共闘
源氏二十三歳
麗景殿視点
さすがに私の矜持などを優先する場合ではなかった。準備を急ぎながら慌ただしく文を書き、自由に暮らしているかつての後宮メンバーに連絡をとった。
全員が求めに応じられるわけではなかったけれど、みな事態を理解してくれた。心友の、元後涼殿の更衣など、返事の代わりに本人が来た。
「院がお悪いとは本当ですかっ」
「ええ。だけどひどくお苦しみになっているわけではないらしいの」
食欲が著しく落ち、それに伴って体力の低下が見られるので、どうかお助け願えないかと中宮からの文が届いた。ほぼ同じ頃に、年老いた内侍の訪問もあった。
「内侍の話も中宮さまの文と同じで、全く召し上がらないわけでもないけれど、最近ではささやかに箸を濡らす程度なんですって」
今はふくよかすぎるほどふくよかな更衣は勢い込んだ。
「それはいけません! 食べられないのが一番体力を奪いますっ」
「私もそう思うわ。今、唐菓子をたくさんこしらえさせているの。それを持って院の御所へ行くつもりよ」
必死の思いで彼女を見つめた。
「ねえ、あなたもあちらに来てちょうだい。向こうで、用意したものの味見をして、院が召し上がるにふさわしいかどうか判断してほしいの。私、あなたの味覚を信頼しているわ」
彼女は力強くうなずきかけて、途中でやめた。少し渋い顔で「弘徽殿のにょ......いえ、大后はどうおっしゃっているのでしょう」と声をひそめた。
「その点は大丈夫。もう話は通っているわ。今頃はあちらからもあなたの所へ文が届いているはずよ」
「あの方は御所に来ないのですか」
「ええ。その予定はないわ」
「なぜです。一番先に訪れるべき人でしょうに」
彼女の疑問はもっともだ。だけどそうせざるをえない事情がある。まずは中宮との関係性だ。
このお二方は現在の帝のご母堂と春宮の母君でいらっしゃるが、ほぼ政敵と考えていい。だけど政治的な実力を比較すると、圧倒的に大后の方が上だ。本人の実力を抜きにしても、右大臣と中宮の兄の兵部卿の宮では話にもならない。そこに源氏の君と、彼を支える左大臣を加えてさえ太刀打ちできない。
だけど、院が帝の位を退かれてからずっと囁かれている噂、こちらの御所ではまるで並の人のようにいつも中宮が院に寄り添っているという話も無視することはできない。
「大后が足を運べば周りも気をつかうでしょう。いえ、なによりも肝心の院が心労に捕われてしまうことを心配しているのよ。だから彼女はあえて来ないの」
「では中宮がいったん内裏にでも引いて春宮のもとにでもいればいいのに」
「そうね。だけど長年使われていた飛香舎(藤壷)を妹にあたる源氏の宮(朱雀帝女御。ちなみにこの呼び名はあだ名)に譲ったでしょう。居心地が悪いのでしょうよ」
「そんな場合ですかっ......いえ、私も冷静にならなければ。いつも横にいる中宮の姿がなくなれば、院が気になさるのは本当かもしれません。それにしても......辛いでしょうね」
最後のひとことが院に向けた言葉でないことはわかった。誰よりもあの方を心配しているはずの人を思うと胸が締め付けられる。
「ええ。でも相変わらず行動は早いわ。すぐさま院の供御(セレブ飯)のために最上の品を整えてうちに運んでくださったの。私からの献上品として届ける予定よ」
「中宮のもとへ送った方が早いのでは」
私は首を横に振った。
「裏にある権益のあれこれで、以前中宮側の者が大后の配慮を手ひどく断っているのよ。今更あちらは受け取れないわ」
「ロクな手下を持たぬ宮家筋が思い上がって。俗な者と見下すのなら、最後まで意地を張り通せばいいのに」
「いえ、張り通されたら院のお体に差し障るわ。ということで私は院のもとへ参内するのだけれど、あなたもぜひ来てほしいの」
更衣はまたうなずきかけて、再び止まった。苦笑いのような、やるせないような、そんな表情で私を見た。
「すぐにでも駆けつけたいけれど......」
うつむきかけた彼女を力強く励ます。
「仙洞御所(上皇の御所)へおもむく元後宮メンバーのお供はなによりも優先するように右大臣が命じたわ。弘徽殿の大后が計らってくださったみたいよ」
「相変わらず押してくること」
苦笑する彼女に昔の、寵を争いあっていた時代の覇気がわずかによみがえった。それを頼りに突っぱねられたら困るので、彼女の手を取り必死の形相で迫った。
「心友としてのお願いよ。いっしょに来て」
彼女はちょっと目を丸くし、それからすぐにいたずらっぽく微笑んだ。
「心友二号からの頼みじゃ断れませんね」
「でしょ。じゃあすぐに支度に取りかかって大急ぎであちらに来てね」
女房に合図をすると、ささやかな心葉(飾り)をつけた小さな壷を持ってきた。それを渡してだめ押しをする。
「これは準備を待つ間に召し上がる分。あちらでは院のお召しの前に蜜あえにして食べてもらうから心して」
「了解。すぐに向かうから、先に行っていてください」
蘇(乳製品)の壷を抱えて彼女は帰った。私は中断していた支度に戻った。
中宮に言いたいことはたくさんある。それでもそれを全て呑み込み「お知らせくださってありがとうございます」とだけ伝えた。あちらからも礼を述べに使者が来た。
私は与えられた部屋に居を構え、室礼(平安インテリア)の手直しをさせた。一足先に女房をやって整えさせておいたけれど、やはり住むとなると好みで多少の配置は変わる。
「麗景殿の雰囲気になりましたね」
女房があたりを見回す。私はそれを否定した。
「そうでもないわ。だいぶ素朴にしているもの」
あの由緒ある殿舎は、今では右大臣の孫娘が入っている。快く譲ったけれど少し寂しい。
「いいえ。この優しく品の良い雰囲気は女御さまにしか出せませんよ。しっとりと落ち着いてどこよりも安らぎます」
「あらあら。誉めても唐菓子の残りしかないわよ」
「いえ、残りませんよ」
女房が笑った。
「すぐに女御さまのご心友が駆けつけてくるはずですからね」
私も少し口元を緩めた。だけどすぐに外からの衣ずれが響いてきたので顔を引き締めた。
帝の女房が歓迎の言葉を述べる。こちらも返すと、ふっと素に戻って「ここは、里にいるよりなごみます」と言ってくれた。嬉しい。
「院もご調子のよい日にいらしたら、どんなに気が晴れましょう」
「お悪いのですか」
自分でもわかるほど不安に揺れる声を、彼女は温かく受け止めてくれた。
「いえ、変わりません。食が細くなられ、時おりだるそうにしていらっしゃいますがお苦しみの様子はありません」
聞いていた通りだ。私は息を呑み込んでぎこちなくうなずいた。
「それでは、ご案内いたしましょう」
女房が立ち上がり先導してくれた。自邸にはない長い廊を渡って院の御座所へ向かった。
「............本当に麗景殿さんだ」
彼は身を横たえてはいなかった。だるそうに脇息に寄りかかってはいたけれど、茵の上に座っていざり寄る私を見つめて、もう手放した名を呼んでくれて微笑んだ。
「お休みにならなくてはいけませんわ」
「いや、今日はわりといいんです。あなたに会えたからかな」
おやせになられた。だけど懐かしい、愛しい人の姿。私は涙ぐみそうになり、必死になってそれを抑えた。
「あら、お愛想がお上手になったこと。中宮さまと水も漏らさぬ仲だと聞いてますわよ」
「別に仲違いはしていませんが、そう見えるのかな」
「ええ。その噂で焼きもちを妬いてこうしておじゃまに来ましたのよ」
「大歓迎です」
院はにこにこと両腕を広げた。その中に飛び込みたい。だけど弱った方に負担をかけてはいけない。だから御前の茵に腰を落とし、彼のひざをちょん、とつついた。
「もっとお元気にならなければ飛びついてあげませんわ」
「それは手厳しい。蹴鞠(平安サッカー)でも始めようかな」
「いきなりハードな運動はいけません。まずはちゃんと召し上がらなくては」
冗談だとわかっているけどまじめに答えて目で叱ると、院は子どもっぽく嬉しそうな顔をした。
「そうそう。そんな風にしつけてくださる方がいないと、私は無茶しますよ」
「昔は怒られることは嫌いだったでしょう」
「若い頃はね。叱ってくれる人の気持ちなんてわからないから」
少し遠い目をする彼に、本当にちょっと妬いてしまって「じゃあ私大いに叱るわ」というと「麗景殿さんはほんのちょっとの方がいいです。優しくしてください。あなたにはそうされるのが一番好きです」と答えられて苦笑いするしかなかった。それが似合う人は他にいる。
だけど私の役割を求められることは嬉しくて「そうしますからいい子にしてくださいね」と笑うと、院も笑顔で「はいはい」と応えた。
「他の方たちも中宮さまに妬いてしまって、次々押し掛けてきますから覚悟してください」
「それは楽しみだ。身が持つかな」
ちょっと目元をセクシーに緩めてみせるから、今度はほんとにつねってしまう。院は大げさに痛がってみせ、その後はっとしたように宙を見上げ、すぐに肩をすくめた。
「............麗景殿さん」
「はい」
「大好きですよ、ずっと」
なんとも言えないほど優しくてやわらかな視線に、涙腺がいきなり仕事をやめてしまった。慌てて袖でそれをぬぐい、声が出せるようになるまでそのままでいた。
「......私もですのよ。気が合いますわね」
「本当に」
二人でにっこりと微笑みあってから部屋に戻った。あまり無理をさせてもいけない。
その日の供御は私の持ちこんだ、本当は右大臣側の用意した品を召し上がっていただいた。いつもより食が進んだと、院の女房が嬉しそうに教えてくれた。
翌日からは私の心友をはじめ、昔の後宮メンバーが次々と現れた。焦ったのか女房の衣装が少し貧相な方もいたが、誰一人陰口を叩く者はいなかった。もう私たちはライバルではない。協力すべき仲間だ。
「これは少し酸味がキツすぎる。外しなさい。ええ、こちらはよろしい。お出しするように」
供御の味見に心友の更衣を誘ったのは正しかった。キャラに似合わぬ繊細な味覚で、全ての食べ物を判断してくれる。しかも意外なことに、特に味の良いものは取り分けた分以外は頑として食べようとはしない。院の分を減らしたくないのだ。
「ええ。蘇の蜜はこのくらいがベストでしょう。果物もあまり召し上がらない? ならすぐに内膳司(宮廷コック)に使いをやりなさい。あそこでは桃などを塩漬けにしている。おいしいし邪を払うにふさわしい果実です。届いたらすぐに塩抜きをしていったん私の元へ運びなさい!」
「本当に助かるわ。私だったらなんでもおいしくいただいちゃうもの」
頼り切った目で彼女を見ると、厳しい顔をわずかに緩めた。
「いえ。私の食事だったらどれも充分以上です。さすがに右大臣方の食材は凄い。鮮度もよくて上質でぷりっぷりで申し分ありません」
「でもそれを見極め抜くのはさすがだわ」
「まあ、私から味覚を抜いたら、角のない蘭姉ちゃんみたいなものですからね。キャラが立ちませんよ。あ、それは上澄みだけをお勧めして」
そんな風に気をつかった食事だけど、最初の日を別にして、やはりそれほど箸が進まない。私もお菓子に工夫させてみたけれど、あまりはかばかしくなかった。味を見てくれた更衣は「絶品ですけどね」と肩を落とした。
「こうなればもう、食の質の問題ではないのでしょうね。お体自体が受け付けないのでは」
私は必死に首を横に振った。
「気分のいい日は私の部屋までいらっしゃるけれど、その時にはお菓子なら食べてくださるのよ。それに、院のもとへ上がった時も『あなたといっしょになら』と一つは口にしていただけるわ」
彼女は思慮深くうなずいた。
「そうですね。私の元にいらした時なども同じです。とすると人の関わりでいくらかは違う。ならばやはり、弘徽殿の大后をお呼びしてみるのはどうでしょう」
私はその手段に頼りたかった。少なくとも私は彼女が来てくれたらどんなにほっとすることかと思う。だけど、院は............?
「この状況ではさすがに中宮も文句は言わないと思うけれど......」
ためらった私の言葉を更衣は推し量ってくれた。
「叱られまいと召し上がるかと思いましたが、かえって食が細くなられる可能性もありますね。賭けをするにはさすがに弱られている。院ご自身は大后について何かおっしゃりましたか」
否定せざるをえない。私がこちらに来てから、彼はひとことも彼女について述べない。
「いいえ」
「私に対してもです。話を振ればお応えになるとは思いますが......」
負担になることを懸念して彼女も尋ねることができないでいた。私たちはひざを着きあわせて相談し、院の前では何も悩み事などないような顔をした。
小刀で氷を削ぐように、毎日少しずつお悪くなられている。そんなある日大后から早馬で、ある食材が届けられた。
「これは......」
「無理を言って手に入れたのでぜひ御前に、とおっしゃられております」
女房の手でそれは御簾内に運び込まれた。曲物の中の水に、透きとおる小さな魚が泳いでいる。氷魚だ。
「宇治川から取り寄せました。大后さまからのご伝言で、こればかりは必ず中宮さま方に届けて、そちらから院のもとへお運びしてもらってくださいということです」
使者の言葉に首を傾げる。
「どういうこと?」
「......わかります」
心友が難しい顔で説明してくれた。
「昔、桐壺の更衣が入ったばかりの頃に、更衣だけの女子会が企画されたことがありますが、彼女の好物がこの氷魚だと聞きました」
............胸が痛い
すでに死んだ恋敵の手を借りてまで、あの方をこの世に引き止めようとしている。
「とはいえ、諸刃の剣でしょう。本物に会いたくなって、この世に未練がなくなるかもしれません」
どうかしら。中宮には桐壺の更衣のように、まだ幼い息子がいる。それをほっておけるほど院は非情なお方ではない。
————だけど、もし院のお命が運命であったとしたら
寒気を抑えて無理に微笑む。
「似ている方をなぞっても、かえって違いが際立つものよ。春宮さまのことを強調していただくように伝えるわ」
不安そうな彼女と私自身を励ますように、もう一度笑顔を強引に作った。
誤字報告ありがとうございました




