説教
大后視点
源氏二十五歳
夜明けごろ天候が激しく崩れ、雷が鳴り響いた。なに、やかましいだけで大したことはない。役人どもや身内は大騒ぎしながら見舞いにきたが、わが女房たちは驚きもせず冷静に対応した。
一人一人が鍛え抜かれた歴戦の勇者であるから、極めて当然のことだ。
やがて雷雨も落ち着いてきたので白湯などを口にしていると、さっき来たばかりの父が足音も荒く戻ってきた。片手に文をつかんでいる。
「この文を見てください、なんと源氏の右大将の物ですぞ! 以前もかってにうちの娘に手をつけて腸煮えくり返りそうだったのに、仕方がないと思って婚姻を許してやろうとしたら気のない態度で、怒髪天を突く思いでしたわ。それでも帝が許してくださったから六の君を女官の形で差し上げたが、本来なら押しも押されもせぬ最強の女御として入内できたものを、あの男のせいでとくやしく思っていたのに今更手を出すなどとは、なんということを! あまりにもひどすぎる。あやつは六の君だけではなく、朝顔の斎院さえもくどいているという噂じゃ。評判もあることだし、まさかそこまではやらないだろうと疑いもせんかったわ!」
もちろん私は火がついた。
「帝なめとんのかあのガキゃあっ! いや、あやつだけではない、他のヤツらもですっ。特に六の君っ、かわいそうだからこそ無理を重ねて、人に劣らぬようにと気を配り、あの阿呆を見返してやれと私の殿舎まで与えたのですよっ。何考えてるのだあの小娘はっ!!」
幼い頃から近くにいる父が、怯えた表情で身を引いているがそれどころではないっ。怒髪天どころか宇宙まで貫くわっ。
六の君のことは手を尽くした。最大限努力したっ。
本来の女御待遇が不可能な状態にされたから、女官にするしかなかったが、父のつけた御匣殿以上の高級官僚の尚侍に目をつけて、でも定員は二名、若い方はこちらの関係者なのでもっぱら年取った方を必死にリストラしようとしたが相手もなかなかしぶとくて、説得に説得を重ねたがやめてくれず、院がお亡くなりになって四十九日もすぎやっと相手が尼となり、去年の二月にようやくつけることができたのだ。
住む場所だってそうだっ。あの子は北側の登花殿にいたが、陰気でイヤだというからわが宿りの弘徽殿、最も偉大で有力な女の住む栄光ある殿舎をわざわざ与えたのだぞっ。そのおかげで他の女御たちさえ無視できない存在となったことをわかっているのかッ。そのため私は品はいいが地味な凝花舎(梅壷)に移ったのだっ。もっとも今は里に戻っていることの方が多いがなっ。
誰か誉めろっ! とにかく誉めろっ! 私の苦労がわかるヤツはいないのかッ!!
「斎院のことも噂通りなんでしょうよっ。世の中の秩序全てを破壊して、荒らしたあげくにさっさと帝の代が替わればいいとでも思っているに違いないっ!!」
完全に逃げ腰の父が、なだめるように両手を水平にして上下に動かした。
「そ、そうではあるが、このことはないしょにしておこう。帝にも奏上すまいぞ。帝はあの子にぞっこんであるから、少し甘えすぎておるようなので内々に説教することにしよう。言うことを聞かずともその罪はこの父が請け負おう」
あの源氏の野郎め、この私のいる邸に偲んでくるとはいい度胸だ。さぞやこちらを侮っているに違いない。ええい、目にもの見せてくれるわ。
「で、ではいったん落ち着いてからまた。六の君にはわれが話すので、くれぐれもせっかんはならぬぞ。摂関家であろうともじゃ。それではご機嫌うるわしゅう」
うるわしいわけがあるかっ!! 更に文句を付けるべく父をにらんだが、彼はさっさと席を外してしまった。
憤懣やるかたない。あの疫病神め。たかが卑小な一介の源氏の身で、帝を擁し奉り太政大臣の地位にさえリーチのかかったわが一族をコケにするとは何ごとだッ。おまえが輝いていた時代は終わったのだ。もはやおまえは何ごとも許される身ではないっ。
「後で六の君をお呼びしましょうか」
女房が尋ねた。私は檜扇をへし折りながらうなずいた。
「父の後にすぐ呼んでも、どんな忠告も耳には入らないであろう。昼すぎに呼びなさい」
見よ、この冷静さを! 日頃の修練の賜物である。
うなずいて外へ出て行った女房と入れ違うようにして、いつの間にか消えていた乳母子が戻ってきた。
「イヤミの一つも言ってやろうかと覗きにいったのですが、実に素早い、あの男はもういませんでした。まったく、源氏といい中宮といい仕事を放棄して何をしているのでしょう」
「あの女を中宮と呼ぶなっ!!」
怒鳴ると、先程の雷に顔色一つ変えなかった女童が、不安げに腰を浮かした。だが少し年長の者が励ますように手をつかみ、一つ二つうなずいてみせるとはっとしたように大きくうなずき、きりりと勇ましく前を向いた。
「はあ。それではなんと」
「中宮だった者でも入道の宮でも好きに呼べ。もはやあの女は中宮ではないっ」
逃げたのだ。私が、後宮の女たちが血を吐くような思いで渇望し、目指し、人生を賭けた地位を横からかっさらい、院が亡くなって価値が下がるとゴミのように捨てたのだっ。
「出家しただけで中宮をやめたつもりはないのでは?」
「その職務をなんと心得るッ!」
中宮という職にどれだけの経費がかかると思っているのだ。自身の御封(給料)もあるし、中宮付きの役所も設けられる。その他も様々な経費がかかり、特に人件費は目眩がする程かかるのだ。
それでもこの地位が用意され機能しているのは、権威の具現化の意味があるからだ。
人は即物的な生き物だ。始終目の前に見せつけられなければ、すぐに己を支配する者を忘れる。しかし並の者はその端くれすら目にすることができない。
行幸(帝の外出)は一大イベントだから、そうやすやすと行われるものではないのだ。
しょっちゅう行き交う摂関家の者にその威光の片鱗は見るであろう。だが、それによって徐々に意味を書き変え、摂関家を最上の権威としてしまうことはわれらにとっても諸刃の剣だ。
臣下の籐家の者が最大の権威となると、同族での争いも大きくなるし、また不測の事態が起こって政権が奪われた際に奪い返す機会がほぼなくなる。その上万が一、別氏族に取られたりすると二度と返り咲くことはできないだろう。
長いスパンで考えると、皇家の権威は臣下の者とは分けた方がいい。
通常の状態なら中宮の位は最も有力な摂関家にあり、この場合は皇家との結びつきを誇示できる。だが皇家出身の女が中宮である場合には、直接的には皇家の威光のみを高めることになる。まあ、それを支える一番の臣という形で間接的には籐家にも利がないわけではない。
つまり、なんにしろ中宮は華やかにふるまう義務があるのだ。それこそが唯一の仕事だ。あの女はそれを放棄したのだ。
「中宮側の者は不満を訴えているようです。当然の権利を侵害されていると」
「その辺の貧乏たらしい坊主と同じ格好になって、権威を見せつけることもなく消費もせず、かといって徳ある僧と同様に寺にこもって修行を積むわけでもなく、自分の家でかって気ままな念仏三昧、そのくせ権利と御封だけほしいとは厚かましいっ。働かないヤツに給料などやるなっ」
大いに怒った。あたりまえだ。中宮位を安定した収入と権力をもたらす都合のいい道具だと思うなっ。義務と責任を伴う重要な地位でその上............
————帝の唯一の本当の妻の座だ
私が望み、そして手に入れられなかった席。あの人の正式な妻の座。それを今になって捨てるぐらいならなぜ奪ったっ。あの女にとってはその程度のモノなのかっ。
現在の状況は言いわけにならない。先の事を想像する頭がついているのなら予測の範囲内であろう。
「院が亡くなられてこちらの力が強くなったので、尻尾を巻いて逃げ出したのですわ」
「反省の意を表すために出家したのでは?」
仏を道具にするなッ。大体、院は出家せずに亡くなったのだ。同じ場所に行けなくなるかもしれないから、私は絶対に出家などしないっ。
小声で呟くと傍らに控えた乳母子が「しかし大后さまは常々神仏など人のためにあるのだ、とおっしゃっているではないですか」とつっこみを入れた。私はキッ、とにらみ「意味が全然違う!」と返した。
「逃避のための出家など不誠実だっ」
「はあ。それではたとえばどのような意味で」
少し考え、逆に尋ねた。
「うちでは毎日神仏に花や水、米や果実や野菜などを供えるがあれをどう見る?」
「考えたこともありません。神仏やご先祖へのお供えとしか思いませんが」
まあ、凡庸なこの女の答は想像通りだ。
「私はあれを非常食と見ている」
「へ?」
きょとんとする彼女に、応天門の変の話をしてやった。門へのつけ火を発端として伴善男大納言の一族が滅び、藤原氏の他氏排斥が完成するきっかけとなった事件だ。
「あの話がいわれ通りであったかどうかは知らぬ。が、それ以降権力は籐氏のものとなった。しかしその後表面は優雅だが同族同士がくらいあう世の中となっていった。歴史は繰り返す。次は籐氏内であのような騒ぎが起こらぬとも限らぬ。もちろん私は知力を尽くしてそのような状況を避けるつもりだが、うちのバカ兄どもを見ていると何かと不安だ。もし万が一わが邸が襲われた際、私は神仏を背に女ながらも獅子奮迅の働きを見せようと決意している。そのためにいつでも飲用、食用に耐えうるように神仏の供えは新鮮な物を用意させている。供えとは備えだ」
あっけにとられた乳母子が目を見開くが、こちらの決意に微塵も嘘のないことに気づき、おそるおそる尋ねてきた。
「あの......花や香などは?」
「むろん、死体のにおいを消すためだ」
聞くまでもない。答えるとなぜか乳母子ははらはらと涙をこぼした。
「大后さまが平安の世の女御なぞではなく戦国の世の武将として生まれていたら、さぞや名をなしたでしょうに。残念です」
「いや、后としても完ペキだから泣かずともよい」
涙を抑える彼女を放置して視線を御簾の外に向けた。内裏とも仙洞御所とも違う派手やかな南庭が広がる。幼い頃から見慣れたはずのその景色に何か不足があるような気がして目を反らした。
空は青く晴れ上がり、朝方の雷雨の気配を残していない。だが現れた妹は顔色も悪く、半日にしてやつれはてたかのように見える。眉も動かさずに視線をあてると、私の前まで来て茵をよけて座りぬかずいた。
「床に白粉がつく。面を上げよ」
震えながら彼女は顔を上げた。さすがに恐ろしいのだろう、血の気が全くないがそれでも気丈に涙は見せない。最初から泣いてごまかそうとしないのは気に入った。だが私の声は情など見せずに冷たく響く。
「おまえには失望させられたわ」
「......はい」
ひざに乗せた手が固く握られている。泣くまいと必死に力を込めている。
「以前聞いた花の宴の後のことはこれ以上責めない。おまえもうかつだったとはいえ、予想もつかぬ事ではあったし、わが殿舎の守りも足りなかった。だからそのことはもういい。だが私は大いに怒っている。まずおまえはバカではない。これが兄の娘のおこしたことであったのなら、知能の足りぬ者は仕方がないとさっさとあきらめ、女御の役を解いてやって好きにさせてやる。だが幼い頃から娘同様に見ているおまえにそうは思えない。確かにおまえは后を目指す教育を受けてはいなかったが、籐氏にとって女の立場がいかに大事か、その程度のことはわかっているはずだ」
「はい......」
しおらしげにうなずく様はなかなか可憐だ。とても一族を裏切って二股かけている女には見えない。
「おまえは帝が嫌いなのか」
驚いて顔を上げ、子どものように首を横に振った。
「もし好まないのに無理に捧げられたのだとしたら今言え。配慮してやる」
「嫌いじゃない、好きです」
「こちらから尋ねたわけだから叱りはせぬ。正直に言え」
「本当に好きですっ」
「だったらなぜ、平然と裏切るッ!!」
必死に止めていた涙が頬を濡らし、彼女は慌てて袖でぬぐった。
「帝をただの当て馬だとでも思っているのか。現人神であるからには心などないと思っているのか。どのように心の蔵を裂いても血など一滴も出ないと考えているのか。確かに帝はおまえを責めたりはしないだろう。しかしあったことに気づかぬほど愚かではない。あの方は幼少の頃からあまり不満を述べる方ではなかった。いつも痛みを呑み込み、けして他者を傷つけないように心がける方だった。自分が帝となる身であることを誰よりも自覚して、自分のひとことがどんな重さを持つかを理解していた。一見優柔不断にも見えるその態度が、先を見据えたあげくの逡巡であることに気づかぬ者は多い。だがおまえだけは、あの欲の薄い帝がわざわざ働きかけて側に置いたおまえだけは理解してくれることを期待したこの私が愚かであったのかッ」
六の君の涙は止まらない。抑えても抑えても次々にあふれる。
「今私は国の頂きに最も近い立場だ。そこは気苦労も多く恐ろしく孤独な位置だが、それですら帝の位と較べることはおこがましい。彼は国で唯一の、人であることすら許されない地位にいるのだ。生身の心と体と熱い血潮を持ちながら。その孤独な帝王をおまえは裏切り嘲笑した。そのことをわかっているのか」
寝殿の母屋はしんとして、夏なのに空気が凍ったようだ。風さえ拭かずに御簾や几帳も揺れもしない。強い日射しさえ凝ったように見える。
「そもそも私は、帝の依頼がなければもう、おまえを上げるつもりはありませんでした」
女官として立派に務めを果たし、他者からの敬意を勝ち取ればよいと思った。
「きちんと役目をこなし、おまえの力が並ではないことを見せつけることがあの男への意趣返しになると思っていました。だが、止めたのに父はあやつに婚姻をほのめかしてあっさり断られ、おまえに至ってはそのような辱めを受けてなおかつ誘い込む。女としてのプライドはないのか。私は腹立たしくてなりません」
六の君はうつむいたままだ。涙もえんえんと流れ続ける。
「だが振り返ってみれば、もともとは弘徽殿の不備から起こったこと。それにわが右大臣家の女は情が深い。全ての女が最初の男に縛られる。これまではそれが正式な相手であったため悪いこととも思わなんだが、おまえにとっては酷なことだ。それでも、あきらめきれぬのなら帝の元へ上がる前に言ってくれたらと、母としての私は強く思います」
なんのたしにもならない過去の仮定は大嫌いだ。なのに未練たらしく口をついて出てくる。
「同時に姉として、これ以上おまえに傷をつけぬためには何をしてやればいいのかとはなはだ悩みます」
腹立たしいがいとおしい。くやしいがこの子は妹というより娘に近いのだ。どうしても憎みきることができない。
「......ありがとう」
涙を宿したままの瞳がわずかに輝く。知性はあれど情の方が強いこの子の、嘘のない感謝が夏の日射しのようにまぶしい。
「それと、ごめんなさい」
まったくだ。おまえは次世代右大臣家の希望の星なのに。
「帝のことは本当に好きなの。だけど、あの人のことを考えると胸が弾んで他のことを考えられなくなるの。私自身が琴になって弾かれる前から音を奏でようとしているみたいに」
————弘徽殿さんは何がお好きですか? 音の遊び? 私も大好きです!
きゅん、と胸の奥が音を立てる。何かが生まれそうになるのを強引に押しとどめ、自分の中の奥深い中に閉じ込める。今更生まれても仕方がないものだ。
「それでは今後どうするつもりですか」
「......どちらにも会いません。尼にでもなろうかしら」
たまった怒りが炸裂した。室内の几帳がみな倒れた。
「仏はおまえの便利屋ではないっ。都合よく使うなっ!!」
なぎ払ったようにみなが平伏する中、一人だけ平然としている乳母子が「ではいかような場合に出家すればよいのでしょう」と尋ねた。律儀な私は怒りつつもその問いに答えた。
「考えうるに三つはある。一つは本気で仏に身も心も捧げる場合、二つめは人生見るべきものは見つ、と人の世に背を向けて悔いない場合、三つめは戦略的手段としてこれ以上ないほど有効な場合だっ。三つめは利用だが超絶考え抜いた結果なら許してやるっ。おまえのはそのどれでもないっ。そんな安易な出家は世間が許し仏が許しても、この私が許さんッ!!」
顔を上げた六の君はさっきよりも大きく震えている。ちっ、と舌打ちしたい気分を押さえて「ともかく部屋にこもって謹慎しておけ。内侍の仕事が届いたらちゃんと処理しなさい」と指示して対の屋に帰した。
「あの子の女房たちも出来が悪い。どうせ気づいていた者もやっかいだと思って黙っていたのであろう。三分の一ずつうちの者と入れ替えて大いに鍛えなさい」
さっとわが女房たちが動き、一瞬後には素案を作り上げて行動を開始した。乳母子だけは一人気楽そうに座ったままだ。
「ああおっしゃったらまさか出家はなさらないでしょう。心配なのは駆け落ちぐらいですが、うちの者があちらに行けばそれも防げますね」
「そもそもあの男にそこまでの気概はなかろう」
それほどの執着があるのなら正式に北の方として娶ったに違いない。
「まったく、責任とれないのなら来なきゃいいのに。大体なぜ最初、弘徽殿に忍んできたのでしょう。肝試しでしょうか」
きっ、とにらもうとしたが脳裏を掠めた何かに気をとられた。なにかひっかかる。それは......
先程の六の君以上に私は青ざめた。わななく唇を一度かみしめて震えを止め、小声で乳母子に呼びかけた。
「わかったような気がする」
「なんでしょう。深い謎が隠されているのですか。凄いぞほーむず、と言いましょうか」
「いや、いい。だがこれはおまえにだけ話すから内密にしておけ」
「そんなに大変なことなのですか」
「内裏を揺るがす一大事だ。どうしても闇に葬らなくてはならない」
「わかりました。絶対秘密にいたします」
息をいったん吐いてまた吸い込み、気を落ちつけてから声をひそめて語った。
「あの男は、源氏の大将は、この私に懸想しておったのだ!」
「な、なんですってーー!!」
いきなり絶叫する乳母子をブリザドを使って黙らせた。彼女ははぐはぐと口を開け閉めし、その事実の重さに耐えきれないようだった。
「......そんな、命知らずな」
「危険な恋ほど男に火を点けるものだ。ましてあの、院に甘やかされてどこまでも思い上がった源氏だ。そしてこの年さえ感じさせぬ美貌の私だ。けして不思議ではあるまい」
「いやちょっと......えー、危険すぎやしませんか。あらゆる意味で」
「並の男ならな。あの日私が院、いや帝の元へ呼ばれていることを知らなかった彼は、長年の思いを告げようと弘徽殿に忍んできたのだ」
「そんなバカな」
「そう、愚かな男だ。この私が応える可能性など皆目ないのだからな。だが胸の思いはやまずついに決行したが運悪く目当ての私はいず、この私の面影を宿した美少女がいた。これがこの事件の真相だ!」
偉大なる私の明晰な推理に感極まった彼女はまた硬直しているが、温情としてほっておいた。
そう考えると全ての辻褄が合う。そもそも院がいけない。彼は親を亡くした源氏を私の御簾内に連れ込んだ。あの男は私の素顔を見ているのだ。そのあまりの美しさに感じ入った源氏は、長じて後も忘れることができなかったのだ。
なんとあわれな男だ。今までことさら右大臣家の気を逆立てるようなことをしていたのも、この私の気を惹きたいがためだったのだ。今回の騒ぎもわざわざ私のいる邸にまで出向いたのはそういう意味があったのか。謎は全て解けた。
しかしいくら思ったところで、私の心は全て今は亡き院のものであるからあきらめるがよい。それに私自身に青春の全てを重ねて失った幸福及び母性の象徴として見ているのかもしれぬ。うぬぼれの欠片もなく冷静な私であるからこその考察だ。いやその発端となった私の美貌は罪深いかもしれぬが。
わかってみると六の君がかわいそうで仕方なくなってきた。知らぬうちに彼女は私の形代に仕立て上げられたのだ。いやあの子はあの子で魅力があるからある程度は彼女自身をも気に入っているだろうが、幼い時から胸に輝く私への思いにはかなわぬのであろう。先程は怒鳴ってしまったが、今度からもう少し優しくしてやろう。
そう心に決めた。源氏自身はどんなにこちらに焦がれても許してはやらん。つれない高嶺の花として一生仰ぎ見ておけ。この後どんどん生きにくくなるだろうが自業自得だと思え。
考え終わって湯でも飲もうかとした時、一瞬だけ何か違和感のようなものが脳裏をかすめたような気がしたが、それがなんだか思いつくことはできなかった。
夜半、ふいに目が覚めた。
院が亡くなられてからそのようなことはよくある。特に日中あのような想いをした時は。
御帳台(平安ベッド)の帷(垂らした布)のずっと遠くに、釣灯籠の灯りがぼんやりと見える。宿直の女房たちはみな眠っているらしい。
色合いも全て沈んで見えるのに、なぜこの桜襲だけは鮮やかに見えるのだろう。
過去の私の姿をしたものはふらりと立ち上がった。
ああ、まただ。
どんなに閉じ込めておいてもいつもこの女はするりと抜け出す。
やはり葬るべきであった。
すでに死んだはずのその女はふらりと歩き出す。むだなことなのに。
どんなに歩いても地上のどこにもあの人はいない。
それでも彼女はふらふらと、思う相手を捜してさまよい歩くのだ。
いいかげん消えればいい。私の虚しい恋心よ。
あの方が生きていた時でさえ満足することなどなかったのに。
それでも何度殺しても、いつの間にか生まれてきて私を苦しめる。
私自身の手ではとどめを刺すことさえできないのか。
彼女は私を見ることもなく、おぼつかない足取りでどこかに消える。
また、夏でも凍りつくような道を裸足で歩いていくのだろう。
救う手段を私は知らない。救われたくもないのかもしれない。
私にできることは見送ることだけだ。
探すのに疲れたら戻ってくるがよい。
そうして気がすむほど泣けばいい。
無言で、どこか遠くに行く恋心を見つめた。
灯りはいつしかぼやけ、女の姿も見えなくなった。