花散里 Ⅱ
元麗景殿の女御視点
源氏二十五歳
今年も橘は例年のように白く可憐な花をつけたけれど、五月雨に打ちつけられてやきもきさせられた。毎年のことなのに同じように心配している......いいえ、去年だけは違った。
院が亡くなられてとっくに四十九日もすみ、里に戻って涙に明け暮れていた時なので、いつものように花が咲くとは思わなかった。院を悼んで永遠に咲かずにいればいい、とまで思った。
今はそうは思わない。あの方はこの花の姿も香も、秋になるかわいい実さえも好きでいらしたのだもの。咲かないときっと悲しむし、私もお供えに使えない。
邸の、西の対に向けた渡殿沿いに、持仏堂(仏ハウス)というには恥ずかしいほど小さなお堂を設けて、朝夕手を合わせている。妹も私の部屋の帰りなどに拝んでくれているようだ。
「邸のどこかしこから花の香がしますね」
「そうね。この時期には香はいらないわ」
うっとうしい五月雨も我慢できてしまう。それに、やめてしまった女房たちが文をくれるのもこの時期が多い。
うちの邸に仕えるものは、だいぶ減ってしまった。みなそれぞれ暮らしがあるし、私もかつてのような待遇を与えてやれないから仕方がない。だけどやはり少し寂しい。
「でも、琴だけは自由に弾けるわ」
横にいた女房がくすりと笑い「ご用意いたしましょうか」と尋ねた。私はうなずいて箏の琴を選んだ。
女房たちが気をつかってくれ、みな席を外したので思う存分に音を奏でた。途中なぜか鳥が落ちてきて、しばらく気を失ったあげくふいに目覚めたが、急には飛べず、か細い脚で走って逃げていったけれど、鳥が飛び込んでくるのは瑞兆(縁起のいいきざし)らしいし、よくあることだからほっておいた。
弾いている間に雲が途切れ空が晴れ渡った。久しぶりの青い空を見るとやはり嬉しい。
午後は琴も弾かずに外を眺めて過ごした。やわらかな緑が目に優しい。梢が揺れるたびに鳥の姿を探したけれど、先程の鳥は飛んで行ってしまったらしくもういなかった。
それはそれで、花を散らすいたずら者がいなければ少しは長く持つかもしれず、風のたびに雪のように散る橘の花びらを留めるためにはいいのかもしれない。
見とれていると女房がくみたての井戸水を運んでくれた。
「蘇を召し上がりませんか」
まだつぼみのうちに贈った花の礼に大后がくれたものだ。半分は心友に送ったら、質のいいあまずらを届けてくれた。
「私はいいわ。妹に届けてあげて」
西の対に住む彼女は、晴れたから手習いにいそしんでいるはずだ。雨の日より文字が乾きやすくてはかどるから、いつものようには誘わずにいる。
女房はすぐに従って部屋を出たが、その人の姪にあたる若女房が、何か不満ありげに顔をしかめていた。人が減ったので最近彼女が連れてきて、まだ十日もたっていない。
「どうしたの?」
声をかけるとしばらく躊躇したあげく「やっぱりわたし、許せません」と呟いた。
「あらあら、なあに。蘇は少しずつ味見していいのよ。食べそこなった?」
「いえ、いただきました」
じゃあ何かしらと首をかしげていると「ここに来てお側に置いていただいて、わたし女御さまのことが大好きになりました」と続けた。
「ありがとう。嬉しいわ」
「だから、こんなに心細く暮らしていらっしゃることを知っているのに、ごく稀にささやかな品を贈るだけですます大后のことが許せないのです。あの方は全ての権力を手にして呆れるほどゴージャスに暮らしているのだから、もう少しこちらに気をつかえばいいのに」
若いって面白い。自分の方がどれだけ失礼か気がついていなくて、そこがとってもかわいい。思わず顔が緩んでしまった。
「あなたはとても優しいのね」
「優しくはありませんが、率直すぎるから内裏で勤めるのは無理だとおばに言われています」
「慣れてしまえば大丈夫だと思うけれど、今のままのあなたが好きよ。でも、大后さまのために少し釈明させてちょうだい」
その子は素直に「はい」とうなずいた。
「あの方とは長く同時期に内裏にいたので、私のことをよく知っていらっしゃるのよ。そして私も多少はあの方のことを知っているの。だからこれがベストだと互いにわかっているわ」
「はあ」
釈然としない、といった顔でこちらを見ているので、もう少し続けた。
「もし私が苦しさに耐えかねて救いを求めれば、一瞬のうちに完璧な支援を与えてくれるとは思うわ。いえ、そこに至る前にさりげなく助けてくれるでしょうけど、まだそれが必要な時期じゃないの。食べるに困っているわけでもないし、あなたみたいに素敵な女の子もいるし」
若女房は照れたように顔を赤らめた。だけどまだ納得はしていない。
「でも源氏の君は今とっても苦しい時期なのに何かと手助けしてくださるし、女御さまも時にはお願いをすることがあるじゃないですか。権力のある女には頼っちゃいけなくて、力を失った男には頼るべきなんですか」
あら本当に率直なタイプね。ちゃんとわかるように話してあげなくては。
「そうね。男だからというのは正しいわ」
自分で言い出したことなのにぎょっとして目を剝いている。もし、他に行くことがあるとしたら、そんな顔しちゃダメよ。
「あの人は男で、そしてとても誇り高い方なの。その上今は不遇で少し自信を失っているから、だからもっと心細い立場の私たちが頼ると、気を取り直してくれるのよ。春宮さまや中宮さまの後見でもあるけれど、高い立場の方々には会いにくい気分のこともあるのでしょうね」
「はあ」
「源氏の君はどんなに美しくて雅やかでも、とってもしっかりと男の方だからか弱い立場のものに頼られたいの。そうすることによってちゃんと立って歩けるの」
そういえば、今はもういないなかなか辛辣な女房が”男尊女卑のフェミニスト”と評したことがあったわ。
「だから彼に頼ることは私の矜持を傷つけないわ。実際にとっても助かっているし。だけど大后さまに頼ることは全然意味が違うのよ。あの方もこんなに立場が違っても、いまだ私を対等な存在として扱ってくれているの」
「だけど......」
「ええ、わかっているわ。今の私はそれに値しないわ。それでもあの方はその形を守ってくださっている。ありがたいことだわ。それに本当に困りそうなものは助けてくださっているのよ」
たとえば紙。秋に大后から「橘があるからには実がなるでしょう。それを分けてください」と言ってきたので持たせたら、一年分はありそうな紙がどっさりお返しに届いた。「もらいすぎて持て余していたので」とメッセージ付きだった。すぐになくなる消耗品は本当にありがたい。妹に不自由させないですむ。
源氏の君は目ざといので、女房の衣装がすがれてきた時などは素早く動いてくれるし、衣装関連の染料、たとえば紅などもよく贈ってくれるけど、ご身分がら紙などに不自由することがあるなどとは考えたこともないと思う。
「だから大后さまと私は今ちょうどいい関係なの。源氏の君を取りなしてあげられないのは残念だけど」
妹のためにはそうしてあげたいけれど、ちゃんと理性を持った方が自分の判断でしていることに口を出すのはおこがましい。私にできることは源氏の君の負担にならない程度に頼って、彼の自負心を刺激するくらいだ。
「そんなものなのですか」
「ええ。あなたももっと年を重ねたらわかると思うわ」
若女房は少し自身なさそうに微笑んだ。
そう語り合った言霊が呼んだのか、まだ月も出ない頃合いに源氏の君がやって来た。
「あら、また少しおやせになったのではなくて」
「悩むことがいろいろとありまして」
御簾越しに几帳のほころび(布の隙間の名称で、破れているわけではない)から見える源氏はいくらかやつれて見える。心労が絶えないせいだと思う。だけど顔色があまりよくないのはそのことじゃなくて、つい今何かショックを受けたように見える。そういってみたら「女御さまにはかないませんね」と苦笑し、「彼女にはないしょですよ」と口止めをした上で話してくれた。
「実は来る途中中川のあたりで、琴の音に気を惹かれまして......」
以前、軽くおつきあいをした人の家だと気づいたそうだ。
「一度だけ寄ったことがあるだけでだいぶ時がたってしまったので、そもそも覚えているかどうか。通り過ぎようとしたのですが、ほととぎすがそこにとまって鳴くものですから、ちょっと車を戻して惟光を使いにやってみました。だけどなんだか気取った感じで『聞いたような声だけど、よくわからないわ』って返されて、なんだかなー、他に通ってる男がいるんだろうなーって惟光が『あ、ごめん。間違いかも』と言って出てきたのですよ。彼にしてみれば『たとえ男がいたって、うちの殿が来たからにはもうちょっと色よい反応しろよ』ってことなんでしょうね」
「そうね」
女の気持ちもわかる。なによ今更って思いつつ、心を入れ替えて熱心に通ってくれるのなら待ってあげてもいい、という微妙な心だったのだと思う。いきなり来られても犬みたいにしっぽを振るわけにもいかない。
だけど源氏の君は最近不遇だから、部下の惟光さんも少し意固地になっていて「歓迎してくれないなら別にいいです」という気分になったのでしょう。頭の回転の速い方だから、以前ならもう少し余裕を持ってやり取りしたと思うけれど。
「それは残念でしたわね。妹のためにはありがたいけれど」
「間遠でも温かく迎えてくれる女御さまたちの優しさを思い知らされました」
ぺこり、と頭を下げる様子は愛嬌があって、けして品位は落としていないのだけど、この方の性分の明るさが滲む。悩みは多くても芯の部分に光があると思う。
「まあ。優しくしてくれる方はたくさんいるでしょう。この機会だから少しお話しなさいな。全部ないしょにしてあげますから」
「絶対ですよ。まずさっきの人と同じクラスなら筑紫の五節がかわいかったですね」
雨の合間のちょっとした恋バナは、彼の心を軽くしたみたい。妹には悪いけれど面白く聞いた。
「兵部卿の姫君は?」
「あちらの北の方はアレですからね。心細くしていたのを保護したのがきっかけで。私も淋しさはよくわかる方ですから」
その時の笑みはわずかに苦く、明るい彼の芯に含まれる抜き難い寂しさがそのまま鈍く光った。
「内々の家族って部分が大きいかな。ほら、父上にとっての私みたいな所がありますね」
院にとって今の帝は幼い頃から公で、私の部分は源氏の君がになっていた。血のつながりがあると愛し方まで似るのかしら。もちろん、妹のことを気づかってそう言っているだけかもしれないけれど。
「院はあなたのことを一番大事に思っていましたものね」
「......ありがとうございます」
皮肉にとられなかったかしらと慌てて彼を見ると、けしてそうは取っていず、院を懐かしんでかひどく儚い表情だった。彼は本当に頼る所のない孤児なのだ。なのに、私たちに優しく手を差し伸べてくれている。だから、心を温める場所が少し多くても責めたくはない。
「噂の尚侍の君は?」
彼はちょっと困ったように烏帽子に手をやり、少し掻くようなしぐさをした。それから腹を決めたようにまっすぐこちらを見つめる。私の方には灯りを置いていないから光度差で見えないはずだけれど、ちょっとドキっとする。
「とても華やかな方です。私のせいで困らせることになって申し訳ないと思っています」
噂通りの方みたい。春爛漫の桜の花が風に吹かれて乱れ飛ぶイメージが脳裏をよぎる。
「他の方のこともお話しなさって。長くおつきあいのある六条の方は?」
「逆にお尋ねしたいのですが」
ほんの少し声をひそめて私を見る。
「御息所は内裏にいる時はどのような方だったのですか。当時私は、父が連れて行ってくれた方のことしか知らなかったものですから」
当時の東宮も梨壷にいらっしゃったから、その前の麗景殿にいた私は彼女の気配を覚えている。
「とても美しく全ての才に恵まれていると評判でしたわ。あちらにいらしたとき腹心の女房がごあいさつに見えられて。その人自体もきれいでとても才長けた様子でした」
身につけていた萩の襲は今も思い出せる。許される程度の紫に合わせた白の気品が普通の姫君以上だった。まとっている香も際立っていて、この人が仕える相手はさぞやすばらしい方だろうと思えた。
「他の女房も行き来するのを見るだけで優れた人だとわかる感じだったわ。身に着けている衣装の色は普通、鮮やかであればあるほどいいでしょう。なのにあの方の配下の者は時には鈍さを含んだ色味さえ、ベストの合わせ方で人目を奪う尖ったセンスを持っていたわ」
私も染色には一家言あるし、妹が自ら染める色合いはくっきりとして素敵だけれど、あんなアートのような美意識はない。
「本人はそれ以上ですね。誰にも真似できないすばらしいセンスで尊敬していますが、私はこちらの方の染め物の方が気が落ち着きます」
「まあ。妹が聞いたら喜ぶわ」
彼女を誉められるのは自分のことより嬉しい。源氏の君は目の前に妹がいるかのように優しく目を細めた。
「凍るような気持ちの時もいつだって彼女はなだめてくれる。女御さまと同じで私の特効薬ですよ。からからにひからびた心に水を注いでくれるのも、暗闇に落ちそうな時に最初の灯を点してくれるのも、いつもあなた方です」
「あらあら。他にもたくさんそんな方はいらっしゃるでしょうに」
「そうかもしれません。ですが女御さまと彼女の席はいつも必ずあなた方のもので、そこは私にとってひどく大事な場所なのです」
まっすぐに語ってくれる言葉が胸の奥に届いて、そこがじんわりと温かくなる。彼の方こそが私たちの大事な光で、いつもそれを分けてくれる。
「あなたの優しさは院にそっくりね」
「そうですか。ありがとうございます」
彼はやわらかく微笑んで視線を外に向けた。夜は更けて、盛りを過ぎた二十日過ぎの月が天空に輝いている。そのせいでかえって、高い木立の影が際立って暗いけれど、橘の香りが優しくて恐くはない。
源氏の君は月を眺めながら昔を思い出したのか、少し目元を潤ませた。そんな彼を慰めるためか、垣根からほととぎすの声が響いた。
「先程と同じ鳥が追って来たのでしょう。どう知ったのか」
古歌に重ねて小声で口ずさんでいる。
「一首できました。橘の香を懐かしみほととぎす 花散る里をたづねてぞとふ(ほぼそのまま。橘の香を懐かしんでほととぎすが花散る里をたずねて鳴いている)昔の忘れられない思いを慰めるには、まずこちらに参るべきでした。ここでは気持ちもまぎれたり増幅したりしますね。人はその時の勢いに流れるものだから昔語りの相手も少なくなってきましたが、女御さまも同じ思いをすることが多いのではありませんか」
あら、私はあなたより耐性があるから大丈夫よ。そう思ったけれど後見のない女を守るために気力を奮う殿方の気持ちを尊重することにした。
「人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ(人も来ず荒れた宿の軒に咲く橘の花が、あなたを呼ぶきっかけとなったのね)」
それだけ言うと、彼は実の姉がいたら向けるような穏やかな目で私を見た。
私の住む寝殿を出て妹のいる西向きの部屋を忍びやかに彼は訪ねる。優しい妹だけど、本当は誰よりも賢いから、私にさえ見せないけれど、いろいろと考えたりして辛いことも多いと思う。
だけど今日は絶対そのもの思いも忘れることができるはず。なぜなら今宵の源氏の君は特別に美しくて、そしていつもよりずっと人恋しがっているから。
彼は妹の耳に優しいことをなにかと言うでしょうけれど、それはけしてそらごとではない。叶えられないこともあるかもしれないけれど、きっと全部本気で語っている。
ほととぎすがまた鳴いた。まるで二人を祝福しているみたい。
だけど本当に彼を追って来た鳥かしら。今日部屋に飛び込んできた鳥じゃないのかしら。
「いえ、絶対に違うと思います」
若女房が、なぜかこぶしを強く握って力説した。
五月雨の合間の、とてもささやかな思い出話。