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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
62/89

露見

右大臣家六の君=朧月夜の君

源氏二十四〜二十五歳

ほぼ源氏側視点

 雲林院(うりんいん)の秋は鮮やかに訪れ、紅葉は焔のように色づく。寺で修行する僧たちの墨染めの衣が、対比でその色を映えさせている。

 見渡す野の美しさは里を忘れそうなほどだが、心の悩みはそれでも源氏から眠りを奪う。仕方がないので学才のある法師たちを全部呼んで、夜通し学術論争をさせてそれを聞く。はなはだ迷惑な男である。


 場所柄ひときわ世の無情が感じられる。と言ってもつれない人のことを考えているので、さして哲学的な思考とは言えない。


 それでも、夜明けに閼伽(あか)(水)を供えるための音や、そこに飾られる菊の花の香、濃き薄きの彩りをもたらす紅葉などが胸にしみいる。おじの律師(りつし)(そこそこの身分の僧)の経読む声もとても尊い。すっかり感じ入って気分が高まる。与えられた部屋に戻っても納まらない。


「......出家したい」

「却下」


 間髪を入れず、源氏の傍に控えていた乳母子(めのとご)惟光(これみつ)が否定する。言いつのろうとすると部下の良清(よしきよ)朝臣(あそん)(五位以上の人につける敬称)も、にこにこしながらそれを止める。


「やめた方がいいですよ、殿。一生エロいことできません」


 ストレートすぎるが的を射た言い方に、思わず源氏がぐっとつまる。その様子を惟光が白い目で見ている。良清は更に言葉を重ねた。


「私は殿のことが大事ですが、ごいっしょに出家はできません。なぜなら女が大好きだからです。でも、殿がどうしてもそうなさるのならお手伝いはしますし、評判の美女かなんかとつきあえたら、どんなだったか報告に行きますよ」

「殿のご発心(ほっしん)を、そんな風に俗に扱ってはいけないよ」


 ひどくきらきらしい男がまじめな顔で良清を叱る。右近(うこん)将監(じょう)で、六位の蔵人(くろうど)でもある男だ。二年前の車争いの時、特別に源氏の臨時随身(ずいじん)(公的SP)を勤めた青年で、空蝉(うつせみ)の夫の二人目の息子にあたる。兄の紀伊守(きいのかみ)に似ずさわやかなイケメンだ。


「本気で言ってるんだけど」

「そうか。でも失礼だろう」


 やんわりと止めると「これから参内(さんだい)しなければならないので」と源氏にわびて、寺を出て行った。良清が少し不満そうに「まじめか」と呟いた。


「あいつ、あだ名をできすぎ君にしようぜ」


 口を尖らせて惟光に言っている。むしろその名は自分にふさわしいと源氏は思うが主張はしない。


「本人には言うなよ。貴重な人材なんだから」


 眉目秀麗、文武両道、心優しく義に厚い。容姿の程も源氏の域にはまだ遠いが、親しみやすくていいと女房たちの人気はかなり高い。

 なんだかキャラがかぶるようで意識の底でいらっとするが、親しかった男たちでさえ離れていく現状を思うと、デメリットしかないのに仕えてくれる好意をむげにできない。


「いいヤツなのは確かだから、殿が出家なさったらあいつも頭を丸めるかもしれないな。とすると嘆く女を慰めたらフラグが立つかも」

「阿呆、殿の出家は却下だって言ってるだろ」


 惟光がドスを利かせた。ここで強引に主張したら面白いとは思ったが、二条の姫君が心配でそうもいかない。気になってみちのく紙で文をこまめに出すと、かわいい返事が返ってくる。お手本である源氏の字に似ているが、もう少し優美な女らしい字だ。


—————さすが私。育てるの上手(うま)


 にやけつつも安心した途端、別の女が気にかかる。院の病没を理由に弘徽殿(こきでん)腹の女三宮が下りたので、現在の斎院(さいいん)は朝顔の君だ。

 (インポートもの)の浅緑の紙に、くどき文句を書き連ねて送る。紙の違いは気合いの入り具合の差と見ればいいのか、身分差の配慮と見るべきか。後に明石の君を本気で落とそうとした時に、高麗(こま)胡桃(くるみ)色の紙を使っていることを見るとたぶん前者だ。


 なんとか返事も来たので機嫌も良くなり、『朝顔の君も大人っぽく綺麗になっただろうなあ』とか『去年の今頃は野宮の別れが切なかったなあ』とか好き勝手考えているうちにますますハイになって、天台宗の教典六十巻を僧に解釈させつつ一気読みしたりしている。


 後に息子の夕霧が、大学につっこまれてえらい目を見るのは、この辺の経験が影響しているのかもしれない。源氏の学識はなかなかのものだが、若い自分にもう少し学んでおくべきだったとの後悔が滲む。それすら攻めの姿勢で現れるあたりはやはりさすがで「父上が心配したからそんなにやってませんが、能力はもともと高いので。だから私程ではないけれど、息子も多少はできるでしょう」と言わんばかりだ。


 もちろん僧侶たちは源氏の様子に大喜びだ。


「われらの勤行が実を結んで、このような光が生まれたのだ」

「これで仏の面目も立ちますぞ」


 と下っぱ法師まで騒ぎたてる。女っ気のない寺に、女と見まごう美貌の貴公子がやって来たわけだからたたでさえひいき目に見るし、その上まじめに自ジャンルの学問をするのだからそりゃあ嬉しい。さびれた山村の駅に大人気アイドルが一日駅長さんとしてきた上に、意外なことに通常業務までこなしたようなものである。

 更に言えば金を取るどころかくれる。気をよくした源氏がお布施をはずんだので、もう、その辺のじいさんまでやって来て感動して泣いている。全坊主が大ハッスルして、いまだ喪服で渋く決めている源氏の帰りを見送った。



 二条院では帰りを待ちかねた紫の上が、なんだか焼きもちを妬いている。とてもかわいい。中宮(ちゅうぐう)にも紅葉を送るが反応が悪いので恨めしく思う。それでも三条宮に帰ると聞けば、さすがにお供に行ってやろうと思い立ち、まずは帝にあいさつに行く。


 兄である帝はのんびりしていたので、お話相手を務める。彼の容貌は亡くなった院によく似ているが、もう少し優美でものやわらかな雰囲気だ。二月に尚侍(ないしのかみ)についた朧月夜(おぼろづきよ)の君のことも、もしかしたらバレているのかもしれないが責めたりはして来ない。


 会話は弾む。学問関係から恋バナまで気楽に続いて、帝は去年の秋に斎宮(さいぐう)下向(げこう)(都から地方へ行くこと)した時、凄くかわいかったと話してくれる。源氏ものその頃を思い出して、野の宮の別れの風情などを打ち明ける。


 夜も更けて、冴えた二十日の月がようやく輝くの見て帝は「音の遊びでもしたい月だね」と言って微笑んだ。

 優雅で穏やかで温かい。本当に大后に似なくてよかったと思う。ほっとしつつも、なんだか軽く意地悪をしたいような皮肉を言いたいような気分で


「中宮の退出のお供しなければなりません。院のご遺言もありますし、春宮(とうぐう)の後見は私しかいませんしそのお母上ですから」


と告げた。なんとなく、がっかりされることを期待したが帝は笑顔のままだ。


「院は春宮を私の養子に、とおっしゃったので、あの子のことを特に大事に思っているけれど、できる程のこともない程立派だね。字なんかも年の割には上手だ。何ごともはかばかしくない私の面目が立つよ」

「利発でいらっしゃいますが、まだまだお子ちゃまですから」


 傷つけようと思ったわけではない。いや、本当に違うのか。よくわからないがこんな答がほしかったわけではない。

 母は遠い昔に死んだ。父も死んだ。おじさんは出家して世から離れている。弟や妹はうじゃうじゃいるが、兄はこの人一人しかいない。


 複雑な気分で場を辞した。不満はある。彼はもう少し我を通して私を守ってくれればいいじゃないか。いやまあ帝は守られる立場の方だ。それはわかっている。しかし幸薄い私の血のつながった肉親で、世にいる年長者はもう兄しかいない。もっと全力でかばってくれるべきである。


 と源氏がかってな悩みにふけっていると、内裏(だいり)の中で、大后の兄である(とう)大納言(だいなごん)の息子の(とう)(べん)というチャラいやつに出くわす。妹の麗景殿(れいけいでん)女御(にょうご)の元へ行く所らしい。無視して通り過ぎようとすると相手が口ずさんだ。


白虹(はっこう)、日を貫けり。太子、()じたり」


 史記の一節だ。(えん)の国の太子(たん)が、始皇帝を暗殺するために刺客を放ったが、白い虹がお日さまを貫くのを空に見て、バレてるとびびったという逸話だ。


 兄に対して多少の恨みはあるけれど、もちろん暗殺など思いもよらない。うんざりするが、あの見敵必殺・ご意見無用の大后の親族だ。ここはスルー、スルーですよ私、と自分に言い聞かせてその場を去った。



 日に日に人は冷たくなり、慣れない事態に源氏はめげている。あの頭の弁のことも後からじわじわダメージが来た。あんなウェーイ系に好き勝手されたかと思うと、心の中で何かが咆哮する。なにもかにも嫌になって朧月夜にも会わず文も書かない。すると、早くも晩秋らしく初時雨(はつしぐれ)が降るもの寂しい日に、彼女の方から文が届いた。


「木枯らし吹くたびにあなたの文を待っていたのに、不安なまま時がすぎちゃったわ」


 さすが私のキュートでセクシーな小悪魔姫君、ああもう、帝近くからメールなんてやってくれるじゃないか。と、源氏はがぜん奮い立ち、文使い(配達人)を留めて、凄い勢いで厨子(ずし)(扉付き棚)を開き超上等な唐紙(インポートもの)を取り出し、筆まで選び抜いて返事を書いた。女房たちが「何ごと?」「誰あて?」と袖を引き合う程である。


「お手紙しても虚しくて、私だけが悩んでいるつもりでした。ねえ、今降っているのをただの時雨だと思ってる? 君に会えない私の涙さ。心が通いあうのなら長雨だってハッピーだよ」


 めいっている時の文は嬉しい。しかもそれがこちらのコンプレックスを吹き飛ばしてくれる相手ならなおさら。右大臣家にも帝にも勝ったような気分で、文の頻度は増していく。その他の女性からの物は、もっと適当にあしらった。



 そうこうするうちに院の一周忌で、更に続くようにして中宮主催の法華八講(ほけはっこう)(追善イベント)があった。とても豪華でセンスがいい。もちろん出かけて手伝ったりしているうちに最終日になった。さぞお疲れだろう、ぜひねぎらって差し上げたいとのんきに思っていたら、彼女に爆弾発言をかまされた。


「私、今日出家します」


 そ、そ、そ、そ、そんなバカな。心の内でどもっていると、リアルにどもりながら兵部卿(ひょうぶきょう)御簾(みす)内に入る。いくらお兄ちゃんだからってズルい、私だったらもっと上手に説得するのにと、歯がみしつつもまさか人前で入り込むわけにはいかない。


 案の定、兵部卿は説得に失敗して、あれよあれよという間に中宮は出家してしまった。


————一生エロいことできません


 良清の声が耳元でエコーする。源氏ははらはらと涙をこぼした。


 その後はどうやって帰ったかも覚えていない。二条の邸の自室に一人で身を横たえて、眠ることもできない。自分も後を追って出家したい程だが、春宮がかわいそうでそうすることも無理だ。惑乱したまま夜を明かした。


 それでも彼は現実的だ。次の日には出家用の道具を注文し「年内に」と急がせる。師走の十余日から大みそかまでとはあまりに職人泣かせである。王命婦(おうみょうぶ)もいっしょに出家してしまったので、彼女の分も作らせる。


 出家の功徳はほんの少しはあって、中宮のつれなさは薄らぎ、取り次ぎを通さずに会話してくれることも増えてきた。源氏も胸の思いは消えないけれど、さすがに無体を働くことはなくなった。



 年も変わって諒闇(りょうあん)(国家的な喪中)も明け、内裏では内宴(ないえん)踏歌(とうか)などが華やかに行われるが、中宮のすむ三条の宮はよそ事である。増設された御堂で彼女は念仏ばかり唱えている。


 正月系イベントも白馬(あおうま)節会(せちえ)だけは三条宮まで出張サービスがあったが、男踏歌などの訪れはなかった。参賀の上達部(セレブ)もそちらにはエンガチョしつつ、向かいの右大臣邸に行ってしまうという始末である。


 そんな中源氏の訪れは、諸手(もろて)をあげて歓迎された。彼はうってかわった出家の住まいにしばらくは物も言えなくなる。だが御簾(みす)の端や几帳(きちょう)青鈍(あおにび)(青みの強い濃灰色)も、隙間から見える薄鈍色(うすにびいろ)や尼僧の定番のくちなし色の袖とか、これはこれで上品でイけてると源氏は思った。


 もともと三条の宮は風雅だ。春到来で溶けていく池に残った薄氷、岸の柳の緑の趣に時を忘れて眺めてしまう。

 互いに和歌を交わして、御簾と几帳越しだけど見つめあって、声を直接聞くと、尼さんたちの前なのに涙がこぼれてしまう。恥ずかしくなってすぐに帰った。



 日々は転がるように進んでいく。

 司召(つかさめし)(人事異動)の時になったが、三条の宮関係の人は全く昇進できなかった。中宮特権さえ無視された。


 もちろん、源氏側の人間も同じだ。左大臣は辞表を出し、帝の慰留を固辞して引きこもる。となると評判のいい彼の息子たちもはかばかしくはない。三位(さんみ)中将(ちゅうじょう)(昔の頭中将)も面白くなく、右大臣家の四の君である正妻の元にもとぎれとぎれにしか通わない。

 それには右大臣家も気を悪くして、今回は彼すら出世できなかった。


 世間体を考えて彼はまずは仏事に励み、やはりひきこもり中の源氏と張り合っている。それはだんだんエスカレートして、暇ある博士を集めて漢詩作り漢字ゲームなど、仕事もせずに遊びまくる。さすがに世間も彼らを非難し始めた。



 夏の雨がのどかに降ってつれづれなる頃、三位中将が「やあ、今日も遊びましょう」と山ほど漢詩集を供に持たせてやって来た。

 こちらも書庫を開けさせて、珍しいものを引っ張り出す。学者もたくさん呼んでいるし、二チームに分けて争ってみる。ゲームはけっこう難しくて、学者でも迷う所を時々源氏があてたりする。学問の才はかなりのものだ。もちろん中将に勝った。


 日を改めて中将が罰の”負けわざ宴会”を開く。大げさではないが品のいいお弁当や賞品をたくさん用意し、いつものメンバーも呼んで漢詩も作る。


 白居易(はっきょい)の詩のように(きざはし)のもとに薔薇がいくつか咲いていて、春や秋より落ち着いた感じだ。

 花の影から八、九歳ぐらいの可愛らしい男の子が現れた。中将の正妻腹の次男くんだ。


 かわいい上になかなか賢い。今年、殿上童(てんじょうわらわ)として宮中に上がる予定である。(しょう)の笛も歌も上手で、愛らしい声を張り上げて高砂(たかさご)なんかを歌う様子はちょっと他とは較べられない。思わず源氏は御衣(おんぞ)を脱いで、彼のほうびにした。


————あ、この感じ


 時がプレイバックする。人より優れて愛らしい声で歌う童。それをにこにこと見守る年上の少年。今も変わらぬ優雅な笑顔の持ち主は兄だ。


「光は歌うのも上手だね。じゃ、ごほうびにこの衣を」

「ストップ。いい加減にしなさい」


 止めたのは当時の弘徽殿(こきでん)の女御だ。怒っているわけではないが厳めしい表情で、息子の東宮(とうぐう)を叱った。


「毎日のようにやったら価値が下がります。帝や東宮が下賜(かし)するのは特別な場合だけです」

「ですが母上」


 兄は恐れることもなく彼女に反論した。


「光は毎日特別なのですよ」

「だとしたらなおさらです。何の才もない家臣が指をくわえて見ていて、そのうち彼を憎むようになります」


 春の終わりだったか、今日のような夏の頃だったか。のどかな午後で日の光がはちみつみたいな色を含んでいた。その光を浴びる兄は残念そうに謝り、源氏は慌てて首を横に振った。


————それからはめったにくれなくなった


 記憶に一番新しいのはいつだろう。女房に送ってくれたこともあったけれど、あれはあの人の指示だったと思う。


————帝になった最初の年の冬かな


 凍るような月の夜だった。寒さに耐えて兄の元へ上がると、清涼殿(せいりょうでん)御座所(おまし)の辺りからか細い音が響いた。(きん)(こと)だった。

 どうも、たしなみある女房に弾かせているらしい。


 火桶(ひおけ)がいくつか近づけてあって温かかった。帝は源氏を見ると、琴をそこに置かせたまま彼女を下がらせた。


「なかなか達者でしたが」

「まあね。だけど今宵の月には合わない」


 人は冷たい冬の月を好まない。確かに寒々しい色をしているが、源氏はその月が嫌いではなかった。


「............お弾きしましょう」


 いつもなら、見栄があるからよほど請われない限りは披露しない。ましてや練習もせずに帝前でフルコーラスなんて無茶はしない。なのにその夜はまるで挑むように楽器に向かった。


 凍りついた月光が琴の琴からも生まれる。華やかな、でも寂しい音だ。


 帝は黙って聞いていた。いつもの笑顔さえ忘れたかのように、静かに耳を傾けていた。曲を終えてもしばらく何も言わなかった。


 弾き終えてから源氏は青くなった。なんと言っても帝はあの大后の息子だ。上質な琴の音など聞き慣れているだろう。

 自分自身が聞いた彼女の音は和琴(わごん)琵琶(びわ)がほとんどで、(そう)でさえめったに、琴の琴は幼い時に一、二度あるかないかだ。

 それでもあの人の音が並ではないことはわかる。源氏は言い訳を考え始めたが、ふいに帝は破顔した。


「......さすがに君だ。これを」


 衣擦れの音がして、御衣(おんぞ)が手ずから渡される。それを肩に掛け、型通りに拝舞(はいぶ)した。


 その時の衣は大事に取ってある。イベントなどの折りに臣下の前で誉められた時よりも記憶に残っていた。


「今朝咲いた百合の初花(はつはな)にも君は負けないねえ」

「夏の雨に負けてしおれてるよ」


 中将の和歌に答えて軽いジャブを返す。漢文でも和文でも自由に遊んでいると、趣味のいい(そち)の宮(源氏の弟の一人。後の蛍兵部卿。この話では桐壺院三の宮)もやって来て加わった。



 源氏が友人たちや弟と遊んでばかりいる頃、わらわ病み(発熱性の病気。おこり)にかかっていた朧月夜の君は、三条にある右大臣邸に戻った。加持祈祷(かじきとう)のためか治ってきたので一族はみな喜んでいる。けれど本人とその隠れた恋人は、さっそく連絡をとりあった。


「今夜も来たよハニー」

「嬉しいわダーリン」


 くすくす笑う彼女はひどく魅力的だ。盛りの年頃のとびっきりの美女が、病で少しやせた様子がたまらない。同じ邸に大后もいるというのがスリリングで、吊り橋効果もばっちりである。


————六の君(朧月夜)は素敵だ。いろんなことを忘れさせてくれる


 綺麗でかわいくてあでやかで、頭もいいのにちょっと悪党。歌の返しも気が利いていて、字だって少し癖があるけどとても上手だ。彼女が男だったら中将以上に好敵手だったかもしれない。女でよかった。


 夢中になって秘密を分かち合うと、他のことはなにも気にならない。互いに相手を楽しみすぎて、天候が変わってきたことにも気づかなかった。


 夜明け近くに突然、雷が鳴る。

 雨が急激に屋根を打つ。

 その勢いがあまりに激しいので、邸に仕える者たちや、大后配下の役人が大騒ぎして動き出す。女房たちも慌ててそれぞれの主人の元に集まるので、さすがの源氏も帰ることができない。


「恐ろしゅうございましょう、大丈夫ですか」

「白湯などお持ちしましょうか」


 御帳台の間際にまで女房たちが山ほどやってくるので真っ青だ。情事(アバンチュール)の協力者である女房二名は、引きつけでも起こしそうな顔をしている。


 ようやく雷もやみ雨が少し落ち着いた頃に右大臣が、大后の元を経由して先触れもなく朧月夜の方へ現れた。二人がぎょっとしていると、どんどん御簾を引き上げて入ってくる。


「いかがかな。あまりにひどい夜で心配ではあったがすぐには見舞いに来れなくてすまなかった。先に大后の元へ行ってきたが、あちらは雷慣れしているから女房たちも平然としておったよ。こちらの様子は? 中将(これは右大臣の息子のこと)とか役人は来ておるかな」


 ラップ並みの早口でしゃべる様子がおかしくて、とんでもない状況なのに、ふいに源氏はおかしくなる。品のいい左大臣だったら、自宅でもこんな風ではない。


 朧月夜は困りきった顔で御帳台の外の几帳の影にいざり出た。赤面しているのを見て右大臣は勘違いする。


「また熱が出ましたな。もののけの類はやっかいだから、もっと祈祷を延長させるべきだったわ。なんならこれから呼びにやろうか......ん?」


 娘の衣の裾に何か引っかかっている。やわらかで品のよい二藍(ふたあい)(藍で染め、更に紅花で染めた紫)の帯だ。ぎょっとして見回すとなかなか上手な字の書かれた懐紙(かいし)が、几帳の下に落ちている。


「誰の書いたものか。見せなさい。調べなくてはいけない」


 朧も自分でもそれを見た。とっさに、ごまかす言葉も出てこない。右大臣は遠慮もなく懐紙を手に取り、御帳台の中を覗いた。なんと男がいる。


「うおっ!!」


 しなやかな肢体がのびのびと横たわっている。男はくすりと口元だけで笑って、ゆっくりと顔を隠した。実にふてぶてしい。


 しばらく息をすることさえできない。右大臣は相手を把握したが、さすがに怒鳴りつけるわけにはいかない。いきり立ったまま懐紙をつかんで足早に出て行った。


「............死にそう」


 朧月夜の君が呟く。源氏は後ろから彼女を固く抱きしめた。


「代わりに死んだら許してくれる?」


 彼女は胸元を覆う手に自分の手を重ねる。


「許してあげない。だから死なないで」

「じゃあ君も死んじゃダメだ。共に生きて後悔しよう」

「後悔は性に合わないの。真っ青になりながらどうにか生きるわ」

「それでこそ私の姫君だ。モラルなんて似合わないよ」


 腕の下のやわらかな胸が速い鼓動を伝えている。このまま敵地に残されて、たった一人で闘わなくてはならない。自分以上に大変な立場である。


「心配しなくて大丈夫よ。身内だから叱られるだけ。それより、もうバレちゃったから人を払うわ。気をつけて帰って。これ以上無理をしないでね」


 源氏は彼女をもう一度抱きしめた。勇敢な彼女は泣きそうな顔でされるがままになり、それから近くに女房を呼んだ。



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