花の宴 ——藤ーー
源氏側視点
源氏二十歳
どんなに晴れてすがすがしい日であっても、春は憂いと苦さを含むような気がする。自分自身の年齢が、今は盛りと匂い立つような二十歳であってもだ。
源氏の君は秀麗な顔にもの憂さを漂わせないように心がけて臣下の席に控えた。
年下の兄弟たちは親王席にある。上達部ですら自分より上席だ。ましてやあの方は父に継ぐ最上の席で公的イベントであるこの催しを御覧になる。
あまりに遠い隔たりに彼は唇をかみしめて目を反らした。すると父をはさんで逆側の東宮(皇太子)席が目に入った。そこには源氏の君の唯一の兄がいる。
生まれついた時からその席を約束されていた彼はごく自然に、優美な様子で座っていた。それを見た瞬間、心のどこかが闇色の焔で灼かれるのを感じた。
東宮は誰にでも優しいが、特に源氏に優しい。いつも穏やかに愛情を注いでくれる。それはとても細やかで、たとえば源氏に仕える女房たちの衣装がすがれているのを見て贈ってくれたりした。
彼は再び唇をかんだ。
源氏は東宮である兄のことは好きだった。なのに最近、向ける視線にわずかに苦いものが混じる。
探韻の遊びが始まって、青銅の鉢から一字だけ書かれた紙をとる。その字を使って漢詩を作るのだ。
「春という文字をいただきました」
声を張り上げて告げて戻ると、頭中将が次に立ちながらにやりと笑う。いやに自信ありげだなと思っていると、朗々と声を響かせた。
彼は年下の自分にライバル心を持っていてなにかと絡んでくる。頭中将の父は臣下で最も高い生まれの左大臣で、母は帝の姉の内親王だ。更衣腹の源氏などさして上だとは思わないのだろう。
実際、能力的にも優れた人物だ。だが源氏は、自分をライバル視すること自体が所詮臣下の思惑だと含み笑う。
————兄にはそんなこと、考えもしないくせに
彼が父よりも東宮の方を自分の君主と思っていることは知っていた。源氏に対してとはまるで違う敬意を素直に表している。
————まあ張り合ったところでムダだけどね
それは自分も同じだと源氏は苦々しく思う。子どもの頃は違った。三歳上の兄を越えるために何事も必死にがんばった。実際、大抵のことで上に行くことに成功した。
だが兄はそんな源氏を心の底から本気で誉めてくれた。妬んだりはしなかった。
それが彼の穏やかな性格のためだけではないことにある日気づいた。帝は————よい鑑賞者であればいい。何事も実演する必要はないのだ。
自分の評判を落とさないためにもその後も努力を続けたが、気が抜けたことも事実だ。世間の人は何も知らずに褒めそやす。くだらない。
鬱屈した気分を紛らわそうと貧相な博士たちに嘲笑の目を向けたりするが、そこにうっかり自分自身を見てしまいほぞを噛む。上位者の前で身をつくろい、なけなしの知を誇って飾り立てる浅ましい姿。
苛立っているうちに源氏がプロデュースした舞楽に移って少し気を取り直したが、日が傾きだして山場の春鶯囀に至った頃、兄の従者が挿頭の花を届けにきた。
「東宮さまが舞をご所望なさっています」
予定にないと辞退したが兄はにこやかに要求してくる。臣下の身分で断りきることはできない。苦い気分でさわりだけ舞った。
「頭中将はどこ? 君も早く」
それを見て帝も求め、彼の方は柳花苑を舞った。どうやら用意していたらしく見事なものだった。異例なことだが帝から御衣賜るほどに。
源氏には何もかもシャクの種だ。だが鉄壁の外面で表面には出さない。むしろ挑むように進行させていくと、いつも通りに数多くの賞賛が降り注ぐがちっとも気が晴れない。夜も更けて、東宮や中宮が席を立つことさえ気にくわない。
月はとろりと金の色。宴の果ての酔いともの憂さを背負ったまま、慣れた内裏を奥へと進む。まず藤壷へと寄ったが固く錠され人を拒む。王命婦の局も閉ざされている。
気が収まらないままそこを離れようとして何かを踏んだ。
————桜の枝?
誰かが戯れに折りとったのか、幾本かの小枝が地に落ちたまま月明かりに照らされている。それをたどっていくうちに、|弘徽殿≪こきでん≫の|細殿≪ほそどの≫あたりにたどり着いた。
もう枝はないが、三の口あたりに桜の花びらが落ちていた。その戸に手をかけると何事もなく開いた。
この夜、弘徽殿の女御は帝に招かれているために人が少ない。入り込んだ奥の枢戸さえ滑るように開く。
————こんな風にして一夜の過ちが起きるわけだ
のぞきこむと残った女房たちはみな眠っている。どうしようかと考えながら潜んでいると「朧月夜に似るものぞなき」と歌う声が近づいてきた。
甘い声だ。年の頃も若い。急に気分が高揚してくる。影から、女の袖を引いた。女は驚いて「いやっ、誰?」と歌をやめた。
「恐いような者じゃありませんよ」
女をかき抱くと物陰に彼女を下ろして戸を閉めた。あまりのことに目を丸くしているさまが可愛らしい。彼女は脅えながらも「ここに人が!」とかすれた声をあげたが、源氏は不敵に笑った。
「私は全てを許された身ですから呼んでも来ませんよ。お静かに」
その声で彼女は相手の名を知る。ただの変質者じゃなくてよかった、と胸を撫でおろしつつ男の様子を窺う。無茶な人、と思いながらも突き放したくはない。
女は全てを忘れさせる。甘い匂いの髪が、やわやわとした絹の奥のしなやかな体がさっきまでの鬱屈を全て吸い取って源氏の心を酔わせてくれる。
「こわいの?」と尋ねると世慣れない様子の女は気丈にも「こわくはないわ」と答えた。それで彼女が右大臣家の姫であると確信した。挑まれて逃げることのないあの人の血筋だ。
花の蜜が滴って全身を侵していくような夢見心地の夜で、闇は濃かった。名前を尋ねると「探してくれないの?」と歌に紛らされる。桜の花の精のように艶やかだ。
「邪魔が入るかもしれないから教えてよ。それとも私をもてあそぶ気ですか?」
と言いかけているうちに女房たちの立ち騒ぐ声が聞こえてきた。殿舎の主のご帰還らしい。慌てて扇を取り替えてその場を去った。
桐壺の宿直所へ帰ると、女房たちはまだ寝ているようだ。長年リーダー格を張っている女房が「年中無休ですね」と呟いたのはもちろん寝言だと思う。自室で眠れずに思い返す。
————綺麗だったな、あの子。絶対弘徽殿の妹の誰かだよね。初めてだったから五か六の君かな。師宮の北の方や頭中将嫁の四の君なんかが美人だって聞いたけど、そうだったらもっと面白いのに。六の君だとしたら兄上に入内予定だから可哀想かな。面倒なことになるかもしれないし探しにくい。ID教えとけばよかった
浮き立つような気分が落ち着いてくると、先に訪れた藤壷の殿舎が閉じたまぶたの奥に現れる。そこはしんと静かで扉一つさえ揺るがない。
————近寄れないな、あそこは
花の精の映像が、凍りつくほど高貴な思い人の映像に変わっていく。
————全てを許された身か。大嘘つきだね
わずかに口角を上げて自嘲すると、全てを断ち切って眠りの中に駆け込んだ。
三月の二十日過ぎに右大臣邸で、弓の試合に引き続き藤の宴が行われた。弘徽殿の女御の二人の娘が裳着を迎えたばかりで、そのために新築した御殿も磨きたてられている。
「四月には六の君も入内なさるし、おめでたいことばかりですな」
「あやかりたいものです」
次期帝の里邸の宴だ。身分高い者があまた押し寄せる。
誘われていたけれどスルーしていた源氏の元へ、右大臣子息の一人四位少将が「並の花なら誘いませんよ」とやって来た。内裏にいた折りなので帝に伺うと「得意げだね」と笑った。
「わざわざ迎えにきたんだから、早く行ってあげた方がいいね。君の妹たちがいるんだから、右大臣はただの関係とは思っちゃいないよ」
勧められて源氏は充分に身なりを整えて、その衣装の効果が引き立つ夜になってから出かけた。
人はみな、今は盛りの一族に敬意を示してタイトな袍、しかも布袴で決めている。その中に主役然と現れた彼は、インポート風の桜襲の直衣に、葡萄染めの下襲の裾をとりわけ長く引く。
たとえば女が他より軽装でいたら、つまり小袿を着た人が裳や唐衣をつけた者と共にいたら、それはすなわち小袿の女の方が格上であることを示す。
このとき源氏の身分は近衛の中将で、それ以上の者は多かった。だがこの場は右大臣の私宴だ。暗黙の了解はあるがそれを外すことは罪ではない。
あえて空気を読まない親王姿は悩ましく、人どころか花さえも気圧される。気品と美しさを武器に敵陣に乗り込み、着実に人々の心をしとめていった。
楽の遊びを適度にこなし、隙を見て更けゆく夜闇に紛れ込む。酔ったふりで、|寝殿≪しんでん≫の東の戸口に寄りかかる。藤の花はこちらなので女たちの姿が多い。まるで男踏歌のようにぎょうぎょうしく出し衣をし、格子を上げて楽しんでいる。
「無理に酒を勧められて困っています。かくまってください」
と、妻戸の御簾を引っ張れば、女房が品よくジョークで応対する。香の煙は自家製スモークでもできそうなほどで、なにかと派手だ。しっとりとした趣より今どき感を大事にする右大臣家らしい。
あまたの女の影が酒よりも源氏を煽る。その中に、あの宮中の宴の夜の姫はいるかと見回すがわからない。
夜風が藤の花を揺らす。ふるいつきたいような女たちよりも涼しげな美しさでかがり火を受けている。その澄んだ匂いが濃すぎる香の中から漂ったような気がした。
————探したい、是が非でも
わたし? それともあたし? 誘いかけるような豊かな女たち。どの人も魅力的だが求める姫ではない。らちが明かずに口元を緩め、少しおどけて歌ってみる。
「扇取られて辛い目を見る」
「あら高麗人が取るのは帯じゃなくて?」
笑いさざめく女たちは問題外だ。陽気な彼女たちの中でただ一箇所、ため息をこぼす気配に気づけた。
「......見つけた。君だ」
小声で囁いて几帳越しに手を捕らえる。その白い手はぴくん、と動いて止まった。
先程の吐息よりも小さく「迷うぐらいなら違うのじゃなくて?」と答える。
その声は確かにあの夜の姫だ。
われ知らず源氏は子どものように笑った。
二条の邸の朝である。なんやかやで連日帰らなかった上寝坊してしまったら、西の対の姫がすねてしまってつきあってくれない。一人寂しく東の対で朝食をとっていると人が駆けるような音が響いてきた。なにごとかと顔を上げると息を切らした惟光が凄い顔をしてこちらを睨んでいる。
「粥食べる?」
「粥どころじゃないでしょっ。あなた、東宮さまに入内する姫に手を出したって本当ですかっ!!」
「まあ......そういうことになるかな」
怒髪天をつく様相の彼だが烏帽子のせいでもとどりは見えない。鋭い視線を外さずに源氏の前に円座を引っ張ってきて座り込む。
「まあじゃないでしょう、まあじゃ。なんてこったい、帝の愛児の乳母子としてのウハウハライフがゼロよ、もうっ」
「......おまえそんなこと考えてたの」
「ありふれた野望じゃないですかっ。大体それだけモテるんですからそんな難易度最高クラスに手を出さなくてもいいでしょっ」
「いや最高クラスはまた別......あわわ」
「なんだか知りませんがどうしてくれるんです、わたしの出世っ。東宮さまはともかく右大臣や弘徽殿の御方に睨まれたらじじいになっても階位一つ上がりませんよっ」
「ちょっと反省している」
「ちょっとですかこのバカ主っ! ロリコン野郎っ、ブサイクフェチっ」
「おまえなにげにひどいこと言ってない」
「やかましいシニアマスターがっ。粥は大盛り、鮭の楚割もつけてくださいねっ」
「食べるんかい」
「食べずにいられるかいっ。鮒の煮付けとか鯛の塩焼きがあったらそれも添えてくださいっ。デザートは季節の覆盆子と唐菓子ですよっ」
憤然と宣言した惟光のために女房を呼んで注文してやってから大して間もなく、また人の駆ける音が近づいてきた。今度は二人そろって顔を上げると、源氏のもう一人の乳母子である大輔の命婦が駆け込んできた。
「てえへんだ、てえへんだっ」
「ちょ、おまえ、言葉」
「それどころじゃないっすよ! 速報! 右大臣の六の君入内断念! 原因は源氏の君との恋愛スキャンダル!」
「あちゃーーーーっ」
惟光が頭を抱えて突っ伏した。予想できたことではあるがこうして実際に聞くとさすがに源氏も青くなる。
「......兄上、怒ってる?」
「というより弘徽殿の御方が激おこですね。あまりにあの方の怒りが激しいので東宮さまは自分の感情どころではないでしょう。御慰めに行こうとされたようですが御方自身が拒否して一人で激怒している模様です」
「右大臣...は、いいや。父上は?」
「その御大を恐れて藤壷に逃げ込みましたっ。当分出てこないと思われます」
命婦もどっかりと座り込み、惟光分の食事を運んできた女房に「わたしにもください」と頼んでいる。全員引きつった顔で、男の前でものを食べるのかという突っ込みも出ない。
源氏は止めていた箸をのろのろと動かし始めた。惟光もむっとした顔のまま匙を取って粥をすくう。
「いいですか、全てあなたの招いたことですからね」
「......はい」
削ったアワビの味が感じられない。惟光はやけになったように黙々と粥を食べ、なくなると果実に手を出した。命婦もがしがしと匙を口に運んでいる。
ーーーーだけど兄上は全てに恵まれているし
怒り狂っているはずのあの人を想像してみる。その人は矛盾なく最強の盾であり同時に最強の矛である。韓非子だってびっくりの保護者だ。
「いくらわたしたちだって守れませんからね」
驚いて二人に目をやる。不機嫌そうに菓子を食べながらこちらを見返す。
「守ってくれるつもりだったの?」
「できませんよ全く。だけどついてはいきますよ、仕方ありませんし」
「そうっすよ。ほんとに迷惑ですよ。しかしあなたじゃしゃあないし」
この時代主従の結びつきはそれほど強くない。状況が悪くなると使用人は逃げる。乳母や乳母子との関係は比較的強いが、それでも逃げてしまっても不思議ではない。源氏は初めて目を潤ませて二人の手を取ろうとし、盛大な罵倒を喰らった。
話の中で布袴をタキシードとしていますが、先に貫雪さんが「どんなタイトルつけたらいいか分かんないけど物名歌でギャグりました。」(N7309CO)で和風正装をタキシードしていらっしゃいます。この作品はコメディとして明るく書かれていますが、面白い上に和歌の修辞や用語を把握するのに最適ですよ!