右大臣邸
光源氏(二の宮)七歳
弘徽殿視点
「それでは今年の藤の宴は行われぬのですね」
「うむ。一の宮が東宮(皇太子)と定まったこの時にあまりに派手な催しを行うと世人の妬みを買うだろうからな」
わが右大臣邸では何年かに一度は華やかな藤の宴をとり行う。たいてい、競べ弓を口実に主だった上達部(セレブ)や親王(認知された皇子など)方を招く。
「では里には戻らないのですか」
「いや。例の桜も見たいしな」
邸にはいく本もの梅や桜が植えられているが、そのうち二本だけ他のものより遅咲きの桜がある。他の花が散った後に満開の風情で、藤と競い合ってとても美しい。
「そうですか。ならばご用意を」
例年のことなのですぐに話は通り、適切な日が選ばれた。供をする殿上人もそろい輦車が支度される。
出かけようと立ち上がってふと柱の方を見ると、何か浅葱色のものが見えた。ちょっと驚いたが六位のものなぞがわが殿舎に忍び入るわけがない。
「二の宮」
呼びかけるとひょっこり顔を出す。
「おいで」
みずらの髪を振りたてて、つつつっと駆けてくる。愛らしい様子に女房たちが微笑む。
「………お出かけなのですか」
「そうだ」
彼の顔にうらやましさが滲む。内裏に育つ彼はあの寂れた二条の里に戻る以外は外出などままならない。
「………来るか」
「いいのですか!?」
信じられない様子で私を見る。
「私は嘘など言わぬ」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくって」
彼はちょっと焦り、それから思いきり頬を緩めた。
「すごく嬉しくって」
「じゃあ来い。誰か後で主上と桐壷の女房に伝えてやれ。今すぐだと何かと面倒だ。こちらが立ってからにしなさい」
指示を出して少年の手を握る。
まるで親子のように二人で輦車に乗り込むが、これは内裏内の移動用だ。牛車に乗り換えてわが里に向かった。
「うわあ」
権勢並ぶ者なき右大臣の邸だ。風雅な趣では左大臣邸に負けるが、今めいた華やかさでは勝負になる邸はない。
「門からここまでこんなにあるんだ」
寝殿に横づけにされた牛車から降りると、二の宮は珍しげに辺りを見つめている。
「まずは庭を案内させるからまわっておいで。私はあいさつを受けねばならないが、おまえはつまらんだろう」
「はい」
正直に答える少年を送り出すと人々の礼を受ける。
重々しい方々や兄たちの挨拶の後に妹たちが御簾内になだれ込んだ。
「お姉さま、あの可愛い方は?」
こっそりのぞいていたらしい。
「帝の二の宮だ。母を亡くされて内裏にいる」
「まあ、かわいそう。遊んで差し上げてもいい?」
「ダメだ。兄弟でもない男女はうかつに近寄ってはならぬ。おまえたちはそれぞれ婿君を迎える身だ。声をかけてもいけません」
すでに夫君を持つ者は別として、残りの妹たちは不満そうだ。
しかし私の言葉に逆らう者はいない。
「お姉さま、お帰りあそばせ」
遅れてきた四の君がすまして挨拶をする。妹たちの中では美しい部類に入るが、そのことを鼻にかけて驕慢な態度が抜けない。望みも高く、前の東宮がその位置にいた時は入内したくてだだをこねていた。
「おお、やっと機嫌を直したか。お父さまがあの方はオワコンだと言ったわけがわかったろう」
ちょっと顔を赤らめている。
「わたくし、どうしてもお姉さまみたいな女御さまになりたかったのですもの」
「お前のように感情をむき出しにする女は内裏には向かん。三国一の婿君を用意してやるからそれであきらめろ」
「きっとですよ。お顔も美しくて才があって、家柄もいい方じゃなきゃいやです」
「そんな男をちゃんと見つけてやるから自分を磨いておけ。……六の君の姿が見えないな」
視線を巡らせると女房が答えた。
「姫宮さま方と一緒にお昼寝をしています」
末の妹の六の君はまだ小さくて、私の娘たちと同じ年の頃だ。
それでも顔立ちは娘たち以上に整っていて、年頃になれば四の君を越える美女になるだろうと思う。
「そうか。どれ、見に行こう」
立ち上がりかけると娘たちが駆けてきて首にしがみついた。
「お母さま」
「おかあさま」
「元気にしていましたか?」
二の宮が戻るまで話し込んだ。
妹たちを下がらせ、娘たちには挨拶だけをさせた。内裏で会ったこともあるので彼女たちも嬉しそうに異腹の兄に接する。
二の宮も妹にあたるわが娘たちには随分と優しい。
だがほどほどのところで彼女たちも下がらせた。
「さてと、藤の花を愛でながらの食事だが、おまえの肝を抜いてやろう」
二の宮が驚いて自分の腹を抑える。
「いや、そういう意味ではない。世に名高い右大臣家の奢りを味あわせてやろうと言っているのだ」
「ちょっとやそっとじゃ肝など抜かれませんよ」
なかなか生意気なことを言う。
女房たちが笑いながら膳の支度をする。
「まず羹だ。鴨がいいか雉がいいか鶴がいいか」
「……鶴がいいです」
「そうか。私は雉にしよう」
あっという間に運ばれてくる。
「もしかして三つとも用意してあったのですか」
「当然だな。飯はいかがする? 姫飯か強飯か。小豆の入ったものもあるし甘葛で味をつけた芋粥もある」
「……芋粥にします」
内裏では味わえぬ贅沢な食事に二の宮は目を白黒させたが、なかなか頑張ってはいた。
「次はちょっとした趣向を見せよう」
白砂の上に火が熾され、よく洗われた瓦が乗せられる。
わが屋敷はもちろん檜皮屋根だが、懇意の寺の修繕などを請け負うのでいつも用意がある。
よく熱された瓦に榧の油が滴らされ、その上に鮑が乗せられてじゅうじゅうと音を立てる。
「あれは?」
「若狭の浜でとれた極上の鮑を、早馬で海水を代えつつ京に運び、かみ易いように包丁を入れてすぐに焼いている」
焼き立てが温めた土器に入れられて運ばれる。
「……おいしい。これ、干鮑と同じものなんですか」
「うむ」
夢中で食べていたが二の宮は、いったん箸を置くと感に堪えぬように呟いた。
「内裏でも弘徽殿でいただく食事が一番おいしかったけど、ここのご飯は凄すぎる」
「あそこでは他に配慮するから大したことはできないな。うちは即物的な家で有り余る富はまず身のために使う」
様々な美食が運ばれる。
「よそのおうちではどんなことに富を使うのでしょうか」
食べながらも色々と考えているようだ。
「家によって唐物の壺、名馬などと違うが、古い家筋は余裕があれば名香を集める者が多いな」
「ああ、うちもそうかも」
家に伝わる香木などがあるのだろう。
「それもなかなか風雅だが、火事なども多いこの頃、さすが高貴の家は燃えるときに香りが違いますな、などと言われても仕方がない」
くすくす、と少年は笑う。そこに切り込む。
「お前は源氏となることが決まり気落ちしているかもしれんが、堂々と、どんな栄華でも手に取る資格ができたということだ」
帝は違う。その身を制して清らかに生きる義務がある。
他の宮家の者は贅を味わう富がない。
「臣下の者は自分の働き次第で富を手にすることができる。実力で這い上がって好きに使え」
「………はい」
まだ割り切れてはいないのだろう。少し顔つきが暗い。
「さて、最後の甘味だ。これはなんだと思う?」
銀の椀に品よく盛られた白っぽい食べ物を示す。
「わかりません。やわらかいですね」
匙で少し口に含む。
「……甘い。初めて食べます」
「これは酥というものだ。牛の乳を何時間も煮つめて作る」
びっくりしながらも、美味しかったのか更にすくっているのを止める。
「ちょっと待て」
女房の一人が近寄って壺から蜜をとろりとかける。
「贅沢すぎます。これだけでも甘いのに」
「これが、右大臣家のやり方だ」
一口食べた二の宮が凄い勢いで残りを片づける。
「……もう、何も入りません」
膳を下げさせて休ませた。
名残惜しそうに、牛車に乗って物見の窓から振り返ってみている。
「凄い経験でした。食事も凄かったし桜の精にも会ったし」
「桜の精?」
二の宮がうなずく。
「桜の精の子供かな? すごく綺麗な女の子で、でもちょっと目を離した隙に消えちゃったんです」
庭を探索した時のことらしい。
ははあ、と私は気づいた。
やんちゃで抜け道に詳しい六の君に違いない。
あの時私は娘たちに気を取られて忘れていたが、目を覚まして庭に遊びに出たのだろう。
「いいものを見たな。縁起がいいから将来出世間違いなしだ」
二の宮は困ったように私を見、それから諦めたようなでも少し期待もあるような複雑な表情を見せた。
「………そうですね」
牛車はのんびりと京の町を歩く。
私たちはまるで親子のように、家路に向けて揺られていた。