矛盾
中宮視点
源氏二十三〜二十四歳
全てが無駄に終わった。恥ずかしさに耐えて院の目前で氷魚を食べてみたり、したことのないお世話まで自分の手で行ってみたけれど、なんにもならなかった。
帝の祖父の右大臣は性急でやかましいたちなので、上達部も殿上人もみな脅えている。まして敵対する私など正気さえ失いそうだ。
————源氏の君はどうかしら
七日ごとの法事に皇子たちが故院の御所に集まるが、彼の様子は抜きん出ている。シンプルな喪服の藤の御衣を来ているけれど美しさは際立っている。それでも心の内がひどく揺れていることが滲んでいて、なんだかとても切なく見えた。
無理もない。去年は正妻を今年は父を亡くしたのだ。
これで彼は完全な孤児だ。左大臣との縁は子を通して残ってはいるけれど、外戚となれなかった公卿などただの飾りだ。しかも左大臣は上品で人柄がいい。それは臣下の場合、無能と同義だ。
人ごとではない。後見の力が弱いのはむしろ私だ。兄は頼りにならないし、源氏は力を失った。亡くなられた院が私たちの強力な庇護者であったことが思い知らされた。
————これであの人を抑える壁はない
すぐにあの巨大な敵が、わがもの顔で世にのさばるに違いない。そんな世界に住みたくない。
年の暮れの空は寂しく、私の心にも晴れ間などない。四十九日もすぎたから、かつての女御や御息所たちもみな散り散りに去ってしまって、院の御所は閑散としている。
「薄情な方ですねえ、名残りも惜しまずあんなにさっさと退出するなんて」
「世が完全に自分のものになることが嬉しくてたまらないのでしょう」
私の女房たちはみな、真っ先に帰った大后を非難している。彼女はこちらにいる間も実務的なことに采配を振るっていて、悲しんでいる様を見せなかった。
雪が舞う。風も激しくなった。
兄の兵部卿が迎えにきたけれど動く気にもなれず、うら寂しい外の景色を見ていると、源氏の大将もやって来た。
私たちは雪で下葉の枯れた五葉の松や、凍りつく池を眺めながら院を偲んで歌を詠んだ。源氏の歌はいつもより幼げで、その心の痛みが知れた。
苦い共感。同じ孤独。それを感じて身を震わせ、帰るために重い腰を上げた。
彼の心に同調してはならない。必死に意識を切り替える。
だけど本当は帰りたくない。長く戻らなかった里だし、セレブの多い辺りなので通りを挟んで右大臣邸が見える。あの女の近くになど住みたくない。
それでも仕方のないことだから、あきらめてそのまま進んだ。
供の者は以前よりも少ない。誰もが言葉少なに道を行き、行列の一部が敷地内に入りかかった頃、突風が南から吹いてきた。この季節の通常からすると逆だ。
驚いて物見から覗くと、輪郭すらおぼろなほどの勢いで、牛車らしいものが通り過ぎた。
「な、何ごと?」
「何か事件が?」
「院が亡くなられた日でさえ、あのような騒ぎは見てないぞ」
供の者はうち騒いだけど私は、この悲しみにふさわしくない妙なモノに気を取られたくなかった。
「............見なかったことにしましょう」
きっぱりと告げた私の声に人々は素直に従いスルーをかました。
あんな美的ではないものは存在していない。そう決めつけて、自分の牛車を自邸の寝殿に付けさせた。
思った通り、ひどく生き辛い世となった。供の者が今までのようには集まらないから、外出もままならない。だから内裏にもなかなか行けない。敵地に残されたわが子、春宮が心配だけど、どうすることもできない。
頼りは源氏だけなのに、彼は急に冷たくなった世の中に驚いてその様に順応できていない。
無理もない。彼は生まれた時から帝の愛児で、母の亡くなった後は更に甘やかされた。そうされるにふさわしい魅力や才があったのは確かだが、その父が権力の頂きについていたことが一番大きな理由だ。
でも、彼はそのことを真に理解してはいない。
まずい、と私は思った。年が変わって諒闇(国家的な喪中。一年間)の最中の県召(地方官人事)、今まで押し合うほどに訪れていた人々ももう、彼に見向きもしない。予想通り男たちは手の平を返した。
失意の彼は最初は大人しく、同じように世を嘆いて出勤拒否中の左大臣のもとに通った。
それだけならむしろ誉められるべきことだ。だけど私は想像した。公を失った男がどのように憂さを晴らすかを。それは確実に公的なものと真逆に走る。つまり私的、すなわち女だ。
彼が邸にひきこもって、私の姪と親密になっていること自体はかまわなかった。兄の北の方が不機嫌だが、どうということはない。
でも、予想される未来はもっと暗い。源氏は覇気のある男だから、生きながら墓場でむつみあうような暮らしに満足できるわけがない。たとえ姪がどんなに美しく愛らしかったとしても、彼が他者の評価なしで自分を保てるとは思えない。
公の満足を得られない男は、たった一人の女だけで満ち足りたりはしない。それは業平の例を見ても明らかだ。そんな男は獲物を求める。高貴で美しくなかなか得られない、帝にのみふさわしいような女を。
ぞっとした私は身辺を固めたが、すでに源氏の手に落ちたものが身近にいる。王命婦を罷免したかったが、そうすると必ずその理由が噂される。そしてそれが真実にたどり着かないとも限らない。
恐怖のあまり母の代からつきあいのある夜居の僧(夜勤坊主)に、理由をぼかして祈祷を頼んでみたが、効果のほどはあまり期待できなかった。それでも、そのための用意で多少は気がまぎれた。
はたして源氏は強固なガードをかいくぐって現れた。
けしていい意味ではなく胸が張り裂けそうになった。
私はまだいい。だけどこのことが誰かに知られたとしたら、春宮はあっという間に廃位され、その一生を他者に後ろ指さされて生きねばならないのだ。まだやっと六歳になったばかりだというのに!
源氏がなにかしきりと訴えているけれど、耳が拒否して聞こえない。あまりの考えのなさと薄情さに目眩がして胸もひどく痛くなり、私はいくらか近くにいた命婦と弁に介抱された。
彼は絶望の縁で正気を失ったかのように暗いまなざしで私を見つめる。
————堕ちてください、私のために
あの時の強さは影を潜めて、闇の中をさまよう幼子のような瞳だった。
私は見てはならぬものを見たかのように目を伏せた。
朝になれば人の数も増える。帰りもせずに惑乱したままの源氏は二人の手に寄って塗籠(閉鎖的な部屋。物置としても使う)に押し込められた。脱ぎ捨てた彼の御衣もいっしょに隠したらしい。その様子を知る由もなく辛さが増して苦しんでいると、連絡を受けた兄や中宮大夫などが慌ててやって来て「僧を呼べ!」などと騒いでいる。
日は暮れていく。体調もいくらか落ち着いてきた。私は源氏がまだいるとは知らずに、どうにか昼の御座まで這い出ていった。様子を見て安心した兄や大夫が帰ったので、人が少なくなった。それをいいことにまたすぐに御帳台(カーテン付き平安ベッド)の中へ戻った。
院が亡くなられてから悩むことが多くて、一人でいる方が落ち着くようになっていた。だから女房たちも以前よりかは離して物陰などに控えさせている。閑散とした部屋の中から外を眺めた。
「まだとても苦しい。死んでしまうのかも」
思わず呟いてしまう。そうだったら楽なはず。だけどあの子は?
「果物だけでも召し上がってください」
女房が硯箱の蓋などに綺麗に盛って運んできたけれど、見る気もしない。目を背けて物思いにふけっていると、御帳台の帷(カーテン)が揺れた。
意識がついて行かなくてきょとんとしていると、私の衣の裾が動かされた。上質な薫物の香り。明らかな彼の気配。ぞっとして、倒れるように身を伏せる。
「......せめてこちらを向いてください」
源氏は私を抱き寄せようとする。まるで好きに扱える玩具のように。
————脅えている場合じゃないわ!
すべらすように衣を脱いでひざ立ちで逃げようとすると、髪が捕らえられる。
————これが運命だとでも言うの?
「あなたは本当につれない方だ」
黒髪をたぐって身を寄せられ、後ろから耳元に囁きかける。毒のように甘い声。不愉快だ。返事なんかしてやるものか。なのに。
「気分が悪いの。別の時に答えるわ」
「別の時なんてないよ。世は滅びている。あなたと私だけをここに残して」
子どものような戯れ言だと、責めるつもりで振り返ると、真摯な瞳が見つめている。
綺麗だと思ってはいけない。彼に心を許してはならない。
怒りの火をくべて。そこで全てを燃やし尽くして。
源氏はひどく冷酷だ。私の立場も春宮の立場も考えてはくれない。
......なのに、私の意識が病んでいく。
————美しいものが嫌いな人がいて?
冷酷なものは美しい。いいえ、そう思って辛さを紛らわせているだけ。弱者にありがちな心の逃避。生きるための本能として価値観を変えて自分を守ろうとしているだけ。私は彼を愛してなんかいない!
「逃げられると思ってる?」
「離して」
「離さない......ねえ、春宮の後見は私しかいない」
「!」
あまりに残酷な若い神。庇護者を失って傷心のはずが、かえって手負いの獣のように力をむき出しにした恐るべき神。人である私が勝てるわけがない。抗う力を失いそうになったとき、ふいに自分の問いに対する答を見つけた。
————美しいものを平気で踏みつける人はいるわ!
美は力だ。この時代それは間違いない。庇護者を失っても源氏はまだ美しい。だから彼は闘える。だけどその美さえ凌駕するほど圧倒的な力だってこの世にはある。
————大后に嘲笑われるわ。あの人の力のそのずっと下の存在に負けたのかと
もちろん知られているわけがない。でもこんなことを繰り返していたら、いつかそんなこともおこりえる。
強く抱きしめる源氏の腕に、自分の冷たい指先をあてた。彼が驚いて力が緩む。その手を優しく振りほどき、体を彼に向けた。
「ねえ」
瞳を潤ませて囁きかける。源氏は凍りついたように私を凝視している。
「ひどいわ」
「だって、あなたが」
「気持ちはちゃんと受け取っているわ」
にっこりと微笑みかけると信じられないのかのように固まるから、「だけど本当に苦しいの」と辛そうに胸を押さえてみせた。
「こうやってお話しするので精一杯」
「私は......」
「あなたが弱った女に無理強いなさるような方ではないと知っているわ」
私にはあの人のような力はない。美しさだって源氏にはかなわない。それでも私は闘ってみせる。
どうにか彼をなだめているうちに夜が明けてしまった。これではバレてしまうかもと、張っていた気が萎え死んだような気分になる。王命婦と弁がやって来て、二人して危険を訴えた。だけど彼はそれを無視して私に話しかける。
「死んでしまいたいよ。だけどそうしたら来世になっても気持ちは消えない。ずっと会えないなら、何度でも生まれ変わってあなたを思うよ。だとしたらあなたはきっと成仏できない」
恐いわ、この人。でもなんとかなだめなければ。
大后が私の立場だったらどう断るのだろう。いえ、そもそもこんな目にあわない。あったとしても、きっと「やかましいっ」と一喝する。
そう考えたことが悪かったに違いない。私はため息をつき、責めるような返しをしてしまった。
「永遠の恨みを人に押しつけないで。それはあなたの心のせいよ」
彼は大きく目を見開き、呆然としたまま帰ってしまった。
せっかく彼好みにふるまったのに、最後の最後でしくじった。
あの人は育ちのせいかものすごく打たれ弱い。自分の罪を自分で背負えるわけがなかった。
案の定、彼は職務を放棄して引きこもってしまった。私も気分が戻らず辛い思いをしているのに、状況は悪化している。
源氏は春宮さえ訪れず文さえよこさない。内裏にも行っていないようだ。
もし彼が世をはかなんで出家してしまったとしたら。もう私に先はない。だけどなだめようとこの身を差し出したのなら、絶対にいつかバレてしまう。
八方ふさがりだ。いっそ大后が自分以外がつくなどあり得ないと怒るこの中宮の位を下りてしまおうか。亡くなられた院の並ならぬ遺言だって、状況の変わり果てた今はなんにもならない。
そのうち史記にあった漢の国の戚夫人ほどではなくても、きっと人に嗤われるようなはめに陥るに違いない。それならばその前に世を捨ててしまうべき?
それがいいかもしれない。だけど息子に、いきなり変わった姿を見せるのもかわいそうだ。
思い悩んだ私は目立たぬように、こっそり春宮の元を訪れた。源氏は体調を口実に供をすることさえしなかった。
女房たちは彼を気の毒がっている。私は憮然としたままだ。近くに控える無表情な弁とたぶん同じような顔をしている。
言葉少なく内裏に上がったが、喜ぶ息子に会えたことだけはさすがに嬉しかった。
とても愛らしく成長している姿を見ると決意も鈍りそうだけど、これが最善の策だ。
事実、昔と違って内裏にいる人々は私に関わらないようにしている。まるで私が不浄の存在と化したかのように。大后の心も考えたくないほど面倒だ。寒々しい気持ちを抑えて息子に声をかけた。
「長くお会いできないうちに、私の姿が見苦しく変わってしまったらどう思いますか」
彼はまじまじとこちらを見、「式部みたいに? まさか」と笑った。それがいじらしい。
「式部は年を取ったから醜いの。そうではなくて、髪を短く切り黒い衣を着て、夜居の僧のようになります。これからはなかなか会えないわ」
言っているうちに涙が出てきた。バカだわ。息子より先に泣いてどうするの。
「今だって長く来てくださらないと辛いのに」
と彼は答え涙ぐんだ。それでもこの子は幼くても春宮、それを見せないようにと横を向いた。
きれいな髪がゆらゆらと揺れる。目元が親しみやすく明るい様子は大人びるにつれ、源氏の顔を写し取ったようにさえ見える。虫歯が多少あるのでお歯黒を思わせる笑顔は、女にしてみたくなるほどだ。
————あの人に似ていなかったらよかったのに
そんな風に思うなんて、私はよほど世間に脅えているらしかった。
体調を口実に引きこもっていた源氏は、私が内裏にいる間に気晴らしの観光旅行に出かけた。いえ、場所は紫野にある雲林院という寺で、彼の母の故桐壺の更衣の兄が律師として住んでいる。もちろん多少の仏事は行ったでしょうけれど、山の土産の紅葉の枝が届いた。それはとても大きく、色も鮮やかで美しかった。来世よりも目の前の景色に気を取られたのだと思う。
添えてある王命婦にあてた文には妙なことは書いてなかったけれど、目立たぬ小枝には例のごとく私あての文がついていて、うんざりさせられた。ことを知らない女房たちにバレたらどうするのかと疎ましくて、瓶に挿させて廂の間の柱の辺りに出してしまった。
そうこうするうちに三条の宮へ戻る日が来た。今度は源氏も供をしてくれるようだけれど、まずは帝の元へあいさつに行っている。
二十日の月がようやく出て美しい。待ちかねていると少し顔色の悪い彼が月よりも遅く現れた。
それでも「帝の御前で時を過ごしていました」という様子は、これも月と競い合うかのように艶やかだ。昔だったらこんな夜はみなも華やかに音の遊びをしたものだ、と思うと悲しくなる。気を紛らわそうと和歌を詠み、王命婦に託して源氏に伝えると、涙ぐみながら返しをくれたがやはりいつものように私のつれなさもほのめかす。まだ眠らないる春宮が傍にいるのでやめてほしい。
慣例で帝や春宮は見送りをしないものなので、立ち上がった私を息子は恨めしそうに見たけれど、後を追ったりはしなかった。いじらしいと心に残った。
絹糸のように細い時雨が降り、季節は冬に変わった。
雨がやむと木枯らしが吹き、散った木の葉が築山に張りつく。空気は凍るように冷たくなり、張りついた落葉もいつしか乾いてかさついた音を立てる。
私は忙しかった。亡くなった院の一周忌の法事に続いて執り行う予定の法華八講の用意がある。
これは法華経八巻を四日か五日に分けて講義して、内容を説明するイベントだ。
「法華経はいいですねえ。女人成仏についても否定していないし」
「でもいったん男に変身してからとはまだるっこしいですね」
女房の中務と中納言が、そのための縫い物をしながら話している。
宗教は基本男のもので、女に都合よくはできていない。
「龍女ですから一瞬でしょう」
「そうかもしれませんね。女から変わった男はさぞや美しいでしょうね」
「源氏の君みたいな感じかしら」
彼の名を聞くといまだに心の蔵を銀の針で刺されたような気分になる。
十一月の初めの頃、院の命日に届いた文を見たときもそうだった。
誰に見せても困らない、院についての歌だったから返事を書いたけれど、胸はやっぱり痛かった。
————全て終わったら、楽になるのかしら
その答はすぐに得られた。師走の十余日ごろ、私の邸の三条の宮で計画していたイベントが始まった。
仏事はいつもきちんと行うが、ことさら派手にすることはない。だけど今回ばかりは違って、人が噂するほど華やかに行った。
お経は紺色の紙に金泥で書き、巻軸は宝玉を使い表紙は絹の羅、経ケースの飾りも選び抜いて、口うるさい人たちも無言になるほどの品を整えた。
仏の飾りや花机のカバーだって、極楽がここにやって来たかのように綺羅を尽くした。
一日目は帝であったお父さまのため、二日目は后だったお母さまのため、三日目は院のために行ったからそれを口実に上達部もたくさんやって来た。この日は特に重要な法華経の五巻目を講ずる日で、ことに尊い僧侶が呼ばれていた。「薪こる」と歌いながらみなが右回りに巡っていく姿は面白かった。源氏の君の様子は他の親王よりもすばらしく見えた。
そして四日目。この日がラストだ。私はいきなり出家を宣言し、みな腰を抜かしそうに驚いた。
「ま、ま、待ちなさい。も、も、もう少し考えたら」
まだ儀式の最中なのに、兄の兵部卿の宮が御簾をかいくぐって私の元へ来て説得しようとした。もちろん聞く耳持たない。
兄の肩越しに御簾の外を眺めると、青ざめた表情の源氏がこちらを見ている。私はほんの少し口の端を上げた。
法華八講が終わる頃、MP値最高の比叡山の座主(ボス)を呼んでもう一度宣言した。
人々は泣く。特に兄の泣きっぷりがひどい。源氏の兄弟にあたる桐壺院の親王たちも大いに泣く。もちろん私の女房たちも、鼻を垂らすほど泣いている。
月は隈なく輝き、真っ白に雪の積もる庭を照らしている。静寂が似合いの雅やかさは、彼らの泣き声で乱されている。
私のおじである横川の僧都が私の髪を切る瞬間がクライマックスだ。邸が揺れるほどに人々は泣く。
私は泣かない。だってこれが私の戦闘様式だもの。むしろ笑いたくて嗤いたくて仕方がない。
誰か誉めてくれないかしら。後見に出家されて見捨てられることの先手を打って、先に大胆かつスピーディにその立場を奪った私の軍才を。
それができる人なんて一人もいない。大后が全てを知っていたらもしかしたら認めてくれたかもしれないけれど。事情と意味を知る源氏の君は、未だ青ざめて固まったまま。
どう? あなたが追い込んだのよ。
あいさつがすむと人々は涙で袖を濡らしながら自邸に帰る。お土産はめったにないビッグニュース。早く他に話したくてしょうがないでしょう。
「年老いた人の出家ですら悲しいのに、ましてまだ三十路にも至らぬ中宮が、お美しい髪を削ぎなさって」
「あれほど栄華を誇った方が、なんとお気の毒な」
好きに語ればいい。人々の大好きな栄えていたものの失墜よ。一つの時代の終焉をどうぞ楽しんで。
ようやく、唇の震えを抑えた源氏が「なぜこんなに急に」と微かに呟いた。私は冷静に王命婦を使い「急でもありません。騒がれないように黙っていただけで」と伝えさせた。
風が激しく吹きすさぶ。部屋にくゆらす黒方の香のしっとりした匂いに、この日のために奮発した仏様のための名香の煙がほのかに混ざる。そこに源氏の君の香さえ加わって、まるで極楽浄土みたい。世を捨てるにはふさわしい夜だわ。
話を聞きつけて息子が慌ててよこした使いに対してだけは、さすがに心が揺れた。返事の言葉を途切れさせていると、源氏がフォローしてくれた。割に冷静ね、と感心していると、使者を帰した後私に言いつのった。
「澄みきった月のような心地の出家の道を私がたどりましても、この世の闇(子を思うがための夜のような闇)にやはり惑うのでしょうね。ご出家の決意がうらやましくて」
読みの通りね。これであなたは出家できない。わが子を置いて出家するのか、という私に対する責めはスルーするわ。
「世を捨てても、この世の迷いを捨てられるのはいつのことでしょうか。まだ惑いがありまして、月のように澄みきることはできません」
命婦が言葉をたして答えてくれる。源氏は息子の使いほど、こちらの動揺を引き出せなかったことにショックを受けて、胸を押さえるようにして帰っていった。私はかがり火に映えるその後ろ姿を見送った。
空には凍りつくような月が輝く。人々の忌む冬の月。だけど私は祝杯でも上げたい気分でその月を眺めた。女の命の髪を捨てた背中は、とても寒く、そしてとても軽かった。