしていない。
だがそれに気を許した相手は、時たま絹にくるまれた氷で顔を撫でられるような目にあわされ、この男がけして人を許さないことを知らされる。
そんなやり方は私の性分に合わぬ。短絡的と言われようが、きっちりと敵味方を分けて、懐にいる者を守ってやる方が気持ちがいい。
————息子は違うようだがな
彼の好みは、源氏よりわけがわからない。わかるのはとてつもなく悪趣味なことだけだ。
それでも私は息子を否定できない。本人はエラく楽しそうだが、その難儀な性格の原因は私と院にあるからだ。
————そもそも小さい頃は父をどうでもよいとは思っていなかった。会える日を楽しみにはしゃいでいたし、愛されずに傷ついていた
その痛みが、彼をああ育てた。たぶん。
父から傷つけられた痛みを紛らわせようと『人は愛する相手を意識的に傷つけることがある』と仮定して実行した。それは成功し、彼は痛みを忘れ、父に対する想いを忘れることができた。
私も悪かった。人格形成の最中の多感な時期によその子どもを受け入れ、あまつさえ誉めた。
父の愛を持たぬ子どもにとって、それはあまりに致命的なことだった。
だが彼は本質的に怒りに向いていなかった。単純な者は、標的に怒りをぶつけいじめることによって自分を守る。だがわが息子はそうはできなかった。彼は悲しみや辛さと同時に、物事を冷静に俯瞰できるタイプだ。
見よ! 婉曲にとはいえ借りは返すたちの源氏より、いかに彼が帝に向いていることかッ。
最初から至高の存在として生まれついておるのだっ。
ちなみに言っておくが、私の怒りは一般人のような安いモノではない。もっと深く、まっとうで正義の、いわば天命の代行ともいえる怒りであるからいっしょにはせぬように。
「......と、太政大臣を押し立てて強引に話を進めているんですよ。全く世も末ですわ。あの、元中宮を女院的な立場に着けようなんて」
乳母子が嘆息した。私も黙ったまま扇をへし折った。
女院は中宮よりも更に格の高い地位で、上皇にも匹敵する。あの女がそれにふさわしいか?
彼女がいったい何をした。帝になる子を産んだ。私もだ。帝=院に充分に仕えた。途中参加の身で何を言う。更衣の件で総スカンをくって臣下からさえ不満の出た彼を、退位させずに支えきったのは誰だ? この私だッ。
にもかかわらず私は中宮になることさえできず、あの女は更に高位に据えられる。さすがに理不尽だと思って息子に苦情を言ったら「母上が私と同格になったら、ここを出て別に院を作らなければならないじゃないですか。絶対に阻止します」と宣言された。
なら、あの女の地位を格上げすることを止めろ、と言ってやったが「私は表向きは何の力もないので」と断られた。どうせ怒り狂う私の様でもみたいのであろうと、意地でも表面はクールにかまえたが、はらわたは煮えくり返っている。
だいたい、女院などという特殊な地位を安易に与えるべきではない。後世に悪しき影響を残す。女院の地位にふさわしいのは、国母でありながら中宮になれなかった特殊例、たとえば私などがふさわしいと思わぬか。けしてあの、生まれによって恵まれただけのあの女などが占めるべき立場とは思えぬ。
なのに事は源氏によってどんどん進められている。あやつは前例が確定し、後世の範となることを全く危惧しない。更にその地位は中宮よりもずっと金がかかる。どうやって財源を確保するか知らぬが、悪例となることは明らかだ。こういうところは院に似ているっ。
「まあまあ、落ち着いてください。扇も、昔ほど迅速には届けられませんのでこれ以上は。楽しいことの方を考えましょう。院が、音の遊びを企画していらっしゃいます。ぜひごいっしょにとのことです」
自分で言い出したことなのに、乳母子はさっさと気を変えて別の話題を出したが、私は断固として断った。
「自分の女御や更衣と遊べばいいのですっ」
尚侍の君(六の君)をはじめ、ほとんどの妃にあたる者が朱雀院に来ている。東宮の母たる承香殿の女御だけは内裏に残ったが、もともと寵愛の深い者でもなく、何かの才が際立つ者でもないので、大半の者は気にしない。まあ、しいていえば源氏の宮とのあだ名の元藤壷女御が、くやしさにうち震えているくらいだ。
「同じ年に子を産みましたが女の子でしたからね」
「うむ。寵愛なら、六の君を抜きにすれば次点はあの女だろうが」
政治的な意図を別にしても、妃の中では別格の扱いだ。出産が後であろうと、男宮であったらそちらが東宮となったかもしれない。
息子の在位が長かったら、リベンジの可能性はあったかもしれぬ。だが彼はさっさと退位した。彼女はいわば、最愛の相手に裏切られたも同然だ。
「こちらに引っ越しては来ましたが、寝込んだままのようですよ」
なんと軟弱な! 夫、息子と度重なる裏切りに耐えた、この私という偉大な手本がありながら見習わぬとはなんという意識の低さよ。いや、息子のことは知らぬだろうが。
「見舞いとして薬草と、蘇でも贈ってやりなさい。ああ、どうせ作るなら、ついでに元麗景殿の所へも届けるように」
「ええ。なんでしたら全ての御子さまの元にも贈りましょうか」
「それはいい。そうしなさい」
数少ない孫たちだ。一人も減らすわけにはいかぬから、滋養のある物を食べさせたい。
「宮さまの中では、やはり東宮さまがずば抜けてお健やかですね。まあ、母君のとりえですし」
「うむ。これだけはありがたい」
唯一の男宮である。とにかく生存していることに意味がある。
「他の方は、女二の宮さまは才走った母に似ず、落ち着いた感じでいらっしゃいますね。全力で皇女にふさわしく育て上げようとしているようですし」
「多少格下の家の方が、皇の血筋にこだわるからな」
権門の家では、たくさんいすぎてそれほど重要視しない。対の屋の廊に居住している親王だっている。
「女一の宮さまはしっかりとしていて、将来は斎院などのお勤めにも向いているかもしれません」
「状況しだいだが、資質はあるようだな」
この子の母は源氏の宮と割りに仲がいい。かなり交流もあるようだ。
「女三の宮はどうだ。まあ、三つではまだ人とは言えぬか」
どの子も赤子の頃には見たが、その後は東宮と女一の宮ぐらいしか見かけていない。
乳母子は、思い出すように宙を見上げた。
「......皇女の中で一番お美しい顔立ちだと思います。あの年頃としては大変に大人しかったです。まるで、人形のように」
「そうか」
赤子時代もそう大泣きする方ではなかった。私の娘の方の女三の宮は、けっこうやかましかったが。
まあ年頃になるまでは人柄はわからない。
乳母子は「蘇は私が届けて様子をうかがいましょう」とうけおい、指示を出すために立ち上がって部屋から出て行った。
参加は断ったが、朱雀院で催された楽の遊びの音は、私のいる柏殿まで響いた。
季節をよく写し取っていた。ありきたりの音だが離れて聞くには悪くなかった。
仙洞御所では時は緩やかにすぎていく。行事はあっても義務は少ない。雅の他に意義はない。息子も、居りた帝のモデルケースとして過ごせばいいだけだ。人生の大半が戦闘態勢だった私は居心地が悪い。だから、他者の噂で火が点くこともある。
「ええ、院司なども置き、収入も増やして上皇に準じて扱われています。ただ、正式な形ではないので前例に縛られることもなく、自由に宮中に出入りしています」
元中宮の話を聞くと、髪が逆立ちそうだ。かっちりと女院の地位をもらえば義務も増える。しかしそこは省略して、いい所だけをつまみ食いしているらしい。本人というよりは源氏の押しだろうが、先の世も見据える賢明な私にとっては腹立たしい。
それを、権力にすり寄って「いとめでたし」と見る世間はあほうばかりだ。思わず「しょっぱい世の中だ」と一人ごちる。さっそく息子のスパイが報告するであろうが、もうどうでもいい。
うつうつと楽しまず、この国の未来を憂いていると、とんでもない報告が入った。
「これから内大臣がおいでになると連絡がありました!」
「は?」
思わずその女房の顔をしげしげと見つめた。女も仰天しきっているが、間違いなくそう告げた。
「内大臣は急に人が変わったのか?」
「......今年の春に変わってそのままです」
「何かの間違いであろう」
「いえ、正式に使者が来ました。源氏の君が、この柏殿を訪問なさいます!」
しばらく私の天才的な頭脳さえ固まってしまって状況が呑み込めなかった。呆然としていると乳母子が、悲鳴のような声で叫んだ。
「すぐにお断りしてっ!!」
「はいっ!」
女房が駆け出そうとする時になって、ようやく私の金色にきらめく脳細胞が動き出した。
「......待て」
「聞かないでいいわ! 急に腸捻転を起こして七転八倒のお苦しみで会えませんと伝えてっ」
彼女が私の命令を無視することは極めて珍しい。血の気がなくなった顔は紙のように真っ青だった。板挟みになった女房も青ざめたままこちらを見ている。
「その必要はない」
「ですが!!」
彼女はなおも逆らった。正面から私の目を見、全身の気力を振り絞って抗おうとする。
「今が盛りとビッグウェーブに乗るあの男は、この機会を利用して尊き大后さまをおとしめようとしているのですっ。お会いになったらどのように侮られるか。絶対に断るべきです!」
私は彼女の目を見返した。
「おまえは自分の主人が敵前逃亡することを望むのか」
「望みますっ」
乳母子は言い切り、目を反らさない。
「栄誉ある撤退は恥ではありません。ヤツは今、大后さまを脅かすほどの力を持っています。一時的に退いて敵を避けることも兵法の一つだと思います!」
彼女は一、二歩踏み出し壁のように私を阻もうとした。潤んだ瞳は涙を滴らせず、力を込めて私をにらむ。
「絶対にあなたを傷つけさせたりはしないっ!!」
もはや若くもなく力もないただの女が、全力で私を守ろうとしている。
だが私は、本気でそれを踏みつける。
「......ならぬ。唐衣と裳を持ていっ!!」
女たちが全て息を呑んだ。それは格上の相手に対する時のスタイルだ。
今まで私がそれで装った相手はたった二人、夫である院と息子のみだ。そして今、院は亡く息子は私にそれを着せたがらないので、ほとんど着用することはない。
「お言葉ですがっ!」
乳母子はなおも逆らった。だから私は、全力の威圧を彼女に向けた。わが覇気で、あおりを喰った他の者はみな額を床にこすりつけ、体を低くして恭順の意を示した。
それでもこの女は頭を下げない。ちはやぶる神の稲妻と呼ばれたこの私に真っ向から立ち向かう。
「聞き入れることはできませんッ。源氏に会うことはおやめくださいっ」
私はふっと力を抜き、笑いかけた。彼女も少し肩の力を抜いた。だから、そのまま静かに語りかけた。
「敗者には敗者の誇りがある」
彼女が息を呑んで身を固くした。私は笑みを苦笑に変えた。
「案ずることはない。私はこの国で最も賢く、最も優れた敗軍の将なのだから」
勝者が敗者のみじめな姿を酒肴として欲するのなら、存分に供えてやる。それがルールだ。逃げたり隠れたりするものか。
乳母子が声もなく涙を流す。だがすぐに自分の袖でそれをぬぐい、再び私を正面か見据えた。
「わかりました。でしたら私が取りつぎの役を果たしましょう」
わずかな疑念の目を向けると、彼女は不敵な笑みを見せた。
「今さら見苦しいあがきなど見せません。大后さまが武将であるとすれば、介錯は私の役目です」
そういうと彼女は部屋を磨かせ、その後に人払いをして私に裳と唐衣を着せかけた。
正直ほっとした。これから起こることを見せたくなかったからだ。
乳母子は肝の据わった顔で控えている。もう大丈夫だろうと思ったが、声をひそめた。
「これから私がどのような目にあおうと、絶対に止めだてするな」
「はい」
かすれたような声の彼女が従順にうなずく。いざその時になっても焦らぬように、できるだけ穏やかに忠告した。
「けして手出しをしてはならない。誇り高くそれに耐えろ」
「はい」
「確かに、目の前で主人を陵辱されるのを見るのは辛いかもしれぬが」
「............へ?」
乳母子がこれ以上は不可能なほど口を開いた。年をとったとはいえ大した知性を持たぬ彼女のこと、そこまでは想像が至らなかったらしい。
「大丈夫だ。絶対におまえには手出しさせない」
「あの......いや、そういうことじゃなくて、あの......」
「亡き院ただ一人のためだけのこの身を、いかに現在最大の権力者とはいえ若造に開くのは辛い。しかし私は逃げようとは思わない。これは美しすぎる敗者の義務だ。あの色狂いめはかねてから懸想するこの私の体を狙っていたに違いない。だが、おまえも栄光ある大后の従者なのだから、声も立てずに耐えぬいてみせろ」
彼女はしばらく口元を震わせていたが、観念したのかただうなずき、源氏を迎えに立ち上がった。
牛車は寝殿の階に寄せられた。離れとはいえ権威ある朱雀院の一部だ。そのことにまず不快を感じたが、この程度で腹を立てるわけにはいかぬ。
源氏は勧められるまま南廂に上がり、唐渡りの最高級の錦で真綿をくるんだ茵(平安座布団)に平然と腰を下ろした。
私は御簾と几帳の奥で頭を下げた。
「どうか頭をお上げください............やっとお会いできましたね」
くどき文句に鳥肌が立つが、負け犬の私は逆らえない。上げた頭をまっすぐに立てることだけが精一杯の抗いだ。
「約束のお酒をごちそうしてくださいますか?」
袂を分かった時の幼い源氏の顔が、ちらりと浮かぶ。
命じる間もなく乳母子が手を打ち、盛大に着飾った見目のよい若女房たちが、あっという間に酒肴を整えた。よく心得た彼女たちは、源氏に瑠璃の杯を渡し、銀の銚子(長い柄と注ぎ口のついた酒器。巫女さんがお神酒を注ぐあれ)で酒を注ごうとしたが、源氏はそれを断った。
「大后さまの手ずからいただきたいです」
女房は銚子を私の元に運んだ。それこそ巫女のように表情を出さない。
彼女たちは一礼して、部屋を去った。
乳母子の視線を感じる。私はわずかな苦笑を浮かべ、銚子の柄を手に取った。
おごれ、光源氏よ。たとえそれが、わが息子によってもたらされたものであっても、確かにおまえは勝利者だ。存分に思い上がって、わが首を肴に勝利の美酒を飲むがよい。
乳母子が御簾の一部を持ち上げる。私は几帳のほころびから銚子を差し出し、源氏の持つ杯に黙って酒をついだ。彼はそれをぐいと傾けた。
皮肉なものだ。息子の頬さえぬぐうことのなかった女が、生涯にただ一度少年の涙に手巾(平安ハンカチ)をあてた。その少年は成長して、誰も受けることのなかったわが酌を受けている。
気を抜くと屈辱に呑み込まれそうだが、意地でも視線をそらさない。正道を行く者はたとえ敗れたとしてもその誇りを捨てるべきではない。
「...何かお言葉をいただけないでしょうか」
源氏がやわらかな声で要求する。私は固い声でそれに応えた。
「敗軍の将に言葉は不要。ですがあなたが求めるのなら、謝罪でも追従でも口にしましょう。その資格がおありなのですから」
彼はくくっと声を漏らした。ああ、嗤え嗤え! 別にかまわぬ。
「ではお願い致します。かつての私に向けたような言葉でお話しください。あの頃はこんな他人行儀な口はおききにならなかった」
ーーーーこやつも何か、妙な性癖を持っているのか
「そうですか。ではお言葉に甘えて。久しぶりだな、光源氏」
ぷっ、と彼が噴き出し、しばらく笑い続けた。私はおさまるまで待たなければならなかった。源氏は肩をひくつかせたまま、子どものような目で私を見た。
「やはりあなたはこうでなくては。私ごときに敬語などいりませんよ。こちらも大后さまではなく、昔のように弘徽殿の女御さまと呼ばせてください」
「好きにしろ。そんな過去に捕われてどうする気だとは思うが」
「あの時代は、私が唯一自由でいられた頃ですから。内裏は全て私に開かれていて、みんなが優しかった」
あの頃と限らず、いつだって気ままにふるまっているようにしか見えないが。
「だけどその頃でも、あなたは特別な存在でした。そのことに気づいていましたか?」
ついに来たかと身構えた。下がりそうになる首を意識的に伸ばし、震えそうな指先をこぶしの中に握り込んだ。源氏は洗練された動きで、茵の横に置かれた脇息にひじをのせた。
「お気づきにならなかったかもしれませんが、あなたは私の......唯一の母でした」
「............は?」
意外なことを言われて、耐えたがつんのめりそうになった。
??? ......もしかしてこの男は、人として最大の禁忌に挑もうとしているのか?
「不思議にお思いになるかもしれませんね。当時私は、父の妃を全て自由に訪れることができました。みな、才ある美しい女人でしたが、母だと思えたのはあなただけでした」
「麗景殿などとは、ずいぶんと親しいように見えたが」
今も援助を与え、里のようにしていると聞いている。
「ええ。彼女は私の大事な姉上です」
「ちょっと待てっ。私と彼女は年の頃はほとんど変わらぬぞっ」
非常に心外だ。
「承知していますが、それでも違えることはできません。みな大事にしてくれましたが、あなたは甘やかしてくれなかった。みな私の偽りを受け入れてくれたが、あなたはいつも見破った。あなたはとても恐くて強くて頼もしかった。天が落ち地が裂けようとも、けして揺るがず変わらない。幼い私にはそう見えました」
壊れやすい繊細な心を身の内に持つ、可憐で美しいこの私がか。思い出補正とは恐ろしいものだな。
「あなたは時には稲妻のようで、また別の時は全てを呑み込む大海のようで、またある時は道を示す太陽のようでした。私はいつも翻弄され、脅え、信頼し反発した。それと同時に、あなたの傍で私はいつも守られている気がしていました。だからこそ、あなたに引導を渡された時は、世界が滅びるかのような不安を感じました」
源氏はまた杯に手をやる。間髪を入れずに酒をついでやった。
彼はあざといほど優雅に、それを口元に運んだ。
「あなたに捨てられて私は、あなたを恨みました。今まで何も通すことのないな堅固な盾だった物が、どんな物も突き通す矛に変わったわけですから、それは仕方がない。恨んで憎んで、それでもあなたを無視することができなかった。私はあなたが注目せざるを得ない人物になろうとしました。今、こうやってあなたから酌を受けるほどになれたのも、そのたゆまぬ努力のためだと思います」
たゆんでばかりだったと思うが。
内心の感慨はさておき、お酌マシーンになったつもりで杯が空くたびに注いでやる。時たま女房が酒の補充に来る。源氏の白い頬が、だんだんと赤味を帯びていく。
「私は......兄上がうらやましかった。何の不安もなく帝の地位は約束されているし、鉄壁の守護神もいる。その上私がどんなに努力しようと、妬んだりはなさらない。兄上のことは大好きなんですが、それでも一度ぐらいうらやんでほしかった。なのに彼は、私がどんなに学問を進めようが琴の腕を上げようが、本気で誉めてくれるんですよ。ひどいと思いませんか?」
守護神とは忍びのことだろうか。いや、気づいている様子はないので何かのたとえかもしれない。
息子は最強の帝なのだから、並の感覚など持たなくてもしょうがない。もちろん妬心がないわけでもないようだが。それに、何の不安なくついた地位ではない。他ならぬおまえとおまえの母が脅かした。
「だから女御さま、いや、こう言わせてください、母上と」
源氏は杯を下に置いた。酒のせいか顔が真っ赤だ。
「それでは亡くなったおまえの生母が気の毒だろう」
「生んでくれた母は天上の母。弘徽殿の女御さまは地上の母。それでいいじゃないですか。私はいつだって寂しい。どんなに美しく生まれ、全ての才に恵まれ、あまたの人に囲まれていても寂しくてならないのです。だから、母上が二人いたっていいじゃないですか」
何を女々しいことを抜かしておる。息子のつもりならしゃんとせい。それにおまえは、ちっとも私に似ていないではないか。私はもっと謙虚で、現実認識がしっかりとしたタイプだ。
「母上のことは思いっきり恨みましたが、感謝もしているのです。あなたがいなかったら、人に愛されすぎる私は、甘ったれで府抜けた男になっていたことでしょう。あなたは私に闘い方を教えてくれた。女御さまこそ内裏の誇る、超A級喧嘩師、いや地上に降り立った武神そのものです」
「............」
こやつ、飲み過ぎではないだろうか。美神を武神などと言い間違っておる。それに、今でも充分に甘ったれで腑抜けだと思うが。
思わず酌を止めたが、源氏はぶしつけにも几帳の中に自分の手をつっこみ、私の手を捕らえた。ぎょっとしたが「あの日よりもしわが増えましたね」などと失礼なことを言い出した。
面倒なのでさっさと引き離し、また酒をついだ。源氏はそのことにしばらく文句を言ったが無視した。
「でもほっとしました。兄上が譲位したとき、これを機会に出家なさるのではないかと心配しました。私は身近な女性にそうされるのは大嫌いです」
後見する元中宮のそれは突然だったから、ショックを受けたのだろう。
「私は出家などせぬ」
人の業を背負ったまま老いていく。そしていつか、静かに院の近くへ旅立ちたい。
源氏はほっとしたように「それでこそ弘徽殿の女御さま」などと追従し、私の冷たい視線を招いた。何かとやかましかったので、手を止めずにどんどん呑まし、完全につぶした。
「......さすがにもうけっこうです」
「そうか。ならやめよう」
なにせ私は敗者なのですぐにやめてやる。これだけ呑んだわけだから大して理性は残っていないだろう。ちょうどいい、通したい話があるから言質をとろう。
私は光源氏のなれのはてに囁いた。
「ところで、八の宮のことだが」
「だめです!」
まだ話す前に、いきなり拒否された。ちょっと驚いて源氏の残骸を眺めると、脇息にのせていた頭をどうにか起こした。
「大抵のことは譲歩するつもりです。だけど彼の件は許しません。兄上は仕方がないですけれど、他のヤツに母親を分けるつもりはないです」
舌打ちしたいのをどうにか抑えた。息子がダメならこやつを動かそうと思ったのに、妙な所が二人似ている。
「わかった。引こう」
「それ以外ならいいのですよ。というか、なんでも要求してください。今の私ならどんなことでも......うう」
源氏は口元を扇で隠した。私は彼に皮肉な目をあてる。
かといって元中宮の女院扱いをやめろというわけにもいかぬ。
父親と同じだ。本当にしてほしいことには気がつかない。
気づいてわざと拒む息子とどちらがマシなのかはわからない。
「た、楽しい夜でした。これでお暇しますが、ぜひまた。ああ、最後に一つだけお願いしてもいいですか」
だから私に拒否権はない。望みは全て言え。
「......音を聴かせてください」
「おまえの母のか?」
「今宵はあなたの音を」
承知して、要望通り琴の琴を運ばせた。
細く微かな、寂しい音色。七本の弦が幽玄の世界をかいま見せる。
柏殿の室内に、雨のように花が降る。
桜? いや。白萩の小さな花房がこぼれていく。
まだその季節には早いのに、脆く可憐な花が部屋に舞う。
もちろんこれは現実ではない。音の見せる夢だ。
その証拠に、床に落ちた途端にそれは消える。
雪のように儚い幻だ。
「......綺麗だ」
扇を水平にかまえて受けようとしているからには、彼にも見えているのだろう。
花は扇にも留まらず、静かに降り注ぎ静かに消えていく。
無数の涙のように。無数の魂のように。
花の色は月の光に似ていた。
ほろほろとこぼれる花が見える彼は、確かにひどく寂しい男なのだろう。
やがて曲は終わり、花は消えていく。
源氏はわずかに涙ぐみ、音の余韻に浸っているようだった。
私は女房を呼ぼうとしたが彼はそれを止め、自分の足で歩いて簀子の辺りまで行き、そこからは従者に支えられて牛車に乗って帰っていった。
「......犯されなくてよかったですね」
絢爛たる行列を見送った後の乳母子が、小声で呟く。
私は「ああ」と答えてうなずいた。
それからの源氏はこの夜の言葉を守るかのように、ことあるごとにうんざりするほどこちらに尽くす。イヤミか貴様ッッと文句の一つもつけたくなるほどだが、下手すれば本人がやって来て自分の誠意を長々と語りそうなので黙って耐えている。
「立場の違いを見せつけられて、かえってお気の毒ですわ」などと噂になっているのでキレそうだが、敗者に勝者の行動を規制する道理はない。黙って耐えるだけだ。
なんでもいい、好きにしろ。たとえそれが不快であろうとも、私は敗者の義務を怠りはしない。ただ、息子の裏切りがなかったら、絶対に勝っていたとほんの時たま拳を握る。
時代は変わった。私の譲った殿舎は磨かれて妹の娘を待っている。
これから世間は彼女のことを”弘徽殿の女御”と呼ぶだろう。