パブリック・エネミー
源氏二十六歳
ほぼ源氏側視点
さすがに限界だと源氏は思った。仕事さぼってふてくされて、仲間内だけでパーティやって、魅力的だけど危険な立場の右大臣家の六の君こと朧月夜との恋にいそしんで。
その結果、官位も返上せざるを得なかった。二十六歳無職である。さすがにヤバいことになったと焦ったがどうにもならない。
————つんだ
こんなに若く美しいのに、このままだともっとエラい目にあいそうだ。ここは一つ、わびしい田舎に行って謹慎しているような顔をしよう。場所は須磨に決めた。
そうなると心配なのが紫の上である。心も体もなじんだ十八歳、一泊二日の小旅行でさえ別れていると寂しいのに、いつ帰れるかもわからない旅、いっそこっそり連れて行ってしまおうかとも考えるけれど、波風の他訪れる人もない海辺のわび暮らし、可憐な彼女には似合わない。
————彼女だけは守りたいんだ
どんなに辛くてもいい、いっしょに行きたいと恨めしそうにしている紫の上にあえて背を向ける。
みじめな暮らしをさせたくない。淋しくても、温かく守られた部屋で女房に仕えられて、いつもどおりに過ごしてほしい。それが男のわがままだとしてもだ。
別れを告げるためにあちこちに通った。いつもほっこりさせてくれる花散里(旧麗景殿女御妹)さえ涙を隠すことができなかった。入道の宮(元藤壷中宮)も、こっそりと見舞いの文を何度もくれる。
————昔、こんな風に情を見せてくれたなら
どんなことだってできただろう。彼女のためなら右大臣家の沓だってなめられた。来世は地獄に堕ちようとも、現世で極楽を味わえた。だが、彼女のために心をすり減らすことが運命なのだろう。
左大臣家にも行った。人目が気になって夜が更けてから、網代車の貧相なやつで、女が乗っているように見せかけて訪れた。悪い意味で夢みたいだった。
昔の葵の居間は淋しげでなんとなく荒れているように見えたが、まだいるものはみな集まってきた。息子なんてかわいく走って来た。
「久しぶりなのに忘れていない所がいいな」
ひざに乗せてやると目元が緩む。致仕(退職した)の左大臣もやって来た。しょげた様子で世を嘆く。源氏も、前世のせいにしながらも「無理やり官位を取られたわけではなく、ちょっとした行き違いなのですが、それでも私を遠くに流せという無茶な話もあるらしいので。無実だからといってフツーにしていると、もっとひどい目にあいそうですからいったん逃げます」と報告した。
大臣は懐かしい話で涙の途切れる間さえない。源氏もつられてしまい、クールではいられない。若君はその辺をちょろちょろして女房にかまわれているが、それを見て左大臣は更に辛そうだ。
「亡くなった娘のことを今も忘れられませんが、このことにおいてだけは目の当たりにせずによかったと心を慰めております。ですが幼い若君が、父に会えぬまま年寄りばかりの中に取り残されると思うと悲しくて」
などと途切れなく愚痴っている間に三位の中将(元頭中将)が来たので、酒など運ばせて宴となった。その夜はこの邸に泊まった。
まめな源氏は深夜に召人(愛人)の一人の中納言の君と語り合ったりそれ以上のことをしたりした。泊まったのもそのためかもしれない。
夜が明けるとまずいので暗いうちに出ると、有明の月がいとをかし。桜は盛りを過ぎ、木陰の少ない手入れされた庭の砂利が月の光に白く照らされている。薄い霞が辺りをおぼろげに見せて、秋の暁の風情よりも素敵に見える。
源氏は高欄にもたれて景色を眺めている。中納言の君は見送ろうとしてか、妻戸を押し開けてそこに座っている。
声をひそめて語り合っていると、息子の乳母の宰相の君が大宮(葵の母、左大臣正妻)の文を届けに来た。
「直接お話をしたかったのですが、悲しみに千々に乱れておりご遠慮いたします。こんな夜更けにお帰りになるなんて昔とは大違いですね。若君が眠っている間ぐらいはお待ちいただけると思っていました」
率直なイヤミありがとうございます。とりあえず涙でごまかし、更に歌でかましておく。その上で暁の別れの辛さを嘆いてみせる。乳母はあっさり同調したが、大宮に向けては更に言葉を重ねた。
「申し上げたいこともいろいろと考えていましたが、悲しみに思い乱れていることをお察しください。息子を見るとますます別れ難くなりそうなので、急いで帰ります」
帰る姿を女房たちが覗くが、沈み始めた月がとても明るいので、源氏の優美で品よく美しい様子がよく見える。虎や狼でさえ感極まって泣いてしまうほどだ。まして彼がこの邸に通いだした十二の頃から見ている女房たちはなおさらだ。
しかし大宮からの返しは「かつて娘が煙となった空の下を離れると、今は亡き娘との距離がもっと開くのでは?」で、ぐいぐい攻めてきている。疲れ果てて二条の邸に戻った。
自室に戻る前に侍所に通りかかると閑散としている。思わず足を踏み入れた。
手下たちは共に旅行く決意をした者も、私的なお別れに行っているのか人気がない。そうじゃない者は後足で砂かけて逃げたのだと思う。場所がないほど押し寄せていた馬や車もなく、台盤(テーブル)もちりが積もり、ゴザ的タタミも裏返して片づけてある。人生、辛すぎる。
————今でさえこうだ。出発したらどんなに荒れるか
暗い気分で西の対に行くと、格子も下ろしていない。昨夜は紫の上は一晩中眠れなかったようだ。そのため簀子などあちこちに女童がごろごろしていて、源氏が帰ってきたので起きて騒いでいる。
宿直姿もかわいいが「年がたてばこんな子たちも散り散りになってしまうのだろうな」と心細くなる。
「昨夜は左大臣邸でそんな風だったので泊まった。君は私の下心のせいだと勘違いしてないかい。心外だな。仕方なく都を離れるからには心配事も多いし、ちゃんとしておかなければ薄情だと言われてしまう。そうなったら私がかわいそうだとは思わないか」
「こんな目にあう以上に心外なことってあるのかしら」
そう言ってうつむく紫の上は、人よりももっと悲しんで見える。その理由の一端は父である兵部卿の宮にあって、源氏が不遇になってから世間の評判を気にして二条邸には訪れず、手紙さえくれない。
そんな薄情な男の血を継ぐ娘だと女房に思われるかと思うと恥ずかしく、こんなことならここにいると知られなければよかったと悩んでいる。
それだけでも辛いのに、継母の北の方が「あれがさげまんってやつじゃない」と言ったとか聞いて、ついに返事の来ない手紙を父に出すことをやめた。源氏は、そんな彼女がいじらしくて抱きしめる。
「万が一謹慎しても世に許されなくて年月が経ってしまったら、どんな所だとしても迎えにくるよ。だけど今は連れて行くことがバレると流罪になりかねないんだ。私にはなんの罪もないけれど、これも宿命だから仕方がない。君をあいつらの口実にしたくないよ」
そう言って、日が高くなるまで御帳台(平安ベッド)にこもった。
ようやっと起きると帥の宮(後の蛍兵部卿。この話では桐壺帝三の宮)と三位中将が会いに来たので、「ニートですから」と紋のない直衣のしなっとしたのを着たが、かえって魅力的だ。
源氏は髪を整えようと鏡台に寄って面やせした自分の姿を見た。
————われながら、なんと上品で美しい(原文に本当にあります)
思わず見入ってしまったが、さすがにそうも言えず、
「いつのまにかこんなにやせてしまった。なさけないことだな」
と呟くと、素直な紫の上が瞳いっぱいに涙をためる。
「身は彼方の地をさすらうとしても、いつも君のもとにある鏡に残した私の影は、きっと離れないさ」
「影だけでも鏡に留まってくれれば慰めになるのに」
柱の陰に隠れて涙を止めようとする彼女はかわいくて、知っている中で一番だと思える。
その愛らしさにうっとりとしていたため、帥の宮と中将をだいぶ待たせてしまった。それでも状況が状況なので気を悪くはしなかった彼らと、しんみりと話をした。二人は暮れる頃に帰っていった。
旅立ち前にはいろいろと気をつかう。その夜はさすがに面倒な気もしたが、やはり花散里にもう一度会わなければ悪いように思って深夜に出かける。
元麗景殿の女御が嬉しそうに笑って「まあ。こんな数にもはいらぬ身のもとまで立ち寄ってくださって。無理なさらなくてもお気持ちはわかっていますわ」と言ってくれたので、わざわざ来たかいがあった。
邸内はとても静かだ。細くなった月がおぼろに出て、広い池がそのかすんだ光を受けている。水面は揺れもせず、手入れがたりないせいで本当の山のようになってしまった築山の木立ちも、なぜだかいつもより荒れて見える。これから行く須磨の地の想像を重ねて見てしまうからなのだろう。
西面には彼女が淋しげに座っている。月の光といっしょに入ると、ほんのわずかにいざり出て、源氏と月を見比べた。
「......いらっしゃらないかと思ったわ」
「そんなに私を疑わないでくれ」
「だって、お忙しいのでしょう」
「ああ。だけど君に会いたかった」
夜明け前も含めると本日三人目で、しかもお別れ前なのでどの相手とも盛り上がっている。いくら二十六とはいえ、大したものだと言わざるを得ない。
花散里とも情を交わしあい、鶏がやたらに鳴く頃合いにやっと別れた。
帰って仮眠をとった後は、気を入れ替えて男たちに会う。呼んでも来ない者は最初からあきらめ、やって来た者の中から都に残って二条の邸の仕事をする者をまず決めた。それから供に従う者を選ぶことにした。
「強制はしない」
まじめな顔で源氏は告げる。
「いつ帰れるかわからない旅だ。私についてくると一生を台無しにする可能性が高い。家族にも会えないし贅沢もさせてやれない。一人も来なくても仕方がないと思っている」
やはり紋のない平絹の狩衣で、ゆるい格好なのだが決意した人のすがすがしさで男ぶりが上がったようにさえ見える。廂や白砂に控えた男たちは、宮廷一の貴公子の姿につい見とれた。
「その場合はどうするのです?」
固い表情で惟光が尋ねた。源氏はわずかに口元を緩めた。
「邸の下人をいく人か連れて行くよ。三人ぐらいはついて来てくれる」
「バッカじゃないですかっ」
惟光が吐き捨てるように言った。
「直接話したことさえないでしょ。あなたみたいなお坊ちゃんが、利に聡くて小ずるい下人どもと渡り合っていけるわけがないでしょっ」
「仕方ないじゃないか」
妙に吹っ切れた顔で源氏が応える。
「使いきれずに見捨てられたら、それも私の器量。どうしても食えなくなったら、おじさんのとこに行って坊主になるって手もあるし」
「大バカじゃないですかっ」
目を三角にして惟光は責め立てる。源氏もたじたじとなるほどだ。
「坊主は却下って言ったでしょ! 天下の光源氏がなさけないこと言ってんじゃないよ。だいたいあんた、人がいても時たま寂しくてたまらないって顔するのに、一人になったら寂しさで死ぬに決まってる」
「............うさぎじゃないし」
「うさぎは寂しくても死にませんっ。なぜ言わないっ、ついて来てくれって! 命じりゃいいだろ俺にっ。何十年乳母子やってると思ってんだよっ。今さら遠慮するような仲じゃないだろっ!!」
襟元につかみかからんばかりの勢いで押してくる彼に向かって、源氏は澄んだ笑顔を見せた。
「だっておまえ、出世したいだろ。見捨てられても恨まないよ」
「とっくに無理だよバカ野郎ッ。責任とれっ! 責任とって連れて行けっ! 一生仕えてやるから覚悟しておけっ!!」
惟光の目に涙が光る。源氏は耐えようとした。だが玉のような涙が一つ、二つこぼれた。まわりの者ももらい泣きしているが、良清が割に冷静に声をかけた。
「あ、わたしもごいっしょしますから」
源氏は驚いて彼を見た。
「え、おまえは女と別れたくないだろ」
「それですが、都では全然モテないのですよ」
彼は遠くを見るように目をすがめた。
「思えばわたしの最大のモテ期は、国司の父について播磨(兵庫県南西部)の国に行った時でしたね。そりゃあモテモテで、ありとあらゆる女がわたしになびきました。正直言って、前の国司の娘のみが黒星で後は負け知らずでした」
思い出すかのように彼はうっとりとした表情を浮かべる。涙を抑えた惟光が突っ込みを入れた。
「おい、あちらでは小綺麗な女房と知り合う機会などないぞ。僻地暮らしだ」
「いや、俺思うんだけどさ、下の身分の女の子もよくね?」
「どういうことだよ」
「いや、ほら、海女とかやってる健康的な肉体の十四、五くらいの女の子がやって来て『良清さま、おらの初めてをもらってくんろ』とか言ってぐい、と胸元を開くとそこには顔や腕と違って真っ白なぷりんぷりんのおっぱいが......」
「ロリかよ。もう少し育った子の方が......あわわ、殿のことではありませんよ」
「いや十四、五だったらこの時代はロリじゃないだろ。俺は殿とは違う」
「以前、前の国司の娘くどきに行った話じゃ、その子十歳くらいじゃなかったっけ。充分ロリだわ」
「美しいって評判だけ聞いてて、年の頃を知ったのは後なんだって。そういやあの子も十七ぐらいにはなってるかなあ。もう一回チャレンジしてみるか」
良清は一人で納得したように首を振った。
「ということでわたしも行きます。こちらのかってなので気にしないでください。だいたい、地方を知らないあなた方二人で行ってもロクな目には遭いませんよ」
そう言って良清はニヤリと笑った。
あまり感動的な参加とは言えなかったが、できすぎ君たる元右近の将監の蔵人は、感激屋なのか滝のように涙を流している。
————彼には気の毒なことをした
長いつきあいの惟光や良清はまだわかるが、院在りし日の斎院御禊の際に初めて親しく言葉を交わした仲だ。それでも源氏とのつきあいのせいで出世もできず、ついには職まで取り上げられてしまった。なのに恨みもせずに付き従ってくれる。
「もちろんわたしも同行します。断ったとしてもむだですよ。強引について行きますからね」
源氏の目元がまた潤む。彼の兄の紀伊守はもちろん時勢に乗って縁遠くなっている。それは別にいい。もとよりそんな男だ。彼の父は、今も源氏の気を惹く空蝉を伴って常陸の国にいる。だから細かい動向はわからない。
彼が許せないと思ったのは空蝉の弟の以前は小君と呼ばれた少年だ。恋の使いにしたためではあったが、内裏との縁もない彼を自分が後ろ盾となってやり、殿上童としてデビューさせ、その後も何かと引き立てた。元服さえ源氏がさせてやったのだ。
なのに、彼が世に見捨てられてからは皆目近寄らず、ついには京を離れて姉のいる常陸の国に行ってしまった。あいさつもなしでだ。
————他は許せても、あの子と兵部卿の宮だけは許せない
ふつふつと沸く怒りを呑み込み、右近の将監に微笑みかける。
「ありがとう。世話になるよ」
「メンバーが固まってきましたね。こうなるとまるで東下りのようですね。行くのは西だけど」
「どちらかというと業平の兄の行平では? 向かうのも同じ須磨ですし」
「殿の美貌の程からすると、やはり伊勢物語じゃないでしょうか」
「ああ、あの、グローバリズムにだまされて日本にやって来たヨーロッパの男みたいな話」
「なんのことだ」
首を傾げる男の一人に、良清が暗唱させた。
「むかし、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなして京にはあらじ、あづまの方にすむべき国をもとめにとてゆきけり」
「そうそう、それ。昔男ありけり。その男、身をEUなきものに思ひなして今日にはあらじ、あづまの方にすむべき国をもとめにとてゆきけり——昔、男がいた。その身をEUには不要と考えて、今日ではないけれど、東の方に住むべき国を探しに行ったそうな」
「そこのえうは”よう”と読むんだっ!!」
「Yo! Yo! 女でよう、須磨の田舎にさすらうYo! Yo! Yo! 用もないのに下るイケメン、上る清涼殿、右往左往と焦るは臣民、それが運命か尚侍の君ぃ、内侍仕える場所は温明殿、優しすぎる帝にごめん、だけど身内は恐いぞ弘徽殿、Yo! Yo! チェケラッチョ!」
いやはや大変な騒ぎである。惟光が「いや大后は今、梅壷だから」とつっこみを入れたが、誰も聞く者はなく、共に須磨に行く者を決めるまで騒ぎ続けた。
それからも忙しい。道具の手配などもあるし事務作業もある。気を配らなければならないことは山ほどある。
「荷物はどんな風に?」
「カントリーサイドでエコライフな感じで。派手な物は持たない。だけど琴の琴と書物と漢詩は入れてくれ」
「荘園や牧場の権利書は?」
「全て紫の上に渡して」
旅の空の下で万が一のことがあっても、彼女の暮らしだけは守りたい。
「あの子の乳母の少納言は信頼できる。この間家司(平安セレブの家政を司る者)にもちゃんと話したから協力してもらう。ああ、倉や宝物庫の鍵も管理させる」
「あの、こちら側の女房は?」
「規模を縮小するわけだから全員紫の上の方へ。運があれば生きて帰る。待っていようと思ってくれる人がいたら彼女に仕えていてくれ」
その中には召人もいる。だが源氏はかまわず配置した。手伝いに来ていてそれを見ていたもう一人の乳母子の大輔の命婦が「なんかある人を思い出しますねえ」と言った。
「なに? 忙しいんだから気を持たせるようなこと言うなよ」
「すいやせん。こうパワフルに動いてるのを見ると、なんか大后っぽいなー、と思って」
「優雅さが似ても似つかないよっ! あー、末摘花の姫君の所には寄る間もないけど、うちの物をなんか差し入れしてやっといて」
「あざーっす。恩に着るっす」
どさくさまぎれに漁夫の利を得た命婦は『無理強いすることじゃないから、これが最後だろうな。ああ見えて姫さまは高貴な方だ。光君が自主的に思い出してあげるのではなければかえって傷をつける。あっしはこれ以上は黙っていよう。ああでも、かわいそうで近寄りにくいなあ』と内心で呟いた。
源氏の方はそれで思いついたらしく、花散里はやはり心細い暮らしの上、元女御さまがいるので格も落とせないだろうと配慮して、趣味の品から実用品まで贈ることにする。
「そうだ紙! 薄様を充分に用意して。筆も使ってない物があったら添えてくれ。香は荷葉多めに。あの人はあれが似合うんだ」
それらを包ませているうちに思い出して、朧月夜に文を書き始める。
「メールくれないのもあたりまえなんだけど、全てをあきらめることの悲しさ辛さはもの凄いよ。会えなくて涙の川に沈んだせいで須磨に流れちゃうんだ。そう思いだすこの恋だけが私の罪なんだよね」
なにせ彼女は右大臣家の姫だ。この文が奪われずにちゃんと届くどうかさえ怪しい。だから細かいことは書かない。
運よく受け取った彼女は耐えようとしたが、結局袖が涙でびしょ濡れになった。
「流れた後の逢瀬を待ちきれずに、涙の川に浮かぶ水の泡さえ消えちゃいそう」
泣きながら乱れ書いた字がいつもより魅力的だ。もう一度会えないことがくやしいが、ヤバい身内が恐くってそのままになった。
ついに明日出発だ。
その前に父の墓のある北山にお参りに行くことにした。この時の北山は紫の上に会った場所ではなく下鴨の北にあるらしい。割と近場だ。なのでまず入道の宮の元に暇ごいに行った。
月が出る暁までは闇の色が濃い。それでも下人に持たせた松明を頼りに三条の宮にたどり着いた。御座所に近い御簾の前に席を作ってもらう。今夜も直接話してくれた。
彼女は何よりも春宮のことを心配していたが、それを抑えて源氏自身のことを気づかう。
しんみりと語り合った。彼女の気配は出家した今も懐かしく、気品に満ちあふれている。だからこそ恋の恨みごとを聞いてもらいたいのだけれど、よそう。今さら言うのも野暮だ。源氏はそれを耐える。
「こんな思いもかけぬ罪に問われても、思いあたることは一つだけです。頭上に広がる大空を仰ぎ見るのも恐ろしいけれど、私のことなどはどうでもいい。ただ、春宮さまだけがご無事に過ごせれば」
入道の宮は急に凍ったかのように気配さえ固まる。
ああ、このことを出せば彼女の心はまだ動かせるのだな、と思うが、そんな浅ましい真似をしてまで彼女の反応を見たい自分がいじらしくて涙が出てくる。
————バカだよなあ
この人を苦しめたいし傷つけたい。さんざん泣かせて困らせて、ごめんって謝って、その宝玉のような涙をそっとぬぐいたい。それから甘やかす。彼女を掌中の玉みたいに誰にも会わせず大事にして、女房に命じるようなことまで全部代わってやってあげたい。
「............院の御陵(墓)へ参ります。おことづてはありますか」
必要だから聞いたのか、加虐心なのかもわからなくなった。彼女は固まったままためらっている。
「院は亡く残された者は悲しいだけなんて、世を捨てたかいもなく泣き暮らしているわ」
優美な歌を詠める人なのに、上手く言葉を綴ることができない。
「院との別れの悲しさが底だと思ったら、まだ下がありました」
ようやく月の光が射して来た。彼女の前を退出して、気心の知れた五、六人の供と下人を連れて馬で行く。夏の手前の晩春の夜更け、わずかな供と墓を目指す。こんな少数で外出するなど今まではほとんどなかった。
「飛ばすぞ!」
下人も馬を駆る者は乗せ、できない者は尻馬に乗せる。いつもは牛車でのんびり行く道が、あっという間に距離を縮める。世も明けぬうちに下鴨神社の辺りにたどり着いた。
しばし止まって辺りを見回していると、右近の将監が下りて来て、源氏の馬の口をとって歌を詠んだ。
「あなたのお供で葵をかざしたその昔を思うと、賀茂の神様の仕打ちが恨めしい」
痛い。じんじんくる。まさにクリティカルヒットだ。彼が職を失った責任は全て自分にある。当時彼は源氏に特別に与えられた仮の随身(SP)で、人よりずっと華やかな男だった。自分のことをどう思っているのだろうと源氏は内心忸怩たる思いだ。将来を嘱望された彼の人生を台無しにしたのだ。
源氏も馬から下りて御社の方を拝む。
「今、浮き世から別れて遠くに行きます。私の名誉はただすの神の判断におまかせします」
将監は感激して源氏を眺めているように見えた。彼らはまた黙って馬に乗った。
たどり着いたので、供を少し離れた場所に待たして一人で墓に詣でる。
道の前にたたずむと、生前の院の様子が思い浮かぶ。
彼は限りないように見える大きな力を持っていたのに、この世から離れてしまえば何もできない。墓に辛さを訴えてもなんにもならない。自分のためにあちこちに遺言を残してくれたのに、どこかに消え失せてしまったかのように果たされない。
草深い道を分け入ると露が足下を濡らす。細い月も雲に隠れて、森の木立も不気味に見える。帰り道さえわからなくなりそうで、もしかして父は恨んでいるのではないかと、自分を生きながらこの墓に閉じ込めようとしているのではないかと、ありもしない妄想に捕われる。
ふっ切るようにして拝むと、一瞬父の面影がはっきり見えた気がして、全身に鳥肌が立った。
「父上、私をどう御覧になりますか。あなたの代わりに眺めた月さえ、雲に隠れてしまいました」
彼は答えてくれない。月も見えないままだ。それでも源氏は歯を食いしばって仲間の元に戻り、夜が明けきった頃に邸に戻った。