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源氏夢想譚  作者: Salt
第三章
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送別会

麗景殿視点

源氏二十〜二十二

 帝がご譲位なさって世の中も変わり、私も後宮のみんなもそれぞれ里へ引き下がった。中宮(ちゅうぐう)である藤壷の宮と弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)さま以外は。

 院となられたあの方が住む仙洞(せんとう)御所(ごしょ)はとても風雅に整えられているそうだ。私もそこに誘われたけどお断りした。



「なぜですか、麗景殿(れいけいでん)さん。当然あなたは来てくれると......」


 彼が位を下りるほんの少し前だった。私の新しい部屋について語りかける帝の言葉を初めて遮った。

 目を潤ませた彼を拒むことは辛い。けどもう、決めてしまっていた。


「お誘いくださってありがとうございます。でも、はかばかしい後見もない身の上、満足にご奉仕することはできませんから」

「そんなこといらない、傍にいてくれるだけでいいんです!」

「身に余るほどのお言葉、嬉しいですわ。私、帝のことが大好きです。どんな所にいても、何をしていても毎日あなたの幸せを祈っています」

「後見がいないなら、誰かに命じます!」


 私はそっと彼の手を取った。白くやわらかな貴人の手。私を愛おしみ私が愛おしんだその手。もうすぐ失ってしまうきれいな手。

 握りしめると握り返してくれる。優しい温もり。

 私は自分から手を離し、彼の瞳を見つめた。


「それは道理に合いません」


 譲位する帝のときめかない女御。後見などしてもなんのメリットもない。無理に命じられても形だけ取り繕うだけだ。

 もし源氏の君がフリーだったら引き受けてくれたかもしれない。だけど彼は藤壷中宮の後見のようなものだ。これ以上の負担はかけたくない。


「しかし!」

「顔をお上げになって、私の大事な方。そのお立場にふさわしい態度を見せてください。あなたをいつまでも崇拝するこの私に」


 笑いかける私を見つめる彼の瞳は、ついに玉のような涙を生んだ。この時の彼の涙を、私は生涯誇りとするだろう。

 帝は腕を広げて私を抱きしめ、私はそれを受け入れた。



 藤壷の宮から面談の依頼を受けたのはそれからすぐだ。私は了承し、後涼殿(こうろうでん)東廂(ひがしびさし)、昔桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)上局(うえつぼね)として使っていた所で会った。


 彼女の話も仙洞御所への誘いだった。私はなるべく礼を失さないように気をつけながら、もう一度それを断った。


————自分の威光を脅かさない程度の女を便利に使いたいだけだわ


 皮肉な考えを打ち消すことができない。それは後宮の他の女たちに共通するはずだと思った。

 最後の女子会のつもりで集まった時にその話題が出て、全員じゃないけれどやはり他にも引き止められた人がいることを知った。


「全く、バカにしていますわ」


 私の心友たる更衣がぷんぷんしながら言う。


「更衣風情など歯牙にもかからないから誘ったんですよ。今だから言いますが、あんな目に遭わされたのに私は帝のこと大好きですよ。だけどどうがんばったって彼の一番にはなれないし、この機会にちゃんとお別れして、せめてたまに思い出していただける存在になりたいですわ」


 あら、この人もちゃんと帝を好きでその上で誇りを持っていたのだわ。笑みを送ると彼女も気づいてちょっと表情を緩めた。

 他の人たちも軽く肩をすくめながらも、もはや嫉妬や牽制などあり得ない。わずかにゆるい共感を感じる。

 私たちは話し合って送別会を開くことにした。


 もう最後だからと弘徽殿の女御様を誘ってみると、彼女は厳めしい顔を崩さずにうなずいた。


「参加しましょう。場所と日にちの予定は?」

「あまりすぐには失礼ですから、帝が移られて三日後の夕と決めました」


 その翌日から順次旧世代の女は引き下がって十日後までには完全に場所を空けることになっている。藤壷の宮は帝、いえ院といっしょに移るので、内裏(だいり)には新帝の母君である弘徽殿の女御さまだけが残る。


 彼女は顔をしかめて何か考えていたが、やがて私に目を向けて「場所を広げましょう」と言った。首を傾げた私に「二つの殿舎の障壁を全て取り払い壷庭を含めて自由に遊ぶことにしましょう」と提案してきた。


「まあ、楽しそう。晴れるといいですわね」

「ええ。当日は廻りも人払いをして無礼講としましょう」


 細かく打ち合わせをして、みんなに知らせた。



 帝が移られた日のことは語りたくない。辛くなるもの。

 私はその日自分の一番大事な恋心を内裏の奥に葬った。

 しばらく泣いて過ごし、二日目には気力を取り戻して殿舎を磨かせた。



 当日は晴天とは言えず薄曇りの一日だったけれど雨は降らなかった。日が落ち始める前に、元後涼殿の更衣が真っ先に現れた。


「いらっしゃったわね。まずこれを召し上がらなくては通しませんわよ」


 私は提子(ひさげ)(酒入れ。急須のような形)を取って土器(かわらけ)を勧めた。


酒菜(さかな)はあるのでしょうね」

「もちろん。珍味もあるわ」


 焼いた茄子やひゆという青菜の茹で物などありふれたものをはじめ、くらげを干して戻したものやウニのししびしお、鮭の楚割(すわやり)(魚肉を細く裂いて乾かしたもの)や、骨を抜かせたウズラの焼き物などいろいろと用意してある。

 高杯(たかつき)には果物や唐菓子を形よく盛りつけておいた。


「ずっとこちら側にいようかしら」

「あら、弘徽殿の方には蘇の蜜あえだとか、めったに食べられない物がたくさんあるわよ。両方行き来して楽しみましょうね」


 ふくよかな更衣は目を輝かせた。

 彼女も私についでくれたのでいただいていると、向こうの殿舎から手を振る他の女御が見える。こちらも振り返すと、すっくと立ち上がって端っこまで歩いてきた。


「こっちに走っていらっしゃいよ」


 冗談のつもりで呼んでみたら、その女御はちょっと躊躇した後ふいに長袴をくくり上げてそれをつかみ上げて下の白砂に飛び降りてとととっ、と走った。すぐに息を切らして止まってしまったけれど。


「一度走ってみたかったのにこの年になるとダメねえ」


 残念そうに呟く彼女に心友更衣が笑いかけ、体重を感じさせない身軽さで飛び降りて駆けていった。


「じゃあ代わりに別のことしましょう。そこに横になって」


 彼女は驚く女御を横たえると、さらさらと清らかな白砂で埋めていった。


「まあ、呆れたわ」

「一度やってみたかったでしょ」


 そう思ったことがあったとしても忘れていた童女のような遊びに彼女は驚いていたがやがてくすくす笑い出した。


「雅と気品をモットーに生きてきたのに台無しにしたわね!」

「今日は無礼講よ。そんなの意味ないわ」


 笑いあう二人の近くまで円座が飛んだ。比較的若い更衣が弘徽殿の女御に振り返る。


「嬉しい、思ったより飛びました!」

「手の位置をこうするともっと飛びます」


 ほんとは叫ばなければここまで声は届かないけれどそう言ってるのだと思う。若い更衣はお手本をねだり、女御さまは軽々とそれを投げたが本気じゃないらしくこちら側の庭先に落ちた。


「私も投げてみるわ」


 円座をつかんで投げてみたけれど意外に難しくて、部屋の外まで飛ばなかった。


「大殿油をつけてからは危ないので、投げたい方は今のうちに」


 女房が下の二人に伝えにいくと彼女たちもこちらに来て投げてみた。しばらく両方の殿舎で扇や円座が飛び交ったけれど暗くなってきたのでそこまでになった。


 灯りが点されかがり火も焚かれた。私は「最後だからあなたのへったくそな琴が聞きたいわ」と所望され「まあ。後悔しても知らないわよ」と女房に和琴を運ばせた。

 琴軋(ことさき)を手に取り音を生み出す。こちら側にいた人たちは「久々に聞くと思ってた以上にひどい」とか「ありえないわ」とか好き勝手言ってたくせに、曲が終わりに近づくと目尻に露を宿した。


「......もう二度とこんな下手な音を聞けないのね」

「どんなに下手な女房に弾かせてもこれほどじゃないわ」


 私たちは友達じゃない。徹頭徹尾帝の寵を争った仲だ。だけどもうその必要がなくなった今夜、今まで互いに競い合った得意で雅なことよりも、もっとくだらないことをたくさんやってみたい。誰も言葉には出さないけれど同じ思いのはず。

 私たちは何かを共有しようとしていた。いえもう共有していた何かを確認しようとしていた。確かにそれはここにあったのだと信じたかった。


「あら。今後里に押し掛けて弾いて差し上げましょうか」

「よしてよ家族が引きつけ起こすじゃない。それより唐菓子でも持って遊びに来てよ」

「そうそう。うちにも来てくださったら思いっきり粗末に扱うわ」

「楽のお礼に退出の際、うちの者に送らせましょうか」


 それなりの後見を持つ女御がぶっきらぼうに言った。

 女御や更衣の内裏の入退出は大抵夜に行うとはいえ、ある程度名のある付き添いの男たちがいなければひどく惨めだ。それが最後の退出ならなおさら。


「ご心配なく。右大臣の下の方々が送ってくれますから」

「次世代政権に取り入るとは大人しそうに見せてやるわね、あなた」

「この殿舎を大納言の姫君に譲るのでしょう」


 弘徽殿の姪にあたるその方が麗景殿に入ることになっている。


「ええ。私には譲るべき相手はいないから」


 入内できるような身内も、子どももいない。だからお世話になったあの方に関わる人に譲って義理は果たしたかった。

 女御たちはちょっと黙って私を見たからまた提子を取ってお酒を勧めた。


「みなさまこちらにいらっしゃってほしいと申しております」


 弘徽殿の方から女房が誘いにきたので、全員腰を上げて足を運んだ。

 殿舎はいつもよりも更に華やかに設えてあった。几帳や壁代なども新しく茵も品のいい色合いだった。廂では承香殿の女御と元後涼殿の更衣が土器を重ねていた。


「だから、うちの息子は非常に顔がいいんです」

「それは認めるわ。だけどうちの子はダンスがずば抜けてるし。いいですか、あの紅葉賀の折り光源氏と並び称されたのはうちの子なんですよ」


 ちょっとうらやましくて言いつのる二人の話に聞き入っていたら弘徽殿方の女房がお酒を勧める。


「いろいろとお疲れさまでした。後はラストまでこちらで引き受けますのでくつろいでください」

「ありがとう。お言葉に甘えるわ」


 他のみんなも上質なお酒を飲み珍しいものやおいしい物を食べて楽しんでいる。弘徽殿の女御さま、いえ大后もみなから酌を受けているけれど表情はちっとも変わらない。元後涼殿の更衣の方が先につぶれて誰彼かまわず心友認定を始めた。


「で、弘徽殿の女御」


 いきなり敬称抜きのタメ口にみんなは青ざめる。私もさあーっと酔いから冷めた。


「なんでしょう」

「あなたにはいろいろ言いたいことがありますがこの際水に流しましょう。ちょっともったいない気がしますがあなたを心友五号に認定します」


 どうフォローしようと困っていると、彼女は眉一つ動かさずに断った。


「私は五号などにされても嬉しくありません。一号ならまだ考えてもいいですが」


 ふくよか更衣は相当にお酒が回っている。この冷然とした大后に脅えた様子はなかった。


「いえ一号は譲れません」

「なぜですか」

「それは今は亡き青衣の女御に捧げたものだから永久欠番なのです」


 弘徽殿の女御はふむ、とうなずいた。


「それなら仕方がありません」

「あの、私の二号をお譲り致しますわ」

「いえ一号でないならどれも同じです。五号を甘んじて受けましょう。これ心友、飲みなさい」

「はい」


 もしかして、全然顔に出ていないけれど、この方酔っているのじゃないかしら。

 元後涼殿の更衣は勢いよく土器を傾け「さあご返杯」と傍らの女房に顎をしゃくって銀の提子で酒を注がせた。

 大后はピンと背筋を伸ばしたままそれを受け取り一息で空けた。


「さすが五号、あっぱれな飲みっぷり! 気に入りました。これからもズッ友ですよ」

「意味はわかりませんがお受けしましょう」


 二人はぐいぐいと土器を空にしたけれど、大后は顔色一つ変わらなかった。


「これで最後ですから神業と聞く女御さまの琴を聞かせていただきたいですわ」

「心友の頼みを断るわけには行きませんね。麗景殿、つきあいなさい」


 酔ってる、絶対酔ってるわこの方。


「あの......私の音はその、個性的すぎると言われていますのでいっしょに弾くのは荷が重いですわ」

「かまいません。なにをやります」


 みんなもやんやとはやし立て断りきれない。仕方なく、子どもが初期に練習する簡単なものをまた和琴で奏することにした。彼女は女房に箏を用意させた。


 不安に思いながら琴軋を手にすると、弘徽殿方の女房が竜笛とひちりきで律を運んでくれた。のせられてたどたどしい音を響かせると彼女の箏がやんわりと絡んだ。


ーーーーまあ。私の音じゃないみたい


 少し染めのたりない絹が、合わせた別の色の絹によって驚くほどの雰囲気を生むことがあるけれどそんな感じ。かすれたような私の音が、かぶさる彼女の音で不思議なほどのニュアンスを持った。

 これは弘徽殿の女御さまの超絶技巧のおかげ。わかっているけれどそれでも楽しい。

 空には白銀の月が輝く。その光が音に織り込まれる。不出来な私の音が魅力的なハスキーボイスみたいにほんのりとした色合いで広がっていく。


 みんなの拍手を遠慮なく受けてお辞儀した。上手な演奏家になった気分だわ。それからごほうびに彼女の独奏をねだると、見事な腕前を披露してくれた。現世から離れて異界を覗くほどの音。あまりにすばらしいので音楽を聴いていることを忘れて意識がたゆたう。


————やっぱり酔っていると思ったのは気のせいね


 なめらかな曲の運びは一音さえ澱ませない。天界が決めたことわりのようにあるいは水の流れのように。いくら彼女でも酔っていたとしたらこんなに完璧には奏することはできないと思う。


 私たちはどこか遠い楽園のほとりを見た。その空には虹がかかり神々しい色合いで輝き渡った。

 音で築かれた世界は限りなく広く美しく、うららかな日射しも灼熱の陽光も冴えた月光も凍てつく冬月も全て溶け合って澄んだ光を宿していた。


 曲が終わってもしばらく、私たちは声を出せなかった。

 涙ぐんだり感動の言葉を口にしたりしたのはだいぶ間がたった後だった。


「ちょっとの間魂が抜けていました」


 更衣の一人がようよう声を出し、それを契機にようやくみんなもわれにかえった。

 惜しみない賞賛の声を弘徽殿の女御さまは受け流して、やはり表情は変えなかった。


「それではお名残惜しいですけれど、そろそろ......」


 西に傾く月を見ながら私はみなに声をかけた。寂しいけれど、どんなことでも終わりはある。みんな何か物足りなそうな顔をして互いを見ている。女御の一人が「それではお移りになられた院に感謝の言葉でも贈りましょうか」と提案した。


「それはあの日充分に言祝いだわ」

「そう。もうお腹いっぱいよ。それよりぶっちゃけません?」

「愚痴りたくはないわ。でも、ひとことあの方に言いたいことはあるわ」


 私たちはちょっと話し合って、最後に仙洞御所の方を向いて思いきり絶叫することになった。ふくよか更衣が音頭をとる。


「それではみなさん、一二の三! 人の部屋取るなーーーーっ!」「たまには思い出せーー!」

「帝のバカーーっ、愛してましたーーーー!」「お幸せになんて言ってやらないーーーー」

「爆発しろーーーーっ」「息子をよろしくーーーー!」


 様々な叫びに混じって弘徽殿の女御さまの声も響く。


「もげろーーーーっ!!」


............やっぱり酔っていらっしゃった。



 大人数の集まりはあの日が最後。今は里で大人しく地味に暮らしている。でも、それも楽しい。あの人たちからもたまに文が届いたりする。


「あら、私の心友は承香殿の女御だった方と初瀬詣でに行ったみたいよ」

「まあ、素敵」

「あなたも行ってみる?」


 妹は静かに首を横に振った。理由はわかる。彼女は遠出をしたくないのだ。


「うちの木彫りの仏さまをよく拝んでおきます」

「きっとご利益があるわ」

「もうありました。毎日お姉さまといっしょにいられるのですもの」

「謙虚なあなたの代わりに素敵なあの人がいらっしゃるように祈っておくわね」


 妹は「もう、お姉さまったら」と顔を赤くした。私はそれを楽しく眺め、視線を外すと今度は自分のために遠い所に目を向けた。


————お元気でいらっしゃいますか。私は元気です。今日もあなたの幸福をお祈り致します


 別の方といっしょのあの方は答えてくれない。それでも彼のことを考えると胸が温かくなり口元が綻ぶ。あの方は私のたった一人の思い人で、いつも愛しい大事な方だ。それは場所や立場が変わっても、お会いすることができなくなっても、今も少しも変わらない。

 



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