おしどり
源氏二十二歳
藤壷視点
「お見事な管弦の遊びでございました」
「ご譲位なさってからもますますご健勝で、臣一同心から喜んでおります」
平伏する人々を御簾越しに見て、ようやく気を抜くことができた。まだ次々と祝辞を述べていたが安心してそっと下がって自分の部屋に引き上げた。
御代が変わって弘徽殿腹の一宮が帝の位についた。私は、今は上皇となり院と呼ばれる方と仙洞御所に移った。
風雅で寂しい場所だ。ここは引退した高貴を飾っておく所だからだ。
もちろん権威はある。それどころか以前より力もあるのかもしれない。朱雀の院にいらっしゃった前の上皇は今はなく、帝は院の意に逆らうことはない。
それでも、ここは国の中枢ではあり得ない。万が一この場の主が突然命を落としても、「惜しい方を」「お気の毒に」と人々は涙をこぼしながらも滞りなく世を進めていくはずだ。
示威行為が必要だった。院の力をしろしめし存在を際立たせるイベントがいる。ただし儀式や神事はもはや帝のもので私たちは枠外だった。
管弦の夕べを催すことにしたのは、新帝のために内裏にいるあの人に対する意地でもあったかもしれない。ことのほか音を好み、その巧みさをうたわれるあの人に張り合う気持ちがないとは言えなかった。
ちょうどその折りもあった。誘導してみると、院も自分主体で行う意志をお持ちになったので、そのように見せながら人員も演出も全て私が企画した。
室礼(平安インテリア)も女房たちの衣装も細心の注意を払って整えた。華やぎよりも趣を重んじた繊細な雅やかさでは、しょせん籐家は皇にかなわない。ただ、最も重要な飾りである人々を入手することには少し苦労した。
男たちの遊びであるから私が誘いかけるわけにはいかないし、院が直に声をかけることも品がない。ましてや「当日帝の方に呼ばれておりまして」などと断られでもしたら目も当てられない。
考えて兄を使った。現在兵部卿である彼は私の本当の後見だけど、政治的には全く無力だ。だからこそみな、気軽に敬意を示しかしづいてみせる。見場だけはいいことも幸いしている。
彼の誘いを受けてそれなりに人が集まった。私も裏で多少動いて、音無しの滝と呼ばれる名人を呼びにやった。
中務の話によると彼はだいぶ渋ったらしい。でもあらかじめ調べさせておいた家族の件などを持ち出して、なんとか引き出すことに成功した。
「よろしいでしょう。確かに中宮さまの音は一度間近で聴くべき価値はありますから」
立場もわきまえぬ上から目線に彼女は腹を立てたらしいが表面には出さずに礼を言った。その話を聞いた私も、一度聴けばいい程度の音なのかと内心憤った。それでも名人の腕はどうしてもほしかったので下手に出た。
その選択は正しかった。老いてはいるが音無しの滝は確かに名人と呼ぶにふさわしい男で、彼が加わったおかげで音の質は格段に上がった。後日、礼を告げにまた中務をやると「中宮さまの音はまことに価値あるものでございました。ただ、音に影がありますのでよく精進なさって御身をお大切になさってください」と親切なのか失礼なのか測りかねる言葉をもらった。
「下郎がなんと無礼な」
彼女は怒っていたけれど私は少しぞっとした。全てを読み取られたはずはないけれど私の心の翳りに気づいたのだろう。さすが名人は侮れぬと思った。
「本当ですわ。やはり以前とは態度を変える人たちもいますし」
「院の後宮にいらした方々は特にひどいですわ。最後まで勤めることもなく、さっさと気軽に引退して国のため院のために尽くすこともなく、今さら私的な楽しみばかりをむさぼって。ほんと、宮さまの爪垢でも煎じればいいのに」
「あの人たち絶対”藤壷感じ悪いよね”キャンペーンを行っているに違いありません」
不愉快そうな顔つきで中納言が断定した。他の者もむっとした表情でうなずいている。
————今更そんなことしているわけはないわ
彼女たちは引退後の娯楽を満喫しており、院のことも私のことも思い出すことさえないだろう。だけど女房たちの怒りはわかる。それは明らかに取り残された者の怒りだ。
私たちは勝利者のはずだ。なのに初期はともかく今や誰もその喜びをかみしめてはいない。こうしてわずかに思考を巡らしていても、すぐにさらさらとやわらかな衣擦れの音で打ち破られる。
「......院がおいでになられましたが、ご都合の悪いことはありませんか」
先触れの女房が一応尋ねてくれたが、二十歩ほど遅れて院が控えているのに断ることなどできるはずがない。みな急いで様子を正した。
夜となく昼となく彼は私の元にいてくれる。まるで一般人の夫婦みたいに。女房たちは衣装も態度もひとときも気を抜くことはできない。
「あの後もみな賞賛の限りを尽くしてくれましたよ、すばらしい遊びだったと。あなたのおかげです」
「私など何も。院のご企画が優れていたためですわ」
微笑んでみせると私の目を見て、優しく笑みを返してくれる。院はいつの日からかまっすぐに見つめてくれる。それ以前の、薄絹越しに見ているような様ではない。女房たちにも怒ったりすることはない。
私はついに知りもしない桐壺の更衣の影から逃れた。彼は私を私として見てくれる。愛しい大事な————娘のような存在として。
夜も昼も傍にいるけれど、そんな意味で必要とされることはない。彼は私を尊重してくれるし、夜は同じ御帳台に眠るのに求められはしない。
最初は青ざめた。あのことがばれてしまったと思ったから。だけど院は限りなく優しく瞳を当てる。そこに不審の色も疑惑の影も欠片もない。
次にお年を重ねたためかと思った。だけど傍つきの女房が呼ばれることはあるらしかった。
もう私には魅力がないのだろうか。全ての女房更衣が退き、おしどり夫婦だと言われる今になって。きれいだ、素敵だと言葉だけはたくさんくれるけれど。
「いえあなたの演出がすばらしかったからですよ。これで、東宮もいたら完全無欠の遊びでしたね」
「あの子はまだ無理ですわ」
「ええ。それでも側に置きたかったな」
と、院は内裏にいるわが息子を恋しがった。やっぱり知られているとは思えない。彼は細やかに気を配って近衛の大将に昇進させた源氏に、人にはっきりとわかる形でいろいろと春宮のことを命じた。それ以前から暗に人々が知ってはいた形を明確にした。
「源氏が春宮に手ほどきをする所などを見ることができたら楽しいでしょうね。子どもとはいえ重い身分だからそう簡単に呼ぶわけにはいかないけれど」
遠い先を見つめるような視線でおっしゃる。翳りは見えない。世間の人たちが位を退いても理想的な有様だという通りに。
だけど、ほんのわずかに頬の線がそげたような気がした。
「それは残念ですけれど、源氏の君の音は今宵も見事でしたわ」
「卓越してるよね。だけど終わるとすぐに帰ってしまった。言いたいこともあったのだけど」
「なんでしょう」
わざと彼のことを出したらそう言われて、心の蔵が大きく跳ねた。院はわずかに憂いを込めて、俗なことだけれど、と言い差した。
「彼の通い所のことなのですよ。早くに亡くなった東宮だった私の弟が大事にしていた人と付き合っているらしいけれど、どうも扱いがよくなくて」
「......六条にお住みになっている御息所のことですね」
「そう。あなたの耳まで届くとは、噂は相当広がっているね」
院の寵児である彼の噂は広まりやすい。従姉妹である式部卿の姫君と交わした歌などが流れることもあれば、源典侍との冗談のような話が伝わることもある。誰かわからぬ謎の女が二条の邸にいることや、正室との不仲も囁かれる。二年ほど前は右大臣の六の君とのスキャンダルが大きく取り上げられた。おかげでその方は入内を断念したのに、未だに続いているのでは、と当て推量する人がいる。
彼の噂を聞くたびに肝が冷える。次に語られるのはあのことではないかと臓腑が凍る。表面には出さないけれど血を吐きそうな気分になる。
それでも彼女の噂は昔から長く語られているから、比較的心の揺れは少ない。
「そのうちちゃんと呼んで話すつもりだけど、最近彼は鬱屈していて引きこもりがちなんだ」
「そうですか」
礼儀を守って追求しない振りをする。触れたくない。土の中に何かが埋められている花がしおれがちな理由なんて。院は当然表面を取り、「代が替わったからだろうね、帝は充分に彼を大事にしているのに」と少し憂い顔を見せた。
「周りの方々もいらっしゃいますから」と話題をわずかにずらして右大臣家のことを示唆してみる。
「確かに右大臣は六の君の件はがっかりしていたけれど、前向きな人だからさっそく彼女を御匣殿別当に着けたよ。今のところ彼を責めてはいない」
入内するはずだったのにそうできなかった女の格好の逃げ場だ。名門の女の着く名ばかりの肩書きだけど、一応衣料関係箇所の長官ではある。内裏にいる資格にはなる。
「適切な対応だと思いますわ」
「そうだね。あの人の指示かもしれない」
新帝の母は今后とか大后とか称されて大変な力を持ちつつあるけれど、内裏にばかりいる。院と私が水も漏らさぬ仲と噂されているせいかもしれない。そう誤解していたらいい。
私は黙ってうなずいた。院は苦い顔でわずかに口の端を上げた。
「あの件もさすがにひどい。それに正妻との仲もよろしくない。恩のあるはずの左大臣にも失礼だ。彼は女のことで恨みばかり買っている」
皮肉な気分を抱えてしまったけれど呑み込む。もう今や後宮の恨みなどはあり得ないし。
「人のことは言えたものじゃないかもしれないけど、親としてはどうしても説教したいよ。自分の踏んだ轍は踏ませたくないし人の恨みで彼の足下をすくわれたりさせたくはない」
意外なことにちゃんと振り返った上でのことだった。そう言えば、いつも源氏に対してだけは親であることを忘れていなかった。最近ではわが息子にもそうであろうとしてくれる。
「東宮はこんな恨みなど買わないだろうけどね」
「まだ四つですから」
「これから先もずっとね。いつまで私がかばえるかわからないから」
いつも年よりも若く見える院は、この時は年相応に見えた。驚いてまっすぐ見返してしまう。まさか、出家しようなどと考えているわけではないと思いたい。
息子と私の立場は意外と脆い。この方が世を離れたり力を失ったりしたらすぐに危うくなるほどに。
その恐怖を感じとったのか「いいや、ずっと見守るつもりだけど」と温かく続けた。
「私は出家はするつもりはないよ」
ほっとしたのと同時に心の中で尋ねる。桐壺の更衣はそうしていないから? 同じ所に行きたくてそう言うの?
娘をあやす父親のような態度で「命ある限りあなたたちを守りますよ」と優しく言う。妻に対してのからかいや甘さを含まない声色で。
出会った時に今のこの方だったらどんなによかっただろうか。私はきっとほっとし、そのうち子ども扱いを不満に思い気を惹こうとしただろう。娘ではなく妃として見てほしいと焦がれただろう。
たぶんお互いに何かを間違ったのだ。そして、時は絶対にさかのぼってはくれない。
深夜、雨の音で目覚めた。格子は下ろしてあるのに細く音が聞こえる。院はまだお休みなので身を動かさずにその音を聞いた。途切れそうで途切れない雨音は記憶を呼び起こす。たおやかでありながら同時にしたたかな女の声が雨に重なる。
二年前のことだった。もう、ご譲位された後の話が出ていたが、ある日彼が大変に気落ちした様子で藤壷に渡ってきた。尋ねると「新たに移る仙洞御所に麗景殿さんの部屋を用意しようとしたのですが断られました」と寂しげな様子で語られた。
その姿に胸を打たれた。同時にいくらかの打算があったことも事実だけれど、同情の方が強かった。その人が来なかったとしたら、帝(現院)は心底から和ませる相手を持てないと心配になった。
————私は偽りの月だから
麗景殿の女御は後宮で一番人柄のよい女御として知られていた。私は迷わず面談を申し入れた。
後涼殿の一角に現れたその人は評判どうり感じよく、充分に礼儀を守りながらも仙洞御所に移ることを依頼した私の話を断り、自分の意志を曲げなかった。
「ぜひいらしてください」私は懇願した。
「中宮さまがいらっしゃるのですから、ときめかない地味な女御など必要はないと思いますわ」
「そんなことはありません。帝はあなたの承諾をお待ちになっています」
彼のことを出すとと少し苦しそうだったけれど、だからこそ私に向ける視線は少し尖った。
「お気持ちは嬉しいですわ。でもお応えできません」
「帝のためにお願い致します」
それでも彼女が拒否したので、誰かに止められたのかと尋ねた。もちろん言葉に出さずとも私が想定する相手を彼女は理解し、否定した。のみならずやわらかな笑顔で辛辣なセリフを吐いた。
「中宮さまはとても賢くていらっしゃるけれど、まだお若いですわね。老婆心から言わせていただきますと頂上にお立ちになることの意味をまだ完全に把握していらっしゃらないのではないでしょうか」
「どういうことです」
「これから他の方もお誘いするでしょうけれど、それに応える者はいないと思いますわ」
見えないように唇の内側を噛んだ。血の味がする。
「......新参者が中宮の地位を簒奪したことをお怒りですか」
「それはみなが目指していました。そのために来たのですから古いも新しいも関係ありません。ただそのためにみなが抱く感情を踏みつける覚悟と、自分以外は誰一人いない寂しい場所であることの自覚がなければ困ってしまいますわ。そこは同情される場所でも協力を求める場所でもありません」
君臨し他を見下すための場所だと彼女は言いたかったのかもしれない。へりくだった態度などかえって侮辱だと、与えられる憎しみを跳ね返す傲慢さこそがむしろ温情だと告げたかったのかもしれない。
弱者に負けるより強者に負ける方が幸いだとは、その時の私にはわからなかった。予言されていたように何人かの女たちに声をかけて全てに断られた。譲位が近づくまでは帝の寵を争っていたのに、急に「どうぞどうぞ」と譲られたような気がしてと惑うしかなかった。
あまたいた女御更衣はみな、去っていった。内裏に彼女、ここに私を残したままで。
いいえ私はやんごとない身分で、その上誰よりもときめいている。
誰もいない仙洞御所でそうであることに意味がある?
雨の音が心をかき乱す。髪がしっとりと重くなり煩わしい。耐えられずにそっと身じろぎをすると、院は半分眠ったまま、子どもにするように優しく頭を撫でてくれた。




