鬼火
桐壺院視点
源氏二十三歳
闇の中に青白い鬼火が漂う。
一つ。二つ、三つ......
見る間にそれは数を増やし、ぐるぐると渦を巻く。
熱を持たない焔が私を灼く。
声は出さない。
それは私の罪だから。
全て受け入れようと目を閉じる。
苦しくはない。痛みもない。それはわざわざ取り除かれている。
だけど本当はかまわないんだ。全て与えてくれればいい。
なのに私の苦しみは全て汲み取られ、消えていく。
いいんだよ。私にその価値はない。
爛れるほど燃やし尽くせばいい。
悲鳴を上げて救いを求めるほどに。
その辛さを失った恋の熱だと思い込めるから。
ああ、せめて苦しめてほしい。
ひどく執着されているという夢を見ることができるから。
なのに君は帳の向こうで、体の痛みだけを奪い去っていく。
これが私への罰なのか。
無様に生きながらえたことの。
身を斬るような辛さをいつの間にか手放してしまったことの。
形代を手に入れたことの。
心の一部を他者にゆだねてしまったことの。
君を失った日は、いまだに地獄の扉のようにそびえ立っていて、けして私を中に入れてくれない。
そこに爪を立てて必死にすがりついても、揺らぐ気配もなかった。
私は嘆き、うめき、叫び、そしていつしか目を背けてしまった。
今は後悔している。責任なんてものに縛られずに、恋に殉じて死んでしまえばよかった。
そうしたらきっと、昔のままの私でいられたのに。
君だけを愛して、君しかいらない私のままでいたに違いないのに。
迎えにきてくれないのはそのせいなのか。
嫌な予感が囁く。死んだとしても君は来ない。
私はこの世に長くいすぎたんだろう。
現世の食物をはみすぎて、冥府に入りにくいのだろう。
あの人の食事を食べ過ぎて、彼女が受け入れてくれないのかもしれない。
————いや、君はそんな狭量な女じゃないね
君に罪はない。むしろ、会いたいと思っていてくれることはわかる。
だけど会えない。それがルールらしい。
........死んでも会えないなんて、生きていた意味がないね
深々と嘆息すると女の声が応えた。
「いえ。きっといつかは会えると思いますよ。あなたしだいですが」
驚いて目を開き頭をめぐらすが夜の御殿は静寂に包まれ、女房の姿さえ見えない。
————今宵はどうしても一人でいたいと、人を払ったのだった
呼べばすぐに来る位置に彼女たちは控えているけれど、視界内にはいないので、豪華な屏風に囲われて私はたった一人だ。そんなことには慣れていると思ったのにそうでもなくて、幻聴まで聞こえる。
「幻聴ではありません。霊界出張サービスです」
「うわっ」
思わず身を起こして叫んでしまったが、不思議なことに女房たちは来ない。驚いてキョロキョロしていると軽い笑い声が聞こえた。
「霊界バリヤーで囲んでいますから、お声を出してもかまいませんよ」
「だ、誰?」
姿は見えない。老いてはいないが若くもない女の声のみが聞こえる。
「名などありませんが......そうですね、便宜上”式部”とお呼びください」
女房名は身内の役職名が多い。年をとってもその名は変えないことが多いから、同時代に同じ呼び名の者もかなりいる。特に中納言や中務など、馬のエサにしたくなるほどたくさん存在する。
もちろん式部もあちこちにおり、たとえば中宮配下で今は春宮に仕えている女房も式部だ。ありふれていて覚えやすい名に私はうなずいた。
「で、なんの用ですか」
「あなたはもうすぐ死にます」
腰を抜かしそうになった。いや、薄々気づいてはいたよ。だけどこんなデリケートな事柄は、もっと慎重に伝えるべきではないだろうか。
「小林製薬のネーミングよりぶっちゃけますね」
「神聖な霊界出張サービスを『トイレその後に』とか『熱さまシート』といっしょにしないでください」
「はあ」
力なく応えると少し優しく尋ねられた。
「意外に驚きませんね」
「いえ。充分肝を冷やしております。ただ」
「ただ?」
「そのような率直な口ぶりの方を思い出しまして。私に向けられたことはありませんが」
下の者に命じる時や、人づてに聞いた話などでは彼女は言葉を飾らない。だけど私に対しては礼儀を守る。
「どなたか想像がつきますが、恨んでいますか」
「いいえ......いや、どうだろう」
会いに来てくれない。後宮の他の人たちはほとんどが来てくれたのに。
ずっといてくれなんて厚かましいことは言わない。今更言えない。言えるわけない。
だけど、せめて見舞いに来てくれたっていいじゃないか。
麗景殿さんが来てくれた時、とても嬉しかった。その日の夕餉を口にした時、あ、これはあの人の用意した物だ、と気づいて恥ずかしいくらいにがっついた。
だけどすぐに気がついた。そこに現れないあの人の供御(ご飯)が出されたわけ。つまり、あの人は来ない。食材を麗景殿さんに託したのは、自分で来るつもりがないからだ。
それを知って絶望した。端から見れば、アンバランスな関係であっても、何か、何かが二人の間にあると思っていた。
————私のかってな思い込みだ
じゃあ、あの時の涙はなんだったんだよと叫びたくなる。あの、水晶のように綺麗な涙は私のせいで生まれたのじゃなかったのか。違ったのか。
理不尽な怒りが胸を灼く。鬼火なんかよりずっと痛い。
「......男心をもてあそばれたような気がしています」
式部はため息のような音をたて「今の言葉、その方だけでなく他の方にも絶対に言わない方がいいですよ」と呟いた。
「もちろんです」
現在の後宮システムを考えると、逆の立場の方が大変なのはよくわかっている。だけど私だって他の男のように、あちこち歩き回って気があいそうな人を選べるわけではない。
「他の殿方も全てに会って選んでいるわけではありませんよ。会える人は運命です」
「運命は私に厳しすぎます」
「んなわけないでしょっ。特別サービスですよっ。死に臨んでビビらないように出張レクチャーがあるなんて、どれだけ恵まれてることかっ。前世のアナタならともかく現世のアナタは基準満たしてないのにあのモンペ、いやモンパ、強引に話通しやがって、仕事三倍に増えるからやめとけっていったのに五倍でもかまわんって無理に申請通しやがったんですよっ!!」
急にキレられて目を白黒させていると、コホン、と咳払いが聞こえて相手の声が落ち着いた。
「とにかくあなたは一般の人と較べて相当に幸せな方なのです」
「誰とも較べられません。他者はもっと辛いのかもしれないけれど、私は私の辛さしかわかりません」
きっぱりと言いきると、しばしの沈黙の後苦笑いのような気配が起こった。
「まあ、仕方ありませんね」
それから声は冷静に、いくつかの助言をしてくれた。
「霊界は一人一人に合わせたきめ細かなルールをモットーとしておりまして、死んだからといってみな同じような扱いを受けるわけではありません」
「はい」
「ちなみにあなたも現世で多少の罪を犯しました」
どれだろう。彼女を守りきれなかったことか。彼女の身がわりを求めようとしたことか。その人を使って彼女の魂をこの世に留めようとしたことか。それとも......
「その罪はご自分で考えてください。そして償わなければなりません」
「はい」
「ですがあなたは前世でけっこうポイントためていて、更にモンパが凄い勢いでNISAで運用して水増ししたため、死後実体化可能権をお持ちです」
嬉しくなって笑みがこぼれた。会えるんだ。
だけど式部の声はトーンが落ちた。
「ですがそれは限定条件付きです」
「どういった?」
「血のつながった......えい、ぶっちゃけると息子にしか会えません」
「は?」
「しかも限定二名のみです」
「ええっ」
もちろん息子に会えるのは嬉しいが十人近くいるし、娘にも会いたいし。それに......
「条件は絶対です。例外は認められません」
また絶望が私を呑み込む。いい年をして泣きそうになっている。
だけど式部は話を終えると、多少の励ましの言葉を残して、さっさと消えてしまった。
「お顔の色が優れませんね」
元は後涼殿にいた更衣さんが心配そうに私を見つめる。
彼女との間には男の子がいるから御息所と呼ぶべきなんだけれど、なんだか昔の呼び名を変えたくなくて、今も更衣さんと呼んでいる。
「いや、調子は悪くないよ」
「そうですか。でしたら......」
たぶん食事を勧めようとして呑み込んだ。強要が返ってよくないことを彼女は知っている。
私は少し微笑み、蘇の蜜あえを一口だけすくった。途端に目が輝く。
「更衣さん、口を開けて」
「は?」
驚いて開いた口元に匙を滑り込ませる。呆然とした彼女は、それでももぐもぐと口を動かし、食べ終えてから抗議した。
「院!」
「ごめん、ごめん。おわびに一口いただきます」
目でうながすと匙ですくってくれるから、ぱくり、とくわえた。これは右大臣家であつらえた蘇だ。
「おいしいよ」
「院......」
女御になれるほどの後見はない人だが、よく仕えてくれた。
大昔のことだけど、部屋を奪って悪かった。
「あなたと私は、落ち込むと食欲がなくなるたちだけど、今後辛いことがあっても、あなたはちゃんと食べてほしい」
「何をおっしゃいます」
「いや、私のお手本になってほしいと言ってるだけですよ。あなたが食べる様は生命力にあふれて好きだな」
「院......」
彼女は泣くまいと必死になっている。私は彼女の手を握った。ふっくらとしていて年の割にはしわが少ない。
「どんな時でも、しっかり食べてほしい」
涙とともに鼻水まであふれさせて、彼女は慌てて顔を覆った。
それでもやはりこの人のことも好きだ。
「綺麗な息子を生んでくれて、ありがとう」
滂沱の涙は、袖でもぬぐいきれずにあふれた。
承香殿の女御との間の息子はダンスが上手い。三の宮はセンスがよく、楽の遊びも得意だ。母を亡くした八の宮は品はよいし顔立ちもいいが、なんだかぼんやりとしている。体も少し弱いようだが琵琶や箏などは巧みだ。
見舞いに来てくれた子もいたが、人に会うと疲れやすいので制限された。じわじわと生命は削られていく。
神無月(十月。新暦では十一月頃)になってからは誰の目にもわかるほどの有様になってしまった。みな心配してくれて、ついに帝の行幸が行われた。
弘徽殿腹の帝は威儀を正した行列を従えて現れたのだけれど、それは見せつけるような派手さはなく抑えたものだった。春宮も一緒に来るはずだったけれど、いろいろと言う人がいて別に訪問することになったので、そちらに対する配慮もあったのだと思う。
なのに私は帝にすがりつくようにして彼のことをさんざんに頼み、その後は源氏の大将のことに注文を付けた。
「今までのように、何ごとも隔てず源氏の大将に相談してください。あの子は若いけれど世を治めるにふさわしい人物なんだ。だからこそ面倒を厭って皇子のままにしておくことをせず、ただ人に下ろして国を支える礎とした。そのことを忘れないで」
後になってから思えばかなりひどい。だけどその時は必死だった。
「もちろん父上のお言葉に従いますよ」
姿勢よく茵(平安座布団)に座る帝は、やわらかに微笑んで約束してくれた。私はそれでも不安で、何度も何度も彼の承諾をねだり、その度に重ねて答えてもらった。
こんなボケたような様子の私を、息子はきっと悲しく思ったに違いない。それでも彼は乱れた様を見せず、対面の場で終始優美なふるまいを通した。
そう。彼は美しかった。私よりもずっと。
私はこの息子が嫌いだった。いや、恐かった。それは彼があまりに私に似ていたからだ。
赤子の頃から人はみな、彼が私に似ていることを誉めた。人に言われるまでもなく、最初に里から連れてこられた時に私は凍りついた。その子は確かに鏡に映る面影を宿していた。
弘徽殿さんに似てくれればどんなによかったことか。それだったらちゃんと愛せた。彼女の顔立ちではなかったとしても、私にさえ似ていなかったらもっと大事に思えたはずだ。
なのに彼はうんざりするほど私に似ていた。女々しく、何の才もなく華々しさの欠片もないこの私に。
桐壺の更衣さんはもちろん、私の後宮にいたレディーたちは弘徽殿さんをはじめ、みな、美しく才長けたすばらしい人たちだった。帝についたこの子以外の息子たちは全員母親似で、その特質をどこかに受け継いでいる。なのに彼はその母に何も似ていない。
だから、自分を嫌うように彼を嫌い、自分を嘲るように彼を嘲笑した。
いや、それ以下の扱いだったかもしれない。
彼は私が心のどこかに持つ苛烈さを持たなかった。やわらかに人に接し、やや女性的な趣味に長けていた。
それは私との違いだったのに、その個性を持つ頃には彼に対して侮りの心が抜けなくなっていた。なのに彼は私を憎むこともなく、穏やかな敬意を途切らせることもなかった。
不満に思うこともあっただろうにそれは全て呑み込み、気づくと彼は優美な男に育っていた。
私の反応は極めて単純だった。今更気づいたそのことを嬉しくも頼もしくも思ったのだ。だから重ねて依頼した。
「......できれば春宮を、あなたの養子にしてほしい」
さすがに彼は少し驚いたようだったが、すぐに品の良い微笑を浮かべた。
「父上のご意思は確かに承りました」
逆らったことのない息子はやはり拒むことはなかった。私はまたくどくどと重ねようとしたが、進行係がうながすのを見て口を閉ざした。
時間が押しているらしく、その後彼らは慌ただしく帰っていった。
言い残したことがたくさんあるような気がして胸が痛んだ。
日を変えて春宮も見舞いに来てくれた。まだ五歳だけど、年よりも大人びて美しい感じに見える。久しぶりに会えて無邪気に嬉しそうだ。
それを見て彼の母親の中宮は涙ぐんでいる。あの人によく似た姿で。だけどもう、あの人を越えた年で。
先日彼女は私に氷魚を届けてくれた。彼女にしては大変珍しく、目の前でそれを食べることさえした。だけどもう、ムダなことだった。
彼女は桐壺の更衣さんじゃない。それは四年ほど前、あの子を春宮につけると決めた時に思い知った。それ以前からわかってはいたのだけれど、彼女に形だけそっくりな微笑を見た時に打ちのめされた。
ひどいことをしてしまったと思う。ひどいことをさせてしまったとも思う。全て私が悪い。彼女には何の罪もない。多少あるとしてもそれは全て私のせいなので、全て背負っていってしまおう。
彼女の涙を見ると慚愧の念で心が乱れる。申し訳なかったと思い、せめて春宮についての心配を減らしてやろうと考える。
だから、彼のお供で顔を見せた源氏にも、みなの前で何度も公務員の心得や春宮の後見のことを説教した。あまりにもそれが長くて、彼らの帰りが夜更けになったほどだ。年寄りの話はくどい。
それでも、院に来ていた殿上人は全員お供につけてやったから、帝の行列にも劣らなかったはずだ。配慮の足りない私はその時の見栄えしか考えなかった。自分の命の短さに気づいていたのだから、右大臣側の心理をもう少し慮ればいいのに、何も見えていなかった。
「お疲れですか?」
「かなりね」
一人になると式部が声をかけてくれる。その時はだるさも全く感じないから、体調に関係なく答えられる。
「終活はご順調のようですね。思い残すことは?」
「ありまくりだよ」
何もかもが不安の種だ。胸の底にいくつも大きな石を抱えている。
中でも一番大きなものは、岩山のようにそびえ立つ。
「......本当に、来てはくれないのか」
自業自得だ。苦い自嘲がこぼれていく。
あるのがあまりにあたりまえで、どうしたって越えられなくて、一生共にいてくれると思っていて、そうして失ってしまった。
「あの人が今、どう思っているかだけでも教えてもらえませんか」
「それは範囲を超えますので、教えられません」
式部の声が否定する。私は息を呑み込み、痛みに耐える。
彼女の声は情を含まずに淡々と尋ねる。
「信じられないのですか」
私はくすり、と笑う。
「......帝に愛していると言うのが、女御のお仕事なんですよ」
————あの優れた人が私なんかを好きなわけがなかった
鬼火が乱舞し、青い色が広がる。
ざぶり、と音がして波が打ちつけてくる。
あたりは夜の海だ。潮の香りがする。
光を宿さぬ暗い水底へ沈んでいく。
冷たい。そして寂しい。けれど苦しくはない。
辺りは暗いけれど何も見えないわけではない。
揺らぐ海藻や、透きとおったくらげや、無数の魚影が目に映る。
沈みながら鱗をきらめかせる魚たちに見とれていると、鋭い歯を持つ鮫が私の前に平伏した。
恐怖は感じない。もっと凄い生物を知っている。だからただうなずくと、大きな亀が連れて来られてその背に乗せられた。
海の底には宮殿があった。水の中なのにかがり火が焚かれ、真紅の高楼や壮麗な門が目に入る。
これは私のための宮殿だ。人には築けぬほど精緻な作りだが、誰もいない。
門の前に立つと自然に黄金の扉が開き、大きな魚や亀たちが頭を下げた。私は黙って中に入る。
色とりどりの綾絹が柱に結びつけらていて、水の中になびいている。足を進めると、道具の一つ一つが人ならぬ者の手で造られていて、綺羅の限りを尽くしている。
階さえ銀で、高欄は珊瑚、床は玉で飾られている。
螺鈿の椅子には錦の褥が敷かれている。そこに座るとすぐに鯛や平目が現れて歓迎の舞を舞う。だけど、乙姫はいない。というか人の形のものは一人もいない。
この孤独な宮殿が私の今後の住まいで、罪を償うための牢獄であることがわかった。
私はうなずき、それを受け入れた。
なんだかくねくねした生物が、私の目の前でいく本もの足をくねらせて踊る。なんだろう、これはと見ているとやって来た式部が、ごく普通の女房姿を現して答えてくれた。
「明石のタコ入道ですね。あいさつに来たのでしょう」
その動きはひどくユーモラスだ。私は口元を緩め「これからよろしく」と声をかけた。タコ入道は嬉しそうになおいっそう足をくねらせる。
水底の宮殿での暮らしに困ることはあまりない。ただ、寂しい。魚たちはかわいいが話もできず、稀に式部が来てくれる時以外は声も出さないので、人の言葉さえ忘れそうだ。
こんなことでは息子の前で実体化した時に何も言えないと不満を述べたら、式部がしぶしぶ巨大な水晶を磨いたものを持ってきてくれた。
なんだろうと見つめていると、鏡よりはっきりとした映像が映り音が流れた。
「なんですか、これ」
「幽中部です。あなたはまだ幽上部を見ることはできませんし、幽下部はエグいですからね」
異国の風景や自国の様々な情景や人々が断片的に映る。
「映像はおまかせになっていて選べませんから、ご覧になりたくない時はたもとでそっと払ってください。消えている状態の時に手をかざしますと、またつきます」
一時期は夢中になって見たが、そのうちかえって寂しくなってめったにつけなくなってしまった。だから、何も映らない水晶玉をぼんやりと眺めていると、そこに桜色の影が映った。
ーーーーあれは!
それは遠い昔の幻だ。
もう失われてしまった人の影。
晴れやかで美しいその姿。
私の姫君。私だけの姫君。
桜襲で装った、何の翳りもない美少女が私に向かって微笑んでいる。
思わず手を伸ばすとその人の影はすっ、と水晶玉から抜け出してきて私の指先に触れ、そのまま消えた。
「弘徽殿さんっ!!」
慌てて叫んだが面影は残らなかった。
「ただの残留思念ですよ。今の姿とは違うでしょうに」
呆れたように式部が私をなだめる。それはもうとっくに失われたものだと教えてくれる。
「もう会えないのですか」
「霧散しましたからねえ。もし実体化するとしてもだいぶかかるでしょうね」
「会いたいのですが」
式部は少し責めるような目をしたが、すぐに優しく答えた。
「すでに会ってらっしゃいますよ、大昔に。今のは過去の映像の影なんです。大后のお心次第でまた生まれる可能性はありますがね」
涙が滴るのを感じた。
まただ。私は失うまで何も気づかない。
「いいえ。少なくとも桐壺の更衣は全く恨んでいませんよ。あなたも全力で愛した自信はあるでしょ」
「もちろん!」
胸を張って叫び、すぐにうなだれた。だからといってもう少しやり方があったと思う。
「そうやってお悩みなることも罰ですけど、あの人もう一度やるかと聞かれたら、凄い勢いでうなずくと思いますよ」
胸に火が灯る。あんなに辛い目にあわせたのに。
「しかし大后の方はねえ。私の範疇じゃないので全くわかりません。だいたい、なぜここまでこじれさせたのですか?」
心の蔵を刃が刺す。血が流れて床を濡らす。
あの人は権力者の娘で、一族の繁栄のために捧げられた。
男のように政治力に長け、学才に優れていた。
いつも揺るぎなくて、絶対に傷つくことはないと思った。
どんなひどい言葉をぶつけても冷静だった。
ーーーー本当にそうだったのか?
あの時の涙。水晶のような涙。
じゃあなぜ会いに来てくれなかった。
ひとことでいい、謝らせてほしかった。
苦いものが全身を蝕む。式部が抑えてくれたのですでに血は止まったが、胸の痛みは止まらない。
私はようよう声を出した。
「だってあの人の、煽っていくスタイルってよくわからなかったんですよ!」
「......そうですか」
式部は肩を落として「キャパオーバーじゃしょうがないですね」と慰めてくれた。
こうして毎日、豪華で孤独な宮殿で自分の罪を考えている。
海の底はほの暗くてたいまつの光が欠かせないが、日が中天に輝く時と満月の夜だけは許されたように明るい。
珊瑚で周りを紅く飾られた窓から見上げると、月は優しく微笑むように見える。
お日様はまだ見つめることができない。まぶしすぎる。
だから私は陽光に目を背けて、今日も自分の罪を考えている。
次は弘徽殿の大后視点