花の宴ーー朧月夜ーー
源氏二十歳
弘徽殿視点
桜が咲き始めたというのに乳母子は廂の端で読書にいそしんでいる。向学心の欠片もないこやつにしては珍しいな、と思ってそっと覗き込むと拳がいきなり後ろに突き出された。
常に冷静沈着なこの私だ。何事もなかったかのようにそれをよけ、未だ気づかぬ彼女に「これ」と声をかけた。
乳母子は手を妙な形にして身がまえ、やっと私に目を向けた。
「......失礼致しました」
「何を読んでおるのです」
「はあ、『御所忍スレイヤー』を」
聞き慣れぬ書物の名を耳にして首をかしげると、巷で人気の活劇草子です、と説明された。
「シノビ抗争で妻子を殺された官人フジワラ・ゲンジに、謎のシノビ魂が憑依して彼は復讐の闘いに身を投じるのです!!」
「......内容を語らなくともよろしい」
止めたのだが彼女は目を輝かせて続ける。
「でも敗者に『辞世のウタをよめ!』と言う所がかっこいいのです。業平も詠みましたよね」
「『ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを』面白いけれどかっこよくはないでしょう」
「いや、シノビってだけでかっこいいです」
「業平がシノビなのですか」
「この話ではそうです。密命を帯びて東に下ります。兄の行平もシノビで、この人は須磨と明石に赴き美貌のくの一姉妹、松風と村雨の二人といい仲になるのです」
「どうでもよろしい」
再度さえぎると残念そうに草子を閉じたが、まだこだわっているらしい。御所忍とは本当にいるのかと質問された。
「間諜の類はいつの世でもいるでしょうが、それ専用に訓練された一族など、少なくとも私は聞いたことがありません」
「ご存じないだけではありませんか」
「もしそんな者がいるのなら、源氏が生まれた時点で私か息子の命がなかったでしょうよ」
あわわ、と見苦しく慌てる彼女に「いくらおまえでもそうたるんでいると見限りますよ」と脅して気合いを入れさせた。若女房たちは端然と座って傍に控えている。乳母子の醜態に眉一つ動かさない。
彼女たちが向上したのも理由がある。少し前に、最も指導力に長けた女が子育てを終え里から復帰したのだ。
新参の女房たちの有様を見た彼女が北廂での演習を企画したのを聞きつけた私は、眼前でやることを要求した。
「しかし、御前にふさわしくない言動をとることとなりますが」
にこりともせずに告げる彼女に同じような表情のままうなずく。
「かまいません。消閑の具に丁度よろしい。ここに私がいることなど忘れて存分にやりなさい」
「わかりました。それではお言葉に甘えて」
彼女は東廂に新参の者を集めた。
こうなるまでに乳母子や他の女房の奮戦で日常のふるまいはだいぶ身に付いていた。彼女たちもいっぱしの女房気取りで振る舞っていたし紅葉の賀の頃と違って私の言動が漏れることもなくなっていた。期待したスパイ探しができなくて残念なほどだった。だが、この女の演習はさすがにひと味違った。
「起立」
低い声が響くと若女房たちは「あら、ごめんあそばせ」「裾をお踏みになっては嫌ですわ」とさざめきながら立ち上がったが、苦虫をかみつぶしたかのような女の顔を見て、しだいに一人一人青ざめていった。充分に威圧を与えた後女は「最も栄えある弘徽殿にようこそ、新人諸君」と言った。そして少し気を緩めた彼女たちにそのまま切り込んだ。
「今年の新人はクズばかりだな」
育ちのいい姫サマたちが目をひん剥いた。そこへすかさず「着席!」と命がとぶ。裾やたもとを気にする彼女たちは「遅い!」と叱責される。中でも特に動きの遅い女房が顎で示された。
「そこのデブ、立て」
「まあ、何を言うの! こう見えても私は大納言家の......」
「黙れクズ虫。女御さまご自身から認められた教官に逆らう気か」
すう、と目を細めた彼女に泡を食った実は大して太ってもいない若女房が、慌てて立ち上がり必死に首を振る。だが女は許さずに彼女の元にゆっくりと歩み寄り散々にねめつけた。
「この程度でビビるやつがいるかチキン野郎。いいか、貴様らがこのやんごとなき殿舎にいる理由がわかっているのか」
「女御さまの身の回りのお世話を......」
「その程度のことは下働きですらできる。相応の親と身分を持つわれわれの意義はなんだ」
「懸命にお仕えすることです」
「どの程度に」
「......え」
大納言の脇腹の姫はと惑ったように口をつぐんだ。が、教官の目の色を見て青ざめた顔が更に紙のようになった。
「新兵の覚悟は知らんが、われわれ古参の者は全て女御さまの御ためなら、いつでもこの命を差し出す用意がある」
ざわ、ざわと気が乱れ、中の一人が「武士じゃあるまいし」と小声で呟くのを彼女は耳聡く聞きつけた。
「おい、そこの山吹の襲の女、立て」
ぷくん、とふくれるが強烈な視線を受け止めきれずにしぶしぶ立ち上がった。
「漢籍の心得はあるか」
「多少は」
つん、と身をそらした彼女に「史記の孫武のエピソードを知っているか」と尋ねた。いいえ、と彼女が答えると冷たく見下した視線で全身を侵した。
「孫武は呉の国に行き依頼されて百八十人の侍女を使って軍事訓練をした。その際、呉王の二人の寵姫を隊長としたが、命に従う様を見せなかったため二人とも斬り殺した」
「ただのしつけ程度のことにそんな例は大げさすぎますわ」
「しつけ? 貴様はいつからこれをただのしつけだと錯覚していた?」
女が氷のような声を出した。若女房はがたがた震え始めた。
「これは軍事教練だ。それ以上でも以下でもない。だからたった今、おまえを斬り殺してやってもいい。それで他のヤツらに性根が入るのなら安いものだ。私は殺生の罪で地獄に堕ちるがそんなことは気にもしていない」
ひっ、と彼女がわが身を抱えるようにして座り込むと、近づいた教官の女は檜扇でくい、と若女房の顎を捕らえた。
「恐いか?」
「はい......はいっ」
「貴様がただの無能なクズであることを認めるのだな」
「............認めます」
「声が小さいっ。復唱しろ! わたしはただのクズ虫ですっ!!」
「わ、わたしはっ、ただのっ、クズ虫ですっ」
「よし。よく言えたな」
女が別人のような笑顔を見せて扇を外してやると、彼女はおずおずと上目を使った。すると教官の女はまた凄みを見せて見下ろした。
「捨てろ」
「な、何をでありますか」
「全てだ。生まれ育ちも親も見栄も何もかもだ。そんなモノはどれも大したモノではない。ただこの至高の殿舎に入り、この世の何ものより優れた御方に仕えることこそを誇りと思え!」
崩されたプライドの代わりに新たな価値観が書き込まれていく。若女房は啓示を受けたかのように一瞬静止し、それから私の方に向かってふいに額ずいた。そして顔を上げるとなにかを脱ぎ捨てたかのように喜びに目を輝かせた。
「命を捨てて女御さまにお仕えします!」
「よし。貴様はまだだ、隙を見て座るなデブ」
立たされたままで疲れたらしい先の若女房が叱られて飛び上がった。
「気概もなければ体力もない。だらけた野豚だなおまえは」
なおも不満そうな顔をした彼女に「言いたいことがあったら言え」とうながすと震えながらも「でも、あの人は......」と口にして、ちらりと乳母子を見た。
教官の女は片眉さえ動かさなかった。
「普段の言動だけでこの女を測らぬことだな。まず、この女は女御さまの乳母子だ。そう生まれつくには前世で相当の徳を積んだはずだ。その上この女は非常の際には実にためらいがない。過去、桐壺の更衣のSATUGAIを企み、女御さまご自身に止められたことがあるほどだ」
おお、と若女房たちが声をあげた。乳母子は得意そうに片手の指先をひらひらと動かしたが、女はそちらには目を向けず続けた。
「それを抜きにしても瞬時の判断が必要なとき、いいか、この女はこのわたしよりわずかに速く盾となるだろう。いや、女御さまがほんのわずかに興を動かしただけに過ぎぬモノのためであっても血の海に飛び込みかねない女だ。けして侮らぬことだ」
女は大納言家の者に「まだ何かあるか」と問い詰めた。彼女はやけくそ気味に「でも、アナタだって結局は家族の方が大事なんでしょう!」と声を張り上げた。教官は「阿呆か、貴様は」と心底あきれ果てた顔をした。
「女御さまのご子息である東宮さまはもうすぐ帝の位につくことが決まっている。いいか、この大八州の国の頂点に立たれ未来永劫続く皇の祖となられるのだ。当然われわれもその手足となる臣下を増やすために子を残す義務があるのだ。そのためにはなるべく先のありそうなイケメンを捕まえて繁殖する必要がある。これはわが主の御ためであり、国のためであり、自分のためでもある。何一つ矛盾してはいない」
イケメンと聞いて若女房たちの目の色が変わった。大納言家の者も急に背筋を伸ばした。
「故にこれは単なる我欲ではない。理解できたか?」
「「「「「「「はいっ!!」」」」」」」
全員の元気な返答があった。教官の女はその後も言葉と態度で若女房たちを導いていき、最終的に全ての女に弘徽殿に仕える者としての自覚を持たせた。それでも今までのんきにすごしていた者がすぐに完全な女房になることは期待していないが、まあとば口に立ったと認めてやらないでもない。気合いを入れすぎてむしろ単純な所で抜けがないことを祈るのみだ。
少なくとも表面は新参の者も浮き立たなくなった。私は教官の者に賞賛の言葉を与えた。
「その演習も見たかったわ」
「欲張りな。今日の宴で満足しなさい」
六の君は桜の重ねにおぼろな月を描いた扇の陰でちらりと舌を出した。
澄み渡る空の下そこだけを霞ませるように花は開き、公式の宴が開かれた。昨夜のうちから内裏を訪れていた末の妹はくるくると表情を変えながら御簾の外に見入っている。
宴の前、弘徽殿に迎えに現れたわが父右大臣は若く愛らしい彼女に相好を崩していた。ただでさえ子煩悩な父が末子であるこの子には特に甘い。まあ私も人のことは言えない。娘と同じ年頃の彼女にはけっこう甘い。反応が速く頭の回転も悪くないこの子を気に入っている。
————少なくとも兄の娘よりはだいぶいい
息子の元へ来ることが決まっている姫だが内裏で上手くやれるとは思えないタイプだったので頭を抱えた。これでは右大臣家の先はないと危惧して、急遽息子にとっては年下のおばに当たる彼女を四月に入内させることも決めた。兄はだいぶ文句を言ったが無視した。不出来に育てた自分を省みるがよい。
それに息子はもともとこの姫を気に入っていた。人目を引くほど華やかな声と容姿で影一つなく明るい。もともとは入内など考えていなかったため少々奔放に過ぎるが、いくらか地味で優等生的な彼にとってはひどく魅力的らしい。
「お姉さま、あれが源氏の君? さすが貴公子中の貴公子って感じね」
「ただの臣下です。少々見場はいいけれど北の方にさえ粗末にされているのです」
ぷい、とそっぽを向いた。本来なら私のポジションである中宮席に着く藤壷の実質上の後見である。今まで以上に憎くなっている。
「あんな素敵な方を? おじさま趣味とかガチムチ好きな方なのかしら」
「東宮妃として育てられたのにいきなり年下臣下ではと惑うことも多いのでしょうよ」
「え、でもあれだったらむしろラッキーの部類じゃなくて」
六の君は不思議そうに首を傾げた。艶やかな黒髪が揺れ、春にふさわしい香にの中に彼女自身の甘い香りがふわりと混じった。
「そうは思えぬが。時代が違って私に与えられたとしたら粉砕します」
本気で言ったのに彼女は扇の影で笑い転げてなかなか止まらない。ようやく抑えるとまだ目元を潤ませながら「私お姉さま大好き」とまっすぐにこちらを見て言った。
「いつだって他の人と全然違うのですもの」
「私を誰だと思っている。あたりまえです」
彼女はまた楽しそうに笑うと、ようやく視線を出し物に戻した。確かに彼女といると気が晴れる。それに久々の物見だ。私は全く全然ちっとも欠片も気にしないというのに、あの女が中宮になってからイベントに行こうとするとみなに全力で止められ「やはり内裏で人を殺すのはマズいです」とか「暴力はいけません、暴力は」といわれのない中傷を受けた。この理性的な私がそんなことをするわけがなかろう。
大体超育ちのいいこの私が暴力などふるったことがあるというのか。せいぜい麗景殿に失礼な振る舞いを企んだ男に円座をぶつけたぐらいである。あれは非常の際だったのでもちろんノーカンだ。
そんなこんなでなかなか出れずに久しぶりのイベントだ。藤壷も源氏も気に喰わないが楽しんでいないわけではない。春の日はうららかで気に入りの姫も傍におりしかも今宵は帝からの予約が入っている。あの形だけのお飾り中宮ではなく後宮における真の実力者であるこの私にわざわざ申し入れがあった。もう一度言うがあの若いだけが取り柄の女ではなくこの私に予約が入っている。それを思えばあの女が本来はふさわしくない上席にいることもどうにか耐えられる。
数々の舞や音楽、探韻を興深く眺めたり聞いたりし、息子が源氏に挿頭を与えた時だけは少しむっとしたがすぐに冷静さを取り戻し、暗くなる前に六の君を弘徽殿に戻した。
「え、最後まで見たいわ」
「辺り中男ばかりです。若い娘はさっさと帰りなさい。これおまえたち、私は今宵はお勤めで戻りませんから充分にこの姫に気を配るのですよ」
せっかく注意をしたのに妹自身が「あら、弘徽殿に忍び込むような勇者がいるわけがないわ」と口を尖らせたので、付き添う女房たちも笑ってしまって弾むような足取りで殿舎に向かった。
暗くなってから上局に向かうと、先に退出したはずなのに亀のようにのろい上に非常にずうずうしい藤壷メンバーがコンビニ前に座り込むヤンキーのようにたむろっていたが、高貴で美しく清らかなこの私の気品高い魅力に屈して控えたのでまあ許してやり、一人だけ蛮勇を奮って立ち向かってきた藤壷自身をさっさと迎撃して上局に入った。
夜の御殿に行く前にそこを出て空を見上げると、美しい下弦の月をほんのりと雲が呑み込もうとしていた。私はすぐに目を反らし、いつの間にか髪についていた花びらをとって春の夜気の中、そっと息を吹きかけて外にとばした。