葵 《下》
早く生まれすぎて心配された赤子はとても元気で、日に日に愛らしさを増してくる。春宮に目元の辺りがよく似ている気がする。
源氏は何はばかることなく堂々と可愛がっていると、左大臣も女房たちも幸せそうに微笑む。回復しきっていない正室も、大宮と共にそのことを聞いて心穏やかな様子である。
六条の御息所の元には長く行っていない。あの時のことを思い出すとぞっとして行けない。あまりに失礼だろうと文だけは書いたが、正直近寄りたくない。それどころが疑心暗鬼になって、他の女君の所さえ顔を出さない。時期が時期だから誰も責めたりはしないが。
それでも日がたってくると赤子を見ているうちに春宮に会いたくなってきて、参内しようと思い立つ。ちょうど司召で人事異動の評議がある。参議である源氏は連なるべきだ。
初出勤前に伏せたままの正室の元へ行く。
几帳を隔てて用意された場所にクレームを付け、もっと傍に寄りそうように座る。
弱った妻は好きだ。いつもの武装した知性も凍結するバリヤーもなく素直でしおらしい。手を握ったり体に掛けた大袿を具合よく直したりとかいがいしく世話をする。話しかけるとぐったりとしたまま間遠に応えてくれる。それでも、最期のようだった時と較べれば夢のようだ。
だがあの時のことを思い出すと、どうしてもまがまがしいあの変貌についても考えざるを得ない。
妻はまったく覚えていないらしいが嫌な気分だ。封印してしまおうと「もっとお話ししたいけれど、とてもだるそうだから」と言葉をとぎらせる。彼女の閉じた唇が乾いて見えて、女房に薬湯を持たせた。
そっと彼女の背に手をあてがい身を起こさせると自分にもたれさせ、薬湯の入った土器を口元にあて少しずつ傾ける。
「まあ、いつこのようなことを習ったのでしょう」
女房たちが感動して涙ぐむが「女の子を引き取って育ててるから覚えてしまって」とは口が裂けても言えない。
素直にされるがままの彼女はとても可愛い。いつもの拒絶も取り払われている。極めて美しい人が弱って、線が細くなり消えそうな気配で横になっている姿はかわいそうで可愛い。
こんなにぐったりしているのに髪だけは乱れもせず、はらはらと枕の辺りにかかっている様子は完全にキてて、心臓ズキュンと射抜かれそうだ。
————長年何を見ていたんだ。完璧中の完璧じゃないか。何が足りないって言うんだ。胸キュンどころじゃないじゃないか
ガン見がやめられない。
「院の御所などにも行って、できるだけ早く帰るからね。こんな風にあなたに会えたら嬉しいのに今まで大宮がぴったりだったから遠慮したけど、いつもこうしていたいよ。病室を離れたら私が彼女の代わりをするよ。親に世話を任せるなんて子どもっぽいよ」
————これからは左大臣も大宮も自分のいる時は外してもらって、彼女とあの子と三人で過ごそう。ちょっと弱くなった彼女は私を頼る。私も他の人のことは忘れて優しくしてやって......
彼女が自分を見上げている。源氏でさえ時に恥ずかしくなるほどの端整な美貌がいくらかやつれていて、その欠落こそが本当の画竜点睛、彼にとっては今まで不足していた点だったのだ。
ーーーー大事にしよう
誰よりも。何よりも。そう決意して、出勤スーツに着替えた後も名残惜しく見つめれば、妻も潤んだような瞳で源氏をじっと見返す。言葉は出ない。
————兄上と較べて見下していたわけじゃない。この人は凄く不器用でシャイなんだ
そのとき初めて気づいた。思いがこみ上げてくると何も話せなくなる童女のような彼女に。
————車争いの時もたぶん、恐くて声も出せなかったんだ
なのにその弱みを見せないように威厳という盾で武装して、やわらかな中身を守っていることを理解した。もうその強固なガードにだまされない。
ふと内裏でもっとも強固な盾を持つ女を思い出した。
————あの人もそうなのかな
すぐに打ち消す。
ーーーーないな。あの人は中身も鋼だ
較べたことに苦笑して、最愛の妻に優しく「すぐに帰るよ」ともう一度囁いて病室を後にした。
「父上、父上、私けっこうやるんです。この間朱雀大路に牛を放し飼いにしていたものを取り締まったのは私の手腕です!」
「なに、そんなはした仕事。私はこの間の御禊の前駆をやりました」
司召は京官任命の会議なので左大臣も参内した。側妻腹の息子たちも彼につきまとって昇進をねだる。格下の者どもも悲愴な顔をしてなんとかその視界に入ろうと右往左往する。
左大臣の愛息、頭の中将も愛ムコ源氏もおべっか使いに囲まれて、宜陽殿に行くことさえ大変だ。
すでに夜は更けていた。満月にわずかに足りぬ月の下、活気ある場を訪れた使者は不吉な知らせを抱えていた。左大臣の姫の死だ。
評議の場はたちまち割れた。誰も彼もが足が地に着かぬほどの勢いで退出する。
もう深夜だ。出産の時には頼りになった山の座主や僧たちを呼ぶこともできない。もう安心だと気を抜いていた人々は、急に壁にぶつかったような気がした。
誰もが信じられなかった。
北枕にすることもせず何日も人々は待った。眠れる姫が目覚めることを。
その瞳を開いて、源氏を親を息子を見ることを。
死相が色濃い。
源氏は娘にすがる左大臣の肩にそっと触れた。
「......これ以上は」
弔問が続く。やんごとなき辺りからも真摯な哀悼がある。中でも上皇の嘆きと弔いは、左大臣の心をわずかに慰めた。
荼毘の焔が赤々と揺れる。人の命そのものを燃やしているかのように、ごうごうと音を立てて燃え盛る。
源氏の白い頬にも火影が移る。時にその色は血の涙のようにも見える。
その夜、葬儀を行う鳥部野に人は多かった。こなた彼方の送り人、念仏を唱える数多い僧、院からも中宮からも果ては春宮からも使者があまた詰めかけている。
嘆きの声の中左大臣は立ち上がることさえできない。
「こんな年なのに、若く盛りの子に先立たれようとは」
前世の行いがよほど悪かったのであろうと、恥じて泣く様をみな痛ましく見つめている。
夜もすがら葬儀は続き、明け方にようやく人は帰った。
西の空に有明の月がぽつんと残される。薄く頼りない青い月だ。
臣下でもっとも高位の男は、未だ闇にくれ惑う。
臣下でもっとも高貴な男は、それも道理と空を眺める。
立ち上る煙はいつしか雲にまぎれて、逝ってしまったあの人のゆかりさえ知れなくなった。
左大臣邸に戻っても源氏は眠れない。在りし日の妻の面影が胸をよぎる。
ーーーーこれからだったのに。きっと自然に見直してくれるとのんきにかまえていたのに。今死んじゃダメだ。まだ私はあなたにとってひどいヤツのままじゃないか。これからちゃんと夫婦になって、子どもについて語り合ったり少しくらいケンカしたりして、でもお互いに許しあって、どんなに素敵な女君がいても最後に戻るのは君の所だよって囁いて......
鈍色の喪服の色が薄すぎるように感じる。この時代、妻が死んだ時よりも夫の時の方が喪服の色は濃い。自分が先立ったとしたら彼女は、もっと黒々とした色を着たかと思うと、同じほどの悼み心を届けてやりたい気がする。
もう何も贈ることはできない。詠みあげる和歌さえ自己満足だ。だからせめて、しのびやかに彼女のために経を読んだ。その様はひどく優美で、勤行に慣れた僧よりも人の心を打った。
何も知らない赤子は無邪気で源氏はその子を見て涙ぐむが、せめて形見のこの子がいてよかったとわずかに慰められる。同時に親の気持ちが少しだけわかった。
大宮は寝込んでしまった。男たちの手で法事が手配される。
経読むばかりの日々は過ぎゆく。このまま仏門に下るのも悪くはないと思うほどだ。だけどわが子や二条院の姫君のことを放棄するのは、あまりに無責任だ。
毎夜眠りが続かない。独り寝が寂しくて目覚めがちだ。
女の元へ行く気にもなれない。手近な女を呼びたくもない。御帳台近くに控える宿直の女房たちも心配そうだ。
明け方には念仏を唱える僧の声が響く。人気声優並みの美声の僧ばかり集めたので、深まる秋の気配にそれが加わってひときわ身に染む。
そんな朝霧の深い朝に、咲き初めた菊の枝に喪を表す青鈍色の紙の文をつけてそっと置いていった使者がいる。
「センスあるね」と眺めると御息所の字だ。いつもより優美に書かれている。
『お便りできなかったことをお察しください。他人の私でさえあの方のことを聞いて涙が出ますのに、ましてやあなたは。趣き深い今日の空を見ているうちに思いがあふれて』
————とんだ弔問だ
御息所の娘の斎宮は清めのために、内裏の左衛門の司に入っている。喪中であることを理由に今まで連絡は絶っていた。この文章も返すべきかと迷ったが、鈍色っぽい紫の紙を取り出した。
『連絡もせずに日がたってしまって申しわけありません。喪中の身であることをご存知でいらっしゃると甘えてしまいました。生きるも死ぬも変わらずにはかないものです。強すぎる想いは捨ててお心安らかに。清めの場でこの喪中の文を御覧になるかはわかりませんが、形ばかり』
御息所は内裏を離れて里に戻っていた時なので、文を開いた。ほのめかすような言葉を見て、自分の魂が身を離れたことはやはり本当でしかもそれを知られている。
絶望が彼女を焦がす。誉れ高い東宮妃の身であって、その方を失った後でさえ源氏の父である院にいつも気遣ってもらっていたのに、こんな浮き名を流すことになるとは思いもしなかった。
傷つき悩み乱れる彼女はそれでも世間で評判の貴婦人で、斎宮が内裏から嵯峨の野の宮へ移ってからは何ごとにも人の気を惹く趣向を凝らした。
「殿上人でも風流な者は、朝夕霧に濡れつつ野の宮まで行くことを日課にしているようですよ」
惟光が聞いた噂を源氏に伝える。彼は少しだけ気持ちを揺らした。
————そりゃそうだ。センスと教養は裏切らないから。あの人が私のことを完全に見限って伊勢に行ってしまったらさすがに寂しいか
苦いものを含んで呑み下せないような顔の源氏はひとことも答えず、親しい乳母子の惟光は追求しようとはしなかった。
いつしか秋は終わりを告げ、冬の気配が訪れる。
喪の明ける四十九日はもうすぐだ。そうなると源氏はこの左大臣邸を出ることになるが、今はまだ妻のいない部屋でぼんやりと過ごしている。
心配した頭中将がまめに様子を見に来てくれる。世間話やお色気話を熱心に語るのは、慰めているつもりらしい。しめやかな気配を打ち破る滑稽譚をたずさえてくる。
中でもあの源典侍のお笑いネタは鉄板だ。さすがに源氏は「気の毒だからそんなにおばば様をからかうなよ」と止めるけれどつい吹き出す。
末摘花の話題やそれ以外も引っ張り出して笑っていたはずなのに、気がつけば切ない話になって涙ぐんだりしている。
絹のような時雨が降って切ない夕暮れ、頭中将が喪服の直衣や指貫ばかまの色を淡く変えて、男らしくしゃっきりした姿で現れた。
源氏は西の妻戸の高欄に寄りかかってほおづえをつき、冷たい霜に枯れた前栽を眺めていた。頭中将にはかまわず目線を徐々に上まであげていき、また、空を眺めた。
風は荒く時雨は細い。劉禹錫の漢詩にかこつけて「雨になったか、雲になったか......」と呟くと頭中将が顔をのぞきこむ。
「迷いますよ」
「?」
「妹が。いやこの私でももし女だったら、あなたのような美形残して死にたくなくて化けて出るかもしれません」
思わず源氏は直衣の紐を締め直した。こいつヤバいかもしれない。源氏は下に紅の艶やかな下襲を重ねているが、鈍色の濃い夏の直衣の地味な喪服姿は素材のよさを引き立てて、しどけなく打ち乱れる姿も人を惑わす絶世の美貌、ノンケだってその気にならないとは限らない。
ビビった彼をそのままに、頭中将も空に目を移した。
「どれが妹なんでしょうね。わからないよ」
ほっとして、源氏は時雨と自分をシンクロさせて亡き人を思う歌を詠んだ。頭中将はその様子に胸を打たれた。
『がんじがらめに縛られた縁だから、好きじゃなくても妹と連れ添っていると思っていたのに、マジな気持ちがあったのだな』
細い時雨がいつしかやんで頭中将も帰っていった。その牛車を見送ることもせずに、また前栽に目を戻した源氏は枯れた草の中で静かに露を宿していたりんどうや撫子を折らせて大宮に届けさせた。
彼女は涙をこぼし、赤子は笑う。
悲しみは違う形で人に宿っていた。
何かにすがりたい気持ちを抱えた源氏は、従姉妹の朝顔の君にそれを向けた。空色をした上質な唐の紙で久しぶりに文を出す。
「ねえ、寂しいんだよ秋はいつだって。でも今年は特にひどいんだ」
「大事な方に先立たれたと聞きました。寂しく降る時雨の空をどうご覧になっているかと考えていますわ」
墨つきほのかな書体で奥ゆかしい。さすがこの方だと感心する。恋のようでそこまではいかない淡い感情は、ひりつく心を癒してくれる。薄皮をはぐようにほんの少し痛みを紛らす。
妻は死んだ。だが自分は生きている。
源氏は喪の儀式のようにゆっくりと人々の中に戻っていく。
彼女は少しずつ遠くなる。
人との文や会話が死者との間に壁を作っていく。
身近な女房とも思い出を語る。正室に仕えていた中納言の君というありふれた名の一人は、関係のある召人(情人)だ。昔からの間柄だが妻の死以降は自重している。
『思っていたより誠実な方なのかも』
暗い室内に大殿油の灯影が揺れる。閉じこもった暮らしの中で親しんだ女房たちの影は一つ一つ見分けることができる。彼女たちによって正室の思い出は呼び出されてしめやかに語られ、やがて消えていく。それは人を使った呪で、同時に禊だ。
ついに、女房は言った。
「お方さまのことはもう、仕方のないことですが、殿がこの邸を離れてしまうことを思うと切なくて」
亡き人への涙が生きる者への涙と変わった。源氏は感慨深げに女房たちを見渡した。
「また来るよ。そう薄情者扱いしないでくれ。だけど命ははかないものだね」
この私だっていつまで生きるか知れない。そう言いかけて心細げな小さな影に気づいてやめた。見覚えのある愛らしい女童が、人よりも汗衫を黒く染めたものと憂いを忘れるとの故事のある萱草色の袴を身に着けている。正妻がとりわけ可愛がっていたあの子だ。これ以上この子を不安がらせてはいけない。
「あてき。これからは私を頼るんだよ」
優しい声を出すと彼女は激しく泣いた。
「亡くなった妻のためにも息子を見捨てないで今までのように仕えてほしい。君たちみんなが彼女の名残りだ。いなくなったりしたら寂しすぎる」
そうは言っても今まで以上に疎遠になるだろうと、みな不安の色を隠せなかった。
また時雨が打ちかかり、風は木の葉を誘う。
院の元へ行きその後は二条院に戻る予定の源氏に、左大臣も大宮も涙を禁じ得ない。若君もいるのでこれが最後というわけではないが、辛さのあまり五、六ページ嘆いている。さすがにつきあっていられないので省略する。
「ご飯! ご飯食べなさい」
やつれた源氏を見た瞬間、高貴な院たる父上皇は極めて現実的なことを命じた。
「ここで私の目の前で食べなきゃダメです。精進なんかほどほどでよろしい」
ありがたくいただいて父の愛をかみしめる。と同時のこの言動は、普段おしどりのようにすごしている中宮の影響では絶対にないと思う。
————超即物的な方がいたね、身近に
最近弘徽殿の大后は、帝のいる内裏からほとんど離れず院を訪問することは極めて稀だと聞いている。それでも長年陰......表から支えたあの人の影響は、いつの間にかに抜きがたいものとなっているらしい。
————昔右大臣邸に行った時も、たらふく食べさせてもらったな
その時の食事と較べると、だいぶ質が落ちるような気もする。それでも気持ちが嬉しくて、喜ばせるほど豪快に高杯を空けた。
中宮の元にもあいさつに行く。王命婦を取り次ぎにお言葉をいただいた。ただの弔辞だがていねいに答える。
「無常の世を思い知り出家しようかとまで思いましたが、たびたびのお励ましを慰めに今日まで来ることができました」
無紋の袍に鈍色の下襲、冠に下がる纓を武官として巻き上げているやつれ姿は、華やかな装束よりかえってイケている。
「未亡人的色気ってやつですね」
と、こちらは中宮側の中納言(左大臣邸の女房とは別人)がこっそりつぶやいて「まあ、お下品です」と中務に叱られた。
その後源氏は春宮の元にも参り、全クリした後ようやく懐かしい二条院へ引き上げることができた。
萱草色=サフランイエロー。明るい黄橙色。