譲位
源氏二十七〜九
弘徽殿視点
恐れ入りますが、メンタルガードよろしく
衣が喪の色だと空までそれにつられるようだ。鈍色の雲は低くたれ込め、都を暗く染めようとする。
父の死はひどくこたえた。大事な親でもあるし、ロクな兄弟を持たない私には、唯一にして最大の手段だったためでもある。いかに私が有能であろうとも、自ら評議に出るわけにもいかぬ。
だがそのせいで体調を崩したりはしなかった。
————死んでも私が憎いのですね
弥生の十三日、帝の夢に院が訪れたらしい。その夜彼は、私の元には来なかった。
「雨など降って空が乱れた夜は気が弱るものです。しかしそれはただの夢です。軽々しく驚くことではありません」
息子からの依頼で会いに行った私は、理性的にそう諭した。帝は「院が私をおにらみになられました」と、目に紅絹を巻いていた。
「痛むのですか」
「......いいえ」
「いえ、たいそうお苦しみになっています」
控えた女房が思わず口をはさんだ。私はその無礼をとがめず、物忌みの手配を彼女に命じ、自分の邸でもその手はずを整えさせた。準備に手間がかかったが、仁王会(同時多発仏教イベント)などもおこなった。
帝の眼疾は少し軽くなったが、さほど日数がたたぬうちに太政大臣である父が死んだ。
喪中の私は内裏には行けない。汚れを息子の元に持ちこみたくない。それ以前に、源氏の復権を望む彼に告げた言葉を変えず、自邸にこもっている。
「安易に許すべきではありません。罪に堕ちて都を去った人物を呼び戻す単位は最短でも三年です。それにも達さないのに許すことは、世間も納得しないでしょう」
嘘だ。世人は大して気にかけないだろう。だが悪しき前例として利用される可能性があるし、それ以上に私は、道理に外れたやり方に納得がいかない。
流人ならば六年は公職につけない。それよりも軽い立場で配流になったものは三年だ。自ら退いた源氏は、いまいましいがこちらにあたる。私は復権に断固反対し、一族の者もそれに賛成した。
喪中であろうとも私の生活は大して変わらない。部下から報告を受け、それに対して適切な助言をする。通常とは違う事柄は学者などに命じて判例を調べさせ、状況を考えて実行に移す。
だが、人に会わぬ時は自分らしからぬ虚ろな目で、外を眺めている。御簾越しの空は今日も暗く、音も光も拒んでいる。
————このまま永遠に晴れなければいい
つまらぬことを考えて、さすがに自分にあきれる。気持ちが暗いからと言って、天候までつきあわせるつもりなのか。いや、私に合わせるのならあの夜以上の大嵐のはずだ。
————あの方は私のもとには来なかった
顔も見たくないのだろう。そのくせ、息子には怒りをぶつけるのか。
理不尽だ。あまりに理不尽だ。
彼を祟るぐらいならこの私を祟るべきだ。息子が何をした。あなたの遺言を叶えなかったことへの怒りか。帝が一人でそれがをできるとでも思っているのか。
あなたが現世にいるとき、思いついた事案を全て通せたか? 違っただろう。私がその素案を阻み、差し戻した。あなたはそのことで私を恨んでいただろう。
それはそうだ。この世で最も尊いお方の意思を阻む女だ。恨まれても憎まれても仕方がない。最大の悪役として未来永劫ののしられても当然だ。
だが、私がその役を買って出なければどうなった? 現実性を全く欠いた策が世に下され、施行されたはずだ。
あたりまえだが上手くいくはずがない。その結果民は苦しみ、あなたには親政(帝が自ら政治を行うこと)を押し通して大失敗した帝としての汚名が残っただろう。施策は記録に残る。無理に破棄させても、人々が私的に残す日記の類まで消すわけにもいかぬ。
私だってあなたの意を通してあげたかった。だが、私的な理由でカンタンに国庫を開き、息子のダンスが上手かったという理由でほとんどの上達部の地位を上げる、そんなあなたの施策が通用するわけがないのだ。
会社の社長が息子である課長のカラオケが上手かったからと、全幹部の給料を上げたら、該当する社員は喜ぶだろうが、会社は傾くに決まっておるわっ。副社長と経理は半分死にかけたぞっ。
もっともうちの兄たちもダニのように吸いついたし、あの元中宮もロクな後見もいないのに無駄金ばかりを使わせた。この国の屋台骨を支えていたのは亡き父と私だッ。
だいたい中宮の立場をなんと心得るっ。あれは国を彩る華であり、同時に一族の後見に対する功労賞だッ。どう考えても私の方がふさわしいではないか!
————だけど、あなたは私を選ばなかった
私が政に関わらずにただの女であったなら、私を愛してくれたでしょうか。
そうであったら、私の息子にも目をかけてくれたのでしょうか。
過去仮定はよそう。意味がなさすぎる。必死に自分を止めるが、そうすると先程の怒りがまた沸いてくる。
————化けて出るなら私のところへ来いっ。そちらの恨みごとも聞いてやるし、こっちも山ほど言いたいことがあるッ
だが彼は私の元へは来ない。けして。
————会いたいわっ、バカ野郎ッ!!
声に出さずに叫びを呑み込み、怒りで震える手を袖の中に隠す。抑えて抑えて抑えまくった私の体から、何かがふっと浮き上がりそうになる。
「............え?」
たまたま現れた女房が目を見開いてこちらを見る。が、すぐに肩の力を抜いた。
「今、桜がさねの少女が見えたと思ったのですけれど、気のせいでした」
「世辞はよい」
「あ、いえ、大后さまのことではなく......」
「はいはい、眼病が流行っていますからね、きれいな水で目を洗って来なさい」
乳母子が割り込んで来た。女房は不思議そうに「いえ、たぶん私の気の迷いで、もののけだとは思っていません」と手を振るが、彼女はさっさと追い払った。
黙り込んだままの私の前に円座を引っ張った彼女は「久しぶりにお投げになりますか?」と尋ねた。
「やらぬ」
「多少発散ならさないと、スタンドが人目に触れます」
なんだそれは。私はぷいと横を向いた。乳母子は必要なくなった円座を自分の尻にしき「たぶん、ギョーカイ用語で生霊のことを指しているのだと思います」と言った。子飼いの陰陽師の言葉なのだろう。
「......そんなものではない」
「ええ。ただ一般人の目に見えるほど、闘気が擬人化していますからね、少し散らした方がよろしいかと」
きっ、とにらみつけたが平然と受け流された。こやつは私に慣れすぎておる。
「体調もよろしくないのでは? 何かお求めの物がありましたらわたくしが、なんとしてでも入手して参ります」
「よい。おまえも同じ年ならわかろう。ありがちなことだ」
気力はわかぬが、けして不幸ばかりではなく承香殿の女御の腹からやっと男の孫ができた。肩の荷も下りた気分だし、この不調もわかりきったものだ。なのに、ことあるごとに静めたはずの恋心がよみがえって、ものや思うと人の問うまでになっている。
「いや、そんなことはないですよ。もののけありと人の言うまでにはなってますが」
天界のそうじ女にまで認められた、この美しい私の恋心に何を言う。実にけしからん。
「なんにしろ、大后さまは人生を全力で疾走なさりすぎです。喪に服している間ぐらいは、少しお心を休めてください」
そういって彼女は孫廂まで下がり、そこに控えた。
年が変わった。帝は病がちに過ごしている。世の中はやたらに騒がしい。帝が健康を失った状態は不吉なので、退位を視野に入れるべきだと言い出す者さえ出てきた。
もちろん私は絶対反対のスタンスを崩さない。といってもまだ喪が明けないので、がんがん文を出してそれをいさめる。自慢の小野道風風の書体で思うままに書き上げ乾かしていたら、強い風が吹いて来て飛び散った。女房たちが慌てて拾い集めてくれる。
「これを使いましょう」と乳母子が唐櫃から赤く塗られた石を取り出して、文机に置かれた紙にのせて押さえた。
「気がきくな。いつの間に用意した」
「いえ、細殿で拾いました。去年の秋の頃でした」
誰かの忘れ物だろうか。子どものこぶしほどのサイズの角のない丸い石だ。
「みなに聞いてみましたが思いあたる者がいなかったので、そのうち役に立つだろうとここに入れて忘れていました」
女房の一人がしげしげと眺め「川の下流か......海にあるような石ですね」と指先で少し撫でた。
「おかげで助かったのです。うっかりつまずいて足先をぶつけたのですが、尖っていたらケガをしていました」
「もっと落ち着いたらどうだ。いい年をして」
「いえいえ主人をボッチにする気はありませんよ」
失礼なセリフに眉をしかめつつ石に目をやったとき、ふいにわが身に戦慄が走った。
————赤い石。明石
源氏が須磨から移った場所が確かそこだった。私は食い入るようなまなざしでその石を見つめた。赤く塗られていること以外に不審な点、たとえば呪いの形跡などはない。
思わず手に取ってみた。ひんやりとして丸い。
「どうかなさいましたか」
不思議そうに女房が尋ねる。私は答えずしばらくいじり回した後に紙の上に戻した。
ーーーーそういえば、私に贈られていた造花の類は長い間絶えている。最後に届いたものは......日陰蔓だ
神事にも使い、五節の舞姫の飾りにも使う。頭の中で、何かがカチリと音をたてようとした。が、そこに女房の一人が礼を失するほどの早足で駆け込んで来た。
「大変です! 帝が源氏の君を都に召喚なさいました!」
「なに?!」
驚いて詳細を聞くが、彼女も詳しく知っているわけではなかった。慌てて先程の文を持たせて使者を走らす。私自身が走って向かいたい。だがそうもいかず、イライラしながら返信を待った。
息子の返しは優しく温かな言葉を連ねてはいたが、要するに新年に入って足かけ三年になるわけだから、合法的に源氏を呼び戻したということだ。いや全然合法的ではない。脱法、いや危険だからやめろと声を大にしたい。
また文を出したが、戻って来た使者の言うことには、帝の体調が悪いのでドクターストップで読んでもらえなかったそうだ。
眠れない夜を過ごした。充分に日が昇ってから内裏に人をやったが、帝は病というほどではないがまだ不調なので休まされているらしかった。
じりじりと日はたち夏が訪れやがて去っていった。秋に入って最初の満月もすぎ、下弦の月が輝く頃に再び源氏の元に宣旨(天皇の命を伝える公文書)が下った。彼は都に帰ることになった。
凍えるような冬の風が吹く神無月に、明石から戻って来た源氏主催の御八講(仏教イベント)が行われた。亡き院のためだったから歯がみしながら供え物を届けさせたが、正直いつぞやのいやげ物をとっておけばよかった。
————ついにあやつを制圧できなかった
並より下で大人しくしているならともかく、いけずうずうしく打って出て、それをまた世間がもてはやす。不愉快さのあまり体調が悪い。
————帝が回復したことだけはよかった
目の調子も戻ったようだ。やたら源氏を近づけることには腹が立つが、その点だけは安心した。
「世間では譲位なさるのではないかと噂されています」
「ありえない。まだ男宮は一人しかいない」
源氏の宮(現在の藤壷女御)の子は女だったし、先頃もう一人生まれたがその子も女だった。やたらに男宮の多かった院とは逆の状況に陥っている。
もっとも、院がたくさんの子を得たのは在位が長かったせいもあるので、同じほど帝でいればそのうち授かるかもしれない。
「それに今下りることは不利だ。源氏の力に圧倒されたように見られかねない。更に去年の大嵐の記憶も残っている。時期が悪い」
たまたま院の在位中は災いが比較的少なかったが、どんな名君の時だって来る時は来る。だがその記憶が鮮やかなうちに退位したら、印象が悪くなる。これが十年後だったら、誰もそんなことを覚えていない。
「どう考えても退位は帝のためにならない。お体も回復したことだし、院に負けないほどの長期政権を目指していただきたい」
彼のために切に願った。
また年が明け日がすぎる。寒気の中でりんと咲いた梅の花も、いつしか静かに散りはてる。それでも日の光は明るく、桜のつぼみは紅くふくらむ。
二月に春宮が元服した。十一歳だそうだ。人々は、年より大人びて美しい、源氏の君によく似ていると騒がしいが、私には無縁のことだ。
こんなことなら悪名を省みず、さっさとその地位を奪って八の宮でもつけてやればよかった。どうもしゃっきりしないタイプだが、こちらが自由に扱うにはその方がいいかもしれない。
————今更ムダなことだが
いや、そうでもないか。なんとか上手くトラブルを起こしてあの少年を春宮の立場から排除できないか。手の者を動かして付け入る隙をうかがっていると内裏から知らせが来た。
「帝が譲位なさいました!!」
「なにっ」
耳を疑った。慌てて人をかき集めて夜道を参内すると、全てことは終わった後だった。
「帝位のしるしの神璽も宝剣も、すでに新たな帝の方へお移しいたしました」と典侍が告げて頭を下げる。あまりのことに呆然と息子を見つめると、少し恥ずかしげに微笑んだ。
「このようなありさまですが、これからは心のどかに母上にお会いすることができますよ」
もう、何を言っても取り返しがつかない。私はぐっと腹に力を入れて人を払わせた。
もはや他人の場所である清涼殿に人はいない。それでも息子は夜の御殿(帝の寝室)に主然とくつろいで座っている。私はその前の茵に腰を下ろした。この場にいると院の面影を思い出し、すぐに呑み込む。彼は私をじっと見つめた。
「東宮は承香殿の生んだ私の子に決まっています。どうかご安心ください」
何をどう安心すればいいのか。できるわけがない。無意識に彼をにらもうとし、はっと気づいていたわった。
「急な儀式でさぞやお疲れでしょう。お体の具合は?」
「不都合は一切ありません」
「では今回のことは体調不良が原因ではないのですか」
「ええ。そもそも体調を崩しておりません」
わからない。いくらかは戻ったが三月半ばのあの日以来周りが驚くほどにやつれ、目を患っていたはずだ。
「それではやはり、院のことですか」
ただの夢だと片づけてしまった亡き院の啓示。その面影が彼の心を蝕んだのか。
ああ、あなたはそれほどまでに私たち親子が憎かったのですか。
「関係ないとは言えませんが、きっかけでしかありませんね」
彼は脇息にゆっくりと腕をのせた。臣下の者も、もちろん源氏さえもかなわないほど優美な様子だ。
「確かにあの夜、父上にお会いしましたよ。階(階段)の元に立っていました」
少し目を細めて二間(夜の御殿の東側の部屋)越しに外の方を向いた。
「ガンつけされたのですか」
噂のままに尋ねると、彼は首を横に振った。
「まさか。そのような方ではないことは、母上が一番ご存知でしょう。源氏や春宮のことを頼みたくて来ては見たが、たどり着いたところでそんな立場にないことをお気づきになったのでしょう。うつむいて、涙ぐんでいらっしゃいました」
きりり、と心の蔵が痛む。あの方が死んだ後まで苦しんでいると考えると、胸が張り裂けそうだ。
だが息子は優雅に微笑んだまま私を見ている。
「それであなたはどうしたのですか」
「ほっておいてもかまわなかったのですが、まあ親ですし『お心に添うようにいたしましょう』と告げるとまた涙をお流しになり、何度もうなずいてから立ち去られました」
呆然としていると彼は少しはにかんだ。
「欲望の露出には慣れないので照れますね」
「どういうことなのです?」
声を荒げると彼は、私に目をあてたままやわらかに答える。
「言葉どおりです。父上などどうでもいいのですが、無視するのも気の毒ですから」
「あなたは......いったい」
目の前で、誰よりも大切な息子が異形の怪物の顔をあらわにする。得体の知れぬ不気味なそれは、人よりもよほど優雅に微笑んでいる。
「実にすばらしい。母上、あなたは傷ついた顔をけして私に見せてくれませんでしたね。たくさんの表情の中それは父上のためだけのもので、私には分けてくれなかった。なんとか見せていただこうと手を尽くしましたが、他者に頼っても得ることはできませんでした。やはり本当にほしいもののためには、自分の手を汚すべきなのですね」
また同じ疑問を口にしようとして、はたと気づいた。たとえばあの中宮だった女が女御だった時、切馬道で出くわしてこらしめたことがある。その直後に息子から面会を要求された。
————あの時のことをあの方の企みだと思ったが、本当にそうだったのか?
あるいは中宮位を手にできぬと知った日。彼は弘徽殿近くの廊で待っていた。母を心配しての行動だと思ったが、そうだったのだろうか。
「あなたは............私が憎いのですか?」
院に尋ねたかったことをそのまま口にする。息子はまさか、と笑って否定した。
「私が愛しいと思えるのは、あなたと源氏の二人だけですよ」
「六の君は?」
「ああ、彼女がいましたね。他の人よりはずっと大事です。だけどあなた方とは比較にならない」
なんの濁りもない清らかな瞳に、あふれるほどの情愛がたたえられている。その名を呼ぶことさえ楽しいように、私とあの男の名を口にする。
「帰ってから何度も彼に会いましたが、やはり久しぶりの再会だった十五夜の宵が一番でしたね。恨みと自負と見下しと覇気が混ざりあって踊る生なライブ感は、こっちの方がドキドキするほどでした。ずっと眺めていたいという欲望が漏れだしていないかと恥ずかしくなったほどです」
「............」
「ああ失礼。母上の前でつつしみを忘れてしまうとは。ですが抑えきれませんね。強気な母上が私のためにこんな顔をしてくださるなんて」
あまり口数の多い方ではないはずの彼が、こうも言葉を重ねるのは、やはり何かにあたったのではないか。本日のメニューを確認するべきではないのか。
脇息にひじを立て、掌にあごをのせたために傾く体が、ぞっとするほど上品でなまめかしい。それは人にはあり得ないほどだ。
「私は、愛する者を傷つけることも逆に傷つけられることも大好きです。直接見ることができなくて残念でしたが、源氏は充分に苦しみました。次は......あなたの番ですよ、母上」
人ならざる優美さを持つ、最愛で最強で最凶の刺客が、すらりと抜いた刃を私の喉元に突きつける。憎しみの欠片もない優しい声が、院よりも甘く私を呼んだ。
連続投稿で次話があります