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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
67/89

須磨

源氏二十六〜二十七歳

源氏側視点

 晩春の須磨(すま)の浜辺に打ちよせる波は、心なしかゆったりとしているように思える。青い空の下、白い絹に縁取られたような波が静かにこちらへ寄せてくる。


 問題はその波の中にあった。二本の足がすっくと、天を目指して伸びている。思わず源氏は傍らの惟光(これみつ)に尋ねた。


「......スケキヨ?」

「......良清(よしきよ)です」


 源氏はしげしげと足を眺め、もう一度質問した。


「死んでるの?」

「いえ......ほっておくとそうなりますね」

「大変だ!」


 元右近(うこん)将監(じょう)が真っ青になって、濡れるのもかまわずに海に飛び込み良清の体を抱え上げた。そのまま浜辺まで引きずり上げる。


 彼が胸の辺りを何度か押すと、ぴゅっ、と鼻と口から水が出た。良清はかすれた声でうなり、目を開けた。


「......死ぬかと思いました」

「大丈夫だ! 生きてるよ!」


 将監は半分涙ぐんでいる。良清はゆっくりと起き上がり、辺りを見回すと彼に礼を言った。


 元上達部(セレブ)殿上人(エリート)にとってスローライフはなかなか厳しい。空気はいいし風景は雅趣あふれるし、魚はうまいが都が恋しい。


「いや、思ったより波の引きは激しいものなのですね。のんびりした感じに見えたのに」

「隣の播磨(はりま)にも海あるよね。前に来たときは入らなかったの?」

「あの時は国司の息子としての体面がありましたので」


 最近ひがみやすくなっているらしく、こんな会話でもけっこう辛い。源氏は気を紛らわそうと住居に向けて歩き出した。



 住まいは昔、業平(なりひら)の兄の行平(ゆきひら)が流された時の家に近い。海から少し離れた寂しい山の中である。(かや)()き屋根とか、(あし)()いた廊とか、石造りの階段や竹の垣根とか松の柱など、ただの旅行なら趣きあると楽しめただろう。


 暮らしは当分の間困らない。近くに自分の荘園もあるし、この摂津(せっつ)の国司も親しくしていた男だ。だからこそこの地を選んだわけだが。

 ただし永遠に安泰かと言えばそうでもない。国司の任期は四年だし、荘園を管理する者たちも源氏が許されて戻る可能性があるからこそ大人しいが、長期に住み着くこととなると侮りを隠さなくなるだろう。


 不安を底に抱えたまま、とりあえずは庭作りに熱中した。浅くなった()り水の底を掘らして水の流れをよくしたり、梅や桜の若木などを植えさせたり、いつぞやの野宮(ののみや)の風雅を手本としてひなびた魅力を磨いてみた。


「この地には見知った者もおりますので」と良清が家司(けいし)の役をかって出てくれた。こう見えても彼もそこそこお坊ちゃんだ。心配したがそれなりにこなしている。


 とりあえずたどり着いて最初の興奮も落ち着き庭作りも一区切りついた頃に梅雨になった。長雨はいつでも人恋しくさせる。ましてや愛しい人たちと遠く離れた今ならなおさらだ。源氏はせっせと手紙を書いた。



 さて、須磨がえりという言葉がある。源氏物語を読破しようとした人が、この辺りで挫折してしまうという現象のことだ。

 その理由の一端は、この何回くり返すのかとつっこみたくなる和歌のローテーションにあると思う。たぶんこの頃には各キャラにごひいきができていて、平等に書かなければいけない雰囲気になっていたのだろう。


 ただし式部センセーも手をこまねいていたわけではない。なかなか細かい芸を見せるが、それについてちょっと触れたい。あくまでも難しいことのわからない素人の私見である。和歌に興味のない方は飛ばしてください。


 まず書かれているのは源氏から(元)藤壷中宮で、これは前回フルに書いた歌だ。尼と海人(あま)を掛け、浦人を使用している。

 次に尚侍(かん)の君の分だが「しほ焼くあまやいかが思はん」で、先に書いた”あま”を流用している。ありがちなたとえではあるのだが。


 紫の上はこの時期大変ショックを受けて寝込んでいたせいか、源氏からの和歌は書かれていない。しかし彼女の返事が「浦人のしほくむ袖にくらべ見よ」であるのを見ると、こっちにも「浦人」を使ったらしいことがわかる。


 いや待て、どちらに先に出したのかわからないと読み進めると、来たよ大物が。六条の御息所(みやすどころ)から文が届く。リズム感などが大変格調高く上品だが、「そっちこそこっちを気にしろよ」ってやつといつも通りの愚痴の二つである。大変気合いが入っている。もちろん紙や筆づかいなど誰よりもすばらしい。


 それに対して源氏は一つ目はともかく、二つ目の返歌は『あまが積むなげきの中にしほたれて』と藤壷が源氏に送った返しを、あんまりだろうというほど流用している。いかがなものか。(藤壷からのは『年ふるあまもなげきをぞつむ』)


 ここから読み取れることは、平安人であろうとも和歌の返しは大変だったということと、バレなきゃいいんだいという源氏の性格と藤壷至上主義だ。彼女以外の女君ランキングは状況で少々変わるが、さすが初恋の人は不動の位置を占めているようだ。


 この後に届いた花散里(はなちるさと)の歌は「あれまさる軒のしのぶを眺めつつ」で他の人のものとは雰囲気が違う。カンのいい源氏が使者に尋ねると「長雨で塀がところどころ崩れて」と答えたので、わざわざ都にいる家司を動かして修理させてやっている。これはなかなか大したものだ。



 松の梢に吹く風が、悲鳴のような声を上げる。それと争うかのように夜は波音が、枕元にまで打ち寄せるほどに聞こえる。心づくしの秋が来た。


 風の音と波の音で目を覚ました源氏はもう眠れなかった。切なさに胸が苦しくて、枕が浮きそうになるほど涙を流す。

 やるせなくて起きだして(きん)の琴を少しかき鳴らすが、あまりに情感あふれるのですぐにやめて、躬恒(みつね)の歌など(うた)い出す。言っておくが真夜中である。雲林院(うりんいん)の時といい、この男一人では孤独に耐えられないようである。普段は女君が犠牲になっていたのだと思う。


 もちろん人々は目を覚まし、なかなかナイスな歌声に感動して泣いたりしているようだ。


「みんなどんな気持ちだろうか。私一人のために家を離れ、大事な家族と分かれて途方に暮れているなんて」


 だったら寝かせてやれと思うが、そこは根がポジティブな源氏だ。「私がこんな風に落ち込んでいたらみんな心配だろう」と日中はジョークを飛ばしたり趣味に走ったりで、あまり謹慎中には見えない。


「おや、上達なさいましたね。屏風(びょうぶ)にしましょうか」


 珍しい地の(から)の綾などに磯のたたずまいをいろいろと描くのを見て、惟光が感心する。


「最近の達人の千枝(ちえだ)常則(つねのり)なんかを呼んで、仕上げに色を塗らせたいですね」

「そうもいかないことが残念だ」


 いつも控えている四、五人が惜しがっている。

 描くものは尽きない。前栽(せんざい)(平安花壇)の花が咲き乱れるさまもいいし、海の見える廊に出て眺める景色も悪くない。

 絵心を持たない供の者は見ているだけだが、風景よりも源氏の姿に目を癒している。


 夕暮れに、くったりとした白綾の単衣(ひとえ)紫苑(しおん)色(青みのある薄紫)の指貫(さしぬき)(ばかま)をつけて、(はなだ)(薄い藍色)の直衣(カジュアル)にしどけなく帯を結んだゆるいスタイルでたたずむ姿など、この世のものとも思えない。


 当の源氏は数珠(じゅず)を取り出してちょっと経を読んでみたり、遠くに小さく見える舟を見送ったり、(かじ)の音に似た雁の声に涙ぐんだり、海辺を満喫している。ちょっとした和歌などを詠みあげると、良清、惟光、将監が続く。


「雁なども友といる間は心なごみます。はぐれたら困りますから私もお側を離れませんよ」


 そう言う将監は、贅沢もできるだろうに常陸守(ひたちのかみ)になった父にもついていかずにいっしょに来てくれたのだ。誇り高く平然とふるまっていて、内面の揺れを見せてはいない。


 自分は恵まれていると源氏は思う。孤影はるかに飛ぶ雁の寂しさではなく、連なって羽を交わし合う小さな群れの中にいるのだから。


 それでも月が華やかに差し出ると「今宵は十五夜だった」と思い出して内裏(だいり)の遊びが懐かしくなる。遠く離れた女君たちも、きっとこの月を見ているに違いない。


 十五夜に白居易(はくきょい)が左遷された友の元稹(げんしん)を思って作った詩を詠じると、みな遠く離れた故郷の人を思って涙ぐむ。源氏も藤壷の宮の面影が胸をよぎる。


「夜が更けました、どうかお休みください」と彼らは告げるが、源氏にそのつもりはない。たぶん婉曲に眠いと言っているのだと思うのだが。


 春宮(とうぐう)の元へ迎えに行った時の彼女の気配が月の光に溶けて切なくなる。


————あの夜は帝とも話したっけ


 父によく似た顔立ちの兄が、自分に向かってやわらかく微笑んでいる。途端に胸が痛くなる。


————嫌われたのだろうか


 想い人を奪い、仕事を放棄した。彼の優しさを当然のものとして、どこまで許してくれるか試すような真似をした。


————だから守ってくれなかったのだろうか


 右大臣や大后にたてついても、きっと彼だけは味方してくれると思っていた。世界中が敵対しても、自分の側にいてくれるとおごっていた。

 なのに今、うら寂しい地で夜を過ごしている。


「......恩賜(おんし)御衣(ぎょい)は今ここにあり」


 道真(みちざね)公が、流された地で身を絞るようにして吐き出した絶句を、恐ろしいほどの共感を持って謡う。まさに(はらわた)が断たれそうな苦しみを、いつも側に置いてある兄の御衣(おんぞ)がわずかに慰めてくれる。


 寝間に入っても彼の心は落ち着かない。


————辛いだけとは言えない。ただ、悲しくてならない


 その夜も源氏は眠れなかった。



 日がたつうちに都からの便りは減ってくる。最初のうちは、兄弟の親王(しんのう)や親しい殿上人がひんぱんに送ってくれたのだが、やり取りしている漢詩などが世間で評判になるうちに大后が激怒したらしい。


「公的な咎めを受けたものは全てをはばかって、毎日の食さえ楽しまないと言われている。なのにシャレオツな家に住み世をおちょくるような男に媚びへつらうなどとは何ごとだ。鹿を馬という男に追従した唐国のあほうどもと同じではないかっ」


 教養あふれるお言葉である。史記にある(しん)の始皇帝にたてついた宦官(かんがん)の故事をふまえて罵倒している。もっとも源氏は感心するどころではない。かなり萎縮していた。


 そんな時に、任期終わりで通りかかった太宰の大貳(だいに)からあいさつがあったのは嬉しかった。


 ちょうど琴を弾いているときで、報告を聞いて手を休めて待っていると、大貳の息子の筑前(ちくぜん)(かみ)がやって来た。以前源氏が蔵人(くろうど)に推薦してやった男である。


「親しかった人々にもなかなか会えなくなっているのに、わざわざありがとう」


 状況が悪くなっていて、人目があるのでビビった大貳自身は来れない。筑前の守もすぐに戻らなければならなかった。だけどこっそり、彼の姉妹で以前つきあいのあった筑紫(つくし)五節(ごせち)からも文が来た。すぐに返しをやると良清が気づいた。


「これですか?」と小指を立てる。苦笑しながら源氏がうなずく。


「かわいい子でね。それに積極的なんだ」

「さぞや殿にお会いしたいでしょうね」

「そう思うよ。で、おまえはそっちの方は?」


 良清は照れたような顔で烏帽子(えぼし)をかいた。


「はあ、まあ。明石(あかし)の入道の娘に文を書いたりしているのですが、どうもはかばかしくなくて」


 須磨から明石の浦は割に近いので、例の娘にアプローチしているのだがスルーされている。


「そりゃ気の毒に。じゃ、まるっきり女っけなしか」

「いえ、そういうわけでもないのですが」

「下の身分の女の子でもくどいた?」

「はあ、まあ」


 煮え切れないのを無理に尋ねると、かわいい海人の女の子と親しくはなったらしい。だが上手く行きかけた頃に女の子の父親の漁師に追い回されて大変だったそうだ。


「へえ、じゃあその子とは?」

「それっきりですが......」

「ん? 別の子とつきあったの?」


 良清はなんとも微妙な表情でまた烏帽子をかく。


「子じゃないんです」

「?」

「ええと......源典侍(げんのないしのすけ)のような......って、彼女よりはだいぶ若いんですが見た目はもっと凄くて、まさに九十九(つくも)髪って感じの......」


 明石には文を送りつつ、現実的な問題として近場に大人のおつきあいのできる相手を探したところ、気に入った相手とつきあってくれる後家さんがいると知って行ってみた。


「いくらなんでもこれはないだろうと呆然としている間に、なんだかそういうことになって」

「......」

「だけどこのおばばさま、働き者で足腰きたえてあるから、その点では悪くないと言うかなんと言うか」


 聞いた自分が悪かった、私だって源典侍の件は触れられたくないと素直に反省する源氏に、良清は「やって極楽見て地獄」などと身もフタもないことを呟いて、彼に頭を抱えさせた。



 都からの便りはほぼ、元左大臣家と女たちからのものだけになった。あまり楽しい話題はないが、東の対にいた女房たちが西の対に来て、紫の上の思いやり深い人柄に感心して退職する者がいなかったことはちょっと嬉しかった。


————みんなも協力してくれたんだな


 実は自分付きの古参女房に頼んだ。


「本当にいい子なんだ。あまり恵まれない暮らしにも慣れている。だけど、あちこちからいやがらせを受けるかもしれない。守ってやってほしい」


 彼女たちはすぐに引き受けてくれた。


「もちろんです。われわれは迫害には慣れていますからね」

「久々にチーム桐壺の結束をお見せしますわ。ですが、ええとこちら東の対の若い女房、特にあなたのお手つきの者は納得できないでしょう」

「命令系統をちゃんとしてください。全てあの姫君の下につけるのです。中途半端な風にしてはいけません」


 リーダー格の女房が真顔で忠告した。源氏は少し躊躇(ちゅうちょ)した。そうすると最も信頼する彼女でさえ、紫の上の乳母の下につくことになる。そう言うと彼女は「亡き更衣さまの面影を宿す方に仕えることはむしろ幸いですよ」と豪快に笑った。


 古くから仕える彼女たちの手腕は、いかんなく発揮されたらしい。少納言の乳母は有能だが、内裏で助ける者もない闘いに身を投じていた彼女たちとは経験値が違う。内心感謝しながら文を閉じた。



 やがて冬が来た。海辺のせいなのか気の持ちようか、雪の降る様まで荒々しい。空はうんざりするほど暗く、雲は低くたれ込めている。都からの手紙も滞りがちで、源氏の心は鬱々として楽しまない。惟光が気を聞かせて琴を運んで来た。


「いいよ。気がのらない」

「またそんなこと言って。ほら、わたしも笛を吹きますから」

「そんな気分じゃないんだ」


 押し問答をしていると聞きつけた良清がやって来て、真剣な顔で進言した。


「バンド組みましょう」

「は?」

「私がボーカルをやります」


 ちょっと待て、なぜおまえがとこちらもつい真顔になると良清は「私は楽器が下手なので」と無表情に答えた。


「殿はなんでも上手ではないですか。格調高い(きん)の琴をおやりになればいい」

「歌には自信があるの?」

「もちろん。いいですか、歌さえ上手ければ何もない時でも女をくどく手段になるのです。相当練習しましたよ」


 いくらか気を惹かれて近くにいた将監を振り返る。


「おまえも何かできる?」

「多少は。でもここには笛しか持ってきていませんよ」

「ひちりき頼んでいいかな。俺は竜笛やるから」


 惟光が尋ねると、即座に彼は了承した。メンバーがそろったので音を合わせる。それぞれ自分のパートはなかなかのもので、最初のうちは明るいナンバーが多かったのだが、興が乗るうちにメランコリックな曲が増えて来た。


 初めはしのごの言っていた源氏が心を込め弾き上げると、他はみな手を留めて涙をぬぐう。源氏も、自分自身の音に感動して()の国の王昭君(おうしょうくん)のエピソードなど思い出したりする。


————恋しい人と遠く離れて会えない


 紫の上の姿を思い浮かべて辛くなる。無意識のようにこの逸話を題材にした漢詩を口にし、更に切なくなる。


 それを察したみんなが深夜までつきあってくれたが、一人、また一人と寝落ちした。源氏は、最後まで居眠りしながらつきあってくれた惟光に下がるように言うと、一人残った。


 月の光が明るく射し込む。須磨の仮住まいは手狭で、その光は奥まで照らし出す。床に座っているだけで月見ができるほどだ。

 沈もうとする月はもの哀しい。道真公の詩を口ずさみ、苦い思いでそれを見るが、そのうち進路の決まった月と違って行く先の決まらない自分が恥ずかしくなる。


 鼻の奥がつん、と痛くなるのを感じて上を向くと、眠れぬ暁の空に千鳥が鳴いた。


————千鳥も友と鳴きあっている


 第一、床に死屍累々(ししるいるい)といった感じで自分の友も転がっている。源氏はそれを見回すと元気よく起き上がり、数珠をつかんで経を読み始めた。


 それ以来、辛い気分のときは合奏という手段が増えた。

「そろそろバンド名を決めましょうよ」と惟光が言うので「かっこいいのがいいな」と答えると、「”平安夜狼(やろう)なんてどうでしょう」と尋ねられた。


「悪くない。だけど曲名みたいだね」と源氏が笑うと良清が振り向く。


「今ひとつじゃね。平安野郎と間違われる」と反論すると、将監がくすくす笑いながら「殿みたいな貴公子がそう名のったら、ギャップがあって面白くないですか」と推してくる。


 源氏は「いやだよ。『俺たちの新曲”雅なあの子”聞いてくれ』とか言わなきゃならない感じだ」と口を尖らす。みなが少し頬を緩めた中、惟光が良清に尋ねた。


「おまえの雅なあの子は最近どうなの?」

「あー、明石の子か。残念」

「玉砕か」

「なら、まだいいよ。娘はスルーなのに父親が来い来いうるさくってさ」

「脈ありってことじゃないの?」


 将監も口をはさむ。が、良清はブンブンと首を振った。


「違うね。立場があったときでさえ受け入れてくれなかったのに気が変わるとは思えない。だいたい娘にメールしたら親父から返ってくるって恐くね?」

「じゃ、行ってないの?」

「はい。ムダだとわかってるのに行って、空手で帰るのもバカらしいので」


 最近は一切近寄らないようにしているらしい。


「今はあんまり困ってないし」


 その理由が例の後家さんなのか、絶対に聞きたくないと源氏は思った。



 年が明けて、しだいに日が長くなる。去年植えた桜の若木のつぼみがほのかに開き始めた。空も明るくうららかなのに、源氏は色々なことを思い出して泣けてくる。もうほぼ一年近くたったのに、状況は悪くなるばかりだ。


 懐かしい人たちを思い出して辛くなっている。自然を愛でて心を休めようと桜に目を移すと、南殿(なでん)紫宸殿(ししんでん))の桜は盛りになっただろうかと、やはり心が騒ぐ。


————あれは二十歳の頃だった


 まだ院が帝だったときの、ことに華やかな花の宴。東宮(とうぐう)だった兄が凄く優美な感じに座っていて、源氏の作った句を口にした。桜の挿頭(かざし)もくれたのに、なんだか妙にいらついて素直な気持ちになれなかった。


————あの時もらった字は春だったな


 思えば東宮(春宮)を表す字だ。その時は気づかなかった。


————で、頭中将が青だった


 懐かしく思い出してつい一首詠んだりする。そこへ惟光が飛び込んで来た。


「京から来客です!」

「誰?」

「三位中将、いえ今はご出世なさって、宰相(さいしょう)中将(元頭中将)です!」


 驚いていると馬のいななきが聞こえる。そのまま部屋を出て石造りの階まで行くと、冗談ではなく彼がいた。罪になるかもしれないのに来てくれたのだ。


「久しぶり。ちょっとやせたね」

「君は変わらないな......あ、お変わりありませんね」

「おいおい、怒るよ。タメ口OK」


 源氏はちょっと照れて微笑んだ。ゆるし色(薄紅)と黄の組み合わせに青鈍(あおにび)を足したカントリー風の狩衣(ジャージ)の彼は、中将の目で見ても清らかで美しい。


「エスニックでいかした家じゃないか」

「狭いから何もかも丸見えだよ」


 わざと田舎風にしつらえてある調度や、碁や双六盤など味がある。中将は全てを面白がった。

 食事も地方の趣きで用意する。海人(あま)たちが魚を取り貝なども持ってくるのを、高欄(こうらん)の下まで呼び寄せて眺める。

 中将は気軽に話しかけたが、言葉が通じない。


「何言ってるのかわからないが、心のありようは同じようなものだろう。ヘイ、ブラザー。これをやろう」


 と、彼は御衣(おんぞ)を脱いで授けてやった。源氏は最初のうちこそ同じような状態だったのに、今、大半聞き取れることに愕然とする。


————いや、それは私が人並みはずれて賢いってだけで


 海人たちは中将の馬を近くに立たせ、離れた倉から稲がらを取り出してやっている。関連キーワードで飛鳥井(あすかい)催馬楽(さいばら)を思い出したらしい中将は、気持ちよさそうにそれを歌っている。


 泣いたり笑ったり、会えなかった間の話を語り合う。


「君のちびちゃん(夕霧)はさ、何も知らずに楽しそうにしているんだけど、それを見たうちの親父(元左大臣)がやたらに泣いてねえ」


 それはだいぶこたえる。尽きることもないほど話のタネはあり、寝る間もなく漢詩も作るし酒杯も回す。状況にぴったりな白居易(はくきょい)の詩を、声を合わせて詠じたりもする。供の者もみな涙を流した。


 それでも夜は明けて行き、中将は世間の噂も気になって急いで帰らなければならない。

 朝ぼらけの空に雁が連なって渡って行く。


 源氏は「いくつ春が巡ったらふるさとを見ることができるのか。帰っていく雁、つまりあなたがうらやましいよ」と告げる。


 中将は立ち上がると「飽き足りないのに別れなきゃ行けないから、都に帰る道を迷ってしまうかも」と残念そうに応えた。


 都へ持たせる土産もセンスよく用意してある。源氏は「私からじゃ縁起悪いかもしれないけれど」とすばらしい黒馬までプレゼントした。

 中将は、日がどんどん昇って気ぜわしいのに、何度も振り返りつつ帰っていく。


「いつかまた会えるかな。このままじゃないよね」

「私は春の日のように曇りなく潔白だ。とはいえ、こうなると道真公ですら戻れなかったのだから、ちょっと苦しいかも」

「内裏で君を思って一人で泣くよ。こんな寂しい思いをするなら親しくならなきゃよかった」


 と中将は言い残して去ってしまった。

 源氏は小さくなって行く影を見送っている。

 今年の花は早く散るだろう。そう思った。



 案の定、花の季節は足早に去っていく。それでも日の光は金の矢を射るように照り渡り、海はきらきらと輝いている。


「今日は上巳(じょうし)(はらえ)なので、心配事のある人は(みそぎ)をなさるといいですよ」


 惟光が知ったような顔で勧めるので、海でも見ようと出かけて行く。

 海辺には実に適当に軟障(ぜじょう)(掛け幕)が張ってあり、陰陽師(おんみょうじ)の出張サービスがあった。この摂津の国司のもとに通っている者のこづかい稼ぎらしい。祓ってもらった。


 小さな舟が用意してあり、大げさなほどの人形(ひとがた)が乗せられている。それがなんとなく、流されて行く自分のようで切ない。


 海の面はうらうらと凪いでいた。ひどく閑雅な春の一日で、眠くなるほど平穏だった。源氏は遠くなった人影を見つめ、自分の来し方行く先を思い続ける。


「八百よろづ神もあはれと思ふらむ をかせる罪のそれとなければ(八百万の神々も、私をかわいそうだと思うでしょう。犯した罪などこれといってないのだから)」


 そう源氏が詠みあげた途端、急に風が吹き始めて空も真っ暗になった。そら、神様も怒るわ。おはらいも途中だが大騒ぎになる。


 どしゃぶりが角盥(つのだらい)をひっくり返したような勢いで振って来て、みな慌てて帰ろうとする。

 風がひどく激しい。全てを吹き飛ばして行く。波は激しく立ち、人々は飛ぶような勢いで走っていく。


 いきなり、海面は布を張ったように光が満ちて、雷が轟いた。人々は自分の上に落ちてきそうな気がして、肝を冷やしながら家にたどり着いた。


「ここまでひどい目にはあったことがない」

「普通は予兆があるが。こんなことってあるかよ」


 雷は鳴り止まず、雨は屋根を貫くほどに強く打ちつける。


「こんな風に世が滅びるのでは」と脅えあう供たちの中、源氏だけは穏やかに経を唱えている。日が暮れてからどうにか雷はおさまって来たが、激しい風は夜中吹いている。


「このまま続いていたら、波に呑まれて海に引き込まれただろう」

「高潮というものは一瞬で人を殺すと聞いたが」

「初めてだよこんなの」


 興奮はなかなか冷めなかったが、明け方になってようやくみな眠った。源氏もどうにかまどろんだが、人ともつかぬ得体の知れない何かが忍び入って来て「なぜ、宮から召されているのに参らぬか」と探しまわっているのに驚いた。


「きっと美しいものが好きな海の竜王が、私に魅入られてしまったに違いない」


 源氏はそう考えたが「ちょっと来い、説教してやる」ということではないだろうか。なんにしろ彼は気味悪くなって、せっかくなじんできた家が耐えられないと心に思った。



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