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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
52/89

葵 《上》

源氏二十二歳

視点は変動

 たとえば氷を人の形に刻んでも、冷たさに耐えて抱き続ければいつかは溶けて人肌の温もりの水へと変わるだろう。だけどあの人は永遠に溶けない。


 源氏の君は誰も座らぬ(しとね)にちらりと目をやって、こっそりとため息をついた。


「やや、土器(かわらけ)が乾いているではありませんか。これ女房、さっさとおつぎせぬか」


 姫の代わりのように左大臣が細やかに気をつかう。その様も疎ましい。

 彼は自分の上司でもある。そのことを気にしてか、一介の源氏にすぎない彼の(しもべ)であるかのようにふるまう。ましてや今は愛娘が懐妊している。帝の元にいる時よりも気配りを見せる。


 だが正妻たる左大臣の姫は「気分が優れませんので」と奥にこもっている。

 実は源氏には人には言えない息子が一人いて、抱くこともできない。だから世間に認められる自分の子を楽しみにしていたし時期が時期なので彼女の気分が悪いのも本当だと思う。が、舅と二人呑む酒は大してうまくない。


————世の中辛いことばかりだし


 最近の世間は右大臣家の天下で、相対的に自分の地位がわずかに下がっている。ここにいる間はワガママホーダイでも、一歩外に出ればそうもいかない。頼りとすべき上皇たる父も、六条の御息所(みやすどころ)の件で説教をかましてくる。そのこと自体より、中宮のことを思い出してビビる。バレないかと気が重い。


 土器の中身を一口含んで憂いを払おうとする。上質な酒の上澄みで、やわらかな味わいだが気鬱を晴らしてはくれない。


————御息所には申し訳ないと思うけど、妻にしてって言われたことないし


 たぶん年が離れていることを気にしているのだろうが、これ幸いとスルーしている。正妻一人さえ支えきれない男には荷が重すぎる。ただ、この噂が生き物のように増殖していくことには困っている。従姉妹の朝顔の君が最近文の返事をくれなくなった。たまに空リプがくるから完全拒否というわけではなさそうだが。


————まあ私が悪いのだろうなあ


 御息所の件も右大臣の六の君の件も二条の自邸に置いた兵部卿の姫君の件も()塗りの門が赤いのも全て源氏が悪いのだ。こんな自分を馬頭(ばとう)観音(かんのん)

 彼は土器を置くとふいに立ち上がった。


「お見舞いに上がらせていただきます」


 驚く左大臣や女房を残して強引に奥に乗り込んだ。

 彼女のプライベートゾーンは突然の訪問でも塵一つなく、全てが雅やかに整えられている。彼女の女房たちも驚きはしても焦りはせずに主人の元へ導いた。


「来てしまいました。会いたくて」


 つくろう暇もなく気分も悪いだろうに、脇息に身を寄せたままこちらに目を向けた彼女は本当に美しい。いつもよりわずかに面やつれしていて、それがなかなかそそる。


「女房たちが支度をする間ぐらいください。こちらは散らかっておりますので」


 でも口を開けばいつもの彼女で、源氏の行動に明確なダメ出しをかます。その口調に乱れはない。


「いっそ本当に散らかっていた方が親しみやすくていいのですが」

「今は親しみにくいとおっしゃりたいのですね」


 怒った様子もなく淡々と返してくる。その揺るぎなさにカチンと来たが、さすがに自分の子を宿している女性にそれをぶつけたくはなかった。


「いいえ。でもあなたは何事も完全だからたまには気を抜いた姿も見せてほしいのです」

「そうしていますわ、充分に。どちらとお較べになっているのかは知りませんが」


 先程感じたときめきが干からびていく。何かひどいことを言ってやりたくなって、でもどんなに甘やかされていようがしょせんこの人の父に庇護を受けている立場であることに気づく。以前ならそんなことを考えもしなかったのにと忸怩たる気分でいると、小さな女の子が駆けてきていきなり妻を両手で隠した。驚いていると左大臣の姫はその子に優しく声をかけた。


「ケンカをしているわけではないのよ、あてき」


 白い手が童女の髪を静かに撫でる。小さな女童(めのわらわ)不安そうに源氏をみたが、それでも手は下ろした。


「誰です、その子。見慣れぬ顔だが新しい女童?」

「ええ。里で長く患っていたこの子の母女房が世を去ったので呼びました」


 他に身寄りがないのだろう。不安そうな様子が二条に置いた姫君の初めの頃を思い出させる。年の頃はその時の彼女よりずっと幼い。なんだか気をそがれて、正室の静かな指の動きを目で追い続けた。


「あちらはいいんですか」


 自分に与えられた部屋に戻ると、惟光が親指をくい、と六条の方に向けた。源氏は「何かと忙しいしね」と言い訳をして、そちらの方角を見ようとはしなかった。



 今年の賀茂の祭は例年よりイベントが多い。それもそのはず、交代する新斎院は院と弘徽殿の大后の愛娘である女三宮だ。祭当日より先にある御禊(ごけい)の日も大変な見物だ。

 初夏の空よりも華やかにその日の行列は進んでいく。源氏も特別な宣旨(せんじ)を受けて斎院の供奉(ぐぶ)(お供)につく。定まった数が変えられたわけではないのだが、下襲(ボトム)の色や表袴の文様、馬の鞍まで華やかに仕立ててある。


 一条大路は人にあふれ、都に上った田舎の者など呑まれてしまって身動きすらできない。祭当日かと思われるほどの喧噪に脅えつつも、飾り立てた物見車や桟敷(さじき)席から覗く女房たちの袖口に見とれている。


 老いも若きも物見に出かけ軽くなった大路以外の場所にも未だに残っている人たちがいる。源氏の正妻とその女房たちだ。もちろん女房たちは不満顔で、若い者など聞こえよがしに愚痴を言っている。


「え、わたしたちだけで行ってもしょぼいじゃないですか。今日は殿を見るために田舎からも遠国からも妻子連れで来ているのに、肝心のこちらの方がいらっしゃらないなんてあんまりですわ」


 それを聞いた大宮(左大臣の妻で桐壺院姉妹で葵の上母)も勧めたので、急遽みなで見物に行くことになった。多数の車が従ったが、人気イベントでさすがに場所がない。


 とはいえ左大臣家の車だ。都人も山がつも袖引き合って囁きあう。供人は平然と、庶民のいない辺りの身分ありげな女車をどんどんのけさせた。


 この際彼らが配慮すべきは右大臣家の車のみだ。だが彼らは今回の企画の一族なので、早くからまとまって最上の場所を占めている。そこさえ避ければ格下ばかりだ。かなり強引に追い払い、当然のように場所を奪っていく。


 騒然たる気配の中に、少し使い慣れた風情の網代(あじろ)車が二台、忍んだ気配で止めてある。

 品のいい下簾(したすだれ)がわずかに翻る。微かにこぼれる袖口や裳裾、汗衫(かざみ)(童女の上着)の色合いが神さびた美しさを滲ませている。


 左大臣家とて右大臣家と較べると古風ともとれる趣を持つが、なにせ権門、このような場には見せつけるほど派手やかな様子で現れる。一方網代車の方はあざといほどやつしてあるが、すでにアートの域の美意識で、正室側からすれば実に小憎らしい。


 双方に仕える者は瞬時に反感を抱いた。


「これはそのように押しのけてよい車ではない」と網代車の供の者が止めると、左大臣家の供人もいきり立ち、酒の入った若者同士が争い始める。年かさの者が止めようとするが誰も聞かない。


 網代車の主は六条の御息所だ。心の慰めに潜んできたのにエラい目にあわされている。左大臣家の女房たちもすぐに気づいたが素知らぬ顔をしている。


「どっちが勝つか賭けまひょか」

「そら左大臣家でっしゃろ、人数が違いますわ。勝負にならしまへん」

「気の毒やから応援したろ、ガンバレーアジロ!」

「せやな。言うだけはタダや。負けるな、六条はんっ!」

「あ、それ言うたらあきまへんで。さすがにかわいそうや」

「さよか。じゃ、網代の人ー、出衣(いだしぎぬ)の色目は勝ってはりますでー」


 庶民は気楽に応援している。が人目を集めていること自体がどちらにとっても恥ずかしい。


「へ、その程度の身で言えるかよ! 源氏の大将の尻馬に乗りやがって。こちとら誰だと思ってやがる。天下の左大臣家の御方だぞ!」


 左大臣家の供人には源氏の部下も混じっていて「お気の毒に」とは思ったが、面倒だったのでスルーした。ついに御息所の車は供の車の奥に押しやられてしまい何も見えなくなった。

 それも辛いが、忍んでいたのに晒されたことも限りなく辛い。


 車の(ながえ)を乗せる(しじ)(牛車の乗降に使う台)はみな折られ、辺りの車の(どう)(車輪の中央。こしき)にうちかけてあることも見苦しい。


 御息所は自責の念ばかりが強くなる。


『......来るべきではなかった』


 帰ろうとするが人の波に呑まれて身動きもとれない。その時民衆の歓声がひときわ高くなり、源氏の訪れを知った。


 まるで誰かの演出が入ったかのように、その行列は完璧な美を誇っていた。斎院の供奉(ぐぶ)(お供)の誰もがまばゆいばかりのいでたちで、中でも上達部(かんたちめ)(セレブ)は格が違うが、それでも源氏ただ一人のオーラの足下にも及ばない。


 この日のために特別に命じられた彼の随身(ずいじん)は、空蝉(うつせみ)の義理の息子にあたる蔵人(くろうど)将監(じょう)だ。その他の随身も容姿スタイルきらきらしく、源氏自身の供として申し分ない。まさにそこだけ光を集めたかのように初夏の陽光よりなおまぶしい。


 人々の視線に動じもせず、源氏は縁のある女には微笑んだり会釈したりで、その一挙一動に観衆が沸く。左大臣家の車に乗る正妻の前ではひどく真面目な顔で渡り往き、供人はこの車に礼を尽くす。その様を見た人々はしたり顔でうなずきあった。


「やっぱ奥さまには違うわ」


 源氏の目の届かぬ奥の壊れた牛車に乗る人は、黙ってその白い手を血が昇るほど握りしめた。


 老いも若きも男も女も、みな源氏に視線を向ける。精一杯着飾ってハートを飛ばす者や拝む者、ささやかな関係を嘆く者、世を離れた者や下賎の者さえ心を捕らえられている。


「......魔に魅入られそうな美しさだね」


 さじき席で眺めていた朝顔の君の父である式部卿(東宮を除いて親王No.1の職業)が娘の朝顔の君に呟くと、彼女も肯定しつつそれでも源氏の誘いに応じようとは微塵も思わない。


 熱気をはらんだ風が地から這い上がるように吹き上げた。裾やたもとを揺らされても人々は気にもせず、秀麗な特異点を食い入るように見つめ続けていた。



 車争いの噂を後から聞いて源氏は驚いた。


————そりゃひどい。もう少し気をつかってくれればいいのに思いやりがなさすぎる。この私との縁があるだけでも二人とも丸儲けだろうになんてことだ


 正室に悪意がないことはわかる。だが主人が止めなければ下の者は増長するに決まっているではないか。

 憤りつつ御息所の心配もする。


————あの美意識の固まりで繊細な人はどんなに辛かっただろう


 さっそく見舞いにいくが面会謝絶だ。


————両方死ぬほどめんどくさい


 さっさと二条院の紫ゆかりの姫君の元へ逃げる。賀茂の祭の当日もいっしょに過ごすことにし、出かける前に豊かな髪を削いでやったり、和歌を詠みかけたりしてなごむ。十四になった彼女はとても可愛らしくいきいきとしている。


 祭に出かけてみると本日も人々が詰めかけていて駐車スペースがない。押しのけさせる横暴さも持てず、馬場のおとどの辺りで困っていると、ゴージャスに飾った女車の人が扇を差し出して源氏の供人を招く。


「どいてさしあげますからこっちにいらっしゃいな」


 積極的な方だと思いつつ、いい場所なので牛車をそちらに移動させてからお調子を言うと、けっこうな檜扇(ひおうぎ)の一部を使って、


『待っていたのにひどい人ねうふん』的(メール)がレトリック込みで届けられる。

 字体に見覚えがあったので思い出すと、あの元気なおばあさま・源典侍である。

 げ、と思って『数あるうちの一人でしょ、ノーカンにしてくださいよ』的に返す。

 また文が来て『会う日(葵)なんて名前だけね、くやしー』とか書いてある。

 お年を考えてほしいとちょっと思う。


 女連れの源氏を人々は気にするが誰も源典侍ほど明け透けにはなれず、噂だけが全力で拡散された。



 鬼火が青く萌え、そして消える。

 温気をはらんだ夜の闇に、夢ともうつつともつかぬそんな幻を見た人がいた。

 六条の御息所だ。


 源氏に飽きられたと囁かれる彼女は変わらず今も美しい。黒髪は衰えも見せず艶つやと、生き物のように床に波打つ。

 気分は晴れないが、形よく薄い口元は妙に生々しく赤い。くゆらす香の匂いさえ人とは違って雅やかだ。


 斎宮となる娘について伊勢に行こうと思う。そのことをちらつかせても源氏は強くは止めない。そのくせ


「数ならぬ身の私をなさけなくお思いになるのも道理ですが、そんな者でも見捨てないでいてくださることが浅くないお心の証ですよ」


と、さっさと被害者ぶる。加害の立場を女に押しつけることが実にうまい。わかっているのに御息所は心を揺らす。人笑われのする敗残者(ルーザー)の立場でなお思い切れない。自分に言い聞かすようにあの騒ぎのときの自作の歌をそっと唱える。


『影をのみみたらい川のつれなきに 身の憂きほどぞいとど知らるる』


 ほの暗い川がこの世ではない地にぬめるようにゆっくりと流れていく。



 勝者(ウィナー)の立場も幸せではない。源氏の正室はもののけに悩まされて患っている。みな心配して験ある者に御修法(みずほう)加持祈祷(かじきとう))などさせるが、彼女の身にぴったりとついたモノが落としきれない。


「だいぶ離れたのですが酵素入り洗剤でも無理なぐらいしぶとい霊が食らいついています」


 女房たちは囁きあう。院からの見舞いもしきりに届く。祈祷のことまで気を配ってくださる。そのことがまた世に知られ、彼女のやんごとなさが噂になる。


 御息所は平静ではいられなかった。気分もますます悪くなるので、神に仕えることとなる斎宮をはばかって別の邸に移り、そこで自分も祈祷を受けた。


 源氏の大将はさすがに見舞いに来てくれたが、家内も大変なのにやって来たと施し顔で聞きたくもない正室の容態を語る。


「私はそれほどとは思えないのですが、あの人の親があまりにうろたえているのが気の毒でほっておけないのですよ。広いお心でお許しください」


 そう言って指先だけで女の肩にそっと触れる。そこに火がついたようにも凍ったようにも感じる。

 彼は女を生殺しにする。

 心の蔵にいつも刃を向けながら突き立てはせず、甘い毒のような言葉で自分の与えた傷をごまかそうとする。そしてその姿は悪夢のように美しい。


 身の内に蛇のように鎌首を持ち上げた恨みを、御息所の理性は必死になだめようとする。


 伊勢に行きたい。

 伊勢に行けない。


 噂を聞くのが嫌。

 噂さえ聞けないのが嫌。


 後朝(きぬぎぬ)の文さえ正妻のことだ。その辛さを品よく飾って歌に変え、源氏の元に贈ってやる。洗練された見事な手蹟で。


————女手でこれ以上のものはない


 思わず源氏は舌を巻く。並ぶものとてない流麗な書体は、高雅な中に闇を含んだ美を見せていた。



 正室の容態は優れない。未だもののけは離れないようだ。

 御息所の生霊か、その父の死霊か。

 そんな噂が都をよぎる。

 御息所の女房は主人にそんな話を聞かせたくはなかった。しかし同輩とこっそりと語るそれは、いつの間にか彼女の知る所となった。


 身から離れて飛ぶ魂が、どことも知れぬ所へ溶けていくようだ。

 まどろみの中に端整な美女がいる。この女はきっと、先程まで口元を歪めて自分を嘲笑っていたに違いない。そう決めつけると怒りを覚え、衣ごと女につかみかかり打ち据える。

 生々しい女の体温。練り絹のやわらかな肌触りも妙にリアルだ。


 繰り返しその夢が訪れる。ファイティングポーズをとったまま目覚める朝もある。手のうちには相手の黒髪の冷たい感触が残っている。悩みはつきない。


 斎宮は九月には嵯峨野の野の宮に移ることになっている。その準備があるのに御息所は気分が保てなくて祈祷に忙しい。

 源氏は左大臣家とこちらの双方を見舞い、心の暇さえなさそうだった。



 予定日まではまだ間があると気を抜いていた頃、左大臣家の姫は産気づいた。彼女に寄り添うもののけは離れる気配も見せない。それならば人海戦術だと、MPの高い修験者を都中から集めてくる。それでも消滅させることはできない。

 護摩壇(ごまだん)芥子(けし)の実を山ほど焚いて全員が力の限りに祈り立てれば、さすがに調伏されたのか苦しそうに泣き声をあげ、「少し緩めてください、源氏の君に話すことがあります」と告げた。


 女房たちは「やはり」と彼を几帳の中に入れた。

 いまわの際のようでもあったので、左大臣もその妻大宮も彼のために席を外した。

 加持の僧も声を落として法華経を読む。実に尊い。


 白い世界が広がっている。

 白い几帳(きちょう)に白い屏風(びょうぶ)壁代(かべしろ)さえ白い。

 正室の身に着けた装束も、ふくらみを見せる腹部に掛けられた(うちき)も、(きぬた)で打ち、もしくは貝殻でこすった上質な絹の白が輝くようだ。


 彼女の艶のある長い黒髪が引き結ばれている。

 白い御衣(おんぞ)に添えられたその色が華やかだ。


 美しい人だと改めて源氏は思った。普段があまりに完璧で近寄りがたいので、こんな風な時の方が可愛いとさえ思った。彼女の手を捕らえて訴える。


「ひどいですね。こんなに私を嘆かせて」


 泣き声を上げる源氏を彼女はだるそうに見上げた。まなじりに真珠のような涙が宿っている。普段のクールな瞳とは違う。そんな様がいとおしくてかき口説く。


「思い詰めないでくださいね、きっと治りますよ。それにこうして夫婦となった縁です。来世でも会えるわけですし親子の縁のある方も同様です」


 と慰めるといつもより愛らしい彼女は薄く笑った。


「いえ、違いますわ。苦しいのです少し休ませてくださいな。こんな風に来るとは思ってもみなかったので。悩みあるものの魂は本当に迷い出るものなのですね」


 と懐かしそうに言った。


「嘆きわび空に乱るるわが(たま)を結び留めよ下がひの(つま)————ねえ、辛さのあまり空へと迷う魂を、あなたのその手で差し戻して」


 その気配は正室ではない。彼の六条の御息所へと変わってしまった。

 今まで噂は信じていなかった。あり得ないと思っていた。


「そう言うがわからない。はっきりと言え!」


 源氏が叫ぶと目の前の女の唇がにい、と笑みの形に引きつった。

 浅ましい。あまりに浅ましい。そして恐ろしい。


『あなたのほしいのは私?』『それとも私?』


 悪夢の中で確かに見た女たちがいく人も、正妻とも御息所ともつかぬ女の回りで淫らに誘う。

 女の唇以外に色はない。女の声より他に音もない。


『いらっしゃいよ、私の元へ』『あら、私の元へ』


 世のことわりを脱ぎ捨てた女たちが誘う。その数はわからない。違いも知れない。中心にいる女さえもう、あの御息所なのか他の女なのかわからない。いや、女なのかもののけなのかさえ知ることはできない。


『それとも別の女がいいの?』『それはあの、高貴な......』


 ふいに醜い獣が視界の端を飛ぶ。とたんに色が戻ってくる。音が返ってくる。護摩壇でけしの実を焚くにおいが辺りに満ちている。

 不審に思った女房が近寄ってくる。そのことはきまりが悪い。


「あら、気分が良くなったの?」


 大宮が薬湯を持って近寄って来た。

 やがて源氏は部屋から出され、お産が始まった。

 呆然としたままだったがさして待たされずに男の子が生まれた。


 不眠不休で働いた僧たちも、MP値最高の比叡山の山の座主(ざす)も、いい汗かいたと急いで帰る。

 急に静かになった。


 みな、源氏の子の誕生を祝った。

 院をはじめ親王、上達部などそれぞれが祝いの使者を送る。右大臣側の人さえ礼を尽くし、産養(うぶやしな)いの儀は珍しいほど派手に、そして厳かに執り行われた。



 六条の御息所はその様子を聞いて平穏ではいられなかった。


「危ないと聞いてはいたけど無事に生まれたのですね」


 何も覚えていない。ただ着ていた衣に芥子の香がしみ込んでいる。

 不思議に思って髪を洗い衣装を変えても、その香はなぜかとれなかった。



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