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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
70/89

明石

源氏二十七〜八歳

源氏側視点

 恋のゲームはやっかいで、軽く見ていた相手が鉄壁の守りを固めると、途端にどうにか攻略したくなる。課金システムがないことを感謝するべきである。


 楽の遊びをきっかけに、親公認で明石(あかし)の入道のお嬢さんをくどいていいことになった。最初源氏は都人のおごりそのままに「心細い独り寝の慰めにでも」と彼に伝えた。


 入道は喜色満面だったので、次の日の夜にでも夜伽(よとぎ)に来るのかと思った。だが来ない。

 相手は姫君のように大事に育てられている。さすがにそれはあんまりだったかと反省し、山辺の邸に「思っている」と手紙を出した。噂どおりなら(ひな)に埋もれた美女かもしれないと、高麗(こま)胡桃(くるみ)色の紙に歌を詠んだ。まあ、芸能人のファンサービスくらいの気分だったことは否めない。


 返事は来た。だが受け取って仰天した。娘ならぬ入道その人からの返事だった。


「恐れ多いことに、あまりのお文のすばらしさに娘はビビってしまったようです。でも、心はあなた様と同じだと思います。好き者めいたことを申しましてすみません」


 立派なみちのく紙に、古風だがなかなか上手い字で堂々と書いてある。こっちがビビるわ、と源氏は思った。使いの者は、ごほうびに入道からすごく立派な()(女性のつけるヒラヒラ)をもらっていた。その女っぽいさずけ物にも悪い意味でくらくらきた。


 次の日は「代筆には慣れていません。落ち込みがちな私に、どうしてと尋ねてくれる人もいないのですね、と言いたいけどまだ言い辛いな」と今度はふんわりとやわらかな薄様(うすよう)にとても綺麗に書いた。


ーーーーよし、いける。これならイチコロだ


 今度は返事が来た。香を深くたきしめた紫の紙に「私を思うなんてどの程度? まだ会ったことさえないのに」と書かれている。高貴な人にも劣らないような書きぶりだ。


ーーーーなめすぎてたか


 都人でもこれほどのセンスの持ち主はめったにいない。かわいいだけの田舎の女の子と甘く見ていたら、知性高く趣味のいいレディだ。すぐに返事を出したくなるが、がっついていると思われたくなくて、二、三日間をおきつつ、つれづれなる夕暮れ、もの悲しい明け方などにこっそり文を送る。


————だけどさ、良清(よしきよ)がくどいてた子だろう。ちょっとどうかな。長年気があったのをかっさらうのも悪いし


 一応は考えるが「女の方が進んで来たらいいわけができるし」と逃げ道も見つける。しかし女は来ない。お高くとまっているように見える。

 ちょっと苛ついて、折れてくれない女ではなく気心の知れた紫の上を都から呼びたくもなるが、負けたままでいるのは気が進まない。



 夏が過ぎて秋になっても、二人の関係は動かない。浜風は日に日に寂しく、入道に何度も「娘をこっそりこちらによこしてくれ」と頼むが、親はともかく彼女は承知しない。


ーーーーこれが、全くその気がないのならあきらめるのだけど


 彼女に気持ちがないわけがない。文の端に自分への——そして都への憧れが滲む。そう育てられたのだ。そして入道の思う以上に育ったそのペシミスティックな知性は、自らその憧れを切り捨てようとしている。


————そんな必要はないのに


 都からすれば辺境の地でぎりぎりまで磨かれた玉が、自分の意思で砕けることを見過ごしていいわけがなかった。


————私の負けだよお嬢さん。私という最上級の存在を知った君が、他の男で満足できるわけがない。私は君を救うために、自分のプライドを代価に払うよ


 十三日の月が華やかに昇った。源氏は身なりを整え、馬に乗った。さすがに良清をつきあわせる気にはなれず、惟光(これみつ)と元将監(じょう)が供をする。


 山辺を目指して馬を駆る。紫の上の面影が胸をかすめるが、歌にだけ託してとりあえずは忘れる。


 お堂の鐘が松風に響く。虫の声もそれに混じる。あの、野宮(ののみや)の別れをなぞるような秋のもの悲しさの中を、出会いのためにひた走る。


 丘の上にある邸は、海の邸よりも木が多くしゃれている。磨き立てたような素晴らしさで、(まき)の戸口が少しだけ開いている。入道の配慮だ。

 そこを通って娘に会った。


「どうでした?」


 惟光が尋ねると源氏は「伊勢の御息所(みやすどころ)に似てる感じ」と答えた。


「いい意味でね。ちょっと背が高いけど、こっちが恥ずかしくなるほど上品だ。フリーだったら一番に考えたかもしれないよ」


 だけど自分には残して来た人がいる。それを思うとあまり堂々とは通えず、人目を避けて忍び込む。

 いっそ価値のない女だったらリゾートラバーと割り切れるのに、あの高雅な御息所を思い出すほどの人だ。惹かれそうになる心を抑え、救いを求めて紫の上に文を書く。


 全く嬉しくないカミングアウト。一見穏やかなのに実は叫ぶような彼女の返歌を見て、しばらく女の元に通えなくなる。なのに女は見苦しく騒ぐこともなく自分を抑制している。


————理性的な人だ


 初めのうちはこんな風に落ちぶれた自分を馬鹿にしているのではないかと疑ったのだが、通い慣れた今はわかる。彼女は自制心の固まりだ。

 だけどそこに物足りなさを感じないわけではない。もっと自分に溺れて取り乱してすがってくれればいいのに、と。


 そもそもの始まりがその父の熱望だ。自発心に基づかない恋愛に拒否感を抱く源氏は、女の価値を認めながらも、感情に薄絹が挟まることを否定できない。聡い女はそのことを悟り、自分の方からも薄絹をまとう。


 薄い(とばり)ごしの恋の均衡を破ったのは、都からの宣旨(せんじ)だった。



 今年に入ってから、何かの啓示と思われる事象が多かったが、三月十三日、帝の夢に故桐壺院が現れたという噂が流れた。


 本当のことかどうかはわからない。だが人々は、ご機嫌の悪い院が帝をにらんだ、などと囁きあった。事実、帝は目を病んでいるらしく、極上の紅絹(もみ)を目にあてている。


「雨など降って空が乱れた夜は気が弱るものです。しかしそれはただの夢です。軽々しく驚くことではありません」


 気丈な大后の言葉も世に伝わる。揺れがちな人の心を抑えようと、物忌(ものい)みもたくさん行われる。だが、とりかえしのつかないことがおこった。大后の父、太政大臣(だじょうだいじん)が死んだのだ。


「その後、あの大后が体調崩したって都で評判らしい」

「鬼のかくらんってやつか」

「たたりじゃないかって言われてる」


 明石でも文が届くたびに噂が広がり、年が変わってからも増えていく。それは、次の代のことまで取りざたされるほどになっていた。


 帝はすでに男宮を得ている。母は現在の右大臣の娘の承香殿(しょうきょうでん)女御(にょうご)だ。現在二歳。こちらを次の帝にするには幼すぎる。

 もし代を替わるのなら現春宮(とうぐう)に譲るだろうという推測も出始めた。ただし大后は絶対に許さないだろうとも言われている。


「最新情報では、去年から帝や大后がもののけに悩まされていると」

「それ、絶対嘘ですよ。あの大后の周りにもののけが出るわけがない」

「たぶん本人のスタンドですよ、それ」


 噂も半信半疑で流れている。ただし一度は回復した帝の眼病が、最近再発したことは信憑(しんぴょう)性があるらしい。


「また、紅絹を目に巻いていらっしゃるそうですし」

「それは気がかりだな。我々は何も帝の不幸を願ったりはしていない」

「だけど、恩赦かなにかで戻れないかなーとは思いますね」


 と、願望を垂れ流していたら本当に帝の許しが出た。だが大后が承知していないらしいので、念のために遠慮していたら、七月二十日すぎに、重ねて帰京を促す宣旨が出た。


「ありがとうお兄ちゃんっ!」


 もっともらしい顔をして使者をもてなし、田舎暮らしの染み付かぬ貴公子ぶりを見せつけたが、帰った途端に扇と(しとね)を投げ上げて喜んでいる。

 一通り大騒ぎした後に「だけどもっと早く呼び返してくれればいいのに」と不満が出る。


「というか、都落ちをほのめかした時になんとか止めてくれればいいじゃないか」

「まあまあ。お身内があれじゃ無理だったのでしょう」


 惟光が源氏をなだめるが、彼は急に不満がつのって来たらしい。


「だって今みたいにやればできるはずだったんだ。彼は国の頂上にいるのだから、その気になれば止められただろうに」

「状況もあるのでしょう。きっと深いお考えをお持ちなのですよ」


 将監も優しい声で諭すが、源氏は更に言いつのろうとした。が、複雑な顔で良清が「とすると、こちらの君とはお別れですね」というのを聞いて顔を曇らせた。


 明石の君は先月から調子を崩している。どうやら、妊娠したらしい。


「できるだけ会ってあげなきゃ。これから行くから仕度して」


 彼女のことで胸がいっぱいになる。従者たちは「やれやれ。またか」とめんどくさそうな顔をした。与えられると引くのに、難しそうな相手にはムキになる癖をある程度は知っている。


「今までは人目をはばかるように通っていたのに、別れるとなったらああもべったりだからね。女の方もたまったもんじゃないだろう」

「長いつきあいでもないと思ったが、そういや昔北山で、ここの人のことを聞いたんだった。けっこう長いな」

「良清がそこにいるからやめてやれ」


 ぶぜんとした面持ちの彼に気をつかって話題を変えたが、当の本人は更にむっとした顔で場を離れた。「ありゃ恨んでるだろう」「だろうか」と、他の従者は小さく囁きあった。



 明後日に出立だ。夜更けに女の元を訪れた源氏は、今までは恥ずかしがる相手に合わせて無理に灯りに照らし出すことはなかったのだが、今宵ばかりははっきりと彼女を見た。


 上品で気高く、目が覚めるほどイケてる。置いて帰るのが惜しくなった。そのうちあちらに迎えようと考える。


 女の方も、面やせした源氏の美しさに息を呑んで見入っている。

「こんな方に会えただけで幸せだわ。これ以上望むのはわがままね」と、いつものように自分を抑えた。


 秋の風に波の声がことのほか響く。潮焼く煙が微かにたなびいて雰囲気は高まる。


 源氏の誘いで女がほのかにかき鳴らす(そう)の琴の音はすばらしく、源氏ランキング一位の入道(にゅうどう)の宮の今どき風の華やかな音とは違い、澄みきって心憎くねたましいほど冴えた音だった。


「これほどの名手だったとは。どうして今まで、無理にでも弾いてもらわなかったのだろう」


 後悔するほどの音色に、心の限り将来を誓う。あの寂しい須磨の暮らしをわずかに彩ってくれた(きん)の琴を彼女に贈り「この音が変わってしまう前に必ず君に会うよ」と約束した。



 都へ旅立つ明け方は落ち着かず、源氏は人を介して彼女に文を送った。

 すぐに戻った返しは「あなたが行ってしまったらうちのあばら屋も荒れるでしょうから、帰る波の中にわが身を投じてしまいたい」と切なくて、源氏は涙を抑えきれなかった。


 事情を知らない人は「そんなものですかな」と見ていたが、良清たちは「かなり本気なんだな」と小憎く思った。


「モテモテ憎い」

「いや、あんたらだってけっこうモテてたじゃないですか」


 なにせ女っ気のない須磨から来て歓待されたから、ほとんどの男たちは明石の女房をくどき、彼女たちも都下りのイケメン集団として歓迎した。


「そうだけど、期間限定恋愛なのは互いにわかってたし」

「ああ。こっちだって都に連れて行くほど本気じゃないし、相手だって親兄弟を捨ててまでは来てくれない」

「俺は連れて行くつもりだったよ。彼女も来てくれるって言ってた。だけど帰京が本当になったら、やっぱり行けないって言われた」

「俺は逆だな。一緒に来る気になってたから、ごめん、あちらに妻子がいるし、これ以上は女房も増やせないって断った」


 だからこそ京に迎えたいとまで思う女を得て親にも許されている、というか推奨されて子さえ設けつつある源氏はなかなか憎たらしい。


「だけど向こうには身分もある女君も多いわけだから、まあ、忘れちゃうだろうな」

「忘れはしないだろうけれど、呼びもしないよ」

「この方はそういう人だものね」


 ひそひそ語っていた従者たちも出発の時刻となり動き始める。明石の入道の用意してくれた旅の装束(しょうぞく)は目新しく、とても立派だ。他にもたくさんの衣装箱や、都の土産にふさわしい贈り物など、趣きある品が考えつく限り用意してある。


 源氏は明石の君と衣を交わし合い、互いにエールを送って旅路についた。



 二条院についた時は、今度はいい意味で夢のようだった。会えなかった日々が紫の上を育て、しっとりとした大人の女性に変えていた。多すぎるほどだった髪が少し落ち着いて、だけどほどよく美しい。


「こんなに綺麗になっていて。今まで会えなかったのがくやしいよ」

「どういたしまして。あちらの人にもそう言ったのかしら」


 ほのめかす態度もかわいくて、源氏は彼女を抱きしめた。

 言葉がすべて涙に変わる。腕の中の温もりがいとおしくて、永遠に時を止めてしまいたかった。彼女も熱い涙をこぼし、隔てられた時の長さを一瞬で溶かした。



 すぐに源氏は元の位に戻り、間を置かずに昇進して権大納言(ごんだいなごん)になった。従者もみな、元の身分に戻してもらった。


 帝に呼ばれて内裏(だいり)に上がる。以前よりも苦みばしった男ぶりに「田舎にいたなんて思えない」と人々が囁く。古くから勤める女房たちは特にやかましくもてはやす。


 帝はいつもより装束を整えて、少しはにかんだ笑顔で迎えた。体調が悪かったのか、かなりやせている。


「兄上、お久しぶりです。ご気分はいかがですか」

「昨日今日はだいぶいいよ。君の方は?」


 長かった留守の間をしめやかに語り合う。十五夜の月が雰囲気たっぷりに昇り、静かに光を投げかける。昔のことがいろいろと思い出され、帝は涙で袖を濡らした。


「ここのところ音の遊びなどもせず、昔聞いた楽の音も長く聞かないよ」


————あなたが私を守ってくれないから


 恨みが氷の刃に変わって口をつく。


「海原に沈んでうらぶれた蛭子(ひるこ)のように、足の立たない年月を過ごしました」


 国の神の二神、いざなぎ・いざなみが最初に生んだ子は三つになっても歩けなかったので、葦舟にのせられて海に捨てられた。私は無力だったから、神であるあなたに捨てられた。源氏はそうあてこすった。


 帝はやはり、少しはにかんだ顔で彼を見つめた。


「伝説の二神も宮柱をめぐってまた会えたのだから、別れた春の恨みなんか残しちゃいけない」


 そう言って微笑む帝は、そのまま春の恨みの具現化のように、優美さともの憂さをその身に備えてひどく悩ましく見える。

 源氏はその様に目を奪われ、皮肉った自分が急に恥ずかしくなって下を向いた。



 世間は平気で主人を変える。そのことをけして恥じたりはしない。右大臣家におもねっていた人々は、号令でもかかったように源氏一派におもねりだした。

 特に彼と結びつきの深い惟光や良清や右近将監などは”奇跡の四、五人”としてもてはやされる。


「人生第二のモテ期が来ました」


 良清が報告に来て源氏は口元をほころばせた。


「そりゃよかった。じゃ、以前のことを水に流してくれないか」


 彼が急に表情をなくしたので、源氏はひやりとした。急ぎすぎたのかもしれない。だが良清は落ち着いた声で「最初から恨んでませんよ」と答えた。


「恨んでいると思われることの方が心外です」

「だけどおまえが気にしてた子なんだろう」

「ええ、そうです。だけど殿、あなたはどんな女が好きですか」


 急に尋ねられて目を白黒してしまう。良清は無理に聞き出そうとはせず、視線を遠くに向けた。


「わたしはわたしのことを想ってくれる人がいいんです。身分や容姿よりそこが一番なのです。わたしだけを見て、わたしだけを好きでいてくれる人がいいのです。明石の彼女はそういった気持ちを抱いてくれませんでした。だから、もう惜しいとも思っていません。殿のお相手の一人として大事にしようと思うだけです」


 なんだか胸に響いた。良清は一礼すると、源氏がやることを決めた故桐壺院追善のための御八講(みはっこう)(仏教イベント)の用意について質問した。


「華やかに。だけど品よく」


 再デビュー戦だ。都を驚かすほどにやってやる。源氏は気合いを入れて取り組んだ。そのため、春宮や入道の宮には対面したが、その方々と自邸に住む紫の上以外は文だけを交わすこととなった。


————遠くにいる明石の君はともかく、五節(ごせち)の君や花散里(はなちるさと)は恨んでいるかな


 それでも今は改める気がなかった。源氏は頂点に限りなく近い立場を目指した。二度と他者に侮られ、おとしめられることのない立場を。


————誰かにすがって、そのお情けで保てる位置はイヤだ。帝でさえ揺るかすことのできない、そんな立場になってやる


 恩賜(おんし)の御衣には頼らない。そう決めて彼は、獣のような瞳で宙をにらんだ。




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