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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
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源氏二十二歳

藤壷中宮視点

 中納言(ちゅうなごん)が焦った様子で現れて、(ひさし)にいるみんなに早口で告げた。


「げ、源氏の君が二条の邸に素性のわからぬ女を置いているのをご存知ですね」


 中務(なかつかさ)がおっとりと答えた。


「ええ。(あおい)祭もいっしょに出かけたとかで話題になりましたね」

「いきなりの同居ですから女房に毛の生えたようなものだと思っていましたが、それが何か?」


 他の女房も加わって妙に興奮した様子の中納言を不思議そうに見つめる。


「その女の生い立ちがわかりました」

「そう。どちらの人?」

「うちの中宮さまの(めい)っ子です!」


 みながぽかんと口を空けた。私だって驚いて几帳(きちょう)の奥からまじまじと彼女を見た。いつも源氏の名を聞くとさしこむように胸が痛むが、さすがにそれはない。


「どういうこと?」


 王命婦(おうみょうぶ)が中納言に詰め寄る。彼の取りつぎの彼女でさえ知らなかったらしい。


「お兄上の兵部卿(ひょうぶきょう)の宮さまの外腹(そとばら)の娘のようです。母君も亡くなられた按察(あぜち)大納言(だいなごん)の姫で、素性はけして悪くないのです」


 こまめに動いてくれるわけではないけれど、それでも兄は私の後見(こうけん)だから所用で彼の住む邸に女房を行かせることは多い。ちょうどそのお使いに出かけた中納言は、源氏からの手紙で右往左往している最中にたどり着いたらしい。


「姫の祖母の、亡くなった尼君からの依頼で預かっているが、そろそろ裳着(もぎ)(女性の平安成人式)を行いたいので認知してくれと書いてあったそうです」


 みんな驚いてしまって声も出ない。私もどうするべきか悩んだので、とりあえず院の様子を尋ねた。


「もうすぐ尚侍(ないしのかみ)が来るからと、離れの方に行かれましたよ」


 年輩の尚侍は足繁くこちらの御所にも通う。立場のせいで後宮と殿上(てんじょう)、両方の情報に精通しているので価値は高まっている。ほうびの意味があるのか院がねんごろにもてなすので、いったん来たら翌日まで私が呼ばれることはない。


「すぐに式部(しきぶ)を呼んで。相談したいから」


 年はとっていても蛇のように聡い彼女は、普段は春宮(とうぐう)である息子の元にいる。でも何か検討する必要がある時はこうして呼び出す。


 (べん)がうなずいて素早く場を辞した。それを見送ってからもう一度中納言に詳細を求めた。



「宮さまの筋の方に失礼ですが、その姫はご両親の正式な婚儀によって生まれた方ではありません。兵部卿の宮がこっそり大納言の姫を手に入れただけで側妻としてさえ認められてはおりません」

「でも、裳着のお祝いの品を贈るぐらいは」


 女房の言葉に式部はうなずかなかった。


「中宮さまが行えば、小さな行動でもそれは世に伝わり波紋が広がります。宮さまの行動を規範として左右大臣も祝わなければなりませんが、あの二人が今それを望むと思いますか」


 源氏の正室たる娘を亡くしたばかりの左大臣も、源氏と恋仲と噂の娘を持つ右大臣もできれば見過ごしたいだろう。


「うかつに先立つと双方から恨みを買う可能性があります。更にそこまでしてわれわれが得るものはなんでしょう。せいぜい源氏の君の多少の感謝ですが恩に着せることができるほどのものではありません。しかもあの方は自分に与えられる厚意をいつだって当然だと思っていらっしゃるので、気にも留めないかもしれません。あれだけおつくしになっていた左大臣がどうあしらわれていたかご存知ですね」


 こくこくと女房たちがうなずく。


「更に言えば兵部卿の宮ですが、この方ご本人も深く恩を感じる性質でいらっしゃるとは思えません。しかもはなはだ失礼ながら、中宮さまを後見する財力は北の方に頼りきりです」


 痛い所を突かれる。もちろん兄自身もある程度の資産はあるし御封(みふ)(平安給料)もあるけれど、北の方がいなかったとしたらあちこちにだまし取られていたに違いない。


「あの北の方は弘徽殿(こきでん)大后以上にさがな者(意地悪)と評判ですが、そのかわり恐ろしいほど現実的な方でやんごとなき身分とは思えぬほど資産の運用にたけていらっしゃいます。なんでも後々には姫君の一人を入内(じゅだい)させたいとお考えだとかでなりふりかまわず貯めこんでいらっしゃる。われわれに使う費用はその先行投資とみなして渋い顔をしつつも持ってくれましたが、二条の姫君に肩入れすると報復として大幅に削減されるかもしれません」


 みな顔色を変えた。院は優しいがあまり細かい点に気がつく方ではない。


「もちろん源氏の君自身が大掛かりな裳着を企画するのなら別です。春宮を人質に取られているようなものだから、とか北の方に言い訳して相応の贈答をすればよいでしょう。ですがたぶんあの方は内々にすますと思いますよ」


 女房たちはほう、とため息をついた。確かに兄が細やかに気を配れるとは思えないから、その姫は源氏の君だけを頼りに裳着を行うことになると思う。彼のセンスはなかなかのものだけど、大きくアピールしない限り人という最大の飾りが不足するだろう。それはその子の一生に関わる。


 さすがにかわいそうだと思った。そのことを察したらしい式部が続けた。


(おおやけ)にはスルーすることが最善ですが、そこはそれ、その姫の乳母(めのと)あたりに近づきの印としてこちら側の女房が中宮さまから下賜(かし)された品を贈ればいいでしょう。勘働きのできる女なら『自分にはもったいなさすぎる』と姫君に献上するでしょうし、その程度の女房もいない方でしたら先はないとみなして切ればいいと思います」


 みな納得してそう動くことにした。式部は贈答品を見極めたり、てきぱきと動いて道筋をつけるとまた内裏に戻っていった。



「いつもいてくれるといいのですけどね」


 中納言が名残惜しそうに呟くと、中務が「あらあら賢くない年寄りの方が残って住みませんね」と笑い彼女を焦らせた。


「そんなことはないのです。ただ彼女もいると心強いなと......」

「あら、なにか気になっていることがあるの?」


 王命婦が問い詰めると彼女は少し躊躇(ちゅうちょ)してから答えた。


「あります。でも式部でさえ手におえないでしょうが」

「なんなの?」

「院が......最近おやつれだとは思いませんか」


 私たちはしばし沈黙した。それは誰もが気づいていながら、はっきりと口にしなかったことだから。


「ええ。でも急にというわけでは......」

「そうです。こちらの御所にいらっしゃってからほんの少しずつ、最初はわからなかったぐらいに緩やかにおやせになっていらっしゃいます」


 言葉にすると目を背けていたことがはっきりと形になる。


「ご年齢を重ねたから仕方のないことでは」

「院はお心の様子で食が細るたちですし」


 品よく責任から逃れようとする女房たちに、中納言は珍しく合わせなかった。


「お年のせいとは思えませんし、帝の座を退かれて中宮さまとゆっくりとすごす院に、どのような心配がおありでしょうか」


 みな息を呑んで彼女を見つめる。ゆっくりと視線を廻らせるとおもむろに口を開いた。


「院の女房たちに尋ねてみました。口ごもっておりましたが、ついに一人が吐きました。食事の......」

「毒を盛られたのですね!」

「大后の手の者ですかっ」


 何人かが驚いて立ち上がる。しかし中納言は「いいえ」とその騒ぎを断ち切った。


「食事の質が落ちているというのです」

「「「「「は?」」」」」


 あまりに意外すぎて目を白黒させているものもいる。一人が噴き出しそうな顔で呟いた。


「そんな俗なこと......」

「その俗なことで院はおやつれになっているのです」


 別の女が不思議そうな顔で私に尋ねた。


「宮さまのお食事に変わりはないと思っていましたが、何か違いがございますか」

「いいえ。藤壷にいた時と変わりません」

「帝であった頃院は大床子(だいしょうじ)御膳(おもの)朝餉(あさがれい)を召し上がっていらっしゃいましたが、それは全て素材から右大臣側が用意させていたものです。決められた献上品以外も使用していたらしいです。ですが今は院の供御(くご)(院や帝等のご飯)の手配はわれわれの手の者に変わりました」


 当然のことだ。ささやかなことであろうとも、人を支配し従わせる力をみなほしがる。実質的な利益も生むから、配下の者にそれを与え彼らを更に支配する。


「表面上は農民も漁師(すなどり)も従っていますが、しかし」


 下々の者は小ずるくたくましい。品の良い物を平気でごまかし横流して売ったり、もっと力のある者に届けたりする。


「もちろん叱りつけたり罰を与えたりはしますよ。ですが」


 平伏しながらぺろりと舌を出す庶民を御しきれない。一方右大臣家の手の者はその扱いが絶妙にうまい。


「脅すだけでも従わず、甘やかすとつけあがる下賎の者をアメと鞭を使い分けて上手に操っているようです」

「俗な者同士さぞや気が合うのでしょうよ」

「ですが、院の食が細っていることは事実です。ご不満を述べられたことはありませんが」


 一人が思いついたことを口にした。


「右大臣家に頼んで采配を振るってもらえば......」

「わが方の下の者の力を削ぎます。それに、代が変わる頃にそう申し出た大后に仕える者を手ひどく断った者がいるようで......」


 当時勝利に酔った女房たちはあちら側から院への献上品さえ拒んだようだ。


「今更手を貸してくれとは言えません」


 だけどこのままにしておくと院がお体を悪くするかもしれない。そうなると、私はともかく春宮は......


 冷たい刃が喉元にあてられたような気分になる。

 刃を握っているのは確実にあの女だ。

 哄笑がどこかから聞こえる。いい気になるな、勝ったつもりかと声がする。


 震えながら考えた。

 一度試み失敗した策だがもう一度試すしかない。

 聖なるものが俗の支えを必要とするのなら、私はこの中宮の立場に甘んじない。見苦しかろうがあがいてやる。


「すぐに文の支度をして」


 他の女房が驚いているうちに忠実な弁がさっと文机(ふづくえ)を私の元に差し出した。指示に従って紙や筆も選ぶ。いつもより一段と弱々しい手蹟()でそれを書き、女房の一人を使者に選んだ。


「元の麗景殿の女御さま、今は里にいらっしゃる方にお届けして」


 彼女は目を見張りながらも何も聞かず、すぐに部屋から出て行った。



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