権力者の悲哀
一万一千字ほどあります。
源氏二十六〜七歳
弘徽殿視点
立場をなくした源氏は、尻に帆をかけて須磨に逃げ出した。いい気なものだと歯がみする。
有能な殿上人もまき込み、職務放棄の責任も取らず、亡き院の名を汚すような形で全てを放棄した。けしからん。
報告を聞いて怒りをあらわにすると乳母子が、ニコニコしながら私をなだめた。
「ついに我々が勝利したということですよ」
「釈然としない。逃げただけではないか」
上につく者が何者であろうが、粛々と働くべきだろう。上司や世の中が気にくわんから仕事ができないとは何ごとだっ。甘えすぎだっ。
「まあいいではありませんか。目の上のタンコブがとれたと思って」
「私はあやつが大嫌いだが、仕事だけはそこそこ認めていたのにっ」
臣下の務めを果たすのなら、降格させて内裏の末端にいるぐらいは許してやるつもりだった。
「それはあまりに温情がすぎます」
「あの男のためではない。帝のためだ」
彼は源氏を一番大事な弟として好いていた。他の弟たちにも優しいが、優れた才を示す......いや、たぶんそれは後だ。一番身近にいた弟として可愛がっていた。
あの至高の位置は寂しすぎるから、あんなゴクツブシでもお心を慰めるのなら許容してやらんでもなかった。
あやつが出勤しなくなり、遊び回っていると聞いたときも帝は責めなかった。お耳に入らぬように努力はしたが、どうしても尚侍の君の件は隠しきれない。たぶん聞いてはいるが、そのことについても触れない。
ただ、須磨に旅立ったと聞いたときだけはそのことを非難もせずに「都暮らしに慣れた者が、大変だろうに」と哀しげな顔を見せた。
「ほのめかすような文が来たので心配はしていたのですが」
「どういう形で? 手の者が入り込んでいるのですか。返しはなさいましたか」
思わず警戒すると少し笑って「源典侍の文の端に、私が読むことを意識したような歌がのっていただけですよ。ちゃんと届いたわけではないから、返しはしていません」
おのれ、小細工しおって、と不快になったが、これ以上帝を傷つけたくなくて口にはしなかった。だが、意識的に消したように見える彼の表情が辛くて、押して尋ねた。
「呼び戻しましょうか」
彼はゆっくりと首を横に振った。
「............可能な限り政に口を出したくないのです」
ある意味藤氏への過剰適応だ。だが私はその意図がつかめる。帝は国のシンボルだ。いったん表に現した意思は、臣下が絶対に遂行したいからこそ、どう影響するか分からぬ事象にはなるべく口をはさまぬ方がいい。神でもあるべき方に不可能と伝えなければならない不幸は、院の時代にさんざん経験したからこそよくわかる。彼はそのことをよく知っている。
その上帝はその最大の責務を果たそうとしている。いやまだ決定的ではないが、女宮が一人生まれ、更衣の一人が孕んでいる。なんとか男宮が生まれればいいが。
「大変にご賢明です。源氏の件は様子を見ましょう」
「お手やわらかに」
息子は目元に優しい色をたたえ、優雅に笑った。
もっとも、その時の仏心はすぐに撤回した。右大臣家中心の世を批判するような漢詩が出回ったのだ。どうも須磨と都で何人もが文通していたらしい。最初はほっておいたが、あまりにひんぱんに取りざたされるので念のため不快を表明しておいた。
その上、使いの者の話が噂になった。源氏の住まいは唐風の小洒落た家で、そこで風雅にリゾートを楽しんでいると。流行にのりやすい若公達が、以前野の宮に通った時のように押しかける計画を立てていると聞いて、ついに私も爆発した。
「公的な咎めを受けたものは全てをはばかって、毎日の食さえ楽しまないと言われている。なのにシャレオツな家に住み世をおちょくるような男に媚びへつらうなどとは何ごとだ。鹿を馬という男に追従した唐国のあほうどもと同じではないかっ」
あやつは流浪の詩人などではないッ。ただの勤務態度が悪くてクビになったロクデナシだっ。調子にのるなっ。
不快の度が増したが、ようやく八の宮の祖父が亡くなったのと、同じ頃承香殿の女御も懐妊の兆しがあったと知らせがあったので、どうにか怒りを抑えた。
八の宮は脇腹の妹の五の君とめあわせ一族に入れたが、どうもはっきりしない性格だ。だが楽器はなかなか上手い。繊細すぎる音ではあるが。
「今の方を下ろして、あの方を春宮位につけるおつもりですか?」
ある夜乳母子が小声で尋ねてきた。私は少し口を閉ざし、それから答えた。
「完全否定はできぬ。帝に皇子が生まれぬ場合のつなぎにする可能性が高いな」
「動けとおっしゃるのなら、今日明日中にも誰か動かしますよ」
「いや。今のところはそれは望まない」
今の春宮はわずか八歳だ。割に大人びて人柄も能力も悪くはない。そんな子どもを引きずり下ろしたら、われらにさんざんな悪評がたつ。
「その上、帝は院からのご遺言だからと、現春宮の維持を望んでいる。養子にすることは見送ったが」
右大臣家の人間は誰一人それを許容しないからだ。
「それでは、まだずーっと後でしょうが、次の世を現春宮にお譲りする予定なのですか」
「今のところは。ただし亡き院と同じく帝位を長引かせるつもりだ。そうすれば八歳の子どもも年をとる。女を覚える頃となれば、スキャンダルを起こすこともあるだろう。それが、いくつか重なったらどうだ? 帝位にはふさわしからぬお方、との声も高まろう」
にやり、と悪人の笑みを浮かべる。私は子どもに仕掛けるつもりはない。だが、大人は別だ。必要なら陥れることさえ辞さない。
乳母子はまじめな顔で私を見つめ「でしたら、二条邸の件を」と言葉を濁した。私はそれを拒んだ。
知らなければ見逃した話だ。たまたま、旅立った源氏の邸を焼く計画を聞いてしまい、それを止めた。
「他者に示しがつきません。火事はよくあること」
「ならぬ」
類焼が心配だ。人死にも出よう。あの邸は院が命じて修理させた物だ。心の中が言い訳に満ちる。
「............帝が悲しむ」
「そうですか。では別の手段を。こちらは帝のお耳に入れずにすみます」
「ほう。なんだ」
乳母子は目を細めてにんまりと笑った。
「こちらの者の慰安にもなります。あの邸に残された姫の元に、男を入れればよいのです」
驚いて彼女を見つめた。冗談を言っている顔ではない。
「邸も焼かず人死にも出さず、源氏を苦しめることができます。父の兵部卿は関わりを断っているし、その北の方は脇腹の姫を憎んでいる。救う者は誰もおりません。ある程度の手数を用いれば、女所帯ですので逆らうことはできないでしょう」
こやつは普段は脳天気だが、桐壺の更衣を殺めようとさえした女だ。肝は座っている。そしてたぶん、彼女の方が正しい。
弱者だからこそ見えている。二条の邸は燃やすべきだし、源氏の女は襲うべきだ。いかに息子が悲しもうとも、まつろわぬ政敵はとことんおとしめなければならない。
そうでなければ侮られる。韓非子も言っているが、蟻の穴から堤も崩れる。威圧がきかなくなれば、なすべき仕事が上手く行かない。
それはわかっている。わかっているがどうしてもイヤだ。
そう思うこと自体が強者の奢りだ。守るべき頂上を持つ者は、自分の情など優先してはならない。
なのに、身が震えるほどイヤだ。
「邸の護りは堅かろう。ムダに配下の者を傷つけたくない」
「全て調べてあります。大したことはありません」
源氏に対する怒りがわき起こった。女ばかりの邸を長期に空けるのにその程度でいいのかっ。なぜこう手を抜くっ。だがすぐに理由に気づく。
なにせあやつは、この私に懸想しておるので、他の女はどうでもよいのだ。
「ご許可などいりません。この話もお聞きにならなかったことに」
「............そうもいかん」
命じる必要さえない。ただ忘れればいいのだ。
私はしばらく葛藤し、結局負けて彼女を止めた。なぜ、といきり立つのを苦い顔で抑えた。
「私には娘がいる」
「ですが......」
「私が生きている内はいい。なんとしてでも守ろう。だが私の死後に意趣返しとして、誰かが同じことを企まないとも限らぬ。たとえ源氏の女に手を出さずとも、そうなるかもしれない。だが可能な限りリスクは減らしたい」
これが女としての限界か。いや、違う。女だからではない。この私のリミットだ。
言い切った後口を閉ざした私に、乳母子は表情を緩めた。
「まったく、どうして困難な方にばかり行かれるのかわかりません」
謝罪はしない。する必要もない。だいぶ人を動かし金も使っただろうが、気づかったりするべきではない。私はただ、かってで傲慢な権力者としてそびえ立てばいいのだ。
不満がある者は私にぶつけるがいい。憎いほどの強者がいれば下の者は安定する。
人は力が好きだ。絶対的なそれとの対比で、自分は問題なく弱っちい善人でいられるからだ。おのれの卑小さも俗な欲望も、全て巨大な力の前では風の前の塵にすぎぬ。
人にとって圧倒的な力の前にひれ伏すことだけが大事で、それは仏だろうが悪人だろうが大して変わりはない。思考を放棄し努力を怠り、従順を捧げて安定を得る。
だから私は堂々と告げることさえできる。平伏せ愚民ども! 崇めよわが身を! 世を司る女の生き様をとくと胸に刻み込むがよい!
険しい顔でただ前を見つめる私に、乳母子は少しやるせない顔で微笑み、肩を落としたまま頭を下げて退出した。
ようやく秋が訪れたが、まだ暑さは衰えない。身ごもった承香殿の女御はもちろん里にいるし、源氏の宮のあだ名を持つ藤壷女御も里に帰った。更衣......一条の御息所の子は女だったが、まだ自邸でその身を癒している。
人の減った後宮に、六の君を戻した。父も私に頭を下げ「あの子もかわいそうだし、麗景殿の孫ははらむ様子もない。承香殿も身内ではあるが、六の君に子ができた方が何かと心強い。ぜひに」と推すし、帝からも再度頼まれたので許した。
彼女のことはだいぶ世の噂になり嗤われたから心配したが、帝は人のそしりも気にせず常に身近に置いたのでほっとした。彼女の元へ入れておいた私の女房も連絡に来た。
「はたから見ていてもドキドキします。甘く切なく恨みごとをおっしゃる帝は、お姿形も大変に優美で美しく、至上の美とはこのことかと見とれるばかりでした。でも普段の華やかさに憂いの影の加わった姫さまもまたお美しい。音の遊びの折りに帝が『あの人がいなくて寂しいね。みなもそう思っているだろう。何ごとにも光が消えたような感じだ』とおっしゃり、更に『亡くなった院のお心に背いてしまったよ。罰があたるかな』とお続けになりました。そして『世の中なんて辛いもの、長生きなんかしようとも思わないよ。だけど私が死んだらあなたはどう思うの? あの人との生き別れほどには思ってくれそうにもないのが辛いな』などとおっしゃる様子がえも言えず」
うっとりとした顔で彼女が告げる。いつもは理性的な女なのだが。
「厭世的すぎる。滋養のある山芋かなんか食べさせなさい」
指示を出しておきます、と彼女は応えた。私は妹の六の君の様子も尋ねた。
「それはもう、木や石であっても心を動かしそうな帝のありさまですもの。姫さま、いえ尚侍の君もほろほろと涙をこぼし、それをご覧になった帝が『どちらのための涙?』とやわらかくお尋ねになるのです。それから『君との間に子が生まれないのが物足りないよ。そうでないなら、春宮を院のおっしゃった通りにしたいとは思うけれど、そうもいかなくて』と」
春宮の件があの方の遺言であることに胸が痛むがスルーする。私は冷徹な政治家なのだ。
「恨み言は言っても、気持ちを失ってはいないようだな」
「ええ、もちろん。他の方々が色あせるようなご寵愛です」
「彼の言う通り、六の君がはらめばいいのだが」
それが一番だが、男宮さえ生まれるのなら、もう、この際母を問わない。待ちかねている。妊娠中の承香殿に期待している。
「そのことですが、やはり源氏の宮も懐妊なさっていたようです」
「ほう。それはけっこうなことだ」
帝の寵愛は六の君が筆頭で、その次はこの藤壷女御だ。頑丈さだけがとりえの承香殿の女御は、女二の宮を生んだ一条の御息所にさえ劣る。そのためか源氏の宮と承香殿は仲が悪い。
「さぞかし双方とも気がもめるであろう」
どちらでもいい。とにかく皇子を生んでほしい。できれば両方がいい。
「もしお二人とも男宮でしたら、どうなさいますか」
「源氏の宮は後見が弱いが、だからこそ恩の売りがいがあるな。身内筋で言えばもちろん承香殿だ。後見の兄はまじめで悪くはないが、あまり人好きせぬのが多少気にかかる」
そやつは殿上人には珍しいほどマッチョな男で、源氏より若いが武人のように立派なひげを蓄えている。最近はひげ黒と呼ぶものも多いが、本人は気にしていない。兵部卿(紫の上パパ)の正妻腹の長女を北の方にしている。
「なんにしろ健康な子を産みそうなのは確かだ」
その点だけは期待できるかもしれない。私は彼女を下がらせ、別の者を呼んで双方に贈る品の手配をさせた。まだ何もわからぬので、できるだけ平等に扱って安心させてやろうと思った。女房はすぐに支度に出向いた。
平穏な日々が続く。源氏の邸は燃えず、女も無事だ。人々は過剰に私に媚びへつらい、贈り物は途切れない。
といっても、もちろんむやみやたらに受けているわけではない。
まず、手の者から適切な理由を付けて送られるものは受け取る。他の時代は知らぬが、この時代ではあたりまえのことだ。理由もなく拒んだら、相手の顔を潰すことになる。
手下ではない者がいきなり持ってきても受け取らない。
もちろん相手は下心込みで来るが、それが理由ではない。そんなことはあたりまえだ。
私たちの仕事は、とかく人間関係がつきまとう。だから適切なつてを探し、懐柔し、紹介させ、こちら側に上手く取り入るような才のない者が役に立つわけがない。いわばこれは書類選考代わりだ。
品を受け取り手の者に加えたとしても、そこがゴールというわけではない。既得権益者は新参者に厳しい。何かとじゃまをしようとするが、まあ圧迫面接のようなものだ。それに耐え抜いてようようスタートラインに立てる。
官人の道は長く険しい一本道なので、力を持つ者の配下に入り込もうとする者は多い。だがもちろんここまでたどり着けぬ者も多いため、いつも我々には怨嗟の声が浴びせかけられる。
知ったことか。恨むのならおのれの才のなさ自体を恨め。
品を贈れなくともまだまだ手段は残されている。女房を通じて帝に漢詩を送り、その出来によって大国の国司の座を射止めた男さえいるのだ。禁じ手だが。
「また届け物ですよ」
三条の邸の寝殿は広くて、私の御座所もゆったりとしている。品を抱えた乳母子が、それを私の前に据えた。思わず息を呑んだ。
「......あいつか」
彼女が送り主の名を告げる。私はがっくりと肩を落とした。
古くから父に仕える殿上人で、仕事もできるし人柄もいい。楽器も並よりはできるし、まじめで勤勉な男だ。ただ一つ最悪なのは......死ぬほど趣味が悪いのだ。
「なんだこの金箔ばりで下手な絵の描いてある虎子箱はっ」
乳母子は困ったような顔で説明した。
「この間の法事の際彼が、メインの仏像の守りとして飾ってくれと、異常にくっきりと彩色された真っ赤っかでえらく恐い顔の不動明王の像を持って来たじゃないですか。あの、一年かけて自分で彫ったというやつです」
「ああ。どんなに心がこもっていようとも、あれを飾るのは苦痛だった......」
目をキラキラと輝かせて、まだ傷の残る指を気にもせず「一彫り一彫り、大后さまに仏の加護があるように祈りながら彫りました」と伝えられ、飾らないという選択肢が消えた。
「あの時大后さまは、気持ちはありがたいが今後は実用品の方がいい、と率直にお告げになりましたね」
「確かに言った」
「その結果がこれです。ちなみにこれも手彫りで、プロに金箔をはらせ、更に工房まで出向いて上に自ら絵を描いたという大変凝った品です」
「下手なハンクラが趣味なのか、あやつはっ!」
だいたいこの変な絵はなんだ。
「猪だそうです」
なぜその題材を選んだのか皆目わからぬ。茶色に塗られた瓜かなんかかと思った。
「お返しになりますか?」
「今さら返しても仕方がない。しかし、以前はこのような品は贈ってこなかったと思うのだが」
「前の北の方が止めてましたからね。その方と別れ、今の人は無頓着なようです」
私はため息をつき、件の男が元嫁とよりを戻すことを祈った。だがそこへ、別の部下からの贈答品が届いた。先の男をライバル視する殿上人だ。
黄色と紫のシマシマ模様の褥(平安座布団)と、太りすぎの猫のようなものが描かれた屏風だ。色だけはいい。自ら運んだその男は簀子に控えている。
「あの男が敬愛する大后さまに、自ら作り上げた品を寄贈したと聞いて、矢も楯もたまらずこしらえて参りました。職人の品ほどのレベルには達しておりませぬが、全身全霊を込めて制作しました」
こめんでいい。いや、こめんでくれ。
「......これはいったい何ぞ」
「は。まず褥は高貴な色を前衛的にモダンに重ねた特別の品で、大后さまのためだけに作った世界で一つだけの物です。一方、屏風の方は勇ましい獅子の姿をこのわたくしが心を込めて描き、千枝と常則に色を塗らせました」
得々と語られげんなりするが、この男も有能で人付き合いも上手く、親しみやすく、手放したくない存在なのだ。
私は舌を鳴らしたくなるのを抑え、どうにか受け取りを拒否できないか必死に考えた。やがて天啓が下った。
「気持ちは嬉しく思う。だが褥は、禁色を尻に敷くのは心苦しいので、そなたの縁のある寺か神社にでも奉納してくれ」
「はあ」
いささか残念そうな顔をしておるが、そのまま話を続ける。
「そして屏風だ。おまえが必死に作ったものだと思うと心が温もる。だがな、世の中にはおまえやあの男ほど才のない者が多いのだ。そなたたちの手作り品を受け取ると、劣等感に苛まれる者や、仕事をおろそかにしてまで熱中する者が出てくる。それは本意ではない。だがせっかくの品をムダにしたくないので、どうだろう、あの男に下賜させてはくれまいか」
「は、はあ」
張り合っている男の名を出されて渋い顔をする男にたたみかける。
「そして代わりにおまえには、まだ使わずにとってあるあの男からの品を贈ろう。互いの品に互いの気持ちを認めあえ。これからもよりいっそうの忠勤を期待する」
「......ありがたき幸せにございます」
なんでも押してみるものだ。どうにか上手く片づいた。私はほっとして、よく男をねぎらってやった。
かように人付き合いとは大変なものだ。それが身内であってもだ。
妹の四の君が、夫の三位中将が宰相に出世した礼を述べに来た。以前よりだいぶ落ち着いた様子で顔色もいい。
「一度昇進をパスされたときはどうしようかと思ったけれど、今回は上げていただいて本当にありがとうございました」
「帝も彼を頼りにしている。悪友につられず仕事に励むように。前回は中将もさぼっていたのだから当然のことだぞ」
「わかっております。彼にも泣いて頼みました」
「ああ、その方がいい。上から来られると反発するが、頼られると無下にもできない男だしな、そなたの夫君は」
「そうなの。男気がある方なのだわ。親友の源氏を心配してあんな真似をしたけれど、彼ほど完全にさぼったわけじゃないのよ」
四の君が心配そうにつけ加える。
「わかっておる。あの頃でも帝が頼む日は、ちゃんと出勤していることは聞いている。今はなかなかまめに働いておるようだな」
「源氏も、うちの次男坊あたりには優しかったのよ」
「私事の是非は勤務評価に加味されるべきではない。あやつがおまえの夫君に仕えておったなら別だが」
「取りなそうと思ったわけではないの。だけどあの人が気を落としているのを見るのが辛くって」
優しい翳りをその顔に見て、彼女を内裏に送り込むことにならなくて本当によかったと思った。
「それを癒してやるのがおまえの勤めだ。協力はしよう。三の君と夫君も呼んで、音の遊びなどどうだ」
「今はそんな華やかな催しを楽しむ気分じゃないみたい」
「そうか。なら”銀杏御覧”はどうだ。ごく小規模に」
妹はパッと顔を輝かせた。
「それならいいわ。お酒を楽しむだけだもの。すぐに彼に話してみるわ」
「そうしなさい。ああ、甘味が各種届いているから、子どもの土産にするがよい」
「嬉しいわ。最近太郎君(長男のこと)が蹴鞠に夢中になってて、いつもお腹をすかせているの」
四の君は弾むような様子で戻って行った。その姿が消えると、見送っていた若女房が「銀杏御覧ってなに?」と同輩に尋ねている。近くにいた乳母子が「銀杏をむくのを眺めながらお酒を呑む家族宴会のことです」と教え、二人は更に疑問符を増やした。
「あの、右大臣家特有の風習ですか?」
「そうです。秋冬の行事です」
「召し上がるのならわかりますが、眺めるとはどういうことですか」
「えー、たまのことですが、飢えた貧民が食を求めて入り込むことがあるでしょう」
いきなり話題が変わって若女房が驚いている。けれど乳母子は気にもせずにそのまま続けた。
「悪い病気を持っていそうな者はすぐに追い出します。万が一のことがあると大変ですから。そうでない者は下屋の方で、とりあえず一食は食べさせます」
「はあ」
「で、腹が満ちた者は労働力として使用します」
目を点にした若者の前で、彼女は淡々と語っている。
「仕事は手作業なので人手はいくらでもいるのです。使ってみて見所のありそうな者は何かと教え込んで使うし、そうでないものでも力仕事や落ち穂拾いなど、いくらでも仕事はあります。だがある日やって来た者は、見た目にはあまり出ていなかったけれど、おつむの調子が人並みではありませんでした」
カンタンなことさえできないので、うちの下人は追い出そうかと考えた。しかしその前に、できることはないかと尋ねてみると「ぎんなん、むける」と答えられた。
試しに剝かせてみると感心するほど速い。下人たちがほめそやすとますます速度が上がり、ついにはわれらの見学を促すほどとなった。
「それ以来下屋の隅に置いてやり、季節になると、このようにネタになったり、他家に貸し出されたりするのです。うちも借りたことがあります。相変わらず他は何一つできないけれど、銀杏剝きの腕はどんどん上がり、見せ物としてもなかなかのものになりました」
若女房たちが困惑している。どういう感情を持つべきなのかわからないのだろう。乳母子はさっさと結論づけた。
「よそとくらべるとこちらは何かとキツいってことで、物乞いの数も少ないですし慈悲深いという評判も聞きません。だからこそ入り込んでくるのは働く気はある者が多いですし、これが間違ったやり方とは思いませんね」
その対応がイヤなやつはよそに行くだろうから、うちはこれでいい。若女房たちも「里のイベントの時に空いていたら借りてみます」などと多少の興味は示していた。
そうこうするうちに年が明けた。去年の米の作柄はやや不良だったので、今年は天候に恵まれてほしいと考えていると、太政大臣の割には落ち着きのない父が、私の部屋にやって来た。
「大変なことになった」
「なんでしょう」
「非常の際に民のために備蓄しておいた米がほとんど使われていたことが発覚した」
「さっそく審議して流罪にし、財産を召し上げてそれに使えばよいでしょう」
「そうもいかぬ」
「なぜですか」
「やったのはおまえの兄じゃ」
目の前が暗くなるのを感じたが、脇息を強く握って耐えた。どうも、寵愛の薄い麗景殿を輝かせようと巨額を投じて飾り立てたことが原因らしい。
「いくら飾ったって本体がダメならダメでしょう」
「今までにも何度もやっていたらしい。しかも、他の兄弟も加担している」
細かく聞くと失った額は天文学的数値だ。兄たちを呼んで怒鳴りたかったが、他氏にバレたらとんでもない。
「中宮分が不要になったのに目をつけたのが始まりで、他にもかすめ取るように余罪がざくざくと」
彼らの財を没収してすむ話ではない。それにそうすれば他氏にバレる。人目につかないほどには使わせるが、それだけではどうしようもない。
私の頭を占めたのは息子のことだった。子どもが増えつつある。今までより予算は多く必要だ。そして中宮。せっかくあの女をどかせたわけだから、東宮になる子が決まったら、その母が誰であってもすぐに決定して地位を補強しようと思っていた。
「帝の時代が長ければ、取り返しはつきます。私が兄たちを呼び出すと目立つので、父上の方から叱ってやってください。お互いに表面は平静を保ちましょう」
日はうらうらと穏やかに輝いている。災害さえなく豊作の年が続けば、そのうち取り返しがつくはずだ。
「それまでは中宮の件は進められませんが、まずは皇子誕生に向けての準備だけは進めていきましょう」
「うむ。苦労をかけるの」
いたわるように言う父が、なんだかとても小さく見えた。無理もない、彼はかなりの高齢だ。こんな心配をさせたくなかった。
兄たちへの怒りを呑み込み、予算を削れる箇所がないかと色々考えていると、乳母子が焦った顔でやって来た。
「あのですね、うちの夫が、あの個性的な贈り物をした方の邸に呼ばれて行ったのですけど」
「そうか」
部下の交友関係は制限していないので、好きにすればいい。なぜいちいち報告するのか不思議に思ってしげしげと見つめると彼女はしばし口ごもり、それから意を決したように口火を切った。
「例の虎子箱が、寝殿の中央の二階棚に飾られてあったそうです」
「は?」
「しかも”大后さまより拝領の御品”と詞書が添えてあったそうです」
私は彼女を見据えたまま硬直した。頭が真っ白になり、何も言葉が出なかった。すると別の女房も口をはさんだ。
「もう一人の方の話なら聞きました。例の屏風を寝殿の中央に飾ってお披露目の宴会を催したそうです」
「もしかして、それにも」
「はい。麗々しく『恐れ多くも大后さまが、わが一族の格段の働きをたたえて下賜された品である』とか書かれた由来状がいっしょに飾ってあったそうです」
「この間の褥は、とある神社に”大后さま御愛用の品”と書かれて......」
「あの明王は、名刹(名高い寺)に飾られ”大后不動”として信仰されているとか。悪運を断ち切り、憎い相手を遠くに流す霊験あらたかな像として人気を集めています」
くらり、と目眩がした。もう怒鳴る気力さえない。
私はそのまま御帳台に引きこもったが、たまたま尋ねて来たよその女房が「大后さまほど恵まれた方はいらっしゃらないわねえ」とか言っているの聞いた。
庶民などに私の気持ちがわかるかっ。わかってたまるかッ。