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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
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源氏二十七歳

源氏側視点

 雨はやまない。風もおさまらず猛々しい声をあげる中、時々雷が全てを引き裂く。天界の水が尽きそうな程なのに、何日も様子は変わらない。


————もういっそ、もっと深い山の中に逃げてしまおうか。それとも京に戻ろうか


 先行きは見えない。過去だって遠い。源氏はいつものように強気になることができなかった。


————いや、ダメだ。まだ許されてないから帰ったってバカにされる。波風に負けた弱虫って言われたくない


 逃げることもできずに、格子(こうし)を下ろした暗い部屋にばかりいると気が狂いそうだ。いやもう、おかしくなっているのかもしれない。眠るたびに以前と同じ得体の知れないものを見る。それはストーカーのようにまとわりつく。


 雲の晴れ間もなく、その上(ひょう)まで降ってきた。屋根の一部が破れて雨漏りが激しいし、雷も時おり吠え声をあげる。(しとね)几帳(きちょう)もタタミも全てが湿気っている。


————都の方はどうかな。みんな無事かな


 なんの情報もなく、心配がつのるばかりだ。こんな風に自滅して行くのかと自嘲する。

 誰も来ない。誰も心配してくれない。あれだけ都でもてはやした人々も、源氏など存在しなかったように思っているのだろう。大殿油(おおとなぶら)だけが頼りの薄暗い部屋で、陰鬱な気分をつのらせている。

 そこへ、惟光(これみつ)が駆け込んできた。


「二条院から文が届きました!」


 直接都の話が聞きたくて、使者の男を呼んでもらう。ぬれねずみのひどい姿だが、都人というだけで慕わしい。われながら、落ちたものだとため息をつく。


「あきれるほど雨がやまないの。心ばかりか空まで閉じちゃった気分で、どちらを眺めればいいのかしら。でも、須磨の浦風はどんなに吹いていることかしら。想像すると泣けちゃうわ」


 紫の上からの手紙を読んでいると、水位を上げそうに涙が流れる。袖を濡らしてそれを止め、従者に命じて使者の男に都の様子を尋ねさせる。高貴な人に慣れぬ下人は、ぽつぽつとそれを語りだす。


「京でもこの雨風は何かのお告げではないかと噂になり、邪を祓うために仁王会(にんのうえ)をすると言われています。でも、あまりにひどい天気で、上達部(かんだちめ)が出勤できなくて、(まつりごと)も中断されています」


 源氏の従者もほとんどがそこに控えて、都の男の言葉を聞いている。仁王会は、国家の平安を祈る仏教系イベントで、複数の場所で同時開催される大掛かりなものだ。


「ええ、雨風はずっと続いてみんな脅えています。ですが、こちらのように彪が降ったり雷が鳴り止まなかったりはないです」


 精も魂も尽き果てたとばかりに、彼は頭を床にこすりつけた。それと同時にまた、雷鳴が鳴った。


————このように世は滅びるのか


 閉ざしてあっても、破れ目や隙間から稲光が見える。ぞっとするような光景だった。



 次の日は明け方から更にひどい天気になった。風は今までよりも凄まじく吹き付け、潮が高く満ち、波の音の荒々しさは巌も山も砕きそうなほどだ。


「格子を上げよ!」


 源氏は震える男たちに命じた。


「風が強すぎる。このままでは家が吹き飛んでしまう。風の通り道を作った方がいい!」


 言葉に従った途端に雷鳴が轟いた。全員が上に落ちたかと思って身を伏せる。辺りは白く光っている。

 顔を上げるとまた鳴り響く。

 一瞬の後の静寂。身を震わせた従者が言葉を吐き出す。


「われらはどんな罪を犯して、こんな目にあってるんだ!」

「両親にも会えず、愛しい妻子の顔も見れず、こんなところで死ぬのか......」


 屏風(びょうぶ)や几帳はぬりごめに片づけてあったが、残された御簾(みす)が風に吹き飛ばされる。部下の烏帽子(えぼし)もいくつか飛ばされ、一つは源氏の頬をかすめた。


————どんな罪でこの海辺で死ぬというんだ。そんなわけがない!


 必死に強気になろうとするが、それでも罪がないとは言えなくなっている。源氏は隣で壁のようになって彼を守る惟光に、叫ぶように命じた。


「倉から絹を取り出せ! 神に捧げるっ」

「わかりました! これ、おまえたちッ」


 惟光が叫ぶが、部下も下人も誰一人動けず震えている。また、稲光がした。

 鳴り終わっても、耳を押さえてうずくまったままの男たちの中、一人だけが立ち上がった。


「......わたしが行きます」


 良清(よしきよ)は鍵を受け取ると、片手で壁を押さえながら風雨の荒れ狂う外に出て行った。


 やがてその身に抱きかかえるようにして、いく本もの高価な巻き絹を持って帰ってくる。中にいる男たちもびしょぬれだが、良清は烏帽子を飛ばされ、元取りの紐も切れて髪は逆立ち、幽鬼のような姿だ。そのままうやうやしく源氏に絹を捧げる。


「......これを」


 源氏はそれを受け取ると顔より高く掲げて、高欄(こうらん)の辺りまで出て行った。


「住吉の神よ! 辺りを(しず)めなさるまこと仏の変化の神なれば、私たちを助けてください!」


 吹き付ける風の中に巻き絹を投げると煽られて、絹は長く広がり、生き物のようにその尾をくねらせる。まるで色とりどりの龍のようだ。それは地に落ちる様も見せず、そのまま庭の上空を舞っている。


 強い声で源氏は祈り、それに励まされて男たちも這いずるようにして簀子(すのこ)まで出てきた。声を合わせて仏や神に念じる。


「この方は、ロイヤルな生まれをいいことに贅沢の限りを尽くしましたが、根はめっちゃいいやつなんです! 日本中の気の毒な人をたくさん救いました! なんの因果でこんな波風に溺れているのでしょう。天地神明、ことわりを正したまえ!」


「罪もないのに罰があたって、官位をとられ家も都も離れ、昼も夜も悲しんでいるのに、これ以上はあんまりじゃないですか。この人そんなに悪いことしたんですか! 神さま仏さま、どうか助けてあげてください!」


 こちらが住吉神社と思われる方を向いて、必死に祈る。他にも海の龍王からなんから、思いつく限りの神にも祈願する。

 なのに雷はいよいよ鳴り響き、ついには天も地も裂けたかと思うほどの爆音が響いて、寝殿(しんでん)につながる廊に落ちた。


「すぐに殿を!」

「だがいったいどこへ?」


 元右近(うこん)将監(じょう)がさっと背を向けた。


「お乗りください!」

「え、でも......」

「火がッ! 廊に火がついたぞ!」

「潮が押し寄せてくる!」


 焔が立ち上るのが見える。逆側の遠くに、信じられないほど高い波も見える。

 源氏はあきらめて将監の背に体を預けた。


「でもどこへ?」

「裏だ! ついて来い!」


 惟光が勇ましくみなを誘導する。どんな秘密基地かと思ったらただの大炊殿(キッチン)だった。そこへみんなが詰め寄せて、上下の区別なく泣いたりい騒いだり、カオスな状況である。

 空は墨を流したように暗く、そのままいつしか日も暮れた。



 夜更けにようやく風も落ち着き雨もやんだ。雲の挟間から星の光が射す。


「高貴な方をこんなひどい所に置くのはどうも」

「しかし寝殿はもっとひどい。焼け残った部分もエラい状態で、おまけに人が踏み散らかしている。御簾の一つも残っていない」


 みながひそひそ語り合っていたが、惟光が「今夜はここにいていただこう」と決断したので静まった。


 火炉(かろ)(平安レンジ)や(こしき)(平安蒸し器)と夜を過ごすのは初めてである。思えば末摘花(すえつむはな)の邸でさえここよりはマシだなあ、と源氏は辺りを見回した。

 

 仕方がないので経を唱えてみたりするが、やはり気は落ち着かない。

 そのうち月が出てきたので、柴の戸を押し開けて外の様子を眺めに行く。潮が近くまで来た後も生々しく、寄せる波はまだ荒い。


 ビビった近隣の住民も「えらい人のいる所だ」と集まってきていて、いつもより聞き取れないような言葉で話している。


「この風がやまなかったら高潮が来て全部呑み込まれただろう、神の助けはハンパない、と申しております」


 良清が通訳してくれる。内容を知ってぞっとする。とりあえず神さまへの礼のために一首詠み、キッチンの奥に戻った。疲れきっていたので、つい物にもたれて座ったままうとうととまどろんだ。


 海のにおいがしたのは錯覚だろうか。またあのもののけめいたものがいるのかと脅えつつ目を開けると、在りし日のままの故桐壺院が彼を見下ろしている。呆然と口を開ける源氏に彼は


「............なぜ、こんな見苦しい所にいる?」と尋ね、手を引いて立たせた。


 話の腰を折って申し訳ないが、このシーンは源氏物語の白眉の一つだと思う。理由は、一つの場面なのに全く違った読者の視点に対応しているからだ。

 つまり、感動系を期待する層はここで「よかったね、源氏。やっと救われるね」と父の愛をかみしめ、笑いの感覚が強い層は「ちょ......都にいたはずの貴公子と亡き父との感動の再会シーンが台所かよ」と腹を震わせる。全く好みの違う同士が互いに喜びを共有することができる。

 セリフもいい。自然な感じだが「そら、聞きたくもなるわな」とおかしくもある。式部先生の天才性を示す奇跡のシーンである。


「住吉の神が導くままに、早く舟出してこの浦を去りなさい」


 そう言う父の声は優しくて、源氏は無性に甘えたくなる。


「父上とお別れしてから悲しいことばかり多くて、私はここで死んでしまおうかと思います」


 院は憂いのこもった目で彼を見た。


「それじゃダメだ。これはちょっとした報いなんだ。私は位にある時、大きなあやまちはなかったけれど、知らない間に犯した罪があったから、その罪を償うために暇がなくて、この世を省みなかった。だけど、君が悲しむのを見て、耐えられなくて海に入って渚に上がった。凄く疲れたけれど、このついでに帝に言わなければならないことがあるから、急いで都へ行くよ」


 そのまますうっ、と立ち去ってしまう。源氏は悲痛な声で「お供させてください!」と叫ぶが、見上げれば人影はなく、月の光だけが残されていた。



 そのまま眠れず明け方近くになった。

 海の遠くに舟影が見えて、それがだんだん近づいてくる。やがてそれは渚にたどり着き、二、三人ばかりの人が、この家を目指してやってくる。

 従者が止めて「どなたですか」と聞いた。


明石(あかし)の浦より前の国司である入道(にゅうどう)が、舟を用意して参りました。まずは源少納言にお会いしたいのですが」


 答えられてその男は首をかしげた。


「源少納言って誰だっけ?」


 惟光があきれたように横を向いて、反応せずに立っている良清の肩を叩く。


「おまえだろう」

「そういや俺か。ここのとこ、名前しか呼ばれなかったから忘れてた。え、なんで俺?」

「知り合いだろう」

「昔はそうだけど、娘さんのことでちょっとなんだから文通とかしてないんだけど。それに、今着いたってことはあの嵐の直後に舟を出したってことか。なんか恐っ」

「いいから早く会ってきて」


 源氏がせかした。良清が行くと明石の入道は、妙にうやうやしく事情を告げた。


「三月一日にお告げがありました。信じられなかったのですが『十三日に新たなしるしを見せよう。舟を用意せよ。雨風は必ずやむので須磨の浦に向かえ』とのことで、故事にもあることだからと従ったところ、不思議な追い風が吹いてスムーズにここまで来ることができました」


 良清に伝えられて色々考え込むが、承諾することにした。見苦しいので夜が明けきらぬ間に、源氏と特に親しい従者の四、五人が舟に乗った。

 妙な風が出てきて、飛ぶように明石に着いた。時間にして約一時間である。



 浜の様子は須磨と違う。あちらはうら寂しいが、こちらは人口が多そうだ。けれど、ゆったりとして落ち着いた印象の地域で、入道の土地は海辺にも山辺にもたくさんある。


 渚には魅力的な小屋があり、山辺にはお堂がある。田も充分にあり、稲の倉なども建ち並ぶ。かなりの金持ちらしい。


 舟から牛車に乗り換える頃、日が高くなって源氏の姿がほの見えた。明石の入道は寿命の伸びる心地で、とりあえず住吉の神を拝んだ。


「ずいぶん凄い所ですね」


 将監が小声で呟く。まずは庭が凄い。木立や庭石、前栽(せんざい)(植え込み)や、見とれるほどの入り江の水など、並の絵師では描けないほどだ。

 邸もセンスよく、都の高貴な人のそれにも引けを取らない。華やかさはむしろ上だ。


「娘さんもここにいるのかな」

「いや、高潮が恐いから高台にいるようですよ」


 広々とした気持ちのよい部屋を与えられ、ようやく気が落ち着いた。須磨に使いをやって、あの都の男を呼び出し、多くの品を与えて京に帰した。

 別の使いを入道(にゅうどう)の宮(元藤壷中宮)の元へ発たせる。他の者もその男に故郷への便りを託した。


————人が多いのは気になるけど、いい所だ


 男ばかりが多かった須磨の家と違って、小綺麗な女房が立ち働いているのを見るだけでもなごむ。他の男たちも同じだったらしくみな見とれていたが、良清がぽん、と手を打って「馬を借りますね」と立ち上がった。


「なに?」

「須磨の家を見るついでに、おばばさまと別れてきます」


 まだその話を引っ張るのかと源氏が白い目で見ると「若くはない人なので、きちんと別れてやらないと、次を誘うタイミングを逃しそうです」と親切なのかそうでもないのか、よくわからないことを言い出した。


「そんなものなの?」


 源氏はフェードアウト派である。あ、もうダメだと思っても、最後の最後まで甘い言葉を囁いて女を夢見心地にさせる。その後まるっきり訪れなくても、再び会うことがあれば、まるで女の方が自分を捨てたかのように恨みごとを甘く言いつのる。


————もし私が女だったら、気持ちが冷めても直接会っている時は優しくだましてほしいよ


 彼はそう思うが良清の意見は異なるようである。


「だってここにはかわいい子がいるから、絶対に彼女の元には戻らないし。だけど、辛かったこの一年、彼女が慰めてくれたのは本当なんです。あの人私がさよなら言ったら、絶対すぐに他の男を引っぱり込むと思うけど、この一年はオンリーでいてくれたんですよ」


 だったらなおさらそのままにして、なるべく長く甘い夢を見せてやればいいのにと思ったが、良清には良清の考えがあるだろうから、ただ「気をつけて行っておいで。あ、布の一つも持って行ってやれよ」とだけ伝えた。彼は礼を言って外に出て行った。


 他の男たちは和やかに女房たちと談笑している。都に妻を残した恐妻家の男が、隅で胸を押さえている。


「ギリ春でよかった。いや、しかし、これから夏かーーーっ」


 なんのことだろうと首をかしげると「夏と言えば単衣(ひとえ)でしょうっ」と身悶えする。正直、男のそんなしぐさは気持ち悪い。


「人前ではきちんと着てるだろう」

「あ、これはさすがに下の者の役得ですね。下屋に湯を使いに行ってその後とか、休憩中にくつろいでいる時とか、もう、たまんないですよ」


 別の男も加わってくる。


「そう、単衣は薄いっ。よって肌が透ける。ちまたでは童貞を殺す単衣と言われているんです」

「童貞じゃないだろう」


 源氏と直接話せるクラスは、どの男もそこそこの家柄である。ということはカンタンにおつきあいのできる女房が身近にいた。もちろん上下関係、相手は逆らいにくいわけだが、それでもこの時代女房レベルの女たちはタフなタイプも多い。主人の召人(セフレ)となればそれなりにメリットがある。それが主人の坊ちゃまの初めてのお相手となれば、欲さえ張らなければ、なかなかにおいしい立場だ。


「まあそうですが、自主的に秋波を送ってくるタイプってそそらないじゃないですか。わたくし、心はまだ純情なのです。誘惑なんて全く考えない女が、暑さに耐えかねて自然にくつろいでいる姿に胸がときめくのです。よって、単衣サイコー!」


 ぎょっとして顔を上げるが、運よく女房たちは退出した後だった。それでも源氏は従者の声を下げさせ、自分も小声で反論した。


「いや、つつしみがあるタイプの方がクるだろう」


 以前、若い娘が白い薄物の単衣に二藍(ふたあい)(紫)の小袿(こうちき)を引っ掛けて胸をさらけ出している姿をのぞき見たが、いっしょにいる地味な人妻の方がそそった。


「渋すぎませんか? ああ、殿はモテすぎるから」

「じゃあここの姫君、いいんじゃないですか。教養のある人で、特に楽のたしなみは大変なものだということですよ」


 源氏は肩をすくめた。


「田舎の腕自慢程度じゃ、内裏の花形だった私の耳にかなうとは思えないね」

「もともとの育ちはエラくいいらしいです。しかも都から人を呼んで、もの凄く大切に育てたそうです」


 ちょっと気が動いたが、心の中の紫の上が悲しそうな顔で見るのでなんとか耐えてそれ以上は聞かない。

男たちは意味ありげに彼を見たが、源氏はすまして眺めのいい南庭に目を移した。


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