衣装
光源氏7歳
弘徽殿視点
夏は去り、秋の気配が訪れ始めた。
弘徽殿の細殿の磨き上げた床はいつの間にか温もりを失い、上を通る女の衣を冷やしている。
前栽(平安花壇)の萩の花も、白玉を重ねたように開きかけている。
孫廂に置いた淡い色合いの几帳を風が揺らす。
あの更衣が死んだ季節も過ぎた。
長く続いた法事に倦み果てたのであろう、二の宮がその几帳をくぐり更に御簾内に入り込んできた。
「何か一曲弾いていただけますか」
無礼も詫びずにわが膝元まで侍り、袿の袖をつかんだ。普段のこやつと様子が違う。
失われた女への仏事は必要であろうとも子供の心を蝕む。
どんなに徳のある坊主の読経であろうと、やわらかな少年の心は重いものを押しつけられて萎縮する。
「……いいだろう。どの楽を選ぶ?」
尋ねると少し考えて琴の琴を選んだ。
「あの、かそけき音が好きなんです」
華やかで明るいこの少年の一面がひどく淋しいものであることを伝える一言。わが息子もその音を好んでいる。
黄昏を音に変えた。
夜の帳が下りるまえの全ての時が止まったような景色を、細く微かな儚い音に閉じ込めた。
少年は脇息にもたれて聞き入っている。
その瞳にはいつしか小さな萩の花のような滴が宿り、したたり落ちる。
私は声をかけない。
東の空から月が上った。
澄んだ光がけざやかに辺りに満ちている。
御簾内まで照らすその光に少年の姿まで濡れたように見える。
いつしか彼はそのまま眠ってしまった。
このまま寝かせてやってもかまわないが、あちらの女房が心配するだろう。
桐壷の方に人をやった。
やがて、女房が三人弘徽殿に現れた。
大殿油に女の影が映し出される。
穏当に謝辞を述べる彼女たちは零落を感じさせぬ落ち着きと品を見せたが、それでも私は気づいてしまった。
みすぼらしい。
表着はどれも見覚えのあるものだし、その下の袿も親しみやすいの段階を通り越している。
糊気が取れてくったりとした萎え衣は魅力があるが、彼女たちのものは貧相の域まで達している。
そういえば二の宮自身が身につけているものもあまり上質のものではない。とはいえけして後ろ指を指されるほどの品ではなかった。
後見の薄い皇子ではあるが主上の秘蔵っ子でもある。源氏に下ることが定められてはいるがそれまでは彼が面倒を見るだろうし、右大弁が仮の後見として奉仕してもいる。
だがしょせん細やかさに欠ける男の視線だ。女房たちの装束にまでは気が回っていない。
桐壷の女房たちはもともとあまり時流に乗る者がいなかった。
それはそうだろう。この弘徽殿の女御がつかさどる後宮に、何の頼りもなく乗り込んできた弱小の更衣に仕えた者どもだ。家柄はいいが政局など読めない親を持つものが多い。肝心の更衣が身まかってからは気を使ってくれる者も少ない。
夫を持つ者もいるが、今最も時めく右大臣の娘であるこの私に逆らう立場を望む夫などいないだろう。私自身は小者など敵とさえ思わぬが、そうは見ぬ者が多い。
少し対応に苦慮した。
主上に忠告すれば大事になりそうだし、右大弁に告げればそのことに気づかなかった自分を責めて彼が落ち込みそうだ。それに私が言えば強大な力に驕った嫌がらせと受け取られるだろう。
考えたあげく息子を呼んだ。
梨壺から先触れがあり彼が渡ってくる。
いつも通りの穏やかな顔で。
「母上からのお召しとは珍しいですね」
「相談したいことがあるので」
「どのようなご用でしょう。どんなことでも母上の意に沿いたいと思います」
東宮と決まってから更に大人びた気配がある。それでもこの私にも自分の父にもけして逆らわない。
ただし、柳に風と受け流すことも上手い。
「源氏の女房のことです。身に着ける物が古びているので」
「わかりました。すぐに女官に取り計らいましょう。血のつながる弟への好意といった形にして目立たぬように口止めします」
一見、優柔不断に見える彼だが決断すべきと判断した時は速い。それはさすがに速さを特徴とする右大臣家の血だ。ただしその様は他者には見せない。おっとりと鷹揚な態度を期待される立場だとよく理解している。だから私もその必要がある時は表に出て、この私が迫ったように見せかけることが多いが今回は逆だ。
「私は女の衣を選ぶことは好きです。あの桐壷の者たちには艶よりも品位を核とした衣装で装わせたいですね。ちょうど季節も変わり目だ。もの淋しい秋の気配を漂わせたしめやかな色合いを選びましょう。あの場の雰囲気にきっと合うでしょう」
息子は女めいた事柄の好みには卓越した感覚を持つ。それよりもう少し漢籍を極めろと、親としての私は言いたいが。
「これを機会に光に衣の選び方を教えておきますよ。楽しいものですよ、それぞれの女性の特質に合わせて選ぶことは」
「それはけっこうなことだが、あなたが私にお選びになる時はえらく威厳に満ちたものを勧めますね」
にこにこと、彼は微笑む。全く邪気を感じさせない顔で。
「それはそうですよ。母上はそれがお似合いになる。お召しになる赤を染める時は通常よりも紅花を使うように私が命じておきました」
「えらく鮮やかだと思ったらそんなわけがあったのですか」
御簾越しにもえらく際立つらしく、息子の選んだ衣を着るようになってから人々の平伏する様が激しい。
「そのような贅沢をするつもりはありませんが」
「他の方は色に負けてしまって着こなせませんよ」
息子は嬉しそうにしている。無理に留める気にはなれなかった。
やがて見かけた桐壷の女房は控えめだが品のいい衣装で、息子の趣味に感心した。
だが毎回彼に気を配らせることも本意ではないので、飛び込んできた二の宮に説教した。
「……お前の女房たちはなかなか出来がいい。だがあまり財に富む者はいないし、余裕があったらお前のために使おうとする」
人を遠ざけた弘徽殿の御簾内で、彼は円座の上にちょこんと座っている。
「だから、あの者たちの暮らしはおまえが気をつけてやらねばならない。いいか、将来妻を持つ時のための気がまえのためにも言っておく。女の衣食のことは最大限に気を配れ」
大人しく聞いていた二の宮が首を傾げた。この時代、むしろ女が男の暮らしに気を配ることの方が当たり前だ。
「それって逆じゃないのですか」
「いや。私のようにあらゆる意味で主人たる資格を持った女など他にはいない。男の方が気を配らねばすぐに女など身も心も衰える。よっぽど浮世離れしていない限り貧乏は女の心まで喰らい尽くすのだ。女の矜持を保つには暮らしの安定が必要だ」
二の宮は不思議そうに、でも素直に聞いていた。幼い少年は何事も自分を育てる糧とする。特に反発することもなく世間とは逆の私の意見を取り入れた。
「そう。その女の本質を見極めて選んであげるといい」
「兄上はそれがわかるのですか? 私にはまだわかりません」
前触れを出さずに静かに梨壺を訪れた。母である私はそうすることができる。
空気の澄みきった秋の昼下がりで、北廂に着くと息子と光の声が聞こえた。壺庭に植えられた木の陰で二人が話している。
私は女房たちを後退させ、自分も黙ってそれを聞いた。
「明るい方だとか大人しい方だというぐらいはわかるだろう。判断したら次はそれを色に変えてみるんだ。たとえば、若く明るく華やかだけど、しっとりとした趣に欠ける方がいたとしたら色は何にする?」
二の宮は少し考え、答えた。
「……山吹色?」
「うん、いい答えだ。本当のところはその人の姿や肌の色を見なければ決められないけれど、すごくいい答えの一つだと思うよ」
誉められて光が少しはしゃいだ声を出す。
「嬉しいなあ。もっと聞いてください」
「そう。じゃあ、すごく気品のある雅な女性」
「うーん、難しいなあ。どの色でも似あうような気がするし」
「そんなときは襲で考えるといい」
「それなら、白と濃い紫の襲がいいな」
「ああ、確かに品があるね。光は趣味がいい。それじゃ今度は実際にいる人で選んでみようか。うちの母上にはどんな色を選ぶ?」
尋ねられた少年は悩む間もなく瞬時に答えた。
「赤! それも通常より色濃い真紅で大きめの紋がくっきりした浮線綾!!」
息子が応える。
「同感。くっきりとした色合いが似合う」
「でしょう。…………私の母上はどんな色が似合ったのかな」
声が沈む。息子が穏やかにそれを癒す。
「お会いしたことはないけれど、繊細な雰囲気の美しい方だと聞いたことがある。優しい色合いが似合ったのかもしれないね」
「仕える古参の女房によると、見かけよりもいさぎのよい人だったらしいです」
「それを色で表すのは難しいね。色を選ぶ時は他との対比によって決めたり、わざと真逆のイメージの物を合わせたりすることもあるけど………」
音をたてないようにもと来た道を引き返した。
「確かに赤はよく似合います。でも私は決まりごとがなかったら女御さまにはもっとよく似合う色があると思いますが」
帰り着いた弘徽殿で、乳母子は息子たちとは別の見解を述べた。
「ほう。どんな色だ」
「言うまでもありません。高貴な色です」
「紫か?」
「いえいえ」
「まさか麴塵とか黄櫨染だとか言い出したりはしないでしょうね」
「それはさすがに恐れ多い。でも方向性は近いですね」
「黄丹? 東宮の色は彼の物でしょう」
「いえ違います。黄金です」
……ちょっと前につんのめりかけた。
「坊主の袈裟ではあるまいに。おまえの趣味は過剰に過ぎる」
「そんなことはありません。至高の方にふさわしいのは至高の色です」
「そんな大げさな色は絶対使わないから」
彼女は残念そうに私を見た。
「獅子とか、鳳凰とか麒麟みたいで素晴らしいでしょうに」
「他はともかく獅子とはなんです、獅子とはっ」
「百獣の王ではありませんか」
乳母の目の中のからかいの色に気づいて、ちょっと睨む。
彼女はすました表情を取り繕った。
主従の要素を含むとはいえ、息子と光の関係性は私と乳母子とはだいぶ違う。
それでも次世代を担う彼らが、気を許しあい仲良くなってくれればいいとその時私は考えていた。