現役
源氏二十二歳
弘徽殿視点
「弘徽殿さん、よく来てくれましたね。もちろんずっといてくれますよね」
目を輝かせて院は私の手を取った。その貴重な温もりを刻み込むように感じながら、なるべく平坦な声で答えた。
「いえ。配慮せねばならないことがありまして明日にはあちらに戻らなければなりません」
彼は傷ついたような顔で肩を落とした。ほんの少しやつれて見える。卑怯だ。求められていると勘違いしそうになる。
この方は噂になるほど中宮と慈しみあっているのだ。私など招かれざる客にすぎない。心に何度も言い聞かせてからその手を離す。胸のどこかから何かが砕ける音がする。
「まず、決めるべきことを決めてしまいましょう。あの子の斎院就任についてのことです」
引かれた手に院は泣きそうな目をあてていた。たぶん気のせい。私の心がほしがる夢。その証拠に彼はすぐに気を取り直して正面から見つめてくる。
「そのことなんですけど......やはりお断りするわけにはいかないでしょうか」
「無理に決まってるでしょう!」
つい大きな声を出してしまい、更に涙目になった彼を見て慌ててトーンを下げた。わが娘女三宮は賀茂斎院につくために、デキレースだが一昨年卜定(占い認定)されて大内裏内の決められた場所で潔斎して過ごし、後は紫野の本院に入るばかりである。今更やめることはできない。
「でもあの子が神に仕える立場になってしまうなんてやっぱり可哀想です。後見がしっかりしている宮はめったに着かないのに」
「他に適切な宮もいないし、それを望んだ理由は ”Pretender" で話しましたね」
沸騰しそうになりながらどうにかセルフコントロールする私は理性的な女だ。しかしかなりの努力を要した。
私が永遠に生きていけるのなら一生娘を守り抜くが、佳人薄命というからにはそうもいかぬ。今は盛りの右大臣家も兄たちの出来が今ひとつで先を見通すとなかなかに不安だ。だからこそ左大臣家を取り込み先々を固めようとしたのに、道理のわからぬこの方はその姫を源氏に与えてじゃましたわけだ。
ますます腹が立ってきたが通したいことがあるので耐えた。
「はい」
「あの子も納得しています。それどころか条件をつけてきました」
「なんですか?」
「パーっと派手にやりたいと」
院は息子は多いが娘は少ない。その中の一人で特に可愛がっている彼女の性格は熟知している。ちょっと肩を落として「あの子らしいですね」と答えた。
「ええ。決められた以上にしてやろうとは思っていますが、そのために本人から提案がありました」
「はい」
「賀茂川で禊をする御禊の日、斎院につき従う供奉(お供)に源氏の兄上を加えたいと」
えっ、と驚いた彼にためらいなく要求を重ねていく。
「更に彼の他の男たちも供奉は全て選りすぐりのイケメンを配置しろと」
院は頭を抱えたが、すぐに顔を上げ手を離した。
「全くあの子は!」
それからなじるように私に詰め寄った。
「やはり神の僕には向かないのではないですか。在任中に恋愛スキャンダルなど起こしたら、都中に笑われますよ」
六の君に対する皮肉かと思う自分を抑え、興奮する彼をなだめた。
「いえ、それはないと思います。彼女は配下の女房や気の合う女たちとなんだか文芸活動や絵合にいそしんでいて、殿方に直接関わる様子はありません」
「ですが、そのようなサロン活動に励んでいるとどうしてもおつきあいは増えるでしょう。現に文芸サロンの女王とされる六条御息所は今なかなかの話題の主ではありませんか」
それも源氏が悪いのではないかと突っ込みたいが、依頼が依頼なので話の角度をずらす。
「あの子に言わせると『リア充気取っても、しょせんオタサーの姫がはっちゃけるからよ』とのことで、集まりの質が違うそうです」
彼は首を傾げた。
「オタサーってなんですか。姫ならいくらでもいるでしょう」
「私もよくわからないのですが、閉鎖的なサークルの中心人物を指すようです」
「閉鎖的なサークル......クローズドサークル......なんだか人死にが出そうですね」
「まさか。そんなことはないでしょう」
少し笑って否定した。彼が詰め寄った時に脇息を避けて茵を近づけたので息が頬にあたる............近い。
「でもそんな風にイケメンを要求するとは恋愛への期待でしょう」
「一部女房たちはそのようですが、あの子を始めとするコアな層はモデルとなりうる美男を眺めて恋物語を作ったり絵を描いたりするだけで充分だと。時には夜を徹して殺気立った勢いで、歌合だか絵合だかに間に合わせるために髪を振り乱して創作活動にいそしんでいるようですから、うかつにイケメンが忍び込んできても日によっては蹴り飛ばされかねません」
「はあ」
院は納得しかねる様子だが私だってよくわからない。
「つまり、私家集か何か作っているわけですね」
「仲間内だけで通用する薄い草子を作っているようです」
娘に斎院就任を命じた時に創作活動の是非について尋ねられたので、斎院が文芸サロンを開くことはありふれていると伝えるとほっとした様子で了承した。だがその時も条件を出された。
「上質な紙をたくさんください。物語にしろ絵にしろ紙がなければ話にならないわ。唐紙はダメよ、脆いから」
彼女が目をキラキラさせて要求したので快諾した。内親王は一生独身で過ごすことが基本だ。長い人生何か娯楽がある方がいいだろう。上の娘の音楽趣味と違って理解しにくいが、楽しそうにしているのを見るのは悪くない。
「......すかさず条件を出してくる所はあなたに似ていますね」
「実行力もですわ。これが供奉の人員の素案で、こちらはその際の企画です」
渡された紙を眺めた院は目を丸くした。
「ユニフォームの色やボトムの模様、馬や鞍まで指定があるのですか!」
「見物の物見車でさえ一部は演出が入っています。かつてないほどの大イベントにするつもりのようです」
「派手好きなのはよく知っていたけど、これほどとは」
「その中でも最大の見所として、ぜひ源氏の大将に供奉をお願いします」
院は少し考え込み、無意識のようにまた私の手を取った。
「命じることはかまわないのですが、源氏を前に出すと彼女自身が目立たないのでは?」
「その方がいいそうです。自分自身はむしろ影に回りたいと」
「近ごろの若い娘の感覚はよくわかりませんね」
「同感ですわ」
皮肉も言わずにうなずくと、その手に力が込められた。
内裏に戻ると帝の女房が来ていて、彼の訪問を宣言した。承知して身を整えていると、すぐに息子が現れた。
「お帰りなさい。予定より遅かったのでお迎えに上がろうかと思いましたよ」
にっこりと微笑んで茵に座る様はひどく優美で、容貌のよく似たその父との違いが際立つ。現役の時でさえ彼はこんな様子ではなかった。
「冗談でもおよしなさい。最上の立場の者はたとえ親でも臣下として扱うべきです」
「それは残念ですね。私は母上を最上の方として扱いたいのですが」
「不要です」
こんなふざけたセリフが出るのは、彼の後宮に最大に尊重すべき妃が欠けているためだ。この弘徽殿に入るべき女がいない。いや、いたが全て奪われた。
「父上はいかがお過ごしですか」
「変わりはないようです。ほんの少しおやせになっていましたが」
「やはりそうですか」
「やはり?」
「誰も母上ほどはお仕えできませんよ。そう思っていました」
そう言われるとさすがに嬉しい。院でさえ気づいてもいない奉仕に目を向けてくれることも、細やかな配慮を自然に身につけていることも喜ばしい。
「あなたもそんな方をお持ちになるべきです」
とはいえ、新麗景殿は身内とはいえ価値は高くない。旧麗景殿が殿舎を譲ってくれることになった時に反対したほどだ。
「最近入った承香殿の女御はどうです」
「彼女は............とても健康です」
この女も親族だ。美しいとも人柄がよいとも聞かない。寵愛も深くはないようだ。
「藤壷の妹もいましたね。後見は薄いようですが人柄は?」
息子はやわらかく口元を緩めた。
「可愛いです。世の中のことを全くわかっていない所が実に可憐です」
この女御は院の前の帝の娘だが、更衣腹ゆえに皇族を下ろされて源氏となっている。つまり内親王ではない。だが、先帝の皇女の中では藤壷の宮に次いで美しいと言われている。私としてはNo.1以外いらぬと言いたかったが息子に適切な姫が少なかったため許容した。ちなみに東宮時代に彼に望まれて入内した。
今は憎いだけの藤壷中宮だが、息子の妃として考えればなかなかの逸材だったので残念だ。
「わかっていないとは?」
「私はいつ中宮になるのでしょうかと尋ねられました。さすがにちょっと言葉に詰まりました」
開いた口がふさがらない。後見のない女が中宮になっても帝をどう支えるつもりなのだ。孫が帝位につくことを期待していた源氏の祖母並みだ。
「姉が頼りない立場でありながら中宮についたので同じように考えているのでしょうね」
「あれは大いに違います。本人の人柄や后腹であることなどは別にして、息子が春宮に定まったことが第一ですし、そのためにもともとなじみのある源氏を後見として使えることが第二です。いやあの若造は大した力は持たないが、後ろに左大臣が控えている。意味わかりませんがあの男が間接的に協力すればこその中宮です」
帝は「さすが母上」と言いながら脇息に肘をつき掌の上に顎を乗せた。少し斜めになった上体が、なまめかしくも品のいい雰囲気を醸し出している。
「ですが中宮というわけにはいきませんが、ある程度は重く扱おうとは思いますよ」
「麗景殿と承香殿の抑えですね」
親族筋の専横を制御するためには無力で無害な女が都合がいい。つまるところ彼もわが兄たちを高くは評価していない。
「おじ上たちはともかく従兄弟たちは少し図に乗りすぎている者もいますからね」
「......苦労をかけます」
まともな後宮を用意してやることができなかったことにわれながら腹が立った。少しでも整えようと考えて、思いついたことを口にした。
「その女御を藤壷に入れたらどうでしょう」
「なるほど。さすが母上」
すぐに意図を理解した彼は、本日二度目のさす母を使った。まあ私への評価としてはあたりまえであるが気分はいい。
現在弘徽殿を未だ私が使用しているため対等に近いとみなされる藤壷にも人はいない。だからその称号も院の中宮を指す。別の女を入れればその意味も薄らぐはずだ。
「妹なわけですから中宮の抵抗も少ないでしょうし」
あの女の痕跡を薄めることができることは嬉しい。他に何か要求はないかと尋ねると、口元に微笑をのせたまま「六の君を側に置くわけにはいきませんか」と尋ねられた。
「あの子を?」
「はい」
「源氏の手のついた女ですよ」
「ええ」
こんなに落ち着いて艶な風情は並の者には持てない。和歌など女性的なたしなみが得意なだけあって、私自身にもほんの少しだけ、ごくわずかに、極めて微量不足している情緒的なものをしっかりと身につけている。帝はそれでいい。猛々しいことは臣下が担当すべきだ。
「わかりました。しばらくは御匣殿のままですが、そのようにはからいましょう」
「感謝いたします」
この立場のまま帝が手をつけることは可能だ。だが中心点を欠いた後宮の核とするにはあまりに軽い立場だ。彼が望むなら、機を見て立場を変えてやろう。彼女は、子煩悩な父右大臣に立場を与えられても、さすがに自粛して帝の下には近寄っていないようだ。
「数が増えると目配りが大変ですが気をつかってあげなさい。藤壷の件はこじれるといけないので私の名は出さないように。了承済みとだけ伝えなさい。麗景殿と承香殿は今のままの対応でいいでしょう」
「はい......母上」
彼はやわらかなものに触れるような繊細な視線で私を見つめた。
「いつの世も寵愛には政が根底にありますね」
藤壷に入る予定の女御の件に絡めて、過去の桐壺の更衣のことも政治的に便利だから寵愛したのではないかと言いたかったのだろう。だが、当時の私は全てを目の当たりにしている。
「......記憶の書き換えが必要なほど私は弱くはありません」
「失礼致しました」
息子は頭は下げず、目線にわずかな謝意を含ませると清涼殿に戻るために立ち上がった。
「......うっとりしてしまいますね」
女房たちが感に堪えぬように彼の後ろ姿を見送っている。若い者など何人か心の蔵を押さえている。
「容姿の整った方は他にもいらっしゃるのだけれど、あのものやわらかな風情は誰にも出せません」
「清らになまめかしい雰囲気がもう、えも言われず」
「射抜くような強さとは全く逆の、包み込むような温かさが乙女心をキュンキュン狙い撃ちだわ」
思わず振り返って声の主を見た。
「......ずいぶん年季の入った乙女心だな」
「源典侍と較べれば新品ですよ」
乳母子が両手でハートマークを作りながら答えた。顔をしかめると真面目な表情になって「実際憧れている女たちが多いですよ」と告げた。
「少しでも帝を垣間見ようと、みな上へのお使いに行きたがるのですが、若くて派手な女房より元からの人を何かと優先してくれるのですよ」
「わざわざ院の後宮から退いた人の女房を、そのために譲ってもらった女御もいるようですよ」
「いつかの花争いの時の人とか?」
「ええ。引退した人もいるし前の方が手放さなかったりの人もいるけれど」
時によっては呼ばれて直々にねぎらわれることもあるそうだ。
「帝はお心遣いが細やかですわね」
「計算高い男たちも利を脇に置いて慕っている者も多いですね」
憎まれ役は父か私が負うので充分に愛されてもらいたい。正直、院の長期政権のひずみがそこかしこに出ていて、こちらは嫌われてでもあちこち引き締めなければならない。
「仙洞御所の出費も多少抑えるわけにはいきませんか。普通なら支えるはずの中宮の後見が、あのふわふわした兵部卿と未だ若く、尽くすより尽くされることに慣れた源氏の大将で、左大臣はさすがに公には手を出さないので贅沢は避けてほしいのですが、管弦の宴をやたらに凝って行うなど大変です」
「......ならぬ」
言いたいことは多々あるが、国を背負って生きてきてやっと引退された方なのだ。愉しみを取り上げたり縮小させたりはしたくない。
「この先、天災などがなければいいのですが」
「いっそ大后さまがあちらに行かれて諸事監督なさったらいかがです」
女房の意見にはうなずけない。稀な訪問だからこそ妃として扱われたのに、日常を傍で過ごしたならとんだおじゃま虫だ。引退後の生活を楽しんでいるあの方を脅かしたくはない。
「大后さまが行かれたら戦闘御所になってしまうでしょ。そうはいきませんよ」
「もう充分に闘われましたものね」
「かつての後宮の方達は今、羽を伸ばしているそうですよ」
最後にこの弘徽殿と麗景殿を合わせた会を開いたことを思い出す。
私はなれあいを好まないが、同期の後宮メンバーをねぎらってやろうとは思った。なにせ運悪く私のように完璧な美貌と完璧な力を持った女がその場にいたわけだ。目が出る可能性など全くないではないか。それでもめげずに譲位までお仕えしたことは全く賞賛に価する。
だから当日は全てを受け入れてやるつもりだった。酌をされれば酒を飲み、円座投げを請われれば投げてやった。
————以前より飛ばぬことには驚いたが
いや全力でやったわけではないからたまたまだ。それにつがれる酒が多すぎて少し過ごした。後半はあまり覚えていない。
————麗景殿と音を合わせたことは思い出せるが
彼女には特に何かを渡したかった。しかし謂れのわからぬ品など受け取る方も負担だろうから、別の形を考えた。乳母子を相手に研究を重ね、龍神のいびきのような音でもどうにかフォローできるように訓練した。
重ねて礼を言われたことからすると、失敗はしていないようだ。
彼女との付き合いは長い。自分の後に入内してきた時のことさえ鮮明な記憶だ。
————闘いにくい相手だと思ったな
穏やかに他者の心に沿うようなあり方で、気色ばんでいた私の女房たちさえ懐柔された。結局彼女は子を持つことはなかったが、もし先に彼女が男の子を持ったとしたらなかなかに手強い敵だったと思う。
定めとは思うが、いつも自分の前には何かが立ちふさがる。毎回人とは限らない。
「過去の人は自由に楽しめばいいわ」
「そう。今はこちらの天下だし」
「後は誰が皇子さまを宿すかよね」
そう。それが一番の心配事だ。
「そう言えば源氏の君の正室の方が懐妊されたようよ」
「え、ショック!」
女房たちはかまびすしいが、こちらも先を越されたようで少し気がめいる。定めだけは変えられない。
「源氏の君の愛人の、六条に住む方も大変よね」
「いくら評判高い方であっても、ちょっと呪っちゃうんじゃない?」
「まさか。あんなに奥ゆかしい方が」
「あの方の姫は伊勢の斎宮に卜定されたでしょう。そんな俗なことはしないんじゃない」
いやそれはわからぬな、と斎院に選ばれた娘を持つ私は考える。私自体は呪いなどという非効率非論理的な行為など考えもしないが、だからといって霞を食べて生きているわけではない。
「どんな高貴な方だって愛する相手の心がつかめなければ不安になるわよ」
「あら大后さまをごらんなさいよ。微塵も動じないわ」
「大后さまだってお心のうちは揺れるでしょう」
若い女房たちが隅の方でこっそり話し合っているが、耳のいい私にはまる聞こえだ。
「たとえば院にぴったりの藤壷中宮についてはどうお思いなのかしら」
「あら今更お気になさらないんじゃない。もうそんなことは卒業なさってらっしゃるわ」
「そうそう。ご年齢からしてももう興味はお持ちにならないのじゃないかしら」
言っておくがまだ私は年寄りではない。充分に若々しく美しい。まさに今が盛りと言いたくなるほどだ。十年以上ずっと盛りだ。二十年かもしれぬ。その前は綻び始めた桜のつぼみであった。この継続的に美しい私と較べれば中宮など女房代わりに傍に置かれているにすぎない。
「お聞きしてみれば?」
「そうね。直接は失礼だから乳母子の方に聞こうかしら」
なんだか話し合った末、乳母子が近くに来て「大后さまは藤壷の中宮のことを今はいかがお思いですか」と尋ねた。
「フジツボなど岩にへばりついておけばいいのです!」
私は彼女をにらみつけ、手持ちの扇をべしり、と折った。