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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
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他人事

源氏二十二歳

弘徽殿視点

 夏を送ったばかりの頃のような八月半ば、ようやく暑熱の落ち着く夕暮れに人々は集まり始めた。例年通りの人事異動評議、司召(つかさめし)が夜から始まるからだ。

 VIPは遅れてくるがそれ以外は早くから来ていて、力ある者の女房にへばりついたりしている。うちも白砂が人で埋まっていたがうっとうしいので散らした。だが女房がひっきりなしに呼び出される。乳母子(めのとご)ですら席の温もる暇がない。


 やがて月が上り評議が始まった。ところが大して間を置かずになんだか焦った使者が、駆け込んできたらしい。事情が知れると有能な私の手の者が、すぐさま弘徽殿(こきでん)に飛んできた。


訃報(ふほう)! 左大臣家姫君が急死なさいました!」


 御簾(みす)内で聞いて驚いた。出産後の経過は良かったと言われていたが。


「罰が当たったのですわ!」


 乳母子が勢い込んだ。


「帝と言えば現人神(あらひとがみ)。その立場が決まっていた方を断って、ただ人に嫁ぐからですよ」


 どれだけ自覚があるのかわからぬが、彼女の存在はありがたい。自ら下司な思考に陥らずにすむ。


「若い盛りに気の毒なことだ」


 まんざら嘘でもなく呟き、それからこの件の各界への影響を考えた。

 まず、源氏の力が確実に削がれる。あやつが赤子の息子を連れ帰って育てるとは思わぬから左大臣家と完全に切れはしないだろうが、それでももはや公式な援助は受けられぬ。

 という事は源氏が後見をしている春宮(とうぐう)の立場も少々脆くなる。もちろん院が目を掛けているから、すぐに引きずり下ろすわけにはいかないが。


 にやり、と自分の片頬が緩んだ事に気づく。片手に持った扇を開いて顔を隠す。


 左大臣自身も大変な衝撃であろう。うちのようにあまたの美姫を生み出している家と違って貴重な一粒種の女子だ、もう後がない。メンタル面も激ヤバだろうし院とのラインも細くなる。


 風は確実にわが方に向いているが、不安要素も多い。うちの男兄弟もその息子どもも、そろいもそろってロクでもない。こやつらにまかせると右大臣家どころかこの大八州(おおやしま)(日本)さえ傾かせかねん。やはり父を通してこの私が目を配るしかないか。


「すぐに弔辞(ちょうじ)を送りましょう」

「待て。あまり早すぎても相手の気を損ねる。葬儀の日取りが決まってからでよい」


 けろりと生き返りでもしたら目もあてられぬ。そうでなくとも、弱った立場の者は順風の者にひがみがちになるので八つあたりされかねない。細やかに気をつかう必要がある。


————しかし今左大臣をつつけば、世をはかなんで出家しないだろうか


 まじめに考えてみるが、孫を帝位につけ外戚となったわが父はそのうち太政大臣(だじょうだいじん)に上がる事になる。この立場は参内(さんだい)の義務がないので、多少人々の動きに疎くなる可能性がある。その上大臣枠が一気に二つ空いたりしたら、その二人が結託して足下をすくわれかねない。それよりは左大臣の位置は慣れたボンクラがついていた方がマシだ。


 それと、左大臣家を完全につぶすとせっかくつないだわが妹四の君と頭中将のラインがムダになる。あやつはなかなか有能な男だし帝には忠誠を尽くしているので完全には切りたくない。


 トップ同士のつながりは重要な保険だ。われわれは身内同士でくらいあう悪名高い藤氏だが、他の氏族が立場を脅かすときは手を組み、総力上げてぶっつぶす。稀に、死後に神と化してリベンジ仕掛けるチートもいないことはないが、そんな例外気にしていたら日常で足下をすくわれる。


 浅ましい生き方だと思うだろう。だがこの時代、敗北は自分だけの問題ではない。

 私の子までは先を見据えて手を打ったし、不満はあるが私自身と息子はゴールまでたどり着いたから安泰だ。この先食うに困ることも他者にすがる必要もない。


 だが右大臣家の者やその子孫、それに仕える者たちはどうだ。うちが没落すればとたんにアウトだ。

 道にはよく死骸が転がり、野良犬にはらわたを食い荒らされている。その中にはもともと家筋はよかったのに身を落とした者も混じっている。


 もし私が闘いに敗れ完璧なまでにつぶされたとしても、私の女房までは飢えさせない。だが、乳母子の抱く子のその腕に抱える子のそのまた子どもはどうだ。路上でガツガツと喰われていないと言い切れるか。


 私は勝ち続ける必要がある。私に従い仕える全ての者どものために全力で。この優位に立つうちにあらん限りの力を使って。憎まれても恐れられてもかまわぬ。兄たちが頼りにならぬのならこの私自身が足下の小石を全て拾うしかないではないか。


 誰かが私を阻もうとするのなら、たとえこの手を汚そうとも排除する。それが私の生き方だ。人の死だって利用できるのならそうする。だが左大臣の姫の死は、メリットばかりをもたらしたわけではなかった。


「正妻が亡くなったわけだし、源氏を六の君の婿として迎えてはどうであろうか」


 わが父右大臣の言い出した言葉に逆上しそうになった。

 父には息子の依頼は伏せてある。本来ならばこちらから捧げるものを帝音自ら口にしなければならなかったこの状況は私にとってなさけなく、できれば身内にも語りたくない。私自身が強引に進めることだと思っていてほしい。もう少し進んでから彼の手を借りようと思っていた。


 だからといって源氏はなかろう。確かに六の君はあやつのことを忘れてはいないようだし、私は未だ彼女を思った位置につけることに成功してはいない。彼女に与える予定の定員二名の尚侍(ないしのかみ)内侍司(ないしのつかさ)の長官で、名目上は帝の秘書的役割をする者だ。今ではその職能自体は典侍(ないしのすけ)のものとなり、この地位は権門の娘の名誉職兼更衣につぐ妃めいた立場になりつつある。役得の多いキャリア官僚だし、お手つきもあるし、恥さえ忍べば定年もないしでなかなかうまみのある立場なためか現在の者がどう誘ってもやめないのだ。


 一つは源典侍がいかん。普通はある程度年を重ねると内裏(だいり)には居辛くなるものだが、あの全てにお達者な高齢者を見ると大抵の者がまだまだいけると思ってしまう。


 だがそれだけではない。尚侍の役は殿舎(でんしゃ)と同じで、現在力のある者に要求されない限り、身内筋に譲ることもできる。

 今回は最も力を持つ右大臣家が声をかけたわけだから当然さっさと引退するべきなのだが、これがなかなかしぶとい。年若い者はついてそれほど間がないし事情もあるので年配者の方にしぼって交渉しているのだが『院に呼ばれることがありますから』とうなずかない。


「そもそも院は仙洞(せんとう)御所(ごしょ)中宮(ちゅうぐう)とまるでおしどりのように暮らしているのでしょう。そんなめったにないお勤めを盾に退かないなんて、ずうずうしいわ」

「意外に呼ばれることが多いように言ってますね」


 女房たちの会話に耳を塞ぎたくなるが、あえて聞き続けると違和感が残った。

 あちらの御所に他の女御(にょうご)更衣(こうい)の部屋は一応用意してある。しかし彼女たちはほぼ引退の身で、稀にごあいさつには行くがほとんど里に下がっている。


 つまり......い、痛っ、心の蔵が痛いが逃げてはならぬ、私ッ。考え続けるのだ! そもそももはやこの身は死人なのだから、これは幻痛(ファントムペイン)だッ!! ......院のお相手が減ったわけだから呼ばれる回数が増えたのか。


 いやしかし、他に女房もいる。それに院はお年を重ねている。あの若さだけが取り柄の中宮もいるわけだからやはり尚侍ごときにそれほど順番が......痛いっ! 天界の掃除女の馬鹿者っ! 心の蔵などいらぬわっ!!


 血があふれそうになり扇を持たぬ方の手で胸を押さえる。女房たちを驚かさぬようゆっくりと、表情も変えず。

 少し大きめに息を繰り返して痛みを逃す。手を外さぬまままた思考を廻らす。

 単に尚侍職を渡したくないためのいいわけだろう。なにせあの方は中宮と......


 あまりの痛みに息が止まった。静止した世界の向こうにあの人の顔が見えた。彼は優しい表情で誰かを見つめている。相手の顔は見えない。


————私以外を見つめないで

    その手に抱かないで

    私だけを見つめて............小娘か私はッ!!


「寝ますっ!!」


 突然の宣言に女房たちは飛び上がらんばかりに驚いた。


「まだ日も高いのに御気分がお悪いのですか?」

「薬湯などお持ちしましょうか?」

「気分を変えたいだけですっ」


 苛立つと口調がかえって娘時代に戻ってしまう。私は超育ちのいい姫君なので敬語の方が楽なのだっ。ぶんぶん御帳台(みちょうだい)にいざっていくと「ホルモンバランスが崩れたのでしょうか」などと口走る乳母子の声が聞こえて、思わず振り返ってにらみつける。よくしつけられたはずの女房がすくみあがっている中、唯一平然とした表情の彼女が見えた。


 しかし責任を放棄しないすばらしいリーダーである私は、身を横たえてからもしばらく考えた。


 六の君のスキャンダルは都中の噂となったわけだから、もはや女御や更衣として入内(じゅだい)は不可能だ。けれど息子の依頼があったわけだからやはり尚侍につけることが最善の策だ。

 だが、後宮では尚侍は更衣以下のイレギュラーな妃として扱われることとなる。どうせなら、やはり彼女をもっと崇められる存在にしてやりたい。


————源氏の野郎ッ


 この上品な私をして悪罵が胸をよぎる。あやつさえいなければ最上級の女御として入内させ、くりかえしませんあやまちは、一瞬の後に私が太皇太后につき、漁父の利で中宮を皇太后にし、すぐに六の君を中宮につけてやったのに。


 いまだ彼女は御匣殿(みくしげどの)の地位のままだ。最近は本来の明るさを取り戻して、居住している登花殿(とうかでん)は北側の奥なので辛気くさくてイヤ、とかかってなことを抜かしている。そうは言ってもこの弘徽殿の隣で悪くはない場所だ。それ以上となると藤壷か麗景殿(れいけいでん)承香殿(しょうきょうでん)か。どれも人が入っているのでさすがに奪うわけにはいかぬ。それにそのどれもこの弘徽殿ほど格があるわけではない。


「ふむ」


 あたりまえだが、この日出ずる国でもっとも権威ある後宮の殿舎はこの弘徽殿だ。とすればこの場を尚侍となった六の君に与えれば、更衣以下の立場は格上げされはせぬか。


 なかなか悪くない図が見えてきた。はからずも六の君と源氏のことを父に問われた時に返した言葉の保証ができた。「ちゃんと宮仕えすれば悪くはないでしょう」そう反論したのだった。


 よしこの線でいく。だからなんとかかんとか尚侍の位置を空けさせなければならない。御匣殿ではスタートラインにも立てない。


————うまく事を運んで皇子の一人も生めば、その後はどうにかしてやろう


 やっかいだが同腹の妹だ。その人生を華あるものにしてやりたい。形ばかりの正妻で訪れの少なかった左大臣の姫のような生き方はさせたくない。あの子を、ただ人のくせにそんな不実な源氏の正妻にはさせない。私の身内を一人だって不幸にはしたくない。

 そう心で呟いてとりあえず落ち着いて眠りを得た。



「深刻なイケメン不足ですわ。源氏の君はもちろん、頭中将さえ喪に服していらっしゃるし」

「年上趣味のわたくしとしては左大臣のお姿を拝めないことがけっこうキツい」

「わたしは帝さえいらっしゃれば問題ありませんわ」

「確かに帝はスパダリですけど、斎院さまのサロンに報告するためにそれぞれの様子を知らなくては」

「見かけたら喪服の様子をくわしくって言われてますの」


 風の方向で、馬道(めどう)に集った女房たちのたわいないおしゃべりが聞こえてくる。凶事であっても右大臣家に取っ手は他人事で、もっぱら喪中の男たちについて語られる。


「さっさと四十九日が終わってほしいわー」

「その後源氏の君は二条の邸へ?」

「謎の女が待ちかねているのでしょうね」

「どんな育ちの女だか」


 正室にはなれないだろうとひそひそ語られ、次には六条の御息所の名が上がりまた否定される。六の君の名も上がる。


「宮仕えをお続けになるようですね」

「でも、お辛いのじゃないかしら」

「お心はやはり......」


 源氏の君に。濁した言葉が突き刺さる。はねのけるようにしてまっすぐに前を向いた。

 

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