牛車
弘徽殿の大后視点
源氏二十三歳
威儀を正した行列が内裏に戻ってきた。
飛び出したい気持ちをどうにか抑える。行幸で疲れているはずの帝を煩わすわけにはいかない。そのうち報告に誰かよこすだろう。
そう思っていたら、息子本人が弘徽殿に渡ってきた。
「お休みになるべきでしょう!」
「あ、いえ、大丈夫です。あと母上、唐衣はいりませんから」
毎度おなじみのやり取りで、せっかく出した唐衣が引っぱがされる。たとえ息子であろうとも帝に対する礼を示したいのに彼は聞かない。
「周りの者に示しがつかないではありませんか」
「他人行儀な感じで私が嫌なのですよ」
いつもなら説教を始める所だが、院の病状が聞きたくていったん口を閉ざした。その様子を見て彼は、辛そうな顔をした。
「あまり思わしくありません」
口元から息が漏れそうになるのを耐え、奥歯をかみしめた。
「意識もしっかりとされていて、会話に不自由はありませんでした。ただ、今までと違って、この頼りない私にすがらんばかりに必死になられて」
さすがにわが息子のすばらしさに気づいたか。いや最近帝という立場を横に置いたとしても、気品といい美しさといいもうほとんど頂点、俗な趣味の者は顔立ちがほんのわずかに派手な源氏の大将を選ぶかもしれぬが通は息子を、洗練された趣味の持ち主は必ず彼を選ぶと気づいていた。いや、さすがに院もおわかりになったか。
「春宮と源氏を頼むと何度も懇願されました」
危うく顔面を床に打ちつけそうになったが、どうにか耐えた。動揺を帝に見せてはならぬ。
「ご容態のせいでつまらぬことが不安になるのでしょう」
「父上にとっては大事なことなのですよ」
声に翳りさえ含ませない。息子にとっては慣れた対応だ。私はふつふつと怒りが沸いたが、彼の病状を思うとすぐに冷えた。
「......お辛そうですか」
「それほどではありませんが、おやつれになって顔色も悪いようでした」
このまま立ち上がって院の御所まで駆けて行きたい。その思いを必死に抑えていると、帝の静かな声が状況を説明してくれた。
「元後宮の方々、そして何よりも中宮が、細かいことまで気を配っていらっしゃるようですが」
それでも何か手抜かりがあるのではないだろうか。行って一つ一つを差配するべきではないだろうか。
「お暮らしに不自由なことは何一つありませんでした。日常の供御(ご飯)も、元麗景殿の女御の配慮でこちら側の品が供されていますが、相変わらず食が細られたままのようです」
細心の注意を払って整えた食材はムダになったらしい。残念だがすぐ別系統の物を用意させよう。季節に合わぬ物でもお好みにあったものを、早生りや遠方の地域から取り寄せる。すでに異国の品も薬草などと共に発注している。もうすぐ届くはずだ。
「医師はどう診たてておるのです?」
「こちらから派遣した腕利きの医療チームも、あちらの者も同じです。お心のあり方が体調を左右すると。できるだけ安静にいつも通りにお過ごしになる方がよいと言っております。正直私も見舞いをためらいました」
前のめりになりかけていた私の体が、ぴたりと止まる。
帝の瞳には憂いの色がたゆたっている。
「通常と違う日々を過ごさせることが、不安でなりませんでした。春宮のことをひどく心配していらっしゃるようですので、彼だけはなるべく早く行った方がいいと思いますが」
体中の血が全て滴り落ちてしまったような虚無感に捕われる。目眩がして、地に伏せたくなってきた。
「......母上?」
息子の声で正気に戻った。ただでさえ父の病気で気落ちしがちな彼を困らせてはいけない。
「そうですか。では春宮側へそう伝えなさい。日が決まったら知らせるように」
その日と前後の日は避けなければならない。あまり連日人が押し掛けることもお体に良くない。
考え込んでいると息子が遠慮がちに尋ねた。
「ご加減がお悪いのでは?」
「まさか。あなたも早くお休みなさい。帝まで病を得ることになったら大変です」
素直な彼は逆らいもせずに清涼殿に戻った。その行列を見送りながらも、心は千々に乱れていた。
日を改めて春宮は華々しい行列で院の御所へ向かった。そして夜更けすぎに更に人を増やして、帝と同列かと目を剝くほどの集団で帰ってきた。私は眉をひそめた。
普通帝の行幸となればたいそう華々しい行列を組むが、院の病気見舞いなので息子は比較的地味な供奉(お供)を引き連れて行った。その上たぶん、華やぎを抑えることで院に『あなたの御代にはかないませんよ』と優しい慰めを込めたのだと思う。更に春宮の地位を脅かしたりなどしません、というメッセージさえ含ませたのかもしれない。
そういう繊細な気配りができる男なのだ彼はっ。
だが院はそのことに気づきもしなかったようで、自分の病気で相対的に力の弱くなった春宮の補強だけに力を入れた。もちろん私はむっとしたが、彼は病気だ。その上あの空気の読めなさは昔からだ。今に始まったことではない。悪意でしたことではないのだろう。
私は歯がみし、怒りは全て中宮に向けた。
————右大臣側の抑制を、院の力だとでも思っているのか
あの方にその力はない。上皇となってから更に増したように見える権力は、全てこちら側の配慮だ。
政にいそしむわが父は今までの藤氏と同様、帝など都合のいい旗印にしか思っていない。その彼が院を圧倒したりせず素直に従って見せるのは、この私の意を汲むからだ。
そう。コトは簡単だった。桐壺の更衣の騒ぎの記憶が残り人心が離れていた頃に、彼を帝の座から引きずり下ろしてわが息を帝として据えればよかった。
もしくはその後でも、あの女が十の宮を生む前に、彼の誘いを待たずに強引に中宮の座につくべきだった。
なのにそうすることもせず、身も心も財も全て院に捧げつくしてそのあげく、何度も煮え湯を飲まされた。
にもかかわらずいまだにあの薄情で恩知らずのおたんちんの命を長らえさせる手ばかり考えている。バカか私は。
————あなたに会うために、今まで清らかに過ごしてきました!
いや、バカはあの方だ。私は日の本一の力と知性を誇る、世に名高い弘徽殿の大后だ。なのに、なぜこんなに心が揺れるのか。そして脇息はどうしてこんなにカンタンに壊れるのかっ。
「......予備の物がきれましたが」
「しばらくなくてよろしい」
寛大に傍仕えの不備を許してやり、それから実にさりげなく、牛車の調子を尋ねた。
「唐車も糸毛車も磨き立ててありまして、いつでも外出の用を伺えます。お忍びでしたら檜造りの網代車もすぐ用意いたします」
途端に乳母子が水を得たようにペラペラとしゃべりだすが「そうか」と応えてしばらく黙る。気のきく別の女房が、たぶん見舞いを勧めようと口を開きかけた時に、わが殿舎の中央を貫く馬道の方から女房たちの話す声がわずかに聞こえてきた。
「え、あの中宮が?」
「もう必死になってて、まるで女房のように院に寄り添って、食事の世話までするのよ」
鈍い痛みが全身に広がる。私の顔色を見て先の女房も口を閉ざした。
会いたい。だがそれは私の一方的な思い入れか。
通常ならよい。しかしあの方は誰が見てもわかるほどに病が重い。その上、中宮がぴたりと寄り添っている。
いやもちろんこの私が会いに行けば、きっと涙を流して手を取るに違いない。絶対だッ。間違いないッ。だけどそうすると、それは医師の求める日常的な安静とはほど遠いのではないだろうか。
彼にとって平穏な日常とはあのクソ面白くもない、往時の私の美貌の足下にも及ばず、今でさえ私ほどは美しくもないあの中宮につくされることだ。
だから、この私が行ったなら刺激的すぎてたちまち悩殺されてしまって、命が危ないのではないだろうか。
いつも寄り添っていた過去ならともかく、久しぶりに出会う過剰すぎるほどの美はお体に良くないかもしれない。
そう思って何度も見舞いの支度を言い出しかけてはやめ、やめてはまた口元を動かす。ためらいなどわが性にあらず、されど彼の身を案ずる気持ちも深すぎる。私の心は揺れに揺れた。
ついにたまりかねて立ち上がり、ストレートに命じた。
「院の見舞いに出向く。支度を」
有能な女房たちは瞬時に動き、用意してあった装束を私に着せかけた。彼女たちも身なりを整え輦車に向けて歩き出した時に知らせが届いた。
「たった今、崩御なさいました」
世界が色を失って鈍色に沈んでいく。
もう、この世は滅びたのだ。
「............お苦しみになられたのですか」
静かな声が使者に確認している。
誰の声だ? ............私だ。
「いえ。さほど苦しまれずにお隠れになりました」
そう。それは何よりだ。あの方は辛さを耐えにくいから、安らかに逝けたのなら。ほんの少しだけ息が継げる。
「間際に何かおっしゃいましたか」
「いえ。まるでお休みになるように亡くなられました」
何も残してくれなかった。感謝や礼などでなくていい。恨みごとの一つさえも、私には与えてくれない。
「このままあちらにお向かいになりますか?」
このような場合の慣例はどうだったか。わからない。何一つ思い出せない。前例の一つも思い浮かばない。
「いえ、三条の里邸に戻ります。素服(喪服)の用意が必要なので。帝にはお知らせしましたか」
「同時に別の者が参りました」
「ならよろしい。まずは装束司と山作司の任命をしなければならないが、朱雀の院にいらした方の前例があるので、父がすぐに手配するであろう」
他人のような私の声が、淡々と指示を重ねていく。
「錫紵(大喪の際の帝の喪服)の用意もせねばならぬ。縫殿寮の者を呼びなさい。ああ、六の君もこちらに」
麻布を鈍色に染めさせ、直衣の形に整えさせなければならない。それに、名目といえどもあの子は御匣殿の別当(長官)だから、急を要する仕事のために縫殿寮に人を貸してやる必要がある。
使者を返しいろいろと雑事を片づけていると、六の君が前触れもなく飛び込んできた。
「お姉さま!」
見ればぼろぼろと涙をこぼしている。はて、この子は義兄にあたる院のことをそれほど慕っていたのか。
「立場を考えて行動しなさい。まさか走ってきたわけではないでしょうね」
六の君は答えず私の首根っこに抱きついて泣いた。しばらくそのままにしておいてやり、甘い匂いのする髪を撫でた。
「......院のことを悼んでくれてありがとう」
「違うわ!」
涙に潤んだ瞳がまっすぐに私を見る。
「私が泣いているのはお姉さまのためよ! 辛くてもお泣きになれないお姉さまの代わりよ!」
私のみならず一族全体に迷惑をかけた子なのに、どうしても憎むことができない。大泣きする彼女の髪をそのまま撫で続けた。
輪郭だけで判断していた世界に、色が戻ってきた。
「......仕事の話に戻りましょう」
やって来た縫殿寮の者も加えて、まだ涙目の彼女との打ち合わせを進めてから帰らせた。その後も人を割り振ったりいろいろな手配をすませ、ようやく自邸に戻ることができた。
四十九日まではかつての後宮メンバーは院の御所にいたが、その後はみな散り散りに里へ戻った。
私は真っ先に帰った。そこにいる間もなるべく他者には会わないようにした。傷をなめあうような真似はしたくなかった。
それでも弔問にはきちんと応えた。だが寵を争いあった立場同士で悼みあうのは、なんだか茶番のような気がして居心地が悪かった。
院に生きていてほしかった。それは本当だ。だが涙も出ぬし取り乱すこともない。くだらん悔やみを言ってくる他者に「同情するなら彼をくれ!」などと叫んだりもしない。ただ眠れないだけだ。
私の気持ちを慮ってか、右大臣邸の寝殿はいつもより地味なしつらえがしてあった。だがそこに持ちこまれていた物は違う。
「さぞやお疲れのことでしょう。尊き大后さまのお心を少しでもお慰めすることができたとしたら、わが主もどれほど光栄に思うことか」
州浜に銀や黄金や玉を使って海辺の景色を見事にこしらえ上げた美術品、特別に大きな珊瑚の枝を磨いたもの、唐造りの馬具に白鮫の柄の飾り太刀。大きな伽羅の香木。白檀。乳香。香を煎じるための銀の器。楽器。そして数多くの絹。ありとあらゆる宝が捧げられていた。
院の亡くなった今、私はこの国の帝のたった一人の親であり、それは頂きに立つことと同じだった。利に聡い者どもは凄まじい勢いで私におもねった。
浅ましいことではあるが、状況の把握が正常で行動力もあることを示している。そのどちらも持たない者どもは、恨みがましくどこぞの邸に集って辛気くさい和歌でも詠みまくるに違いない。
だが、それでもこのゴージャスな献上品を見ていると、院の死を本気で悼むわけでもなく保身に走る男たちに対して突発的な怒りが沸いてきた。
ふいに激情のまま花足の台を蹴りとばした。上に載せられていた巻き絹が広がりながらどこまでも転がり、鮮やかな紅や唐紅の道を作った。
その赤はいつぞや心の蔵を失った時のことを思い出させた。戻されたそれは呆れたことに未だ胸にある。多少早いが平然と刻を打っている。
————なぜ張り裂けぬ!
世界などもう滅びたのだ。心の蔵も権勢も何一ついらない。
「............出かけます」
「それではすぐに供奉の用意を」
「いらぬ!」
「寝殿に牛車を寄せます」
「自分で行くッ」
叫ぶように答えると膝行などまだるこしいので立ち上がって進む。女房がついて来ようとしたのでそれも拒んで車宿りをめざしたが、乳母子が全力疾走で追い抜いていった。
忍んだ網代車には筋骨隆々とした黄牛がつながれていた。まだ若く元気がよさそうだ。私は人の手も借りずにそれに乗り込み、当然のように上がろうとした乳母子を下ろした。
「せ、せめて行き先だけでも!」
「わからぬッ」
随身所の者がわらわらと沸いて出たが扇越しに一喝すると、全て雷に打たれたかのようにその場に平伏した。視線をめぐらすと牛飼童が腰を抜かしていたので、牛に直接命じた。
「進め! 黄牛ッ!」
凄まじい勢いで牛は走り出した。人々が後を追って来たがすぐに引き離された。
いつもの牛車は人の歩みと変わらぬほどの速度だ。だが今は全力で駆けても及びもつかぬ。
頃は師走の二十日ほど、日は傾いて雪は打ち散り、陰鬱な空にかろうじて明るさの残る頃合い、東へ東へと牛は進む。
御簾は冷たい風をはらみ、高速のためもあって恐ろしく寒いはずだ。だが私の体は熱を帯びたように熱く、少しもそう感じなかった。
道行く者は気配を感じて両脇に避けている。何ごとならんと好奇のまなざしで見る者もあったが、あまりに速すぎて脳処理が追いつかぬようだ。その上激しい土ぼこりが視界を歪ませている。けれど私には全てが妙にクリアーに見えた。
荒い風をものともせずに牛は走った。まさに爆走と言える駆けっぷりだ。それでも時おり足を緩めることがあったが、御簾越しにちら、と目をやると牛は私の励ましに感じ入ったらしく必死に足を早めて応えようとする。獣ながらあっぱれなヤツ、その意気やよしと扇を外して誉めてやれば、黄牛はますます発奮し、瞬く間に鴨川のほとりにたどり着いた。着いたがなお気がおさまらぬのか、今度は南へ北へと何度か駆け回って、ふいに力尽きたように足を止めひざを折った。
当然牛車の屋形は前のめりに傾き、とっさに物見(牛車の窓)にしがみつかねば転げ落ちる所であった。
牛は四つ足を香箱の形の猫のように折り曲げ、荒く息を継いでいる。
「疲れたであろう。休むがよい」
温情で声をかけると潤んだ瞳でこちらを見た。人より大きな黒目に涙がたまっている。
ああ、けだものでさえも涙を流すのだな、だったら人が泣いてもいいはずだ、と考えた瞬間、なぜか獣の咆哮のような声が咽から漏れた。
なにごと、と牛も私も驚いたが、気づくと頬が濡れている。
冬の川には人ひとり影なく、私は大きく声をあげて泣きに泣いた。
辺りはとっぷりと闇に包まれている。水気を吸った袖は凍りつきそうに冷たい。
いつの間にか離れた所に止まっていた牛車から、紙燭を持った女が下りてきた。供の者をそこに待たせたまま、裾をわずかにからげて近づいてきた。乳母子だ。
彼女はこちらに上がり込み、自分の袿を脱ぐと私に着せかけ、そっとうながした。
「帰りましょう」
「牛は?」
「牛飼童を二人連れてきております。一人残して、牛が立てるようになってから帰らせます」
ならいい。うなずくと彼女はいったん外に出て、もう一台の牛車に灯りを振った。すぐにその車が近づいてきた。
やんでいた雪がまた降りだした。まるで天が代わりに泣いているようだ。
開かせた物見からぼんやりと見ていると、乳母子が「心残りがおありですか」と尋ねた。
「大后さまは充分にお勤めを果たしたと思いますが」
「いや。心残りばかりだ」
何一つ思うままにいかなかった。
せめて最後にお会いしたかった。
「そもそも最初から強気に主張すればよかった」
理性的かつ優しく女らしい私が、彼のことを慮りすぎたのが原因だ。
乳母子が面妖な顔をしてこちらを見た。
「はて、それはいかようなことでしょう」
私の情はいつも私の理を阻み、私の理はいつだって私の情を阻む。
「同担拒否を貫くべきだった」
乳母子は「そうですね」とだけ呟いた。
帰りの牛車は、眠くなるほどゆっくりと三条を目指して足を進めた。
雪はやむ気配もなく、都の夜を静かに白く染めていった。




